ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

石原莞爾平和思想研究会コミュのクック船長の大冒険物語

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

大航海時代は、15世紀から17世紀にかけてのヨーロッパによる世界侵略の時代です。その主役は、ポルトガルとスペインでした。イギリスは、少し後発になります。そんな中で、キャプテン・クックの世界大冒険物語は、イギリスの誇る偉業です。

大英帝国海軍の誇りと言ってもいいでしょう。世界中に、キャプテン・クックの足跡が顕彰され、残されています。イギリスの生誕地には、その業績を讃えて博物館も建設されています。クックは1928年生まれで、石炭運搬船の船員からイギリス海軍の水兵に志願し、「勅任艦長」まで昇進しました。

1766年に海尉(士官)に任官し、英国軍艦エンデバー号の指揮官となり、1768年8月にイギリスを出発、リオデジャネイロに寄港の後、南米南端のホーン岬を経由して太平洋を横断、1769年4月に、タヒチに着いた。そこでクックは、金星と太陽の距離算出など、天文観測を行っています。

その後、イギリス海軍本部の追加司令により、南太平洋の探索に出航しました。イギリスとしては、他のヨーロッパ諸国を出し抜きたかったのです。1769年10月、クックは史上二番目のヨーロッパ人として、ニュージーランドに到達、ニュージーランドの北島と南島を分ける海峡を発見、「クック海峡」と命名しました。

クックは、さらにそこから、伝説の南方大陸「ヴァン・ディーメンズ・ランド」(タスマニア)を目指しましたが、風で北に流され、オーストラリア大陸の東海岸に到達した初めてのヨーロッパ人となったのです。原住民のアボリジニに最初に接触したのも、クック隊です。

クックは探検によって、オーストラリアがニュージーランドと陸続きでないことを発見し、1770年8月、オーストラリア東海岸がイギリスの所有であることを、宣言しました。いま、クックの両親が住んだ家は、イギリスからオーストラリアのメルボルンに移築され「クックの小屋」として公開されていますが、大陸の最初の発見者を讃えてのことです。

クック隊は、オランダ東インド会社のあるバタビア経由で1771年6月にイギリスに帰還し、航海日誌を出版、時代の寵児となりました。1772年7月、クックは英国軍艦レゾリューション号で第二回航海に出航。南アフリカを経て、1773年1月にヨーロッパ人として初めて、南極圏に入りました。

南極大陸は発見できなかったが、その航海の帰りにトンガ、イースター島、ニューカレドニア、バヌアツに上陸、さらに南下して南アメリカ大陸南端を回って、南ジョージア島、南サンドイッチ諸島を発見しました。帰国後、ただちに勅任艦長に昇進しました。水兵からの昇進は極めて異例だったのです。

クックは航海記を書き上げると、第三回航海に出帆しました。北極海を抜けて大西洋と太平洋を結ぶ北西航路の探索が目的でした。タヒチ経由で北上したクック隊は、1778年にハワイ諸島を発見、「サンドイッチ諸島」と名づけ、カウアイ島に上陸しました。

さらに、北アメリカ大陸の西海岸を探検するために東に航海し、バンクーバー島付近に上陸、さらにカリフォルニアからベーリング海までの海図を作成しました。さらにアラスカの「クック湾」経由でアラスカの端に突出した岬を発見、「クック岬」と命名しました。さらにベーリング海を北へ進もうとしたが、果たせずに断念しました。

クックの世界探検は、今日も世界の高い評価を受け、小惑星三〇六一はクックの名を冠しているし、月面の豊の海にあるクレーターにも、クックの名がつけられている。ポリネシアの島嶼・クック諸島は、国名となっているなど、世界中にクックの名を冠した地名や町、自治体などがあります。

西洋史では、誇るべきクックの偉業でありますが、原住民たちから見た歴史は、また違います。クックがハワイのオアフ島を発見したのは、1778年1月。その後ハワイを離れたが、11月にはハワイを再訪、翌1779年の1月にハワイ島に上陸しています。

ハワイ島のカラニオプウ王は、クックたちを神のように崇め、酒や処女の女性を差し出しました。すでに、イエズス会の白人キリスト教徒によって、グアムのチャモロ人は大虐殺されてしまいました。ハワイの人々を救うために、生贄は仕方のないことと思ったのです。

長い航海で、女に飢えていたクック隊の乗組員たちは、三週間にわたって原住民の若い女性たちを凌辱し、酒池肉林の日々を送ったのです。2月4日に、クックたちはハワイを離れましたが、暴風雨でメインマストが折れてしまい、再びハワイへと戻って、修理を余儀なくされました。

しかし、クックたちの若い女性を凌辱する暴虐三昧に、原住民たちは「あまりに肉欲がすぎる」「難破するのは、神の加護がないからだ」と、そう思いはじめました。ある時、「原住民がボートを奪おうとした」と言って、クックがカラニオプウ王を人質として拘束しました。それが発端で乱闘となり、クックは他の四名の水兵と共に殺されてしまったのです。五十歳でした。自業自得の、哀れな最後といっていいでしょう。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

石原莞爾平和思想研究会 更新情報

石原莞爾平和思想研究会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング