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古寺巡礼コミュの豊楽の道 大阪5番札所 平野の大念仏寺

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大阪の5番札所は旧平野郷と云われる所に有る大念仏寺です。
大阪、豊楽の道
(46)諸仏護念院 大源山
大念仏寺(だいねんぶつじ)
住 所 〠 547―0045  大阪市平野区平野上町1―7―26
電話番号 電話 06―6791―0026
本  尊 十一尊天得如来
開 山 良忍(天台宗の僧)
創  建 大治2年(1127)
アクセス JR大和路線 平野駅より 南へ徒歩5分
<寺歴・縁起> H/P  http://www.dainenbutsuji.com/
融通念仏宗総本山 河内西国三十三箇所特別客番 おおさか13仏霊場10番
なにわ七幸4番 神仏霊場 巡拝の道 第46番

 大治2年(1127)、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建したのが始まり。平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最初の宗派で日本最初の念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、元禄期(1688〜1704)に本山として体裁が整い、現在に至る。
融通念佛宗の総本山。
摂津国住吉郡平野庄(現、大阪市平野区)の領主の平野殿坂上広野の私邸内に建立した融通念仏の道場の菩提所、修楽寺の別院が前身。
 融通念仏宗
 融通とは溶け合い和合することです。
砂とセメントと水は、それぞれその形も働きも異なりますが、この三者が溶け合って和合すると強固なコンクリートになるのも融通です。
融通念仏は、念仏が相互に融通して大きな力となることをいいます。すなわち念仏を称えることによって、人と人、人と物、物と物とのすべての関係の上に融通和合の世界を自覚し、苦脳と迷いのこの世を喜びに満ち溢れ、悟りの智慧かがやく楽土(浄土)にすることをめざした教えです。
融通のはたらきの中では、一人の念仏は小さくとも、同時に一切の人に功徳を分かち、一切の人の念仏が一人の上に注がれてくる。念仏こそすべての善行の根本であり、すべての善行は念仏の中に摂(おさ)まってきますから本宗の信徒は毎朝10遍の念仏と、日課念仏百遍を称えることが大切なつとめとなっています。
良忍さんとは
 良忍上人(聖應大師)は、延久4年(1072)尾州知多郡富田荘(現、愛知県東海市富木島町)に誕生、父はその地方一帯を治める領主で、名を藤原秦氏兵曹道武といい、母は熱田神宮大宮司第24代、藤原秀範の息女でした。
生まれつき美声の持ち主だったところから、幼名を音徳丸と名づけられました。12歳で比叡山に登り、良賀僧都のもとで得度し、名を光乗坊良仁と与えられました。良忍と改名したのは大原へ隠棲して後のことです。
 比叡山での良忍上人は常僧(堂守り)として修業する傍ら、天台の学問はもとより密教や戒律の修法にも努めました。21歳ですでに多くの学侶(学問をする修行僧)を教導する講主の職に任ぜられることになります。
しかし学問の議論ばかりが先走り、真に道を求める心が薄れていることを嘆いていた良忍上人には当時の比叡山は決して修行に適した環境ではなくなっていました。伝教大師が強調された道心がゆるんでいたのです。また時代は貴族社会に変わって武家政権に移行する動乱期にさしかかっていました。一大仏教拠点たる比叡山にも時代変革に伴う世俗化の波が押し寄せていたのです。そうした中にあって心ある修行僧は本来の仏道を求めて別の地に移り棲むことがよく行われました。
二十三歳にして良忍上人は洛北大原に隠棲されることになります。大原は比叡山の別所として、念仏聖や修行者が草庵を結んで一つの集落を形成していたところです。
 大原での良忍上人は、世俗の営みを断ち偏に往生を願う純心な念仏行者であったこと、一切経を披閲し堂舎、仏像を造立し多年修練したこと、一日6万遍の念仏を称えるかたわら、法華経書写に励んだこと、睡眠時間をきりつめ、手足の指を燃やして仏と経に供養したこと等が最も古い資料とされる「後拾遺往生伝」「三外往生記」等に見え、真摯な念仏行者であり、法華経の修行僧であったことが窺えます。
また「一切経を披閲し」とあるのは、大原来迎院に「如来蔵」という書庫を建て、仏教の典籍に親しまれたことを指しています。
 かくて上人46歳の永久5年(1117)5月15日 午の刻(正午)一心に念仏を称えている中に阿弥陀仏が面り相好(お姿)を現し、速疾往生といって、後の世を待たずに、現生にだれもが速やかに智慧かがやき喜び溢れる幸せの世界に至る方法として融通念仏の法門を授与されました。
その授与された御文を「弥陀の妙偈」といい、融通念佛宗の教えの要となるものです。
「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満」
 告げ終わって更に大光明を放って、白い絹1枚を上人に授与されました。
そこには今しがた空中にお姿を現された仏、菩薩の尊像が描かれていました。中央に阿弥陀如来が立ち、その周囲を十体の菩薩がとりかこむお姿で、ご本尊「十一尊天得如来」が描かれていた。
良忍上人は阿弥陀如来の示現をいただき、融通念仏の教えを深く領解したとはいえ、いまだ民衆に念仏を勧める機縁の熟さないまま草庵に閑居しておられました。しかし上人の徳は人づてに京の都に伝わっていました。
ある時、鞍馬寺の多聞天王が威厳に満ちたお姿を現して上人にいわれるには、「あなたは先に仏さまから尊い融通念仏を授かったのに、どうしてそれを人びとに勧めて苦しみの衆生を救済しないのか」このお言葉によって布教の時ようやく至ったことを知った良忍上人は、天治元年(1124)6月9日はじめて市中に出て念仏勧進を始められました。上人の名は朝廷に達し鳥羽上皇は宮中に上人を招いて皇后や百官もろともに融通念仏会を修し、自ら日課百遍の念仏を誓約されました。その上、上皇はご帰信のしるしに愛用の鏡を鉦に鋳かえて上人に授与されました。これを“鏡鉦”といい念仏勧進の道すがら鏡鉦を叩いて歩かれ代々大切に伝持されてきました。中祖法明上人のとき、故あって“亀鉦”と改称され今に大念佛寺の宝物として伝わっています。
 さらに鳥羽上皇は自ら融通念仏勧進帳(名帳)を製し、帰信者に名を記させるべくご自身もお名前を録し、かつ序文をしたためられました。
 天治2年(1125)4月4日お礼のため鞍馬寺で通夜念仏をされた良忍上人の前にまたも多聞天王が現れ、神々の世界にまで融通念仏日課百遍を勧めた証拠に「神名帳」を授けられました。その「神名帳」には梵天、帝釈、四天王をはじめとして、閻魔王界から地獄の役人に至り、かつ日本国内の八百万神の名が星のごとく連なっていました。神々もまた融通念仏の行者としての誓約をされているのです。融通念仏が神祇同音といわれるのはそのためです。

本堂
 本堂 総欅造り銅板葺き。東西約50m、南北約40m。昭和13年再建の大阪府下最大の木造建築。平成15年に国の登録有形文化財指定。

山門
 棟行3.6m、梁行2.7m、両脇に2.1mずつの壁落ち屋根。霊元天皇皇女、宝鏡寺宮徳厳尼ご親筆「大源山」の勅額。平成18年大阪市指定有形文化財。
江戸時代初期建造。

毘沙門堂
毘沙門天(行基菩薩作と伝える)を祀る。脇壇に十六羅漢を安置

鐘楼
江戸時代の名鐘。従一位右大臣藤原家孝公撰の銘文。同時代建造。
大念仏寺独特の行事に万部おねりと云う行事がある。
「万部おねり」とは聖聚来迎会と阿弥陀経万部会が融合された融通念佛宗総本山大念佛寺最大の伝統行事の通称名です。
 聖聚来迎会は無量寿経の中の「その人、寿(いのち)が終わる時にあたって、私は極楽浄土から25菩薩を従えて、その人を迎えに来るであろう」という阿弥陀仏の願いを具体的に表現した儀式であり、正平14年(1349)3月15日「観音様の蓮台に乗り、阿弥陀如来のお導きに従って、生身のまま往生の本懐を遂げるまでの儀式を営んでみたい。聖聚来迎の様相を実際にこの眼で見、また世の多くの人々にも見ていただきたいものだ」と中祖法明上人自ら行者となり、臨終不退、一念往生、上品上生を遂げるまでの法明上人の堅固な意思により始まったことを起源としています。
 「阿弥陀経万部会」は江戸時代第49世尭海上人の頃、「阿弥陀経を一万部読誦して、極楽往生と檀信徒の先祖供養」を願いとしてはじめられました。

 25菩薩とは
1)観音菩薩 2)勢至菩薩 3)薬王菩薩 4)薬上菩薩 5)普賢菩薩
6)金蔵菩薩 7)獅子吼菩薩 8)華厳王菩薩 9)虚空蔵菩薩
10)徳蔵菩薩 11)宝蔵菩薩 12)法自在菩薩 13)金剛蔵菩薩
14)山海慧菩薩 15)光明王菩薩 16)陀羅尼美薩 17)衆宝王菩薩
18)日照王菩薩 19)月光王菩薩 20)定自在菩薩 21)三昧王菩薩
22)大自在菩薩 23)白像王菩薩 24)大威徳王菩薩 25)無辺身菩薩
を云う。

本堂内陣

阿弥陀25菩薩来迎図(大念仏寺所像ではない)
 一般的には絵画が多いようで、万部お練りは各菩薩様の衣裳を付けた人がお練りを行うのです。

中祖法明上人      開祖良忍上人      再興大通上人

神仏霊場 ご朱印

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