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反改憲!【条約より憲法が上】コミュの【日本人民必読の「石田勇治・東京大学教授の話」(後編2/2)

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【日本人民必読の「石田勇治・東京大学教授の話」(後編1/2)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6172614&id=80672480
の続き


石田「大統領緊急令が発令された1933年から1945年の敗戦まで、ドイツには基本的人権はありませんでした。事件の直後、たった一日で予防拘禁として5000人の共産主義者などを令状なしで逮捕した。彼らを収監する刑務所が足らず、仮設の収容所をどんどん建設しました。

 また、ドイツは長い連邦制の伝統があり、バイエルン州のように州自治の独立意識が強かった。ヒトラーは、『州において公共の安全及び秩序の回復に必要な措置がとられないときには、共和国政府は、その限りにおいて州最高官庁の権限を一時的に用いることができる』として、州政府にも介入しました。

 ドミノ倒しのように、共和国全土が一気にナチ化したのです。ヒトラーは、この大統領緊急令によって政治的反対派の動きを封じ込め、地方政治を粉砕しました。そして次の狙いが授権法でした」
麻生さんが望んでいた授権法とは、「第1条:国の法律は政府によっても制定されうる。第2条:政府が制定した国の法律は、憲法と背反しうる」

岩上「まさに、自民党改憲草案にも『公の秩序のため』という文言が散りばめられています。緊急事態条項は地方自治も麻痺させ、まったく同じだ。ヒトラーは授権法をいつ用意していたんですか?」

石田「実は、授権法はヒトラーが初めて使ったのではないのです。1923年、ドイツでは天文学的インフレが起きました。その時、国内を安定させるために授権法を成立させていたんです。しかし、分野を限り、時間も限定されていた。ナチ党は、ヴァイマル共和国時代、大統領のだす緊急令で何度も痛い目にあってきた。だから、ヒトラーは、今度はそれを逆手にとって大攻勢をかけたんです。

 ヒンデンブルクも授権法を支持していました。それは、大統領の責任逃れのためです。また、保守派の政治家も賛同していた。しかし授権法を成立させるのは大変で、国会議員総数の3分の2以上が出席し、さらに出席した議員の3の2以上の賛成投票が必要だった。

 1933年3月5日の国会選挙では、ナチ党は43.9%しかとれなかった。連立与党の国家人民党8.0%の票を得て、ヒトラー政府は過半数の議席を得ましたが、3分の2には届きません。それでヒトラーは姑息な手法を使った。

 国会議事堂炎上事件の容疑者として共産党の国会議員を全員拘束していたが、それには議決にあたり、母数を減らす狙いがあった。そして社会民主党など反対派の『欠席戦術』を未然に防ぐために、『議長の認めない事由で欠席する者は登院を認めず、その欠席は出席とみなす』という議院運営規則改正案を直前に国会に提出し、賛成多数で通過させたのです。

 このようにして、1933年3月23日、補助警察となった多数の突撃隊員が議場で議員を威圧する中、採決が行われました。結局、反対票を投じたのは社会民主党の議員だけでした。

 授権法とは、『第1条:国の法律は、憲法に定める手続きによるほか、政府によっても制定されうる。第2条:政府が制定した国の法律は、憲法と背反しうる』というもの。つまり、ヴァイマル共和国憲法の無意味化、形骸化です。これは、国会議事堂炎上令とともに、ヒトラー独裁の法的根拠になりました。だから、ホロコーストも可能になったのです」

岩上「……麻生さんは、これをしたかったんだ!」
「民衆宰相・ヒトラー」と、親しみやすい人物像を作り、失業問題の解消、国民統合の進展、強いドイツの出現など、言葉巧みに演出したゲッペルス宣伝相!

岩上「ドイツ国民がヒトラーに惹きつけられて、空気が変わったと言われています。今の日本も国民が萎縮した状態で、政治的関心も衰えて重要なことが決められていく。当時のドイツでは、国民にヒトラーへの反発はなかったのですか。また『3月降参者』とは、どういう意味でしょう?」

石田「3月の選挙の前後に、何十万人もの人々がナチ党に入党したことを指します。最初の大量入党者は公務員や学校の教員でした。官僚は機を見るに敏で、それで行政が一気に変わった。授権法成立の2日前、記念式典『ポツダムの日』を開催し、ヒンデンブルクがヒトラーにプロイセン帝国の後継者としての歴史的正当性を認めたことも影響しました」

岩上「ヒトラーは、独裁者で攻撃的なイメージが強い。しかし、平和主義者を偽装することもあったのですね」

石田「4月、ヒトラーはベルリンで、自分は平和愛好者だと演説をしました。他方で、裏では再軍備や徴兵制の約束をして国防軍を惹きつけていた。人心掌握術に非常に長けていたんです。各界の有力者、聖職者までヒトラーを支持し、こぞってナチ党に入党し、学生に大きな影響を与えました。

 当時の国民も『多少の不自由は仕方ない。表立って異論を唱えなければ生きていけるし、ナチ党員になれば生きるのが楽になる』と考えるようになった。

 ゲッベルスの指揮する国民啓蒙宣伝省が、大いに活躍しました。ナチ党には実績がなく、ヒトラーの演説と(集会運営などで)政党として培った宣伝ノウハウで力をつけてきた。それまでは、選挙にラジオは使われなかったが、ゲッベルスが初めてラジオ放送を利用しました。

 『民衆宰相ヒトラー、平和愛好家ヒトラー』という親しみやすい人物像を作り上げ、失業問題の解消、国民統合の進展、強いドイツの出現など、言葉巧みに演出しました」

岩上「まさに、アベノミクスと同じです。安倍総理は『失業者は減った』と言うが、働く人の数を非正規雇用者に置き換えているだけです」

石田「ナチ党は、失業者の解消のために青天井の公共投資をしました。かつ、勤労動員をかけ、共働きを禁止し、女性勤労者を家庭に帰した。これは民族共同体の思想につながります」

岩上「女性が働くためには、子どもを預けられる環境がなければならない。安倍政権は『一億総活躍』と言い、世界中に何兆円もバラまきながら、保育所等の整備に必要な3000億円は出さない。日本会議などは家族主義を謳い、男女の役割も昔と同じようにしたいという。まったく、昔のドイツと同じ構図ですね」

石田「子どもを増やすために、ナチ党は子ども手当を整備します。一方で徴兵制も決めた。アウトバーンも、ヒトラーのアイデアではない。全部、ゲッペルスがヒトラーの手柄のように演出するんです。国民はそれを信じた。企業減税、住宅補助も、すでにクルト・フォン・シュライヒャー首相が実行していたことです。

 授権法の恐ろしいところは、政府が続々と新法(ナチ法)を制定したことです。これは『決められる政治』の実現ですが、国会は開店休業状態で、政府の意のままです。ナチ法には、自然保護法や遺体の火葬の法律など、良い点、新しい点も多々ありました。ですから、国民は世の中がダイナミックになったと感じたことでしょう」
「ドイツよ、ひとつになれ。ひとつになれば強くなる」──今とそっくりなヒトラー総統! 独裁は、最初は小さく少しづつ。気がついた時には、もう遅い!

石田「ヒンデンブルク大統領が亡くなった直後、ヒトラーが大統領と首相も兼ねた総統になり、新しい秩序を回復したとして、1934年9月、ニュールンベルグでナチ党大会を開催。レニ・リーフェンシュタール(映画監督、写真家。1902年〜2003年)が『意志の勝利』という映画にしました」

岩上「レニ・リーフェンシュタールには、私はドイツで取材したことがあります。彼女は『ヒトラーもいいことをした』と言いました」

石田「それ自体すでにプロパガンダに染まっていて、そう信じたいんです。彼女は共犯者です。

 ヒトラーはヒンデンブルクの死去の1ヶ月前、SA(突撃隊)のトップで、かつてナチ党ナンバー2ともいわれたレームを粛正しました。過去に汚れ役を担っていたSAの指導者レームでしたが、ヒトラーが政権に就くと、「第二革命」の実現を求め、国民軍を創設して国防軍にとって代わると言い出し、物議を醸していたのです。いまや厄介者となったレームらをヒトラーは切ったわけです。

 絶対の指導者を意味する「総統ヒトラー」の誕生を国際社会はヴェルサイユ条約の負い目と共産主義への反発もあって、容認しました」

岩上「伝統のイメージを、国内だけではなく国外にもアピールしたのですね。安倍総理は今年6月のサミットで各国首脳を伊勢神宮に連れて行き、神道では参拝したことになる御垣内(みかきうち)に招き入れました。あとで宣伝にも使えて、参議院選挙へのプロパガンダにもなりました」

石田「ヒトラー支配下のドイツでは、最初は共産主義者・左翼運動家ばかりが拘束された。ユダヤ人は当時、ドイツ国内に50万人程度の少数派です。迫害といってもほとんどの国民には無関係でした。だが次第に迫害から利益をえる国民が増えてゆきます。

 ホロコーストは、当初のユダヤ人追放政策が、第二次世界大戦下で絶滅政策に転じたことで生じました。その犠牲者の大多数は第二次世界大戦でドイツが勢力下においたヨーロッパ全域のユダヤ人です。その数は約600万人にもなりました。

 最初は小さく、少しづつ姿を現す。

今のフランスの戒厳令も同じで、気がつけば大きくなっているんです。しかし、その時はもう遅い。早い段階で気づくべきです」
平等主義と実力主義、全体への献身と自己犠牲を訴えていたヒトラー。多数派にとって、都合がよかったナチ時代!?

石田「ドイツの社会は、ビスマルク帝政時代からいくつかに分断されていました。宗教ではカソリックとプロテスタント、階級では労働者層と市民層という具合に、です。ヒトラーは『ドイツよ、ひとつになれ。ひとつになれば強くなる』と、演説で何回も言っています。

 自由主義も共産主義も社会主義も、国民を分断するための思想だと訴え、『ドイツをひとつにするのが自分たちだ』と。平等主義と実力主義、全体への献身と自己犠牲を説きました。強くなれ、という趣旨は、戦争のためです。しかし、それは最後まで明かさない」

岩上「自民党もプロパガンダがうまい。マスメディアも懐柔されてしまった。今はまだ、週刊誌やネットメディアがラディカルな姿勢を保っているが、緊急事態条項が決まればもう書けないですね」

石田「危険ですね。自由な報道はもう望めない。

 よくヒトラーの「偉業」といわれる失業の解消も、根拠となる信頼できるデータはありません。国家予算も公表しなくなった。ヒトラーにとって国家は道具なんです。12年間のナチ時代に、既成の国家組織はヒトラーの権力に浸蝕・解体され、結局再構築はできなかった。

 ヒトラーは大勢のサブリーダーを従え、彼らの競合で恒常的カオス状態を引き起こしていました。ヒトラーへの忠誠心で『総統の意志』を斟酌(しんしゃく)し、『総統のために働く』という風潮になりました。一般国民には目くらましが多く用意されました。少数派の弾圧から生じた国民的な『受益の構造』ができていき、ナチ党との共犯関係、合意独裁へと進みます。

 裕福なユダヤ人に放棄させた財産を競売にかけ、市民はそれを安く手に入れて(受益)共犯関係ができていたんです。現在ドイツでは、それらを明らかにして、過去の反省を促す歴史展示もたくさん開催されています。

 ナチ党も、最初はユダヤ人を殺すまでには至っていませんでした。『ユダヤ人はドイツにいると迫害されるから出国せよ』と言っていた。

 ナチ党とシオニスト(注7)はつながっていて、ハンナ・アーレント(ユダヤ人の政治哲学者、思想家1906年〜1975年)は、それを批判しています。

 ナチ時代のドイツは、様々な少数派の犠牲の上に多数派の利益を追求しようとしました。だから多数派の間で合意を作ることは難しいことではなかった。多数派にとって、ナチ時代は案外、都合がよかったんです。恐ろしいですね」

(注7)パレスチナに故郷を再建しようとする運動、あるいはユダヤ教、ユダヤ文化の復興運動をシオニズムといい、それに共鳴し、積極的に参加するユダヤ人のことをシオニストと呼ぶ

東西ドイツ統合で、やっとナチ時代を総括。過去を現在の一部とし、同じ過ちを繰り返さないと自覚する「想起の文化」へ。日本では、それを自虐史観・自虐志向と呼ぶ!?
*−−−−−−引用終了−−−−−−−−*

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