ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

石原莞爾平和思想研究会コミュの庄内の志士たち

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
昭和24年8月13日、大川周明は石原莞爾の危篤の報を聞き、山形の西山をお見舞いに行きました。石原莞爾は大川周明の来訪を喜び、穏やかな笑いながら世界と日本の将来の予測について語り合いました。大川周明は、病気に障りはしないかと心配しながら石原莞爾の一言一句に耳を傾けました。これが2人の最後の会見でした。石原莞爾は2日後の8月15日に亡くなりました。

戦後大川周明は、日本の為に是非生きていて欲しかった人物として、第一に石原莞爾の名前を挙げています。石原莞爾と大川周明には、同郷出身者として、類似点が存在します。両者とも比較的早く庄内を離れている点です。石原は13才で仙台の幼年学校へ、大川は17才で熊本の第五学校へと進学しました。石原莞爾は父の仕事の関係で、温海小学校(明治27年入学)、狩川小学校(明治30年転入)、藤島小学校(明治32年転入)、庄内中学校(明治34年入学)と山形県下を転々としていました。

石原家が代々仕えた酒井家庄内藩は、戊戌戦争で幕府側についた為、朝敵とされ、庄内藩出身者は、明治政府の要職から締め出されました。そこで、「御家禄派」とよばれた旧藩士は、維新後も藩主酒井家との主従関係を堅持し、新政府を拒絶しました。それは庄内の孤立主義は、若者の活躍の場を奪い去る結果になり、石原莞爾は、石川正俊の『庄内風土記』に寄せた序文のなかで、「明治維新に立遅れて封建を清算仕切れなかった庄内が、昭和維新を前にして、今こそ根本的に自らを検討反省すべき」と、御家禄派の庄内の頑な態度を批判しています。

石原莞爾は、他の旧藩士の子弟と異なって、酒井家へ挨拶にも上がらず、満州事変の功を称えて、酒井伯爵が石原莞爾に太刀を与えようとした時も、それを謝絶したと言われています。大正9年、石原莞爾は漢口から妻・ていに、「郷里は私に余り親しみがないのです」と書き送っていますが、東条の弾圧によって京都を追われた時、石原莞爾の帰るべき場所は、郷里しかなかったのです。

石原も大川も共アジアに強い関心を向けています。石原莞爾は、日露戦争以前、仙台幼年学校在学中から、「支那問題の研究者」でした。「日本は明治維新によってこれだけ立派になったけれど支那はだめだ、何卒支那が成就し、日本と同様に発達し、手を携へてゆき度いと希った」と、後年石原莞爾は当時の気持ちを語っています。朝鮮守備隊時代、辛亥革命成功の報を聞き、兵とともに山に登り、彼が中国革命万歳と叫んだという話もあります。

大川周明は、大正2年夏、「新インド」を読み、英国治下のインドの悲惨とインドに於ける英国の不義を知り、白人の苛酷なアジア植民地支配への憤りから、やがて「復興亜細亜を生命とする一戦士」へと変身を遂げるのです。新政府の政治機構から疎外されたため、庄内地方には、アジア主義運動による志士の系譜が存在するといわれています。大川周明の父周賢が師事した、酒田の医師伊東清基の息子には、黒龍会結成に参加した伊東知也がおり、石原莞爾の士官学校の同期生で、同郷の友人にも、満蒙独立運動に参加し、戦死した斉藤元宏という人物がいます。こうした庄内の流れを汲む志士たちがいたのです。

6月10日に石原莞爾平和思想研究会の総会が開催されました。事務所費の支出が多いためボランティアでやって頂きたいと提案したところ古参の方の激しい反対があり、副会長の辞任に伴い事務長も一緒に辞任して「会長ひとりでやらせてみればいいのだ。一切何もするな」と副会長が発言した。顧問の野村さんから「私は先が短い石原莞爾を知る人はいなくなった。会長の仲良しクラブならば終刊にするべきだ。会長がひとりで会を運営できるわけがない」と厳しい意見が出された。会計幹事や同志の中からは「後世に石原思想を継承するためにも必要だ」や「会費を支払っていただいている方に失礼だ」という意見が出たがタイムリミットとなり、この件に関して会長一任となった。さて、同志の皆様、忌憚のない意見を頂ければ幸いです。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

石原莞爾平和思想研究会 更新情報

石原莞爾平和思想研究会のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング