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園田隆二監督LOVE・女子柔道コミュの吉村和郎

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吉村和郎

経歴

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主な戦績

脚注

外部リンク

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獲得メダル

日本

男子 柔道

世界選手権

銅 1973 ローザンヌ 軽中量級

吉村 和郎(よしむら かずお、 1951年7月6日 -)は日本の柔道家(八段)。熊本県出身。現役 時代の階級は71kg級。

幼少期から学生時代

熊本県熊本市に4人兄妹の末弟として生まれ、 兄の影響や父親の勧めで小学校1年次時より柔 道を始める [1][2] 。柔道には素人の父から、身体 を大きく成長させるため練習前にうどんやラー メンを食べ練習後には瓶入り牛乳を必ず3本飲 む様に指導され、小学校高学年になると少年部 のみならず兄らと共に一般部の稽古にも参加 しながら、柔道家としての礎を磨く。

兄が通っていた 柳川商業高校 へ進学し、1年次 にはインターハイ 県予選で準優勝する。勇んで 父に報告するも「そんな調子なら柔道をやめ ろ」と激怒されたことを見返すため、高校時代 は土曜・日曜を含んで毎日練習し [1] 3年次には インターハイで全国優勝する。

1970年、兄の勧めで [1] 日本大学に進学 し、1971年全日本新人体重別選手権 (中量級) 優勝、1972年全日本選抜体重別選手権 (軽中 両級)3位入賞、1973年世界選手権ローザンヌ 大会軽中量級代表に選出される。

世界選手権とオリンピック

1973年世界選手権では、同じ階級に出場し た野村豊和が、ソ連のアナトリイ・ノビコフ に 敗れるも敗者復活戦で勝ち上がり準決勝で吉 村の対戦相手になるが、リードしたまま残り時 間40秒で試合会場の時計を見て背負投により 「技あり」を取られ逆転負けする。この件に関 し、野村が前の試合で脳震盪を起こしていた、 以前に野村に負けたことが無かった、自身はも う一方の準決勝対戦者であるソ連のノビコフ と東ドイツのディートマール・ヘトガー に過去 の大会で勝利していたことなどから、金メダ ルを確信し「心にスキがあった」 [2] と述懐して いる。

日本大学卒業後、恩師の 木村忠雄の伝によ り [1] 警視庁へ入庁する。

1976年モントリオールオリンピック では、足の 負傷もあり [2] 代表の座を 蔵本孝二に譲る結果に なる。1977年世界選手権 に照準を定め、同年 の全日本選抜体重別選手権で優勝し日本代表 に選出されるが、出発の1週間前に政治問題で 大会そのものが中止となる。29歳時の1980 年モスクワオリンピック では、日本がオリン ピックへの出場をボイコットして出場できな かった。

指導者として

1度だけ出場した世界選手権以降は不運が重な り、大きな国際大会に出場できないまま1980 年に引退する。引退後、柔道私塾「講道学 舎」横地治男理事長に誘われ、同年6月より 岡 野功の後任として [3] 指導者となる。引き受けた 理由について「世田谷の一軒家に住めて、週3 日、1日1時間だけ指導すれば良いという好条 件に惹かれたためで、生徒を強くする使命感は 当初なかった」 [2] と後年に述べている。実際に は土日を含む毎日の練習で古賀稔彦、吉田秀 彦、秀島大介ら後のオリンピックや世界選手権 の金メダリストを育成し、1982年金鷲旗大 会や1985年高校選手権 などで世田谷学園高 校を全国優勝に導く。

1986年アジア大会 より全日本柔道連盟 コーチ を務め、全日本ジュニアチームヘッドコーチも 務めるが世界ジュニア選手権 では優勝に至らな かった。1996年9月より野瀬清喜の後任として 全日本女子チーム監督を務め、最初の世界選手 権である1997年世界選手権パリ大会 では女子 初の複数金メダル2つをチームにもたらす。次 の1999年世界選手権パリ大会 では2倍増の金メ ダル4つ、2000年シドニーオリンピック では金 メダル1つ、その後2回の世界選手権ではそれ ぞれ金メダル3つ、監督としての集大成とも言 える2004年アテネオリンピック では金メダル5 つをもたらす。その後、全柔連強化委員長の座 に就いた。

2012年5月には 体重別直後のロンドンオリン ピック代表選手発表記者会見に出席して、代表 選手の階級と名前を読み上げたものの、男子 60kg級で長年この階級の代表を務めてよく 知っているはずの平岡拓晃の名前を読むことが 出来ず、さらには、キログラム をまともに発音 することもほとんどできないという前代未聞 の醜態を晒した [4] 。この会見をテレビで見た視 聴者からは「酒を飲んでしゃべらせるんじゃな い!」という苦情が全柔連に寄せられた。さら に、この時の模様は動画サイト のYOUTUBEやニコニコ動画 にも投稿されて多 数のアクセスを呼び、その呂律の回らない噛 みっぷりが大きな失笑を買うことにもなっ た [5] 。

自身の世界選手権やオリンピックの経験を踏ま えて指導する選手たちに「チャンスは何度も来 ない。一度でものにしろ。」と指導 [2] してい る。近年の手腕では、2008年北京オリンピッ クで男子60kg級代表に五輪3連覇中の 野村忠 宏ではなく新鋭の 平岡拓晃を選出して初戦敗 退、2012年ロンドンオリンピック で女子48kg 級代表に世界選手権2連覇中の浅見八瑠奈 では なく福見友子を選出して5位、女子52kg級代表 に西田優香ではなく中村美里を選出して初戦 敗退、男子73kg級代表に投げ技・寝技共に得 意で実績豊富な秋本啓之ではなく中矢力を選 出し、男子柔道として初めてオリンピックでの 金メダル獲得無し、などの経緯から責任を問わ れている [6] 。

今回の惨敗を受けてなお、「1期より2期やら せた方がいい」「誰も負けようと思ってやって いない。たまたま、こういう結果になった」 「男女の両監督は五輪1大会しか務めていない し、残すのが前提」などと、男子監督の篠原信 一と女子監督の 園田隆二の続投を支持する発 言を機会あるごとに強調し続けてきた が [7][8][9] 、結果的に篠原が辞意を固めたこと で、男子の監督は井上康生が務めることになっ た [10][11] 。一方、続投となった園田は2012年12 月にロンドンオリンピック代表を含む15名の 強化選手にその暴力体質をJOCに告発される と [12] 、それが公になった2013年2月には監督を 辞任するに至った [13] 。

自らの進退に関しては、ロンドンオリンピック 終了直後に「選手を信じてやってきたが、これ はおれの責任。進退伺を出すしかないだろう」 と発言すると [14] 、9月10日の専門委員長会議に おいても「進退伺を出している。上層部の決定 に従う」と言明しておきながら [15] 、全柔連専 務理事の小野沢弘史によれば、実際には進退伺 など提出していなかったという [16] 。加えて、 10月20日の全柔連理事会では任期満了に伴う 強化委員長からの退任及び、新たに増設された 強化担当理事への昇格という驚くべき人事が 展開された [17] 。

コメント(2)

「 2012年5月には 体重別直後のロンドンオリン ピッ ク代表選手発表記者会見に出席して、代表 選手の 階級と名前を読み上げたものの、男子 60kg級で長 年この階級の代表を務めてよく 知っているはずの 平岡拓晃の名前を読むことが 出来ず、さらには、 キログラム をまともに発音 することもほとんどで きないという前代未聞 の醜態を晒した [4] 。この 会見をテレビで見た視 聴者からは「酒を飲んでし ゃべらせるんじゃな い!」という苦情が全柔連に 寄せられた。さら に、この時の模様は動画サイト のYOUTUBEやニコニコ動画 にも投稿されて多 数の アクセスを呼び、その呂律の回らない噛 みっぷり が大きな失笑を買うことにもなっ た [5] 。 」
其の二十六 「恩師・吉村先生と出会い」

古賀です。みなさん、年末年始は忙しくやっ ていらっしゃるのでしょうか?

古賀塾では、年末年始は、稽古納め、初稽古は もちろん、古賀塾内での大会、第三回古賀塾杯 争奪最強親父大会と何かとイベントごとが多く 充実した日々です。

さて、こうした充実した日々が迎えられると言 うのも、何よりも私がお世話になっている人々 と出会いがあるからと言えると思います。充実 した日々も、塾生一人一人、そして親御さんと の出会いがあり、そこから学び、共に成長して いく目標があるからこそです。(塾生との事に ついては、私が今回書いたコーチコラムにも書 いてありますので、ご覧下さい!)

私が古賀塾の塾生達との出会いがあったよう に、そして亮子がオリックスの谷選手と言う大 事なパートナーとの出会いがあったように (笑)、私にも私の柔道選手としての可能性を大 きくしてくれた師匠との出会いがありました。 今回はその師匠、吉村和郎先生との出会いにつ いて触れたいと思います。

そんな師匠とのエピソードを今回は綴ってみま した。

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私が学舎に入ったときには実際に子どもに教 える師範がいない時期だった。 直前までは東京オリンピック中量級で優勝した 岡野功氏が指導者であった。だが、私が入舎し た年に辞められ、当初は学舎の門下生として出 入りしていた警察官や大学生などが子供たちの 指導に当たっていた。

地獄のような厳しさを覚悟していただけに、逆 に最初は戸惑ってしまった。 が、約2ヵ月間の空白の後、6月に岡野先生の関 係で吉村和郎先生が正式にコーチに就任した。 ある日、道場でいつものように練習をしている と、全身から殺気を漲らせている大柄な男性が 入ってきた。

「今度から指導にあたる吉村先生だ」 と紹介されたのだが、その場にいた生徒全員 が、その迫力に圧倒されてしまった。 先生は当時20歳代後半で、警視庁所属の柔道選 手としても活躍しつつも、既に現役最後の時期 の頃であった。

吉村先生を知る人は「怖い人」「厳しい人」と 言う。だが、子供の頃、私が受けた先生の印象 は「厳しいけれど優しい人」だった。確かに練 習の内容は一気に厳しいものになった。

入門してすぐの子どもは誰もが一度は先生から 厳しく稽古をつけてもらう。 小学校を卒業したばかりの子どもでも容赦なく 投げ、時には絞め技を使って『落とす』ような ことさえもする。ほとんどの子供たちは初めて の苦しさ、恐怖感から泣き喚いたりしていた。

自分ももちろん、その厳しい稽古を経験した。 だが、もはや柔道とは言えないような暴れ方で 徹底的に抵抗した。そのときは必死で覚えてい ないのだが、先生の顔をつかみ、顔を引っかい たりして逃げ続けたそうだ。そして最後まで 『参った』をしなかった。

だが、この吉村先生と出会わなければ、はたし てオリンピック金メダルまで続いていたかとも 思う。

現在もよく思う事だが、私は実にいいタイミン グで、最高のいい人物と出会ってこれたと感じ ている。自分にとって最大の運のよさとは、こ の人との出会いであったと感じる。

それでは、皆様良いお年を!

(つづく) http://www.kogatoshihiko.jp/jinsei_026.htm

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