ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

古寺巡礼コミュの鎮護の道 奈良27番 丹生川上神社 上社

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
まだ参拝していない神社です。交通の便が少し悪くて
奈良県、鎮護の道
(40)大和國吉野郡
丹生川上神社上社(にうかかみじんじゃかみしゃ)
住 所 〠 639―3553 奈良県吉野郡川上村迫167
電話番号 電話 0746―52―0733
御 祭 神 高靇神
開 祀 天武天皇白鳳4年
アクセス 近鉄大和上市駅下車 奈良交通バス湯盛り温泉終点下車
<神歴・縁起> H/P ありません
式内社 大和國吉野郡 丹生川上神社 名神大 月次新嘗
旧官幣大社
御祭神
高靇神
配祀 大山祇神 大雷神

 式内社・丹生川上神社に比定されている大社で22社の第21位として朝廷の崇敬が篤かった。
一説には、天武天皇白鳳4年の創祀。もとは大和神社の別宮であったという。
京都の貴布禰神社と共に祈雨、止雨の神として祈雨時には黒馬、祈晴時に白馬を奉納された。しかしながら、応仁の乱以後は衰微して、式内社、丹生川上神社の所在は不明となっていた。
 明治4年(1871)、丹生大明神社(現下社)を官幣大社丹生川上神社としたが、寛平7年(895)太政官符にのる四至に、丹生川上雨師神社の境界として
「東限 塩匂 南限 大山峯 西限 板波瀧 北限 猪鼻瀧」とあり、
下社が、この四至に適合しないとして、当社(上社)を式内社とすべきとする『大日本史』に従い、明治7年(1874)、丹生大明神社(下社)を口の宮、当社(上社)を奥の宮とした。が、これにも異義が生じ、明治29年(1896)、丹生大明神社を下社、当社を上社とした。
さらに東吉野村の蟻通神社が、社辺の高見川を古代の丹生川であるとして請願。
よって、蟻通神社を中社と認定し、中社祭神を罔象女神、上社祭神を罔象女神から高靇神へ、下社祭神は高靇神から闇靇神へ改められた。
 古くは「雨師明神」と称され、江戸時代からは「蟻通明神」とも称された。大正以降、同郡川上村の丹生川上神社上社、同下市町の丹生川上神社下社に
対して「丹生川上神社中社」とも称されるようになったが、これは上下2社が既に存在したために、これを「中」としたもので、位置関係や社格の上下を表すものではない。
 高龗神(たかおかみのかみ)を主祭神に、 大山祇神・大雷神を配祀する。なお、以前は罔象女神を主祭神としていたが、大正11年(1922年)の現丹生川上神社(中社)との併合に際して、高龗神に改めた。
 神社辞典によると
丹生川上神社 上社は奈良県吉野郡川上村。中社は吉野郡東吉野村。下社は吉野郡下市町。通称に、上社は川上神社、中社は雨師の明神、または蟻通さん、下社を丹生社という(いずれも旧官幣大社。現、別表神社)。神武天皇の東征に際し、天皇の夢の中に天神が出現し、天香山の土を取って天平瓮80枚、厳瓮を作り天神地祇を祀れば賊は平らぐという。天皇は丹生の川上にて誓をしたところ神意にかなっていたので、「丹生川上之五百箇直坂樹」で天神地祇を祀ったところ、賊の平定が容易に行われたという(『神武天皇即位前記』)。
 天平宝字7年(763)「奉幣千四畿内群神其丹生川上神者加黒毛馬旱也」とみえ、以後、祈雨のために黒馬を奉ることとなる。宝亀8年(777)白馬を奉られる、弘仁10年(819)以後は貴布禰社とともに祈雨、止雨の祭を行われるようになり、延喜式臨時祭にも、貴布禰社と同じく黒毛馬を与えられる特別の規定がある。
名神大社に列し、祈年、月次、新嘗等の官幣に預かる。同9年従五位下、寛平9年(897)従二位に叙せられた。また22社の一つに数えられている。
 これほどの名社も、応仁の乱以後、たとえば『親長卿記』明応5年(1496)には既に祈雨奉幣のための資力がないというような記事があり、丹生川上神社そのものの所在すら消息を失ってしまった。
明治4年(1871)に至り、丹生大明神社(現下社)を官幣大社丹生川上神社としたが、これに対して寛平7年の太政官符にのる四至に適合しない、としてむしろ現、上社をあてるべきとする『大日本史』に従い、同7年、高靇神社を官幣大社丹生川上神社奥宮とした。が、これにも異義の生ずるところとなり、同29年、丹生川上神社を下社、奥宮を上社とした。
さらに東吉野村の蟻通神社が、その社辺をとおる高見川を古代の丹生川であるとして請願したことからこれを中社と認定するに至り、このとき中社の祭神を罔象女神、上社を罔象女神から高靇神へ、下社は高靇神から闇靇神へ改められた。
 例祭=上社10月8日。中社10月16日。下社6月1日。
上社には末社の水神祭(1月3日)、山の神祭(6月7日)、愛宕祭(10月5日)、恵比須祭(11月23日)は当屋の職掌する祭である。
中社の石灯籠(銘弘長3年丹生社)は重文指定。また近くのツルマンリョウ自生地は天然記念物。中社には例祭に8台の太鼓台を奉昇し、下社には祈雨止雨のための大古踊がある。と記載されています。
 明治初年までは高龗神社という小規模な祠で、その由緒も不詳であるが、大滝ダム建設に伴う境内の発掘調査により宮の平遺跡が発見され、本殿跡の真下から平安時代後半(11世紀末)以前に遡る自然石を敷き並べた祭壇跡が出土し、また付近からは、縄文時代中期末から後期初め(約4000年前)にかけての祭祀遺跡と見られる、立石を伴う環状配石遺構が出土したため、途中奈良、古墳時代にかけての断絶が認められるものの、当神社の祭祀空間としての機能は縄文時代にまで遡る可能性が出てきた。
明治6年(1873)に郷社に列したが、当時の官幣大社丹生川上神社(現在の下社)少宮司江藤正澄が、下社の鎮座地は寛平7年(895)の太政官符(『類聚三代格』所収)に記す丹生川上神社の四至境域に合致しないことを指摘して当神社を式内丹生川上神社に比定し、翌明治7年には当神社を下社所轄の神社とするとともに、下社を「口の宮」、当神社を「奥の宮」と称した。
その後江藤説が認められて、明治29年(1896)に「口の宮」を「丹生川上下社」、当神社を「同上社」と改称し、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」となったが、大正に入って、蟻通神社(現在の中社)が本来の式内大社であることが立証されたため、同11年(1922)に中社に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」となった。
第二次大戦後の昭和27年(1952)に独立し、現在は神社本庁に属して、その別表神社とされている。

境内

本殿          社殿
本殿は三間社流造銅板葺。伊勢神宮旧社殿の古材を用い、平成10年に造営された。なお、旧社殿は大正6年(1917)の造築にかかるもので、飛鳥坐神社(高市郡明日香村)に移築され、同神社の本殿などとなっている。

愛宕・恵比須・水神社

山之神社







コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

古寺巡礼 更新情報

古寺巡礼のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング