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死生観を綴るコミュの死生観を綴る【言葉】

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あなたが思った【言葉】を綴ってください。

ご自分の日記などで書いたのを貼り付けでもいいです。

明け方に綴ると…本心がでやすいかも。

急かすものではないので、気が向いた時にどうぞ。

コメント(32)

アネモネの花言葉【期待】を元に。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=77247059&owner_id=681308
死を恐怖として強烈に意識していたのは幼い頃で
今は希望と思えてます。
できればWonderfulと思いながら死ねたらいいなと思います。
そしてできれば今度は大家族を築くような人生を
生きられたらいいななんて思います。
輪廻も来世も解らないけれど、天国でまぶしい光に出会える
とは信じてます。。。

眠れなくてお邪魔しました〜
避妊してても避妊具と共に生まれてくる人もいる。
人工的に妊娠させても生まれてこない人もいる。
大きな事故にあっても死なない人もいる。
小さな小石に躓いて死んでいく人もいる。
備えあれば憂いなし
運命に備えなどないように思う
物心ついた頃から、「死」という言葉を意識してた
「死」に気がつくことは「生」に気がつくことなんだってさ

「死」を意識すると大切なひと、もの、場所が自然と浮かぶ
ちゃんと自分もそれだけ大切なものを感じて生きているんだなって心が温かくなる
すごく回りくどい表現になってますが、一応死生観と言い張ってみます。
今の私には、これが精一杯です。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=225569581&owner_id=2018276

よろしければ見てください。
『死は生の完成』
まだ終われないから生きている。

ワカゾーの死生観ですけどw
私は死を恐れない
むしろ希望である‥

私の光となって未来を
輝かせている

だからこそ
この世の全てを恐れず
ポジティブに生きられる私がここにいる

鼓動の最後の一打ちまで私は生きたい‥

笑顔で死んでいきたい

たとえどんなに苦しくても痛くても‥


超新星と呼ばれる
星の最期のように
たとえその身が朽ち果てようとも‥

そこにはすでに
新しい命のエネルギーが存在している‥

私の後に続く
愛すべき子供達の人生がより輝きが増すように‥
たったひとつでも
何か残していけたら

それで生きた
証となるだろうから‥




『私は学者さんみたいに立派な言葉も理屈も知りません‥そこいらにいる平凡な頭の悪い主婦です精一杯今の気持ちを書いてみました‥。』
初めまして。しゅうと申します。コミュニティに参加するのは初めてなのでドキドキです。

今日は簡単な書き込みを。
★私は、ある事件に巻き込まれ死を覚悟したのが1回。
★スペインにて強盗団に襲われ首を絞められ臨死体験。                     (蘇生処置で戻ってきました)
★乳がんを告知され一年半後また再発しました。死について真剣に 考え身近に感じています。

数年前メキシコに半年ほど暮らし死生観のちがいやミイラにふれ
さらに死について、いっぱいあります!!
よろしくね。
                     
生は善、死は悪と言う考えが蔓延している。
死にたいという人間に、馬鹿な事を考えるな、と人は言う。
死は悪なのか?死を考える事は悪なのか?


それは、それとして・・・・・
死ぬなら、眠るように死にたい。

病気や、他人から死を強いられるより、
自分の意志で、だが、やわらかな着地で。
自らを傷つける事無く、眠りに着き、
眼を覚ませば虚無がある、と言うように。

この世に怨念もあこがれも無い。
この世もまた僕に対してもう何も求めないだろうし
何も罰を科さないだろう。

死を大げさに考えたくない。
静かに世界から忘れら去られる死が欲しい。




D・ボウイのスペース・オディティと言う曲は
宇宙空間に放り出された宇宙飛行士の
心を語っている。

管制塔と通信を絶ったのは
自らの所為なのか、機器の故障なのか・・・

Planet earth is blue and there's nothig I can do.



この一節が、ある意味僕の生死観かもしれません。
死生観については、何年も前からよく考えてはきていたんだけど、死について一つ自分の中で明確になった出来事を書かせてもらいます。


昨年、高校の友達が死んだ。
高校卒業以来あってなかった、てか死んでから会えなかった事が解った。

当時はあいつが死ぬとは微塵も思ってなかったし、おっさんになってともに酒を飲むことを夢みたものだった。
死を聞いた時は単純に悔しかった。
高校の時に互いの夢を語り合った事もあるし、あいつの将来にも期待していた。


ご家族にたくさん話を聞いたんだ。それでたくさん解ったし、考えた。


あいつが死んで、俺は考えさせられた。
ちょうど仕事に迷いをもっていた時だった、あいつは働きたくとも働けず、ベッドで家族に看病してもらって、思うように言葉を使うこともできず、六年も懸命に病気と戦い、大好きなサッカーをすることを夢みていた。
俺は?あいつと比べて何だ?ベッドで寝ていたあいつの方が自分の命を懸命に燃やし、毎日戦い続けているじゃないか!
あいつが生きたかった生を俺は無駄に過ごしているんじゃないか?なんて俺は非道い人間なんだと思った。


だから、俺は死が一個人にとっては無ではあるけど、無駄ではないと思う。俺は俺が生きている事にありがたいと思うし、生きたかったあいつにあの世で会ったときに誇れる自分で死ななきゃいけない。
だから、生きたかったあいつを知っている以上、まだ死ねない。
生きているありがたみ、健康でいられるありがたみ、その全てがあいつの死にはあった。
死んで何もなくなったけど、死ぬことで何かを残していった。
あいつはすごいと思った。立派な死だとも思う。

あいつには、お疲れ様とありがとうという言葉でお別れをしてきた。
死に際に、人は自分がはたして幸せだったのかを考える。

人生の大半が楽しく充実していたとして
彼の死に際がたまさか不幸のどん底にあった時、
彼は自分の人生を振り返り幸せだったと感じるだろうか?

心理学的には、俺の人生つまらなかったな・・と思うそうだ。
終わり良ければ全て良し・・・だ。


ある人が人生の頂点で自殺した。
残される者に対し、不都合が無い様にきちっと事務処理を行って。


死と言うものが、自らの人生に影響を与えるなら
「計画的自死」もあながち否定するものではないように思う。
ジャイアント馬場の死にすごく憧れを持ちます。

全身機能停止。

己の肉体を余すことなく使いきり、生をまっとうする。

しかも、自分が最後まで本気で取り組んできたプロレスを現役として
死ぬ。

すごく幸せな死にざまだったと思う。

そこにいたるまでは、いくつも大変な事が一杯あったと思う。
身体はボロボロだし、プロレスは人気が下がる一方だし。
でも、頑張った。

幸せに死にたいのなら、一生懸命生きろ。って体現しているんじゃないかと思う。

おれも満足して死にたい。から仕事も、仲間も、何だって頑張ろうと思う。


物心ついた頃から

帰る場所が 他にあるような気がしてならない。

そこが いわゆる天国なのか 地獄なのかは わからないが

とても 穏やかな場所に感じる。

死ぬ事が 決して恐らく恐い事ではなく

自分が本当に 帰りたい場所に帰るだけ。

その事に 気づいてから

死ぬ事が 恐くはなくなった。

死ぬことを恐れるということは決して忘れてはならない
その上でこの世には死に場所が溢れていることを自覚する
いつどこで死んでもおかしくない世界を自覚しなければならない

そして死ぬ為に生きるのではなく、
生きる為に今と言う刹那の連続を生きなければならない
いつ死んでもおかしくないのなら、今と言う刹那をどうしたいかを考える
今と言う刹那を最高のものへと昇華させたいのならば奮励努力せよ
今と言う刹那を永久に続けたいのならば心に刻みつけろ
今と言う刹那を遺したいのならば作り出せ

そして、
今と言う刹那を最高だと感じ、最高の刹那のままであり続けたいのならば死ね

何も考えずただ死を待つぐらいならば今すぐ死ね
無駄に生を貪るな

数瞬たりとも無駄にせず糧として自分を深化させていけ
そうしなければ、たかだか生きても100年程度の短い人生はあっという間に過ぎ去ってしまう
その為に、身近にある死を自覚し、死を恐れなければならない
死を恐れなくなった生ほど無価値なものはない
老衰で死にたいものだ。
ぼくたちは、死に向かい生きている。
ならば、一歩一歩踏みしめて向かおうではないかと常々思っている。
生まれた時から、死ぬことは決まっていて、時間は限られている。
ならば、やりたいこと、為すべきこと、やりきって、最期まで足掻き続けた結果に老衰があってほしい。
そして、ぼくの魂はきっと還るよ。
自分が踏みしめ歩き続けてきた大地に。
お墓に入れてくれるの、おおいに結構。
どうぞ、遺されたあなた方の心の場所として、ぼくの生きていた目印として、お墓に入れてください。
けれど、ぼくの魂は自然に還るよ。
ううん、ぼくの魂は自然に還りたいんだ。
ぼくは、石から生まれたわけじゃないから。
父と母を育んだ自然から生まれたのだから。
生まれた時から死が約束されているのなら、元いた場所へ還りたい。

なんか、死生観というより宗教観に近い気もするなぁ…。
まぁいいか。これがぼくの生き方で死に方だ。
目の前の事を精一杯する。運命を受け入れる。人と幸せを分かち合う。
初めまして。死生観を考えるとき、私にとって、とても参考になる本があります。
その本についての私の感想を下記します。
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『能の表現(その逆説の美学)』(増田正造著、中公新書)

昭和46年初版の『能の表現(その逆説の美学)』(増田正造著、中公新書)という本がある。私が再読している幾つかの本の一つである。

私は子供の頃より能面に惹かれていた。児童向きの東映チャンバラ映画には鬼の面などが、よく登場したからだ。そこで私は自然と能楽という不思議な世界にも惹かれていった。簡素極まる能管・大鼓・小鼓・太鼓、囃し方による音響世界は西洋の交響曲以上の迫力があることも知った。能楽の主人公は大半は霊であった。霊は私向きな存在だった。

そんなこんなで、私は掲題の本を何気なく読んだのであったが、私は此の本により能楽という詩劇の逆説に非常に驚いた。実に新鮮な驚きであった。この本は以下のように始まる。引用しよう。
--------
散るから花は美しい。散ることをふまえた文化と、散らすまいとつとめる文化と---。日本の西欧の文化の方向を、こう単純に対比してみる。前者を散るからこそ美しいという把握とするならば、後者はその美を永遠ならしめようとする努力する文化のタイプである。(後略)
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あるいは、こうも書いている。
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万物流転をただ詠嘆するのではなく、積極的な無常観としてとらえた『徒然草』の吉田兼好は時代的に言うと世阿弥の一世代先輩にあたる。自然観照に徹したこの中世人は、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは」と言い切った。彼は「咲きぬべきほどの梢(こずえ)」や「散りしおれたる庭」などにより深い味わいを主張し、うつろう無常の実相の中に美を感じとった。また雨にむかって月を恋い、家に引きこもって春のゆくえを思うというような、心で見る態度を強調した。
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此の吉田兼好の自然観照を世阿弥は前向きの態度として捉え能楽を発展させたと著者は書いている。 さらに著者は能楽の「逆説」を一つ一つ丁寧に説明していく。
それを箇条風に書いてみよう。

・一期一会の重視。
・動かぬことの重視とその強さ。
・舞台の簡素さが、あらゆる表現を可能にする。
・能面を無表情にすることにより無限表情が可能となった。
・死と老いの重視。特に死や老いの時点・視点から生や若さを見つめるという発想。
・特に老女の重視(『桧垣』など)
などなど・・・

いずれも現代から見れば、まさしく逆説ばかりである。
現代社会の深刻な矛盾・問題を能楽は700年以上も前に先どりしている観がある。
私が特に重視したいのは、老いや死に対する能楽の態度である。

中世の人々は老いや死は極く身近な問題だったかも知れない。
今日において、老いや死は、中世の人々とは別の文脈で深刻な問題となりつつある。
そういう意味でも能楽は単なる古典芸能ではない。700年の時を超えた今日的な芸能に私は思える。


おそらく今日の先鋭的な問題( 超高齢化社会の抱える諸問題 )に対する解答の重要なヒントは能楽の「逆説」にもあるようにも私は思う。
我々の大先達である鴎外と漱石の死生観について、私なりに考えてみました。
-----------------
死生観(漱石と鴎外)

夏目漱石の『硝子戸の中』を漱石の内面的な自伝とするならば、森鴎外の『妄想』は鴎外の内面的自伝と言えるかも知れない。

自伝というのが大げさなら、彼らの内面の一部の告白だと言い換えてもよい。いずれにせよ、それらのエッセーには彼らの死についての思いが語られている。

ここで語られている彼らの死についての思いも、真正面に論じられているものではなく、言わば余談として語られている。
***
余談であるにせよ、漱石や鴎外という巨人の言葉であるから、我々にとって彼らの思いには重みはある。

そして、この巨人たたちの死についての感想に或る共通点があるのは私には興味ぶかい。彼らの死の感想は恐らく日本人の死生観の本質を代弁しているように私には思える。
***
先ず漱石は『硝子戸の中』の8章で以下のように書いている。

『不愉快に充ちた人生をとぼとぼ辿りつゝある私は、自分の何時か一度到着しなければならない死といふ境地に就いて考えている。さうして其の死といふものを生よりも楽なものだとばかり信じてゐる。ある時はそれを人間として達し得る最高至高の状態だと思ふこともある。「死は生よりも尊い」』 と書き出している。

そして、その最高至高と思われる死へと踏み切れぬ理由として挙げていることは、この世で何千年と続いている『如何に苦しくとも生きるべきだ』という慣習だと言うのだ。
(正確には本書の該当章を読んで欲しい)

漱石の願望する死に抵触するものは、いわゆる宗教教義ではなく、単なる『生きることが先決だ』という慣習に過ぎないというのだ。

私流に漱石の死生観を言い換えると、我々は生に意義があるから生きているのでなく、単に慣習として、本能として生きているに過ぎない、ということになる。

そもそも、人間以外の他の生物は自身の生に意義をみつけて生きているのだろうか。そうではあるまい。無意識の本能に従って生きているに相違ない。

極論を云えば、地上に投げられた石が地面へと落下していくように。

人間もその例にもれない。漱石の死生観を突き詰めればそうなる。生きている、ということに対する漱石の苦悶は恐らく其処にあったのだろう。漱石の正直さは其処にあるように私は思う。

そのような漱石の苦悶があればこそ則天去私という境地へ行ったのかもしれない。

***
一方、鴎外は、西洋の『自我』というモノの自身の不在に、痛切に心の空虚を感じ、いわれもない寂しさを覚えると語り、『妄想』で自身の死について以下のように書いている。

『自分には単に我(われ)がなくなるというだけなら、(死は)苦痛とは思われない。ただ刃物で死んだら、その刹那に肉体の痛みを覚えるだろうと思い、病や薬で死んだら、それぞれの病症薬性に相応して、窒息するとか痙攣するとかいう苦しみを覚えるだろうと思うのである。自我がなくなるための苦痛はない。』

又こうも書いている。
『(自分が死んだら)二親がどんなに嘆くだろう。それから身近種々の人のことも思う。どんなにか嘆くだろうと思う』

鴎外は自分の死に対して懸念しているのは『自我の喪失』ではなく、自分の係累の嘆きであり、更に言えば死に伴う肉体的苦痛だけなのだ。そして

『自分は人生の下り坂を下っていく。そしてその下り果てたところが死だということを知っている』という、言わば乾ききった感想である。これはニヒリズムでもなければペシニズムでもない。冷徹な科学者の眼である。鴎外は以下のようにも言っている。

『私の心持をなんという言葉でいいあらわしたらよいかというと、resignationがよろしいようです。私は文芸ばかりではない。世の中のどの方面にもおいてもこの心持でいる。それでよその人が、私のことをさぞ苦痛しているだろうと思っているときに、私は存外平気なのです。もちろんresignationの状態というものは意気地のないものかも知れない。その辺は私のほうで別に弁解しようとは思いません。』

鴎外という人は、『人生の下り坂の果ての自身の死』についてもresignationという心持の乾いた眼で見つめていたようだ。

***
以上は私が鴎外と漱石の残した文章から見た彼らの死生観の一端だが、恐らく其の死生観には私自身のバイアスがかかっているだろうと思う。

つまり私の独断による偏見があることは承知の上で、私は
私なりに彼らの苦悩を読み取ることができる。

その苦悩は、彼らほど明晰でなくとも、私を含めて全ての日本人の底にある苦悩と通底していると思われる。

日本人が、それを明確に意識する、しないに関らず。
永井荷風の『墨東綺譚』の最後の文章の静謐さは、私には心に沁みとおるものがあります。
---------------
『花の散るが如く、葉の落るが如く、わたくしには親しかった彼の人々は一人一人相次いで逝ってしまった。わたくしも亦彼の人々と同じやうに、その後を追ふべき時の既に甚だしくおそくないことを知ってゐる。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃きに行かう。落葉はわたくしの庭と同じやうに、かの人々の墓をも埋め尽つくしてゐるであらう。』

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