「おい。赤城……居るのか？」
返事はない。
俺の後ろで山瀬と青戸さんも口々に「涼しいね」と、するとやっぱり本当に涼しいんだな。俺だけが感じているとかじゃなく。
ノドやられるから寝るときは冷房消すって言ってた赤城だ。すると今慌てて着替えているとこか？
「着替え中なら、大サービス！」と中に聞こえるように声を出しながら、その開け慣れたサッシに手をかけた。
ゾクリ、と、した。
サッシが、冷えていたんだ。
冷房をずっとつけ続けていたら確かにこのくらいの冷たさにはなる。
でも。
まるで……この扉は、冷蔵庫の内側にあるみたいに……やばいかもと心のどこかで感じた。
でも遅かった。
俺の手はそのサッシをわずかに開いてしまっていたんだ。
誰かが、うつぶせに寝ていた。
その誰かの手だけが、異様に、目をひきつけた。
背中を冷たいものが駆け抜ける。いや、走り去らずにそこに居座る。
手。
手には何かキラキラとした赤いものが、びっしりとついていた。
こびりつく、って具合に。
まるでルビーがモザイク状にはめ込まれた、中世ヨーロッパの騎士がつけていそうな豪華な籠手のようだった。
キラキラと赤く輝く、そのいくつもの結晶。
あれ？
……手？
手だっけ？ これ？
それが「血」なんじゃないかと、気付いたのは……少ししてから、だった。
無意識に、隣に居た山瀬の頭を抱きこむ。その脇から頭をひょこりと出そうとする青戸さんの頭も。
「二人とも、目を閉じて！」
時間がゆっくりと感じられる。
その長くなった分、スキマから漏れてくる冷気が俺たちを、より冷たく凍えさせているように感じられた。
遠くに、人の話す声が聞こえる。
パトカーのサイレンの音も。
「皮膚を何度となくかきむしったようだな」
「じゃあ、そこに血がにじんで……」
「ああ、恐らく。だが、こんなのは初めてみるよ」
「……不謹慎だけど。綺麗だな」
「そこ、口をつぐめ！ 関係者がまだ居るのだぞ！」
遠くに。
そして、近くに。
全てのことが、自分とはかけ離れた世界の中のことのよう。
「大丈夫かい？」
ちょっと熱いくらいの缶コーヒーが手渡される。
その暖かさに少しだけ、心が溶けた。
「通報してくれたのは君だね」
「……はい」
「おそらく今朝がた、だそうだ」
その痩せた中年刑事は、パトカーの後部座席の、俺が座っている隣に静かに座った。
「……そう、ですか」
「冷房がつけっぱなしだったから、正確な時間はズレこむと思うが」
そうなんですか。
その言葉が、頭の中で無機質にこだまする。
そうなんですか。
頭の中でそうつぶやくけれど、何ひとつとして記憶の中に格納されない。
遠い、遠い、テレビかラジオで流れているニュースのように、リアリティが欠落した情報。
いや、そんなことはないんだ。
俺がそれを受け入れないだけ。
うちの「家族」のように、そこに居るのに、居ないのと同じように振舞っているだけ。
あえて、自分の世界へ入ることを拒んでいるんだ。
だってさ。
……赤城が、なんだぞ？
どうして、赤城が。
「ショックなのはわかるがこれも仕事なんだ。あのお嬢さんたちにはちょっと聞けない状況だからね、君が頼りなんだ。協力してくれるかい？」
協力？
俺がいまさら、赤城に何をしてやれるって？
「最後に彼と連絡を取り合ったのは、いつだか教えてほしいんだ」
赤城と、連絡……。
「昨日の夜中にメールしています……」
「メールか……返事は？」
「すぐに来ています。明日は遅刻するなよって」
遅刻。
遅刻しない赤城が。
その哀しみに呑まれそうになっていたとき、俺はようやく、刑事の言っていた「協力」の意味を理解した。
「あ、あの……殺人、なんですか？」
「人が居た形跡はない。が、今のところはなんとも言えない。現時点では動機が見つからないってのはあるが、状況が不自然すぎてね」
……状況。
あの、赤く輝く手が、脳裏に焼きついて離れない。
目を閉じただけで、瞼の裏が赤く煌めく。そして、その光景には妙な寒気がつきまとう。赤い、冷気。
コンコンコン！
若い警官が窓を叩いている。
「なんだ？」
中年の刑事が眉間にシワを寄せながら、パトカーの窓を開けた。
（続く）
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