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石原莞爾平和思想研究会コミュの満州事変と東京裁判の石原莞爾

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昭和23年11月4日、東京裁判の判決が言い渡された。A級戦犯として起訴された28名のうち、7人が死刑判決を受け処刑された。その中の板垣征四郎と土肥原賢二の2名は、満州事変において中心的役割を果たした人物だった。しかし、満州事変を立案した人物、石原莞爾の名前はなかった。

石原莞爾は、満州事変当時、関東軍作戦主任参謀で、高級参謀であった板垣征四郎とは盟友だった。満州合衆国を建国させるという思案も、そのための具体的な作戦計画を立案したのも石原莞爾であったのだから、石原莞爾の名前が戦犯名簿から外されているのは石原にとっても不思議なことだった。

前年の昭和22年5月2日、酒田商工会議所を臨時の法廷として、極東軍事裁判の公判が行われた。石原莞爾は「満州事変の中心は、すべて自分にある。自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」と言った。そして法廷で質問に立った検事や、取材に訪れた外国人記者などをやり込めた。

今大戦最大の戦犯は、「無差別空襲によって非戦闘員を大量虐殺した、アメリカ大統領のトルーマンだ」という発言は、よく知られている。また、「日本の戦争責任を日清、日露戦争までさかのぼって調べる」と言われると、石原莞爾は次のように言う「それではペリーを呼んで来い、日本は徳川鎖国時代で、どこの国とも付き合いたくないと言って、堅く外交通商の門戸を閉ざしていた。」

「それをペリーが黒船でやってきて、門戸開放、通商交易を迫った。もし実行しなければ、大砲をぶっ放すと脅迫した。徳川政権は、結局米国の脅迫外交に屈して開国を決定し、列国と外交通商関係を結んだ。外国と付き合ってみると例外なく侵略主義の恐ろしい国だということを知らされた。」

「それから貴国らを大先生として、日本は泥棒のような侵略主義を習い覚えたのだ。いわば貴国らの弟子である。もし日清、日露戦争が悪いというならばペリーを証人としてあの世から連れてくるのだな」と帝国主義の歴史をユーモアなど交えながら語り、米国への批判を行なったのだ。短い言葉ながら本質をよくとらえている。

なぜ極東軍事裁判が、酒田市において行なわれたかというと、石原莞爾を東京で訊問すれば、東京裁判と連合軍側の権威の失墜を招くことを恐れがあったからだ。酒田法廷に出廷する石原莞爾をリヤカーで曳いた側近である私の父が当時の状況をこう語っていた。歴史の本質的な部分を洞察していて興味深いところだ。
それに対して、「放火犯の消火作業」だとするテレビでの佐高信先生の批判があった。この批判については後日、ご本人と二人で食事をした際に、佐高先生の口から「ちょっときついこと言っちゃって悪かった。石原莞爾平和思想研究会の方々は怒っていなかったな」と言っていた。

それでも、満州事変というものを放火して後で、日華事件拡大の消火に努めても、最初の罪が消えるわけではないという主張を繰り返した。私の父・仲條立一は海軍中佐である祖父・仲條公治がいた広島県呉市から原爆投下後、爆心地へ入って被曝した。

原爆が投下してから71年たった今年、米国のオバマ大統領が広島で被曝者と抱き合う姿を父が生きて目の当たりしていたらどう思ったことだろうか。父は幼少の頃から石原莞爾の身の回りの世話をして将軍をこよなく愛していた。

将軍に血を分けたのも火葬したのは父である。父は最期まで石原莞爾の生涯を語っていた、死の間際、父の心に去来したものは若き頃の石原莞爾将軍をリヤカーに乗せて東京裁判へ曳く姿だったかもしれない。

コメント(2)

コメント・・・うれしく、読ませていただきました。
タクさんの、お父さまたちに、ささえられ、幸せだっと思います
最後をみとられたのも、お父様でしたか・・・
>>[1] ありがとうございます。
親父は厳しかったです。晩年は石原莞爾を語っていました。
石原莞爾を仮想したのも父親です、

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