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石原莞爾平和思想研究会コミュの田中義一内閣へ

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日露開戦、軍隊教育や在郷軍人会創立への努力への、田中義一の活躍には目覚しいものがあり、さらにシベリヤ出兵問題で大いにその政治的手腕を発揮した結果、田中義一の陸軍内での地位は揺ぎ無いものとなりました。大正7年には原内閣の陸相に抜擢され、その後山本権兵衛内閣のときにもう一度陸相を勤め、軍事参議官となり、その政治的手腕を買われて政友会の総裁として迎え入れられ、2年後には政権を牛耳る内閣総理大臣になりました。田中義一は、望みどおり頂点を極めた訳ですが、それには様々な要素が作用したのです。

第一に、田中義一は信念の人であり、こうと思えば必ずやり遂げる行動の人でした。加えて、情熱的な弁舌、豪胆さ、負けじ魂、野心、親分気質と指導力などが挙げられます。田中義一は政治家であり、人心をつかむ天才であったと言います。田中義一には有力な支持者が背後に群がっていました。山縣有朋・乃木希典・桂太郎・寺内正毅・大隈重信・井上馨など。大隈重信を除いてすべての人が、同郷の先輩でした。

田中義一は後輩にも受けがよく、松岡洋石をはじめ、山本条太朗・森恪・久原房之助らのほか、陸軍には数多くの腹心がいました。後輩たちは、田中義一の強烈な性格からして様々な影響をうけました。石原莞爾もその一人でした。桂太郎・寺内正毅・山縣有朋らが次々と他界して、田中義一は強力な支持者達を失うことになりましたが、同時に 長州派閥の長として陸軍内で権力の座にのしあがる好機が到来したのです。

こうした野心をもつ田中義一の前に大きく立ち塞がったのが、鹿児島県出身で、陸軍では田中義一の先輩にあたる上原勇作でした。両者の対決は凄まじいものがありました。なかでも、清浦内閣の陸相問題は両者のいがみ合いを決定的なものにしました。田中義一は、山縣に原内閣の陸相として推薦されて以来、山縣の信頼もあって、陸相の後継者は自分が選ぶものと自任していました。

現に、原内閣の後、高橋是清内閣、加藤友三郎内閣の陸相を勤めた山梨半造は田中義一が選んだものでした。清浦内閣のときも、田中義一は同様に自分が候補者を推薦するものと思っていたのですが、山縣亡きあと、上原は参謀総長も勤めた自分が陸軍の最長老であると任じ、彼の腹心、福田雅太朗大将を推したのです。田中は上原――福田の動きを牽制するため、強引に宇垣一成中将を陸相にしてしまいました。上原と福田は激昂し、田中義一に陸軍を辞任せよと迫り、陸相となった宇垣一成にも、田中義一を予備役にまわすよう、提議していたのです。

その頃、政友会にも複雑な問題が持ち上がっていました。原敬という強力な指導者を失った党は派閥闘争にあけくれていました。原の後継者としては、原内閣当時の内相、床次竹二郎、蔵相、高橋是清、農商務相、山本達雄らが候補に上っていたが、高橋が組閣の大命をうけ政友会の総裁に就任した結果、床次や山本との対立が激化したのです。こうした政友会の内紛も一因していたのです。

折角、政党内閣時代が到来したと、大正時代の民が喜んだのも束の間、政権はふたたび加藤友三郎の率いる軍閥の手におちた結果、高橋は党内外からの批判をうけることになり、ついに到来した清浦内閣を支持するか否かの問題で、政友会は大分裂をきたし、山本、床次らは脱党して、新しく政友本党を形成したのです。分裂後の政友会は、そのライバル憲政会との対立もあり、高橋も総裁辞任の意向をもらすようになったのです。

政友会が新総裁には、強大な指導力、政治的手腕を具備した人、その上、ネーム・バリューがあり、新しい政友会のカラーに合致した人、というのが条件でした。党内で田中義一運動が進展し、陸軍にいづらくなっていた田中義一は、政治的飛躍を期待して、総裁の椅子に納まったのです。若槻憲政会内閣の幣原外交が「軟弱外交」との世論の厳しい批判をうけ、おりから起こった金融恐慌の収拾がつかず、総辞職した結果、第二党としての政友総裁、田中義一が組閣の大命を拝し、ここに田中内閣が成立したのです。ときに田中義一は、63歳でした。

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