「くまちゃん！」
俺が声をかけるよりも早く、優美の声が廊下に響いた。あの若い刑事と、望も一緒だった。
「唐澤さん、この子ら、ちょうど玄関のところでバッタリと……」
優美が走り出そうとするのを望が止める。優美たち三人が少し早足気味にこちらへ近づいてくる間、なんだか背後からいろんな視線を感じるこの緊張感。それでもさっきまでに比べたら気持ちはずっと楽だった。
「なんで出ないのよっ！」
俺のすぐ近くまで来た優美の第一声はそれだった。目は赤く腫れ、その表情には怒りも悲しみも溶け込んでいる。
「すまんね。検査中は私が携帯を預かっていて、今さっき返したところなんだ」
さすが唐澤刑事ナイスフォロー！
「検査？」
優美は俺の左腕の包帯に今ようやく気付いたようで、包帯が巻かれずに済んだ左手の甲にこわごわと触れた。
「わ、どうしたの？ ……怪我？」
優美が俺の顔を覗き込む。その顔が近すぎて、ちょっと恥ずかしくて……心持ち頭を引いた。そのとき視界に入った山瀬の視線が痛い。
「……くまちゃん、顔が疲れているわ……検査……大丈夫だったの？」
「あ、うん」
俺たちのことを見ているのは山瀬だけじゃない。顔見知りの人たちばかりか大きな透明の盾を持っている警察の皆さんまでこの場に居る人全員。うわー、けっこう恥ずかしいなこれ。
「大丈夫よ」
明里ねーちゃんのその一言がけっこうな救い。皆の意識が俺から離れたこのタイミング、有効活用しない手はない。優美と望の目を見てから明里ねーちゃんの方向を指差す……けど、こいつら全く気付いてねぇ。
「よかった。くまちゃん、大丈夫、なのね」
その一言に胸の奥が締めつけられる。俺自身も「大丈夫」という言葉を言いたかったけれど、出てこなかった。赤城のあの腕が、そしてさっき襲ってきたあいつの姿が脳裏に浮かんで。
「……ごめんな、優美……たくさんのことがありすぎて……」
「私も、だよ」
優美は俺の手のひらを強く握りしめた。その手を俺も握り返そうと右手を重ねたその瞬間、優美がとっさに俺の手を放した。怒っているのか、それとも優美も照れたのか。どんな気持ちかを探ろうと優美の顔を見たら……哀しみの色がさっきよりも濃くなっているようにも感じた。そういえば今日のメイクはいつもと違ってるような……優美がよく使う表現を借りると「らしくない」「隙がある」状態。俺以上に疲れているんじゃないかって、そんな印象を受けるほど。
「……くまちゃん」
優美はすぐに両手で俺の両手をぎゅっと握り直す。でもそれは余計にさっきの違和感を増幅させた。しかもその違和感はまたあの寒気のように、じわじわと膨らんでゆく。
「……さむいですぅ……」
青戸さんの声で、優美に集中して向いていた俺の感覚が周囲全てに対して広がった。今感じている違和感……違う、優美じゃない。この異様な寒さ……。背中に悪寒が走る。それを感じたのは俺だけじゃないみたいで、金属の触れ合う音が俺たちを真ん中に廊下の前後を塞ぐ。幸い、この廊下の窓は遠い……けれど、尋常じゃないこの寒気……あのバケモノが近くに居る気がしてならない。
……チ……ゲロ…………
なんだ？ 今、何か聞こえた。声のようなものが頭の中に直接響いたような？
もう一度、と耳を澄ましたその時、ゴオゴオと吹きすさぶ風の音が強くなった。それも頭の上から……ちょ、頭の上？ 反射的に見上げた天井がぼんやりと霞んでいるような……って、まさかアイツなのか？
「ぐっ！」
唐澤刑事の苦しそうな声に振り向くと、天井から降りてきた霞の色がだんだん濃くなってゆき腕の形になっていっている。そして唐澤刑事の首を絞め……わわわ、ヤバイ！
俺は履いていた靴を脱ぐとその靴でバケモノの靄のような腕へと打ち付けた……のに、その靴がぶつかったと思った瞬間、ぐっと一瞬だけ感じた手ごたえが、文字通り霧散した。
緑と紫の混ざった靄のような腕は薄くなり、そしてまた天井付近でだんだんと人の形にまとまり始める。唐澤刑事は自分の首をさすりながらゲホゲホと咳をしているが、どうやら無事なようだ。自分が攻撃している間だけ当たり判定があるってやつか？
俺の読みが正しいかどうかは分からない。でも獣医さんの一人が撃った麻酔銃は、まだ天井の近くを漂っている人型の靄をいとも簡単に突き抜けた。
……エデ……ナイ……チ……ダネル…………
また何か聞こえた。まだ途切れ途切れだけど、さっきよりもはっきりと響いている……ってどこから？ 自分の頭の中にラジオのチューニングつまみがあって、それを徐々に合わせていっているような……鳥肌が立つ。これは寒さにではなく何かもっと前向きな力に感じる……そう、武者震いにも似て。
あれ……俺、この声を聞いたことがある……ような？
「！！！」
その時、誰かに呼ばれた気がした。
（続く）
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