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日曜劇場 『南極大陸』コミュの【昭和時代の資料室です♪】

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昭和30年代前半…当時はまだ硬貨ではありませんでした。
管理人は(年齢バレバレですが…(^^;))
30年代前半の生まれですので当時の南極観測については
ほぼリアルタイムで経験しています(〃∇〃)てれっ♪

このトピックでは当時の時代背景の資料室として
私の記憶から画像などで説明を致します。

【昭和時代のお札】
画像 左から 壱円札 五拾円札 壱百円札 です。

募金のシーンで子供たちが硬貨で募金をしていましたが
当時はまだ硬貨は存在していません。

また、初期の5円玉は穴が開いていませんでした。
300円が一戸建ての家賃でした。
※風呂なし・4畳半・2畳の二階建ての場合
※場所 東京都千代田区神田和泉町一番地の場合 

コメント(18)

すみません。m(__)m

画像 壱拾円札 が掲載出来ませんでしたので
コメントに残しますo(^-^)o
【南極観測船 宗谷】については↓の「船の科学館」を
ご参照くださいませo(^-^)o
http://www.funenokagakukan.or.jp/sc_01/soya.html

※抜粋
"宗谷"は昭和13年耐氷型貨物船として建造され、太平洋戦争を経験。
その後は引楊船、灯台補給船となり、昭和31年11月からは日本初の
南極観測船として昭和37年4月まで、6次にわたる南極観測に
活躍しました。

その後昭和53年退役するまで海上保安庁の巡視船として活躍、
昭和54年5月から、船の科学館前に係留され永久保存展示されています。
>3みんさん

大きい50円玉…そうそうありましたよね〜o(^-^)o
おそらく同世代だと思います(〃∇〃)てれっ☆

時代考証からすればお札での募金なのでしょうが
さすがに現代では稀少貨幣となっていますので
ドラマの中では現代の貨幣での撮影となったのだと
推察致します♪(^_^)v。
【タロとジロについて】

昭和33年2月、極寒の地『南極』
第2次越冬隊が乗り込む南極観測船「宗谷」は、昭和基地の手前
140キロメートルの海上で氷に行く手を閉ざされ、
身動きがとれなかった宗谷は、例年にない厚い氷に閉じこめられたうえ、
スクリューを破損しており、越冬隊は、荒天のため基地への上陸も、
越冬も中止せざるをえない状況になってしまった。

隊員たちは、1ヶ月分の食料を犬たちに与え、「その1ヶ月の間に
自分たちか次の越冬隊が迎えにくる」との希望を胸に、50メートル程の
ロープに犬たちを鎖でつなぎ、万感の思いで基地を後にした。
こうして15頭の犬たちは、昭和基地に取り残されることになった。

氷の海を逃れ、隊員たちは、天候の回復と犬たちの救出を願い、
燃料や食料などを考えてぎりぎりまで洋上で待機していたが、
1週間経っても天候は全く回復せず、ついに南極を後にすることに
なってしまった。

犬たちが、無事に生き延びることを祈って…。

翌年、第3次南極観測隊を乗せ、嵐の海を無事に越えて昭和基地の
沖合百数十キロメートルいたどり着いていた「宗谷」に、
基地の様子を見に飛び立っていたヘリコプターから『2頭の犬』を
発見したという連絡が飛び込む。
15頭のうちタロとジロだけが、奇跡的に生きていたのだ。

零下40度を超える極寒の地『南極』で1年間生きていたことは、
すぐに日本に伝えられ、国内はもとより世界中の人々から感動と
賞賛の声が寄せられた。

-稚内市役所-HPより抜粋
http://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/main/gaiyo/tarojiro/

初めまして。

80代の伯父が、初期の頃の南極観測越冬隊員で、宗谷とふじの時に手(チョキ)2回行きました。

写真は伯父の防寒着、東京港船での見送り、宗谷前で祖父達と。

50年位前の写真を携帯で撮りましたので写りが悪く申し訳ありません。

【昭和時代の硬貨について】
明治時代から発行されていた本位貨幣の一円、二円、五円、
十円、二十円の旧金貨(それぞれ額面の2倍に通用)と
五円、十円、二十円の新金貨は1988年3月31日限りで廃止になり、
名実ともに管理通貨制度に移行した。

したがって、現在の日本の法律上の貨幣とは、
1948年(昭和23年)以降に発行された五円硬貨、
1951年(昭和26年)以降の十円硬貨、
1955年(昭和30年)以降の一円硬貨と五十円硬貨、
1957年(昭和32年)以降の百円硬貨、
1982年(昭和57年)以降の五百円硬貨と、
1964年(昭和39年)以降に記念のために発行された
千円硬貨、五千円硬貨、一万円硬貨、五万円硬貨、
十万円硬貨を指します。

-Wiki-より抜粋
>6Bettyさん

はじめましてo(^-^)o
貴重なお写真をどうもありがとうございますm(__)m

いやいやいやぁ〜懐かしくて涙が…。

ここは「資料室」のトピックですが…
当時の日本が「南極観測」に行くなどという事は
子供の私には「夢のまた夢」の出来事でした!

今、お写真を拝見致しまして…
改めて当時の記憶が鮮明に蘇ります!♪

ドラマのテーマではありませんが…
今こそ「日本」という国の誇りを持って生きていたい!

あの当時に子供たちが「夢見た未来・輝く未来」を
今の私たちは(大人は)来世の子供たちに
「夢」として、「輝く未来」として残していけるのか?
本当に自問自答の日々です。

私個人的には、大人である私たちがまず
「夢」を見て…「輝く未来」を信じて努力すべき…と
そう考えています♪(^_^)v。

あ!「資料トピック」で熱く語ってしましました…(^^;)
↑本来は「雑談トピック」ですね。
トピ違いご容赦くださいませm(__)m
来週までに「南極観測:越冬隊」についての資料を
探しておきます。m(__)m

様々な化学が、技術が、進歩した現代では
想像もつかないような過酷な「越冬」だったのだろうと
否、想像を絶するような「越冬」だったのであろう…と
いう事だけは想像できます…(^^;)(←何言いたいのか 笑)
> ニャン次郎さん レスをありがとうございました。

懐かしくて涙を…とおっしゃっていただいたら、伯父達も感動すると思いますexclamationexclamation

本当にありがとうございますお願い

番組中の「もはや戦後ではないexclamation」が印象的でした。

現在は医療事情等が違うと思いますが、当時の観測隊員のかたは、大病をされたかたが大変多いです病院

そのため、子供ながら南極の生活は過酷なんだなあって思っていました。
■軍人将棋■※↓Wikiをご参照くださいませ。m(__)m
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BA%BA%E5%B0%86%E6%A3%8B

兄・私・弟と3人で夢中になって遊んだ記憶があります…(^^;)
■黄金バッド■


※私は「紙芝居」の黄金バッド世代です…(^^;)
■昭和時代の家電製品:三種の神器■
その1.洗濯機について

私の子供時代にはまだ金たらいに洗濯板でゴシゴシと
手洗いをしていました。
この洗濯は時間もかかり、冬場は水で洗うのがとても辛く
手にはあかぎれが出来るのが当たり前でした。

その重労働である洗濯から女性の負担を一気に軽減したのが
「電気洗濯機」でした♪(^_^)v。

私は資料写真としたローラー式脱水機付き洗濯機で
家族の洗濯物を洗濯した記憶があります…(^^;)

という訳で、まずは「電気洗濯機」について
以下に参考資料を提供しますo(^-^)o

【三洋 洗濯機事業の歴史】
http://panasonic.co.jp/sanyo/cc/sw50th/history/index.html
その2.テレビ受像機について

【テレビ受像機】については以下↓をご参照くださいませ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E5%8F%97%E5%83%8F%E6%A9%9F

■関連資料■
・1953年(昭和28年)1月-シャープが国産第一号の
テレビTV3-14Tを発売[。価格は175000円。
・1953年(昭和28年)8月28日-NTV 日本テレビ放送網、
テレビ放送開始(民放での初のテレビ放送の開始)。

またテレビ画面が裏返しに映る、やはり日本初の
放送事故が発生した。
主な番組は大相撲、プロレス、プロ野球などのスポーツ中継や、
記録映画など。

しかし、白米10kgが680円、銭湯の入浴料が15円程度であった
当時、テレビ受像機の価格が非常に高価(20万〜30万円程度)で
一般人には買えないため、多くの大衆は繁華街や主要駅などに
設置された街頭テレビや、土地の名士などの一部の富裕世帯宅、
喫茶店、そば屋などが客寄せに設置したテレビを見ていた。


そうですね…我が家に白黒テレビがきたのは1962年でした!♪
その白黒ブラウン管テレビで、東京オリンピックを観た記憶が
あります(〃∇〃)てれっ☆

少し話がそれますが…東京オリンピック開催の際に
空に五色の輪を描いたブルーインパルスの曲芸飛行を
肉眼で観ていて…家に入れば同じ風景が白黒テレビで
観られる事に子供ながらにとても不思議に思っていました!(^^;)

家を出て空を見上げながら、その直後にテレビで確認して…
家を出たり入ったりした記憶があります(〃∇〃)てれっ☆
とっても高価で貴重品だという事は感じていました!♪
【テレビの歴史】については以下↓をご参照くださいませ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93#.E3.83.86.E3.83.AC.E3.83.93.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2
最後の神器は「冷蔵庫」です♪(^_^)v。

我が家に木製の「冷蔵庫」がきたのは
私が小学校にあがるのとほぼ同時だったか…
その直前だった事を覚えています(///∇//)テレテレ♪

資料写真は復刻製品ですが、ほぼこれと同型です。
「氷屋さん」がリヤカーで氷を売りに来るので
それを一貫目購入して、上段の棚に入れます。

食品は下段の扉の中に入れて「冷蔵保存」となります。
でも氷が溶けたらそこでまた氷を補給しなければならないので
現代のような万能な機器ではなかったと思います。

それでも、真夏の炎天下に食品を腐敗させずに
「冷蔵保存」出来るという事は、子供心にも凄い!と
思っていました〜♪(^0^)/
「木製冷蔵庫」の資料文献です。

製冷蔵庫を昭和初年から製造している、
埼玉県・川越市の、(有)田嶋木工所が、復刻生産を始めた
木製冷蔵庫です。

画像の冷蔵庫は、田嶋式冷蔵庫の三号型です。
ヒノキ材を使用しています。内装はステンレスで衛生的です。

氷を上部に入れて、下段に冷やしたい品物を入れます。
魚介類・肉類などを氷の冷気で冷やすために、適度の湿気で
乾燥せず、食物のうまみが熟成されます。
食物から出る臭いなどは、氷が溶けた水に吸収され、冷蔵庫の
下から外部に排出されます。

最近、寿司店、天麩羅店などで木製冷蔵庫が見直されています。
高級家具のように、見せる木製冷蔵庫として店内に、
「作り付け」で導入がすすんでいます。

経済発展が著しい海外、特に中国、香港の寿司店から、
氷の冷蔵庫が注目され、問い合わせが入るようになりました。

昭和30年代から残る金属銘盤。真鍮製で風格があります。
蝶番やハンドルといった金具は、当時の製品を入手するのに
苦労しています。

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