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古寺巡礼コミュの楽土の道 京都 36番 祇園八坂神社

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毎年恒例の12月31日おけら火を貰い回しながら家に帰り奥戸さんに火を入れる習わしのある京都の風物詩に欠かせない神社であります
(116)旧官幣大社
祇園 八坂神社(ぎおん やさかじんじゃ)
住 所 〠 605―0073 京都市東山区祇園町北側625番地
電話番号 電話 075―561―6155
御 祭 神 素盞嗚尊 櫛稲田姫命 八柱御子神
開 祀 斉明天皇2年(656)
アクセス 京阪祇園四条駅より徒歩で約5分
阪急四条河原町駅徒歩10分
<神歴・縁起> H/P  http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/
御祭神
素盞嗚尊 櫛稲田姫命 八柱御子神
八柱御子神とは、八島茶見命 五十猛命 大屋津比売命 抓津比売命(以下四神の母は稲田姫命)
大歳神 宇迦之御魂神(以下二神の母は市比命)
大屋毘古命 須勢理比命(以下二神の母は佐美良比売命)

 八坂神社は、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)、クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)、
ヤハシラノミコガミ(八柱 御子神)を祀ります。
日本神話でも知られるように、スサノヲノミコトは、ヤマタノオロチ(八岐大蛇=あらゆる災厄)を退治し、クシイナダヒメノミコトを救って、地上に幸いをもたらした偉大な神さまです。
八坂神社の歴史は、社伝によれば平安建都の約150年前の斉明天皇2年(656)と伝えられています。都の発展とともに、日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3千の分社が日本各地にあります。
八坂神社はながらく、「祇園社」「感神院」などと称しましたが、明治維新の神仏分離にともなって、「八坂神社」と改称しました。
 平安京建都(794)以前より八坂神社のある東山一帯はひらけた場所で、渡来人であった八坂造(やさかのみやつこ)一族が住したところであった。
「八坂の塔」で有名な法観寺も平安京以前の創建で、八坂造の氏寺ではなかったかともいわれている。八坂神社一帯には広大な寺域を持ち、「定額寺」という高い格式を誇った観慶寺があり、別名を祇園寺といった。
その寺域内にあった「天神堂」が八坂神社の前身である。
観慶寺はどういう理由かわからないが衰退し、天神堂が多くの崇敬を集めるようになり発展し、祇園社(八坂神社)となった。
 祇園社という呼称は観慶寺の別名祇園寺に因むものと思われる。ただ、鳥居に掲げられていた額には「感神院」と書かれており、この呼称も平安朝にまでさかのぼるものである。祇園社と感神院の呼称の使い分けについては、その理由は今のところ判然としない。
八坂神社の創祀を社伝では斉明天皇2年(656)と伝えている。この年には高句麗の使い伊利之(いりし)が来朝し、彼は八坂造の祖先である意利佐(いりさ)と同一人物と考えられているので、社伝の説をあながち荒唐無稽なものとして退けるわけにはいかない。
 八坂神社すなわち祇園さんの御祭神は、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)・クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)・ヤハシラノミコガミ(八柱御子神)です。
素戔嗚尊は、『古事記』では「須佐之男命」、『日本書紀』では「素戔嗚尊」と表記されており、神話では天照大神の弟神として語られています。
 天照大神は天神(アマツカミ)の代表、素戔嗚尊は地祇(クニツカミ)の代表的存在として崇敬されています。特に素戔嗚尊は、母の死に慨き悲しみ、あるいは天照大神との勝利に驕り、さまざまな罪も犯しましたが、高天原からの追放という悲境に自ら雄々しく立ち向かい、遂にこれを克服して、善悪を超えて彼岸に到達したわが国最初の英雄神でもあります。素戔嗚尊こそが、日本神話の中で一番個性的で魅力的な神であるともいえます。それというのも、現に素戔嗚尊を祀る神社は全国に数多く存在するからです。天照大神よりも圧倒的に多いのではないでしょうか。その多くは、「祇園さん」、「天王さま」、「天王さん」と呼ばれて親しく信仰されています。
 平安時代のはじめ頃、都に疫病が流行して、多くの人々が死に絶えました。 近年、病原性大腸菌O157が猛威を振ったり、最近では狂牛病や炭疸菌の不安の恐怖に悩まされていますが、むかしは、疫病の流行は大災害でした。
この災厄の発生を政治的に失脚して処刑された人の怨みによる崇りであろうと考え、はじめはこの御霊をまつったのですが、怒りは治まりませんので、より強い神仏が求められたのです。この怨霊(御霊)を退散せしめることができるのは、素戔嗚尊のような、偉大な神格の神に頼るほかないと、祇園社に祀られているこの神に祈ったのです。
 怨霊は御霊(ゴリョウ)といい、これを退散させる祭りを御霊会(ゴリョウエ)と称し、貞観7年(865)6月7日にも行われたことが『三代実録』に記されています。
そこには、京畿七道の諾人、事を御霊会に寄せ、私かに徒衆を聚め、
走馬騎射することを禁ず。 小児の聚戯は制限にあらず。とありますから、それ以前より随分盛大に行われていたことと察せられますが、祇園社の名ではっきり記されているのは『祇園社本縁録』で、貞観11年(869)6月7日のことです。神泉苑に矛66本を立て、祇園社から神輿を送ったとされています。これが祇園祭のはじめでした。
そしてまた、祇園の神である素戔嗚尊は、インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神であるゴヅテンノウ(牛頭天王)ともされていました。
牛頭天王という名は、新羅に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀(センダン)を産したところから、この山の名を冠した神と同一視されました。
それというのも、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されていまして、「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語で、牛頭または牛首を意味し、韓国には各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付や島がある由です。さらにインドの密教や陰陽道の信仰とも混じりあって、神仏習合の形で祇園信仰が広まりました。つまり祇園の神といえばわが国固有の神道と、インドに成立した仏教と、中国の道教等の習合によって生み出された、まことに国際的な神さまなのです。
 祇園祭が始まったのは、平安京が定められて、都市化が進んだ貞観11年ですが、祇園さんが鎮祭されたのは、それよりさらに古く、奈良時代以前に遡ります。記録の上では詳らかでありませんが、斉明天皇2年(656)高句麗の使、伊利之使主(イリシオミ)が来朝したときと伝えられています。
伊利之は『新撰姓氏録』に八坂造の祖に、意利佐の名がみえ、祇園社附近はもと八坂郷と称したことによります。
すなわち、韓国より渡来した人々が住みついて、牛頭天王をまつったのでありましょうが、わが国人にとっては、素戔嗚尊でありました。この神を武塔天神とも申しました。
そのことは、『伊呂波字類抄』に、
天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神ともいう。
と記されており、さらに『備後国風土記』の逸文には、昔、武塔神が旅の途中、蘇民将来は貧しかったけれども宿を貸してもてなし、弟巨旦将来は富み栄えていたが断ったため、後に疫病が流行したとき、蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて災から免れさせたが、その他の者はことごとく死に絶えた。
という説話が記されていまして、これに「われはハヤスサノヲの神なり」と仰せられたとあることによります。『釈日本紀』には「これすなわち祇園社の本縁なり」ともありまして、古くより、牛頭天王=武塔神が、素戔嗚尊と習合されていたことが判明します。
素戔嗚尊が生れ坐したのは、イザナギ・イザナミニ柱の神が国生みの果てに
火の神カグツチを生んで、黄泉国(死後の世界)に隠れられたイザナミの神を追っていかれたイザナギの神が、ケガレをすすぐために筑紫の海でミソギハライ(禊祓)をせられたとき、次々に神さまがお生まれになりましたが、最後に清浄の極に至ってお生まれになった神さまが、天照大神(アマテラスオオミカミ)・月読命(ツキヨミのミコト)と、そして素戔嗚尊でした。
 イザナギのミコトは天照大神に高天の原を、月読命に夜の食国を、素戔嗚尊には海原を治めるようコトヨサシ(ご委任)になりました。
海原を治めよということは世の荒浪を静め、平穏な世界にせよとのご命令でした。 ところが素戔嗚尊は詔りをうけても従わず、ひげが胸先に生えるほど成長するまで泣き叫んでやみませんでした。青山を枯山とするほど泣き枯らし、河も海もことごとく泣き乾したといいます。そのため悪神どもが騒ぎだし、さまざまのわざわいが起こりました。父なるイザナギの神が、なにゆえに泣き叫ぶのかと問いただしたところ「母の国である根の国に行きたくて泣くのです」と答えられましたので、「それではここに住むことはならぬ」と高天の原を逐われました。
 素戔嗚尊は、そこで自らの意志をもって母の国を訪ねようとして、その由を姉君である天照大神に告げようと、高天の原に参い上ってゆかれました。その勢いは山川をゆり動かすほどの猛々しいものでありました。安けく平穏に高天の原を治めておられた天照大神は、この勢いに驚いて、「これはきっと善き心で来るのではあるまい。わが国を奪おうとするのではないか」と、男装して待ち構えられました。しかし素戔嗚尊は、「ただひたすら母恋しさのゆえに、母を慕って根の国に赴こうとするのです」との由を述べ、異心のないことを告げて、その証のために「誓約((ウケイ)」をされることとなりました。
【「うけい」とは、神のみ前に誓い、清明心を神の裁断に乞うのです。ゆゆしい業でした。万が一にも、異心あればたちどころに生命を召されることを覚悟の仕業です。正邪善悪を判定するのに、人の智恵の賢しらでは決し得ません。自分自身の心や言葉でさえも、真か偽りかは見きわめ難いものがあります。天照大神でさえも「うけい」によらねばならなかったのです。】
 天照大神はまず、素戔嗚尊の十拳剣をとり、これを三段に折って、天の真名井に振りすすぎ、噛みくだいて吹きすてる息吹の狭霧の中から生れ坐した神は多紀理毘売命・市杵島比売命・多岐都比売命という三柱の女神でした。次に素戔嗚尊が天照大神の髪につけておられた八尺の曲玉をとって、同じように噛みくだいて吹きすてる息吹の中から生れ坐したのは正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・天之菩卑能命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命という五男神でした。ここにそれぞれの物種の持っていたところをもって、三女神は素戔嗚尊、五男神は天照大神の御子とされました。
 素戔嗚尊は、己が物種によって生れ坐した御子が女神であったことをもって勝利を思いました。そして勝利に酔って荒びの所業がつのりました。大神の作られている田の畔をこわし、溝を埋め、祭りの殿に尿をまき散らしました。
大神はしかしこれらをすべて善意に解されましたが、なお素戔嗚尊の悪態はやまず、遂に神衣(神さまのお着物)を織る神聖な機織の御殿を汚す大罪を犯しましたので、遂に大神は天の岩屋戸に隠れられました。
ために葦原中国【地上の国土】は暗闇になり、よろずの災いがことごとくわき起こりました。そこで、八百万神は天の安の河原に集うて、会議をされた結果、岩戸の前で神祭りを行うことになり、アメノウズメのミコト(天鈿女命)の神楽があって、天照大神は再び岩戸より出てこの世は明るさをとり戻しますが、素戔嗚尊は八百万神たちに罪を問われ、手足の爪を抜かれて高天の原を追放されることになります。
『日本書紀』の一書によりますと、高天の原を迫放された素戔嗚尊は、青草の笠蓑を着て村々をさすらう辛苦の状が記されています。悪しきしわざの限りをつくし、漂泊の辛苦を経た素戔嗚尊は、出雲の肥河の河上、鳥髪の地に着きました。そこに箸が河を流れるのを見て、河上に人の住むことを知り尋ね上られます。すると翁(オキナ)と嫗(オウナ)の二人が少女を中にして泣いていました。
アシナツチ(足名椎)とテナツチ(手名椎)、娘は櫛稲田姫命といいました。
8人いた娘を毎年八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)が来てくい、最後に残ったこの娘もくわれるときがきたと申します。そこで素戔嗚尊は酒を醸し、垣を廻らして8つの入口を設け、入口ごとに桟敷をしつらえ、そこに酒樽をおいて、大蛇の来るのを待ちました。八俣の大蛇は八つの槽に八つの頭を入れて酒をのみ、したたかに酔い痴れたところを、ミコトは十拳剣を抜いて切り、これを退治したのです。時に大蛇の尾より剣が現れたので、ミコトはこれを天照大神に献られました。
【これが天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)、後にヤマトタケルノミコト(日本武尊)が草を薙ぎはらって難を逃れた故事により草薙剣(クサナギノツルギ)と称し、八咫鏡(ヤハタノカガミ)、八尺瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)とともに皇位継承のみしるしとなっている三種の神器の一つです。】
やがてミコトは須賀の地にいたり、「わが心すがすがし」といい、櫛稲田姫命と結婚して、新しく宮作りして歌を詠みました。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」
【この歌は、わが国の和歌のはじめとされています。】
  そして素戔嗚尊と櫛稲田姫命二人の神は、協力して新しい国作りに励まれました。
 八坂神社の前身である「天神堂」に祀られていた神々は、承平5年(935)6月13日付けの太政官符にみえており、天神・婆利女・八王子であった。
これは日本神話にはみえていない神々である。のち、多大な崇敬をあつめた牛頭天王が祀られ、日本神話に登場するスサノヲノミコト、クシイナダヒメノミコトなどが祀られた。
次第に仏教・道教・陰陽道などが盛んになると、祇園の神々はその影響を強く受けるようになっていった。
牛頭天王の源流はチベット密教にも辿ることができ、ヴァジュラバイラバとかヤマ神との結びつきが指摘されており、ヴァジュラバイラバは日本密教におけるダイイトクミョウオウ(大威徳明王)、ヤマ神はなじみ深いいわゆるエンマ(閻魔)様である。
また牛頭天王の父母は、トウオウフ(東王父)・ セイオウボ(西王母)(道教神)という考えも生まれ、のちにはタイザンフクン(泰山府君)(道教において冥界を司る最高神)とも同体視され、 そこからさらにタイザンオウ(泰山王)(えんま) とも同体視されるに至った。
神仏習合の風潮の高まりの中で、牛頭天王の本地仏は地蔵菩薩、素戔嗚尊の本地仏は薬師如来とされた 。泰山王の本地仏が薬師如来であったため、素戔嗚尊ととの習合関係が生まれ、また、泰山府君(赤山大明神)の本地仏が地蔵菩薩であり、牛頭天王 と胴体視されてゆくこととなった。牛頭天王は祇園精舎の守護神ともいわれるようにもなった。
そして素戔嗚尊は、日本神話において“黄泉の国”を訪れた神としても知られ、 そこに冥界とのつながり深い泰山王や泰山府君と結びつく要因があったのであった。ところが別の面では、日本で最初の和歌(八雲立つ〜)を詠んだ神としても知られ、和歌神としての崇敬も集めたのであった。
牛頭天王の后神は、ハリメ(婆利女)であり、素戔嗚尊の后神は櫛稲田姫命であった。婆利女・櫛稲田姫命は、ともに暦でしられるトシトクシン(歳徳神)(恵方の神)に比定されていった。また、牛頭天王と婆利女との間に生まれたハチオウジ(八王子)(八将神)は、素戔嗚尊と櫛稲田姫命との間に生まれた八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)とともに、太歳神・大将軍・太陰神・歳刑神・歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神など暦神に比定された。
このように冥界・和歌の世界・暦の世界などにあらゆる宗教の要素が取り入れられた祇園の神々であるが、祇園信仰の多様性がここにあり、今に至るまで、暦など人々の生活の一部にも知らず知らずの内にその信仰が残っているのである。八坂神社は創祀以来、厄災除去の疫神として全国に厚い信仰があります。 しかしその御神威は、実に印度・中国・朝鮮半島にまで及び、 あらゆる吉凶方位をつかさどる暦神として古くから登場し、わが国でも平安時代には、
さまざまな暦本の主役として活躍していたのでした。 我が国で使用されてきた暦本には、必ずといってよいほどその年の「方位吉凶図」が載っている。
その巻頭に登場するのは歳徳神を始め、太歳神・大将軍・太陰神・金神といった暦神たちで、そこにはその年の諸神の暦注と方位が記載され、それとは別に諸神の方位を円盤上に書き込んだ図一方位吉凶図一が描かれている。
しかし、ここに描かれている暦の神々がいったいどういう神様なのか、どこに由来するのかは、あまり一般には知られていない。
八坂神社の神様は、素菱鳴尊・櫛稲田姫命・八柱御子神の三座の神々である。その神々を暦の神とする信仰は、古く平安時代より神仏習合の信仰として、中国の陰陽五行思想や、陰陽道とそれに基づく道教と、我が国古来の信仰の神道が結びついて生まれたものなのである。 特にその史料は、『備後国風土記』逸文に記載の蘇民将来の説話や『伊呂波字類抄』の祇園の項、また陰陽道のテキストとして用いられた『内伝』など、古く平安時代以来の古書にその事実が伺える。
こうした由緒史料に基づいて、素戔嗚尊は牛頭天王であり、暦のすべてを支配する神として信仰され、櫛稲田媚命は歳徳神、八柱之御子神は八将神として暦の上では吉方・凶方を司る神として示されておられるのである。祇園さんに対する信仰は、今も大変強いものがあるが、このように祇園さんと暦神との関係については、明治維新に際し、神仏判然令によって仏教的な思想については排除せられ、暦神としての信仰が次第に隠れた存在になってしまったからなのである。
暦の神々
暦に登場する神々や鬼神とは、いったいどのようなものなのであろうか。その年や月や日、そして時間によってまで、それぞれの方位には善神が支配し、また鬼神が支配している。東西南北どの方位にも個性があり属性があるし、それぞれがどこをどのように動いてどんな仕事をし、どのように人間世界と関わり合っているのであろうか。
この不思議な暦の世界を説き、天地陰陽の奥義書となっていたのが、天文史郎安倍晴明の撰述書とされる『内伝』(正式には、『三国相伝陰陽管轄内伝金烏玉兎集』)である。この書物は陰陽師たちの秘蔵書とされ、その内容は暦本に登場する暦神の神々がすべて記されている他、その吉凶が説かれ、暦作成においての虎の巻的な書の内容となっている。
次に、この『内伝』に基づいて、暦に登場するおもな神々を紹介します。
■素戔嗚尊(天道神) ■櫛稲田姫命(歳徳神) ■八柱御子神(八将神)
■蘇民将来(天徳神) ■巨旦将来(金神) ■『暦神祇園暦』
          
西門 門神が安置されテル                 拝殿

本殿
神社辞典には  八坂神社 旧官幣大社。祭神は素盞嗚命・稲田姫命・八柱御子神を祀る。古くは祇園感神院・祇園天神・祇園社・祇園牛頭天王・祇園大明神、あるいは単に祇園と称した。現在、祭神は素盞嗚命を祀るが、もとは祇園天神・牛頭天王が祀られた。牛頭天王は武搭天神とも称し、『備後国風土記』によれば、速須佐能雄であると記している。(中略)このように、創祀については一定をみないが、いずれにせよ当社が朝野の信仰を篤くし、史上にあらわれてくるのは平安期からである。すなわち、当社は式外社であるが、はやく長徳元年(995)には22社にも列した。とあります。
          
南門                  南参道の鳥居
     
疫神社               太田社

神仏霊場 ご朱印
八坂神社ではなく祇園社のご朱印である



     
祖霊社                悪王子神社
近所にある王子神社は善なのか?

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