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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏からのご紹介】 旧亀津町は、耕地は少ないが紬(つむぎ)の生産がさかんだったところ

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【色平哲郎氏からのご紹介】 旧亀津町は、耕地は少ないが紬(つむぎ)の生産がさかんだったところ


(ウクライナ中央を南流する)ドニエプル河を挟んだ戦局は世界の関ヶ原的な関心を集めている。
もしもドイツ軍がここの天然の陣形を失ったら、バルカンへ、ベルリンへソ連軍の進撃をはばむ自然的な防壁を失う。このことは狡猾な米英の野望をいずれにしても水泡にする。従って、第二戦線への急行は、米英自体の必然の歩みとなるだろう。ハル国務長官、イーデン外相らを首班とする一行がモスコウまで押しかけて行って三国の会談を急いでまとめようとしている気運も、カサブランカ会談、ケベック会談、それ以降の戦局の大きな進展の真相を読む鍵としても、ドニエプル河を挟む独ソの戦況は大きいということだった。

山代巴「囚われの女たち」第一巻「霧氷の花」


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(徳之島の)旧亀津町は、耕地は少ないが紬(つむぎ)の生産がさかんだったところで、進取的な土地柄であったのであろう。「亀津の断髪組」という名さえあった。大学卒業者が多いことで「日本一の学士村」と新聞に書かれたというのが亀津の人の自慢である。
しかし、学士村の名はえたものの、学士たちが巣立ったあとの村は、孤島の生活苦のなかに取残されたままである。「田畑を売りはらっても子どもは大学へ」という気風は強いが、じっさいに大学をでたのは、かつての島役人の子孫か、有力な家系の本家筋の人たちであった、、、

徳之島、面積247平方キロ、人口約5万、中央部は500メートル前後の高地だが、西と南には耕地がひらけ、南の伊仙村だけで奄美の黒糖の4分の1を産出する、奄美群島ではもっとも生産力の高い島である。
しかし、台風の被害と黒糖価格の不安定のために、農家経済はしばしば赤字におちいる。
そのうえ、奄美群島全体で解放された農地は160町歩、全高知の1パーセントにすぎない
という農地改革の不徹底さは、稲作ではモミで地主四、小作六、畑作では黒糖で折半という物納小作料をほとんど公然と残存させた。
そのため、人と牛の力によるむかしながらの方法で黒糖を生産する貧しい農家は、いまだに甘薯の青菜売りを余儀なくされ、高利の借金に追われて島をでる者があとを絶たない。

戦争とそれにつづく米軍占領下の時代、ながらく本土ときり離されていた奄美の島々は、昭和28年末に日本に復帰した当時、ひどい窮乏状態にあった、、、

「島からきた人々」  平凡社 日本残酷物語 現代篇1「引き裂かれた時代」


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さいはての島々 笹森儀助

十島村南端の宝島と、その南の奄美大島とのあいだはトカラ海峡とよばれている。南からきた日本海流は(台湾の東、)八重山諸島の西で東シナ海にははいり、ここでふたたび太平洋にでてゆく。
このトカラ海峡のはげしい潮流は、帆と櫓櫂(ろかい)のみをたよりにしていた時代には航海の大きなさまたげをなし、その流れの横切るところに文化の境界をつくった。トカラ海峡の南、奄美から八重山にかけての島々は、古代日本語のおもかげをのこす琉球語を使用し、トカラ海峡の北、宝島以北の日本語と大きなひらきをもつことになった。九州文化の影響をうけてきた宝島以北にたいして、奄美大島以南はむしろアジア大陸の影響をうけて明治にいたった。


しかもその南のはしにある先島諸島(宮古・八重山の諸島)は、ひさしく沖縄の中山王朝の下
にあったことが、いっそう島々を停滞のなかにひきとめた。

笹森儀助がこれらの島々をめぐり、つぶさにその実情を調査したのは明治26年、島々の存在すら多くの日本人にかすかなころであった。

笹森儀助「南島探験」  平凡社 日本残酷物語 第二部「忘れられた土地」


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むかし阿波では、藩祖蜂須賀家政が慶長年間積極的に藍の栽培を奨励して以来、その生産は藩の財政をささえる根底となっていた。と同時に藩では阿波藍の独占的生産を確保するため、その耕作、栽培、製法をかたく秘密とし、他に漏らすことを禁じた。
ところで江戸参勤中の蜂須賀侯は、阿波藍の評判をうらやむ諸国大名の求めるままに、気まえよく趣旨をわけてやった。
しかしその種子は、蒔いてもけっして発芽しなかった。種子は前もって焙烙(ほうろく)で炒(い)ってあった、、、

備後の沼隈郡地方は藺草(いぐさ)の栽培に適し、古くから畳表が織られていた。とくに福島正則が領主としてその技術改良を促進させ、慶長七年(1602)にはこれを幕府に献上して以来、備後表(おもて)の名は全国に知られるようになった、、、

備後表の技術の秘伝性は、他藩に対するのみにとどまらなかった。沼隈郡で藺作のおこなわれていた24カ村のなかでも、上山南村、中山南村、下山南村の三村は畳表織りたての技術にすぐれた場所であり、それら三村に生まれた女は、他村に嫁にゆくことを禁じられていた。

それほどまでに彼女らの技術が保全されるとともに、彼女らはいわばその土地に飼い殺し
にされていたのである、、、

天正末期のある日、(土佐吾川郡の)成山部落の路傍にたおれ苦しんでいる旅人があった。
伊予国宇和郡の住人で新之丞といい、諸国遍歴の途上で病いのために動けなくなったものだった、、、新之丞は紙漉(す)きの術をこころえていたが、成山付近に楮(こうぞ)、雁皮(がんぴ)が野生しているのをみると、身を助けられた恩返しに、、、

新之丞が成山に足をとどめてから数年をへた、、、別れを惜しみながら帰途につく新之丞を見送ったのち、やがてそのあとを追った。晩春の斜陽をあび、坂の峠に立ちどまって、数年の年月をすごした土佐の風光をうちながめていた新之丞の背後から、、、刃がきらめき走った、、、

享保の大飢饉、、、松山藩内の餓死者は男女三千五百名に達したと記録されているが、その折でもおなじ松山藩に属する瀬戸内海芸予諸島中の大三島では、かえって七百俵を施米として公儀に献上している。

それというのも同島瀬戸郷の下見(あさみ)吉十郎が、飢饉にさきだつ約20年前、薩摩から
サツマイモの種を笈櫃(おいびつ)のなかに入れてひそかにもちかえり、この島にその栽培
をひろめていった功によるものであった。当時サツマイモは琉球から渡来したばかりで薩摩藩にとっては国外不出の禁制品であった。

これと似た話は阿波の和三盆(わさんぼん)にもある。阿波国板野郡引野村の丸山徳弥という男は思い立って安永5年(1776)に日向延岡在の鼻ガ島にいたり、サトウキビを作っている家の下男として住みこみ、栽培の方法をひそかにおぼえて、日向をあとにした。当時藩の掟で他国にもちだすことを厳禁されていたサトウキビの苗が、徳弥の手にした竹の杖のなかにかくされていた。
けれどもそれだけで満足しない徳弥は、ふたたび日向鼻ガ島にもどり、砂糖の製法をぬすみおぼえ、帰国ののちは、たたみこんだ記憶をたよりに製造にのりだし、やがて改良と工夫をくわえて、苦心の白糖をつくりあげることに成功したという。

このように一国の専売品が国外でもつくられるようになったときの経済的打撃はあまりに
大きかったので、各大名たちは国産品の原料および製法が他領にもちだされることをあらゆる手段をおしまずにとりしまった。
とくに薩摩は琉球貿易によってもたらされる利益のほかにさまざまな特産にめぐまれていたので、とくに厳重をきわめたのである。
したがって特産品の扱いは勝手に商人にまかせず、すべて藩で統制をくわえていた。

「隼人の末裔」  平凡社 日本残酷物語 第三部「鎖国の悲劇」


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明治になって日本の全歴史を二分するような改革がおこなわれたが、当時の知識人でこの改革の正確な意味、つまりこの改革がその後百年の間どのような運命をもたらすかを考えたものはほとんどなかった。
知識人たちは封建制度の奥に、近代の民主的な空をのぞみ見て、そこになにがしかの期待を抱いていた。

むしろ、おどろくような無知をともなった恐怖の衝動を通じてではあるが、近代日本の運命
を手さぐりし、その無気味な予感を伝えたものは、御一新早々農民たちによっておこされた
一連の暴動であった。
役人や知識人からまったく土民扱いにされていた農民たちの騒擾に、誤解の救いがたさを見るのはたやすい仕業だが、恐ろしいのは、その誤解が、きたるべき民衆生活の破綻を予見するかのように、否定しがたい真実を含んでいることであった。
農民たちがあたりかまわぬ反対運動にのりだしたのは、自衛の本能につき動かされたためである。

じじつ、明治政府の布告は多くの民衆にとって一片の紙屑にひとしいものであった。
穢多(えた)の身分解法令がもたらしたものは、江戸時代以来彼らがもっていた牛馬の皮はぎの権利をうしなうことであり、アイヌに職業と居住の自由を許したことは、アイヌを保護から解放して悪辣な日本人の自由にまかせることであった。

士族授産は、失業士族の不平をとりしずめる以外の何物でもなかったから、当座はともかく、
政府の保護はながつづきしなかった。飢え棄てられてもそれは各人の才覚の乏しいためとあきらめるほかなかった。新しい輸入品のために地方の産業は没落した。しかしそれを救うべき国家の手段は、あまりにも貧弱であった。おそらく明治政府の真に目ざしたものは、このほかに存した。すなわち、部落共同体を解体の日程にのせて、これまで部落単位であった租税や徴兵を個人単位に切りかえ、富国強兵の実をあげようとすることであった。そのためには、私有の観念を前提としなければならず、入会地や部落共有林を、各戸の私有または有力者の分割にまかせ、あるいは官有地と切りかえることが急がれた。

部落の全戸が薪や秣をとる森林はなく、牛馬を放牧する山野もなく、個人の勝手な伐採の結果、洪水をまねくことがしばしばになった。労働にも消費生産にも共同の場をうしなった部落からは、とうぜんのことながら横の連帯感はうしなわれ、そのかわり血縁になぞられた縦の人間関係が部落のあらゆる面を支配する。
部落も共同体の実質をうしないながら、部落単位で学校や消防団をつくったり、祭や行事を
おこなったりして、擬共同体的な色彩をおびる。生産は個人単位にかわりながら共同体的感覚と慣習だけは残り、部落の人々に強制力をもつ。このようになかば崩壊した共同体ではじめて、親方子方のようなつながりが、あらゆる面にからみつき、村ハチブのような仲間の排斥と制裁のおこなわれる余地が生じる。
親方と子方の関係は、そのまま国家権力の末端ともつながっており、権力へのつながりを装おうとする者にとって、それは苦もなく模倣できるものであった、、、

信州南部では正月魚として、かならずブリを用いるのが久しい慣例だが、そのブリをかつては、「飛騨ブリ」と呼びならわしてきた。
しかし、飛騨の山国でブリがとれるきづかいはない。
それは鉄道開通前の輸送ルートにちなむ名前なのである。富山湾の西岸、灘浦一帯はブリの好漁場だが、そこで獲れるブリは、富山から飛騨の高山に運ばれ、さらに飛騨山脈の脊梁をこえて、奈川の谷に移され、やがて信州各地に配られた。
山間の険路を幾日がゆられつづけてゆくうちに、塩ブリはおのずから発酵して独特の滋味を帯びた。
しかし、それも鉄道開通後は老人連の古い記憶にすぎない。この古い輸送路の最大の難所は、乗鞍岳の南を越える野麦峠である。木曽の川浦宿から西へ上り下り三里、そこに野麦の集落がある。昭和12年には30戸の小村であった。

野麦は海抜一千七百メートル、背後には乗鞍岳がそびえ立っている。

「峠路の村」  平凡社 日本残酷物語 第四部「保障なき社会」

コメント(4)

大変、興味深い話を、ありがとうございます!
>>[1]

すーちゃんさん、いつも励ましを有難うございます。
いまmixiとツイッターに平行してとりくんでいます。

民主主義市民連帯(略称連帯)@櫻井智志
https://twitter.com/satoshitoday
>>[2]

読ませていただきました。私は、ツイッターのように、自分の主張を、堂々と発言できるような、信念もなく、かといって、無名の私のツイートが炎上なんてありえないのですが、ツイッターはやっていませんので、失礼しました。
>>[3]

ご足労をおかけして、有難うございます。
ツイッターは時々辞めたくなるのです。
いわば成り行きの延長のところもあって一時停止しました。
いまは自分で作業のバランスをとるようになりました。
重ねて感謝いたします。

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