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石原莞爾平和思想研究会コミュの大川周明と石原莞爾

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大川周明と石原莞爾
大川周明は、明治19年12月6日、山形県飽海郡西荒瀬村大字藤塚字元和里125番地に、医師大川周賢と多代女の長男として誕生した。大川家は代々医師を家業とし、周明の祖父の代まで、町医者としては最高の待遇で鶴岡に居住していました。大川周明は石原莞爾より3歳年上で明治34年に、石原莞爾が庄内中学校へ入学した時には、同校の3年生でしたが、翌年、石原莞爾が仙台の陸軍地方幼年学校へ転じました。石原莞爾は中央幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校と軍一筋に生きたのに対して、大川周明は第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学を卒業後、儒教的キリスト教協会の幹部として、宗教家の道を歩んで行きました。

大正7年の米騒動勃発は、大川周明の人生を大きく転換させました。全国に燃え広がる、打ち壊しや焼き討ちの惨状を目のあたりにして、大川周明は国家改造が急務であることを痛感し、翌年8月1日、猶存社を結成した。猶存社は、北一輝・大川周明・満川亀太郎を三位一体とし、北の国家改造案原理大綱を改革の指針として、国家改造運動を始めたが、大正12年には内部対立から、解散となりましたが、大正14年に、大川周明を盟主として行地社が設立され、その活動を引き継ぎました。

行地社の活動で注目すべき点は、学生と軍人が国家改造の中心勢力をなすと見て、各地の大学、高校に国家主義学生団体を組織する一方、軍に対して働きかけた事です。行地社の流れをくんで、東京帝国大学日の会、早稲田大学潮の会、拓殖大学魂の会、第五高等学校東光会、京都帝国大学猶興学会などの学生団体が相次いで結成され、伊東六十次郎、片岡気介、江藤夏雄、星子敏雄、井上実など、後に満州で活躍する青年活動分子を輩出した。

大川周明の対軍工作は、大正9年に陸軍省新聞班を訪ねて以後、進展していきました。行地社を通じて、積極的に軍人との親睦を図り、定例会や懇談会に参謀本部の将校を招いています。板垣征四郎は、大正15年10月に、行地社で「最近の支那事情」について、スピーチを行っています。同年12月23日には、板垣征四郎の呼びかけで、大川周明は九段の偕行社で陸軍の中堅将校と会合し、満州独立問題を討議しました。(偕行社は現在でも石原莞爾平和思想研究会の定例会や懇親会などで利用しています)

参加した軍人は、板垣征四郎、永田鉄山、東条英機、阿南惟幾ほか10数名です。大川周明はその席で、陸軍の力によって満州を独立させるべきだと主張した。この日の会合が、満州独立問題が軍部の中で公然と論議されています。大川周明によれば、世界は今や超大国の時代に入ろうとしており、日本が今後独立国家として生き残っていくためには、自給自足できるだけの経済領域を確保する必要がある。そのためには、日本は満蒙を取り入れた大経済単位を形成し、経済組織を革新しなければならない。大川周明は軍内に右のような国家改造思想を注入し、同志を獲得するために、盛んに講演活動を繰り広げました。昭和2年1月25日に、参謀本部で講演を行い、板垣と大川は無二の親友となり、教育総監部でも講演を試み、陸軍士官学校の中華民国学生に対しても、国史概論を講じています。

石原莞爾は昭和4年8月に行地社の機関誌月間日本の誌友となりました。石原莞爾は大川周明の主宰する満鉄東亜経済調査局の能力を必要としたが、民間右翼との提携に極めて慎重でした。満蒙問題の解決をめざす石原莞爾は、国内改造を優先する大川周明に引きずられるのを警戒していました。昭和6年1月27日の石原莞爾の日記に、「大川一派との提携慎重なる研究を要す」と書いています。五・一五事件後、石原は大川を罵倒しています。

「世間ズレした右翼のゴロツキ共が、国体論や内容のない革新論をふりまわし、自分らには沢山の同志がいるなどとホラを吹くとびっくりして大先生のように思いこんでしまうのだ。革新屋を見ろ、口に国体論を唱え、独りとして忠誠心などあるものか。忠誠心があるのなら、何故に天皇の軍を毒するか、何故に勅論によって狎治に拘わらず瓩箸諭しになっている政治圏外にあるべき軍人を、自己の行動に引き入れようとするのか。軍人で政治に手を出すことのできる者は陸軍大臣と同次官のみである。軍人に政治ができてたまるものか。軍人が政治に手を出したければ、軍人をやめて丸腰になってやれ。軍を毒した元凶は大川周明である。大川の国体論など一顧にも値しない」。

石原莞爾は軍をこよなく愛し、軍への外部からの干渉や軍の統制の乱れを嫌いましたので大川周明を敬遠した理由でしょう。しかし、石原莞爾と板垣征四郎は、大川周明と手を結ひます。昭和6年5月、大川周明は板垣征四郎や朝鮮軍参謀神田正種と会見し、同年8月には、満川亀太郎に、近く満州に一大事件が起こると確信をもって予言しています。大川周明は既に同年3月、陸相宇垣一成を首相とする軍部内閣樹立をめざして、クーデター未遂事件を起こしているが、満州事変勃発後、再度クーデターを企てました。

石原莞爾と大川周明、この両雄が親しく語り合うことが出来たのは、共に失脚し影響力を失ってからでした。昭和12年12月、河本大作の斡旋によって、新京で2人の会見が実現します。当時、石原莞爾は支那事変の拡大を阻止しえず、参謀本部第一部長から関東軍参謀副長へと更迭されたばかりでした。大川周明も五・一五事件に連座し、保釈出所中の身で、支那事変の早期解決を図るために、新京に飛来したのです。

大川周明は国民政府の首都南京を陥落させると、中国側を硬化させ、戦争を長期化させる恐れがあると考え、日本軍の南京入城を何とか阻止しようと画策していたと言われています。この時、両者の間には意見の対立もなく、和やかに会議を終えました。昭和17年6月1日夜には、石原莞爾は大川周明の母多代女の喜寿を祝って、酒田の大川宅を訪れ、大川周明と歓談したと言います。その後、昭和18年に至って、2人は真の同志となるのです。

6月10日に石原莞爾平和思想研究会の総会が開催されました。事務所費の支出が多いためボランティアでやって頂きたいと提案したところ古参の方の激しい反対があり、副会長の辞任に伴い事務長も一緒に辞任して「会長ひとりでやらせてみればいいのだ。一切何もするな」と副会長が発言した。顧問の野村さんから「私は先が短い石原莞爾を知る人はいなくなった。会長の仲良しクラブならば終刊にするべきだ。会長がひとりで会を運営できるわけがない」と厳しい意見が出された。会計幹事や同志の中からは「後世に石原思想を継承するためにも必要だ」や「会費を支払っていただいている方に失礼だ」という意見が出たがタイムリミットとなり、この件に関して会長一任となった。さて、同志の皆様、忌憚のない意見を頂ければ幸いです。

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