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孫崎亨・広原盛明・色平哲郎達見コミュの【色平哲郎氏のご紹介】杉田聡・帯広畜産大学教授に聞く 転載

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【色平哲郎氏のご紹介】
ヘイトスピーチの元祖 福沢諭吉の「圧制のすゝめ」
明治150年キャンペーンを斬る! 歴史の偽造には騙されない
福沢の戦争煽動の根底にあるのはニヒリズムとコンプレックスだ

杉田聡・帯広畜産大学教授に聞く

福沢諭吉ほど、誤読された思想家はいない。
『学問のすゝめ』の「天は人の上に人を造らず」という有名な一節は
後続する文章に先立つ譲歩文にすぎず、同書では人民の教育の必要を
前面に出しながらも、「ミッヅル・カラッス」(middle class中産階級)
に属さない下層人民を「力役の小民」「愚人」として軽視する傾向が強い。
福沢は明治国家の侵略を先頭に立って煽動し、アジア隣国に対する
差別・偏見をまき散らした元凶でもあった。
その行き着く先が、1945年8月15日の破局にほかならない。


== 政府は現在、「明治150年」キャンペーンを展開していますが、
「150年」の出発点であった明治期の侵略と植民地支配に関しては、
福沢の罪は非常に重いのでは。

ご指摘の通りです。
福沢は「政府のお師匠様」と自任するほどに、自らが
深いところで政府を動かしている、という自負がありました。
伊藤博文とは実は関係は悪くなかったし、外務大臣・陸奥宗光
を動かしたとされる外務次官・林董(ただす)は福沢の二男の
岳父であり、そのルートからも外交に一定の影響力を
持ちえたとみて間違いないでしょう。
井上馨や山縣有朋とも書面のやりとりや懇談を時折しています。
しかも当時最大の発行部数を誇った『時事新報』の社主・論説主幹
ですから、オピニオンリーダーとしての影響力は抜きん出ていました。

== 明治政府の先鞭をつけたと。

確かに、福沢が言論面から各種の方向を提示し、それに
明治政府が従ったケースもあります。
典型的なのは、『文明論之概略』で示された「文明と野蛮」という
図式を使って、伊藤や陸奥が日清戦争や韓国(大韓帝国)併合を
合理化した例です。
しかし福沢は政治の中枢にいたわけではないので、明治政府が
行なったことを正当化し、合理化した側面の方がより重要でしょう。
たとえば福沢は明治憲法や教育勅語を賛美し、政府が批判を封じ込める
ために布告した集会条例、新聞紙条例、保安条例等に、
言論人でありながら事実上賛同・容認しています。
一方で、朝鮮半島や清国(現在の中国)への対応では、
明治政府がまともに見えるほど極端な主張をし、政府に
受け入れられなかったケースもありますが。


朝鮮侵略を煽動

== 福沢は朝鮮や清国について、ヘイトスピーチ用語を濫発しながら
多くの発言をしていますね。

福沢は、1882年に起きた朝鮮軍の反乱(壬午軍乱)
で日本公使館が焼かれた後、過激な主張をしました。
日本人「朝鮮国務監督官」を置いて朝鮮の政務万端を監督せよ、
つまり朝鮮における「内政権」を掌握せよと主張します。
この主張は日清戦争時にも、くり返されます。
実際日本は、日露戦争後の1905年、
外交権を奪って保護国化する第2次日韓協約を大韓帝国に押しつけ、
2年後には内政権を奪う第3次日韓協約を調印させて、
福沢の主張が実現します。
また福沢は、日清戦争に先立つ1887年に、朝鮮半島を「防禦線」
であると主張しました。
山縣有朋が「利益線」という用語で朝鮮半島への国防範囲の拡大を
唱えたのが1888年です。
福沢はそれ以前に、軍事的観点から朝鮮半島に目を向けていたのです。

== 1910年の韓国併合に至る朝鮮植民地化への動きを、
先取りして主張しているように思えます。

福沢は日清戦争時に、『時事新報』紙上で戦争を煽りました。
執拗に開戦を煽る理屈を示し、一つが崩れると別の理屈を出す、
ということをくり返しています。
たとえば、1894年春に朝鮮で東学農民軍による内戦が起き、
朝鮮政府がその鎮圧を清に要請すると、明治政府は条約上の
根拠もないまま8000人規模の軍隊を朝鮮に派兵します。
福沢は当初、「〔朝鮮〕政府よりの依頼とあれば」
とそれを正当化しますが、そうした事実はないとわかると、
「朝鮮に在る我が居留人民の生命財産の保護」を名目にします。
しかし、農民軍が朝鮮政府と和約を結んだために在留邦人の危険が
なくなると、今度は派兵は「商売の安全を保護する」ためだ
と言い出すのです。
そればかりか、軍を帰国させずに、「直ちに〔清国に〕開戦を布告」
せよと政府を煽ります。
そして実際に開戦し、戦争に勝利。
『福翁自伝』では、日清戦争の勝利は官民一致のおかげで、
「愉快ともありがたいとも言いようがない」と書きます。


圧制は「人間最上の愉快」

== この好戦性は、国権を拡張し経済の強い国にするという、
福沢が称するところの「大本願」に起因しているのでしょうか。

それを考える上で重要なのは、福沢の原体験でしょう。
福沢は1862年から63年に遣欧使節団の一員として欧州へ渡り、
途上、英国船で香港に寄ります。
その時、船に乗り込んで福沢に靴を売りつけようとした中国人商人を、
英国人がわずかの金を払って杖で追い払うという光景を目撃します。
それに類することを生涯に3回書いていますが、1882年の
「圧制もまた愉快なるかな」と題した『時事新報』論説では、
「深く支那人を憐れむ」のではなく「英国人民の圧制を羨む」と、
つまり圧制を人が憎むのは他が自分を圧制するからで、自分が他を
圧制するのは「人間最上の愉快」だと書いています。
さらに日本が世界に進出し、英国人をも「奴隷のごとく圧制」して
「圧制を世界中にもっぱらに」したいという願望を披瀝するのです。
戦争の煽動にまで至る福沢の「国権拡張」論にとって、
この原体験が決定的だったと思います。

== 他人に圧制を加えるのが「人間最上の愉快」などというのは、
もうこれは明らかにニヒリズムではないですか。

そうです。
福沢は人間に対する信頼感も、博愛意識も欠いています。
人権思想への深い共感もありません。
国内的には下層・貧民階級や女性は福沢の眼中に存在せず、
対外的には欧米列強の白人以外はないも同然です。
さらに言えばこうしたニヒリズムの根底には、福沢の強い
コンプレックスがあります。
かつて身分の低い下級武士として痛めつけられたという怨念が
あるから、何とか他者を痛めつける側に立ちたい、だから
インド人や中国人をあれほど虐げた英国人を「羨む」のです。

== ならば、福沢の「国権拡張」は、歪んだコンプレックス
に由来するということになりますね。

ただし最初から「国権拡張」を意識していたのではなく、
福沢がまず求めたのは国民(ネーション)の創生でした。
幕藩体制下では、人民に各地の「殿様の領民」という意識は
あっても、「日本国民」という意識はありません。
だからこの意識を生み出すため、『学問のすゝめ』では
「一身独立して一国独立す」るという論理を提出しますが、
その際、結局、国のためには命を捨てることも惜しまない
という「報国の大義」を強調します。
そして福沢がそれを実現する政治的装置として見出したのは、
天皇制でした。
福沢は当初、天皇制を冷静な目で見ていましたが、
1882年の『帝室論』では、帝室の「万世一系」とその
「人心収攬」の力を強調します。
国家のために命を捨てる国民を形成し、「国権拡張」実現のために、
しかも絶対主義的な天皇制を不可欠と考えるようになったのです。


現在も消えない「大罪」

== 福沢が煽動した朝鮮の「内政権」剥奪や日清戦争、
「報国の大義」と天皇への忠誠等の行き着く先が、
1945年8月15日の破局では。

そういう評価は十分可能です。
特に日本は、福沢があれだけ鼓吹し合理化した日清戦争の後、
50年も中国への介入・戦争を続けたのですから、福沢には
1945年までの戦争責任があります。
日清戦争がなければ日露戦争もなく、日露戦争がなければ
英国と組んで第1次大戦に参戦して南満州鉄道の権益を手にする
こともなかったでしょう。
日清戦争がなければ、列強による中国分割の動きもなく、
その動きがなければ、反帝を旗印とした「義和団」の
抵抗運動もなかったでしょう。
義和団に対し、日本を含む8カ国が鎮圧に打って出ましたが
(北清事変)、日本はこの戦勝によって清国への
軍隊駐留権を獲得します。
そしてその駐留日本軍が1937年に中国軍と衝突し、
日中全面戦争を引き起こします。
これらの歴史的事実を考えれば、福沢の罪は重いと思います。

== もう、福沢を「偉人」扱いするのは止めるべきでしょうね。

そう思います。
しかも福沢が煽動した朝鮮の内政権掌握と、その後に日本が韓国を
併合したことが、結局は第2次大戦後に朝鮮半島の政治的空白と
分断をもたらしたのであって、分断は現在も続いています。
過去だけではなく、現在の問題にも福沢の罪は関連しています。
安倍晋三政権が「明治150年」を賛美するなら、
これを機会に今こそ私たちは福沢諭吉という誤読され美化された
思想家の真価を問うべきでしょう。
それなしに、日本の近現代史の正しい歴史認識は確立できない
と思います。

聞き手・まとめ 成澤宗男(編集部)


杉田聡教授の福沢批判をまとめた
「福沢諭吉と帝国主義イデオロギー」(花伝社)


すぎた・さとし・帯広畜産大学教授(哲学・思想史)。
著書に
『天は人の下に人を造る 「福沢諭吉神話」を超えて』
(インパクト出版会)。
編著に
『福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集 「国権拡張」「脱亜」の果て』
(明石書店)など多数。



福沢諭吉の海外問題に関する発言録

・日清戦争(1894年9月20日「支那将軍の存命万歳を祈る」)

「今度平壌の勝に乗じて長駆北京に乗込み城下の盟なんなんと
いろいろな談判あるべきなれども、(中略)目的とする所はただ
国益の一方のみにして、目に付くものは分捕品のほかなし。
何とぞ今度は北京中の金銀財宝をかっさらって、官民の別なく、
余さず漏らさずかさばらぬものなればチャンチャンの着替までも
引っぱいで持帰ることこそ願わしけれ」

【解説】日清戦争で日本軍は1894年9月15日、平壌の戦いで
清国軍を破ると、福沢は差別用語を濫発して北京への進軍を煽動し、
そこでの掠奪まで奨励した。
しかも、戦いで捕虜にした清の「老将」を浅草の見世物小屋で
さらし者にし、「木戸銭」を取って儲けろなどと戯れ言を披露している。


・王后暗殺事件(1895年12月7日「二十八日の京城事件」)

「今朝鮮はあたかも糞土の牆(注=汚い塀)にして腐敗の頂点に達し、
政府はあれども統治の威厳なく、(中略)国の形は存すれどもその実は
すでに亡国に等しく、(中略)そこに居留する諸外国人等が時に
不作法の挙動するその事情をたとえていえば、野外散歩の少年輩が
興に乗じて放歌高声、いよいよ佳況に入れば無益の殺生を試み、
(中略)もって鬱を散ずるものに異ならず。
さればかの八日の王城乱入も(中略)朝鮮の国情を察すれば、
共に野外の遊興、無益の殺生として見るべきのみ」

【解説】1895年10月8日午前3時、日本公使の三浦梧楼を先頭に
日本軍守備隊や領事警察官らが、日本の皇居にあたる李氏朝鮮の景福宮に乱入。
日清戦争後にロシアに接近しようとしていた国王・高宗の王后の閔氏を
斬り殺し、遺体を焼却するという前代未聞の凶悪事件を起こした。
これを福沢はせせら笑うように何と「野外の遊興」呼ばわりして正当化した。


・台湾征服(1897年8月8日「台湾島民の処分はなはだ容易なり」)

「台湾の始末につきわが輩の意見は、厳重一偏を旨として一歩もゆるさず、
島民等にしていやしくも反抗の形跡あるものは厳罰に処するは無論、(中略)
いやしくも反抗の形跡を顕したる輩は一人も余さず誅殺
(注=罪ある者を殺すこと)して醜類(注=悪人の仲間)をほろぼすべし。
(中略)少数を殺すは多数を活かすの手段にして、土匪の如きは一人も
余さず殺戮したるところにて、わずかの数にすぎず」

【解説】日清戦争に勝利した日本は1895年4月17日に調印した
下関条約によって清国に台湾を割譲させた。
だが、台湾の島民は同年5月23日、「台湾民主国独立宣言」を発表し、
侵入してきた日本軍に抵抗する。
1915年まで抵抗戦争が続くが、数万人の島民を殺害した日本軍によって
鎮圧される。
福沢はこれを鼓舞するかのように、日本軍に立ち向かった島民の
皆殺しを主張した。


==== 福沢諭吉は膨大な海外問題についての論評を残しているが、
そのごく一部を紹介する。
提示した発言だけでも福沢の並外れた残忍性と差別体質、好戦癖が
如実に示されていよう。
『福澤諭吉全集』(岩波書店)に収められている『時事新報』掲載の
記事から旧漢字・旧かなを現代表記にし、一部割愛して引用した。
(作成 編集部)

【週刊金曜日 2018年8月31日】

コメント(2)

目からうろこ、です。

大分の中津に行ったときに、生家など見学しましたが、そういう記述はなかったかと。
下級武士が、むしろ、日本の近代化と同時に、民権主義的な考えを導入したような・・・
そして、日本の明治以降の経済成長に貢献した、ような。

明治150年、いい知識をえました。
>>[1]
厚く感謝申し上げます。
私も同感です。
二面性があるようですね、諭吉さん。

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