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東北大震災支援・大阪コミュの東北大震災支援活動報告

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 「経 過」

 何から書き始めれば良いのか、迷うほどに沢山のことを書きたいと願っています。三十以上はあるでしょう。しかし、先に、全体像をつかんで頂くために、日時を追って経過の概略を書いておきたいと思います。

 <3月30日>(水)
★終日、寄せられた支援物資の仕分け作業。

 <3月31日>(木)
★ガソリン補給缶の手配と個人装備揃え。支援物資不足品買い足し。
★荷積み、出発24時。(若い人たちは、先発していた)

 <4月1日>(金)
★草津SAで仮眠…〜5:45
★守山SAでも仮眠…〜9:15
★多賀城着…24:00…既に、若者たちは就寝していたので、その足で前回ガソリン不足の為、行けなかった「石巻」に向かう。

 <4月2日>(土)
★途中、東松島市の外れ当りで靄に襲われる。視界10メートル程度。
★野蒜(のびる)着・午前2時。石巻には行かず、多賀城の駐車場に戻り、仮眠…〜5:40。
★若者らのキャンプ地へ。湯沸し、若者たちにお茶をふるまう。
★多賀城市役所へ…担当者と会い、打ち合わせ。被災住宅へ。現場を確認した上で、3人の若者を被災地案内。仙台港→七ケ浜→塩釜→松島→東松島→野蒜→石巻、と。途中、前回支援物資を届けた多賀城東小学校に立ち寄り、銀マットをお婆ちゃんたちに敷いてあげる。若者たちと共に。
★石巻市役所に赴き、ボランティア登録。3人の若者たちも。
★石巻ボランティアセンター(専修大学石巻キャンパス)へ…支援物資を降ろす。多賀城のキャンプ地に戻る。

 <4月3日>(日)
★周辺を散歩して歩く。5:30〜8:50…徒歩のため、どのようになっているのか、良く理解することが出来た。砂押川の浜側が津波にやられているが、砂押川からこちら(市役所側)は、地震の被害も、津波の被害も、一切感じられない。川を挟んで、天国と地獄に分かれている。
★若者ら3人と別れ、別行動…9:00
★支援物資を戸建住宅の津波被災者に届け歩く。
★桜木町で開かれている「フリーマーケット」に、残った支援物資を届ける。
★桜木町・八幡住宅でボランティア活動開始…樹に絡まった紙や布を取り除き。側溝の固まったヘドロの掘り上げ。〜16:30 キャンプ場に戻り、仮眠〜18:00。開いていたスーパーで、スポーツドリンクと焼酎を買い、埃まみれの顔を洗う。食欲なく、コーヒーを2、3杯と焼酎の湯割りを飲んで就寝。22:00。

 <4月4日>(月)
★起床…5:25。湯沸し、コーヒー飲。軽くパン類を食べる。
★隣りに駐車していた車の若者2人に声を掛ける。共に行動することになる。八幡住宅へ二人と向かう。現場を二人に見せる。
★昨日、石巻市役所から入っていた「屋根修理」の依頼で石巻に向かう。若者二人も、一緒に行きたい、と、同行。
★石巻市役所で、ご依頼の聾唖の人と挨拶。同行し、屋根を3人で補修。
★石巻で活動したいという若者二人を残し、多賀城・八幡住宅に戻り、ヘドロの除去作業続行。〜16:30。
★キャンプ地に戻り、ティッシュ他、スーパーで購入。
★湯沸し、軽食、記録を取り、大阪の若者たちにTEL。
★今日から駅前広場にキャンプを設営した自衛隊に赴き、明日から風呂に入れることを確認。キャンプしている人々に大声で伝える。
★散歩に出、近隣で開きだしたというお店が開いていることを確認。川向こうに「赤いうさぎ」というスナックが開いているのを見つけ、入店。現地にお金を落とすのも大切、などと、自分に言い訳しながら。十時頃まで飲み、キャンプ地に戻って眠る。

 <4月5日>(火)
★起床…3:00。湯沸し、コーヒーを2杯飲んだ後、記録整理。車内整理。
★八幡住宅に向かう…6:30。ヘドロ除去作業継続。この作業が完了したため、出されたゴミの山を減らそうと、家具の解体作業を開始〜12:00。昼食のため、湯を沸かそうとしてガス切れ。ホエブス用ガスボンベを探して仙台まで。何処にも無し。スーパーでカセットコンロとガスボンベを購入。
★その足で市役所に行き、支援物資の受け取り依頼。
★団地に戻り、家具解体作業続行〜16:30。片付けながら団地の人々と話す。
★キャンプ場に戻る。スーパーに行き、顔を洗い、多くの品物を買う。湯沸し、夕食。今夜は豪勢である。コーヒー飲む。
★妻、若者たちにTEL。
★スナック「赤いうさぎ」に飲みに。21:00就寝。

 <4月6日>(水)
★起床…5:10。湯沸し、コーヒーを飲む。3人の若者に談。是非、七ケ浜、野蒜、女川を見ておくように、と。
★記録整理…〜6:18。
★仙台港へ…前回、最も早く見た光景。ビデオ撮影した地点。未だ、ほとんど手付かず。水は、既に退いて、ヘドロが乾燥して固まっている。
★団地にて作業開始…早朝のため、音がしないよう配慮しながら家具を移動。家具の解体作業継続〜12:30。
★炊き出しのトン汁とおいしいご飯頂く。
★家具解体作業継続〜15:30。
★多賀城市役所より、支援物資が届いた旨、連絡入る。明朝、引き取りに伺う旨、伝える。
★キャンプ場の青年と話し、石巻のSくんに繋ぐ。自衛隊の風呂へ。
★仙台のホームセンターへ…ブルーシート買いに。
★キャンプ場に戻り、湯沸し、夕食。
★スナック「赤いうさぎ」へ。飲酒。
★就寝…22:00。

 <4月7日>(木)
★起床…6:05。湯沸し、体操、コーヒーを飲む。自衛隊のトイレへ。
★多賀城市役所へ支援物資引き取りに。二度往復。キャンプ地に支援物資を降ろし、ブルーシートで覆う。
★戸建住宅に赴き、頼まれていた靴下、タオル等、渡す。
★団地へ…家具解体作業継続、完了〜12:00。
★昼食、小休、コーヒーを飲む。
★団地内通路、スコップでこびり付いているヘドロを削り、後、ブラッシング〜15:30。
★仙台・ホームセンターへ…デッキブラシ3本購入。キャンプ場に戻る。17:30。
★自衛隊の風呂へ。
★湯沸し、コーヒーを飲み、妻と若者たちにTEL。
★被災者から頂いたカップラーメンを食べる。
★スナック「赤いうさぎ」へ…飲酒。
★就寝…21:55。
★就寝中、大きな地震あり。震度6強。キャンプ場内騒然。自動車で移動し始める人々。制止。それでも3分の1くらいは、車で移動。落ち着いてもらうため、湯を沸かし、コーヒーを飲む。
★再就寝…2:00。

 <4月8日>(金)
★起床…5:35。砂押川の土手を散歩〜6:40。
★湯沸し、朝食、コーヒーを飲む。
★記録整理。車内整理。
★団地へ…8:45〜大型ゴミ片付け手伝い〜12:20。
★昼食、コーヒーを飲み、小休憩。
★多賀城市役所へ…「災害支援車両証明書」の交付依頼。受け。
★団地に戻り、関係した人々にお別れの挨拶。キャンプ場に戻る…14:45。
★マレーシアからの支援物資の搬送を手伝ってほしい、との依頼を持った青年、現る。キャンプ場内に声を掛け、協力依頼。十数人が応諾。
★記録を取り、その後就寝…22時。

 <4月9日>(土)
★起床…3:50。記録、メモ〜4:50。
★湯沸し、コーヒーを飲む。私物をすべてブルーシートの上に出し、ブルーシートで覆い、車内を空っぽにする。
★3人の若者を同乗させ、他の十数台の車と共に、仙台のイスラム教モスクへ向かう。荷積み、石巻自衛隊屯所へ。荷降ろし。
★若者3人を、女川→石巻港→野蒜へ連れて行く。
★キャンプ場に戻り、私物を積み、支援物資を積み、相馬まで同行してくれる人の車にも支援物資を積んで、其処を出発。15:30。
★相馬商工会議所内ボランティアセンター着…18:00。支援物資降ろし。同行してくれたI氏の親戚の家で、お茶を呼ばれる。泊まって行けと勧めてくれるのを辞退し、帰途に着く。19:00。
★115号線を福島に抜ける。
★福島に抜け、初めてのコンビニで仮眠。
★115号線から4号線に移り、東北道に乗る。鏡石SAで仮眠。

 <4月10日>(日)
★起床…4:50。体操の後、軽食・コーヒーを飲み、其処を発つ…5:20。SAから走り出た直後、トイレにウェストポーチを忘れたことに気付く。約500メートル、点滅信号を点滅させてバック(逆走)。ウェストポーチを取り、再びスタート。5:25。
★海老名SAで仮眠〜9:30。
★シートベルト不着用で警察に捕まる。11:20頃。
★野洲辺りで交通事故のため渋滞。16:00頃。
★京滋バイパス、第二京阪と乗り継いで、17:30、大阪に帰りつく。

コメント(9)

 「東北大震災支援活動報告」…?
  「嗚呼、野蒜(のびる)…!」

 俺に来てくれ、と、いうのか…? ウム、行こう。お前たちが見てほしいと言うなら、行こうじゃないか。何処だ…。

 多賀城のボランティアのキャンプ地は、山土を入れただけの空き地で、水溜りが広がり、それが凍り付いていた。とてものことに、ボランティアを歓迎しているとは思えない場所で、トイレさえ設えてない悪環境である。文句があるなら、帰れ、と、いうことなのだろう。

 到着したののは午前零時。既に先発していた若者たちは、眠りに就いていた。それで、思い切って、前回ガソリン不足で行けなかった石巻まで行ってみることにした。

 45号線に出、塩釜を通り、松島に出、東松島に出た。午前1時を過ぎた街並みは静まり返っていた。家並みが消える辺りから靄(もや)が立ちこめ始めた。不思議な靄で、フロントグラスに少しも水滴が溜まらない。視界はだんだん悪くなって、やっと5メートル先くらいが朧げに見えるだけである。対向車も、ハイビームにしているようだが、提灯の灯りのように頼りなげに映る。

 光を下げ、ゆっくり路面を確認しながら進む。より靄は酷くなって、フロントグラスを這うようにして後ろに散ってゆく。そんな中に幼い子どもの掌が見えた。女の人の掌が見えた。男のゴツゴツした逞しい掌が見えた…。掌たちは、招いているのだ、と、思った。来て、見て、と、頼んでいるのだ、と…。

 『俺に、来い、と、言うのだね。行くよ。何処だね。案内してくれ…』

 靄に包まれた道を、ゆっくり進む。右に、左に、人影らしきものが佇んでいる。土手に出た。その時、気付いた。前回来た時、道に迷い、ここに来たのだ。その時は、自衛隊がバリケードを張って、中に入れなかった所だ、と。

 この奥に、何があるというのか。掌たちや佇む人影は、私に何を見せようというのか…? ともかく行こう。道路標識に「野蒜(のびる)」、と、あった。

 『ノビル、そこなのだね。君たちが、私を招いているのは。行くからね。行って、見て、そして、人々に伝えるからね…』、と、掌たちや人影に語りかけながら進んだ。

 自衛隊の居残り部隊なのか、巨大なサーチライトを小山に向け照らしていた。人影はない。その側を通り抜け、さらに先に進む。

 『嗚呼、これだったのか、君らが私に見せようとしたものは…』

 不思議なことに靄は掻き消えており、遥か彼方まで見晴るかすことが出来る。家々が土台を残すだけで、スッポリ無くなっている。松並木も無惨になぎ倒されて、津波の破壊力を物語っていた…。

 なお進むと災害避難所に指定されている小学校らしき建物が見えた。2階建て、鉄筋コンクリートの綺麗な校舎である。

 『そうか、君らは、今、ここに居るんだね。そうか、こんな低い校舎じゃあ、津波に飲まれちまうよな。そうか、君らは、津波に飲み込まれてしまったんだ…』

 祈ることも忘れ、ジッとその校舎を見つめていた…。

 まったく高台のないこの地、僅かに自衛隊がサーチライトで照射していた小山があるくらいのもので、多くの人々が、争って、そこへ逃げたのかもしれない。

 人も、家も、何もかも奪って行った津波、その無惨な姿を見てくれ、と、いうかのように招き入れた掌たちと人影…。

 そこからの帰り道、自衛隊のサーチライトの所を過ぎると、再び、靄が襲ってきた。左右に佇む人影、静かに見送ってくれているかのような人影が、ポツン、ポツン、と、靄の中に見え隠れしている。

 石巻へ行くのは諦め、キャンプ地に戻ることにした。掌たちや人影たちの無念の思いを胸に秘めて…。
 「東北大震災支援活動報告」…?
   「七ケ浜、野蒜、石巻と女川」
  …何が起きたのかということを知るために

 若い人々が多賀城のボランティアキャンプ場にも多く来た。その若者たちに、可能な限り、七ケ浜、野蒜、石巻、そして女川を見ておきなさい、と、伝えてきた。

 現地にボランティアとして入った若者たちには、被災者を支援するという活動の他に、自分の住居地に戻った時、周辺の人々に被災地の実情を伝えると共に、結婚し、子どもを持つようになった時、その次世代に、東北の地で何が起きたのか、津波というものの恐ろしさがどのようなものかということを伝える義務がある。それを実現するために、是非、四つの場所は、見ておいてほしい、と、言い続けてきた。

 「七ケ浜」は、多賀城の海側に出っ張った土地で、火力発電所があり、七ケ浜(ひちがはま)と謂われるように、七つの浜を擁する土地のようである。その七つの浜のすべてが壊滅状態になっている。

 仙台港が高度化した港の機能をすべて薙ぎ倒されてしまったとすれば、七ケ浜は、夏の海水浴で賑わうところであろう。その浜の周辺の家々すべてが流されてしまっている。

 「野蒜(のびる)」は、別記したが、何処にも逃げ場のない浜。そこに、小学校も、老人施設もあり、津波の時にどのようなことが起きたのか、と、想像すると、胸苦しくなる。

 コンクリート製の建物を除いて、すべて押し流され、コンクリートの基礎を残すばかりで、人も建物もすべてを洗い流されてしまっている上、太い松さえも薙ぎ倒されている姿は、壮絶なものを感じさせる。何も無いが故に…。

 「石巻の浜」は、津波に襲われた後、流れている家々に火がつき、それが流されて他の家に類焼させるという最悪のパターンに陥った。地震攻め、水攻め、火攻めという三重苦を味わった地である。

 「女川町」は、石巻と同じように、津波による被害で街が壊滅している。石巻の浜と違うのは、火が出ていないことで、津波被害が分りやすく、津波がどの高さまで来たのかということも見分けることが出来る。

 この四つの地域を見れば、津波というものの恐ろしさは、凡そ分る。それを見、そこで感じたものから、どのように動くかは、若者一人ひとりの人生を決定することだろう。
 「東北大震災支援活動報告」…?
   「為政者の資質」

 今回ほど為政者としての資質を問われるような事態は、過去に例がないであろう。

 関東大震災の時、後藤新平が活躍して東京を復興させたというが、神戸の阪神大震災の時には、後藤新平のような傑物は出ず、復興は、遅々として進まなかった。今回の東北で起きた大震災は、神戸の場合よりもっと遅れることだろう。現実を理解しない人々ばかりが政治の舵取りをしているのだから。

 為政者の資質は、マクロで捉える能力、と、捉えたものからどのような対策を立案し、それを実行する勇気に富んでいるかが求められる。

 国が大枠のことを為し、民間が個別のことを担当し、地方自治体がその調整に当れば良い。

 今回の大震災は、空前絶後の広域のものであり、壊滅状態に陥っている地域も1200平方キロに及ぶことだろう。その日本経済に及ぼす影響も、甚大なもので、日本の浮沈に関わる重大事であろう。

 にも関わらず、菅首相は、「非常事態宣言」も出さず、平常時の法体系のまま乗り切ろうとしている。愚かなことである。

 今回のような重大な事態に対しては、一部「法律」を失効させ、法律を超えて為さねばならないことも多い。にも関わらず、非常事態宣言は出されていない。

 確かに現状の法体系では、非常事態宣言の規定がなく、単なる画餅の観は否めないが、それでも、国民は、今回の震災の事態が日本国家存亡の危機に直面しているものと感ずることだろう。

 今回の震災の特徴は「津波」にある。地震による被害は、限定的で軽微なものだが、津波は、生活も、仕事も奪い去って行った。その上に原発事故が重く圧し掛かっている。

 家を奪われることによって生活の拠点を失い、会社や船、いかだなどを奪われることによって仕事の拠点と道具類のすべてを失ってしまったのである。その上に、原発が重く圧し掛かって、仕事の回復と生活の回復を阻んでいる。

 これまで、国民の生殺与奪権は、我々の手の中に握られている、と、豪語してきた官僚たちだが、今回、どのように動いているというのだろうか。

 余りに激しい破壊と膨大な被害の元に、口を噤んでいるのだろうか…?

 今回の震災は、日本の浮沈に関わる重大事である。これまで威張りくさってきた官僚たちに対して、何事も為さないとすれば、官僚たちは、国民から首括りの刑に処せられることだろう。
 「東北大震災支援活動報告」…?
  「何が起きたのか…?」

 今回の震災がどのような規模のものか想定するために、次のように仮定して考えてみる必要がある。

 津波被害を蒙った地域が沿岸部600キロに渉るものと仮定し、幅2キロに渉って被害を蒙ったものと想定すれば、全体は1200平方キロの規模になる。

 1平方キロの土地に200軒の家が建っていたものと仮定すれば、全体では24万軒になる。

 1軒の家のガレキを撤去し、新築の家を再建するのに20名の職人が100日間を要するものと仮定すれば、延2000人。1平方キロでは延40万人。全被災地では4億8000万人(日)の人手を要することになる。(単純に職人の手当てを日給2万円で換算すれば、この人件費だけで9兆6000億円になる)

 これを一人の職人が100日づつ関わるものと仮定すれば、480万人の職人が被災地に入り、100日間づつ居続けなければならないことになる。

 現在、警察が発表している「全壊家屋数」は、4万5000軒くらいのものだが、この「全壊」の意味するところが不明である。建てかえる必要があるものでも、一応家屋が残っているものについては、全壊とはしていないだろうからである。

 又、一旦塩水に浸かったものに、どのような影響が出るものか、今後の推移を見守る必要があろう。

 その点から考えれば、建替えを必要とする家屋は、全壊の十倍、45万軒に上るものと考えなければならない。

 今回、破壊されたのは、家屋だけではない。工場も、仕事場も、筏も、船も破壊されている。それらの復旧にも、多大な人員を要しよう。又、汐を被った田畑の回復にも、大変な労力と時間を要しよう。

 今回の震災の被害の特徴は、津波による被害であり、津波によって、仕事も生活も破壊されたところに特徴がある。その上に原発事故の影響による被害が加わっていることに特徴がある。

 被災地の復興を選択するより、放棄する企業も個人も続出するのではないか、と、懸念される。

 被災地の復興は至上命題である。しかし、原発事故の影響が今後も続くようなら、被災地から逃げ出す企業も個人も続出することは止めようのないことであろう。
 「東北大震災支援活動報告」…?
  「何が起き始めているのか…?」

 今回の東北大震災は、自然循環の狂いによって生じているもので、人間活動が地球上の環境に影響するほど巨大化した結果、と、考えることが出来よう。

 大地震が地震学者の唱えるように、プレートの移動によって引き起こされるものなら、そのプレートの移動も、海水温の上昇によって一層早められ、強化されて現れてきたものと推測される。

 同一プレートの南部、ニュージーランドで跳ね上げ現象が起き、北部、宮城、福島、茨城、千葉で同じ現象が起きたものなら、その中間にある東海・東南海・南海で、いつ跳ね上げても不思議ではない。

 万一、東海・東南海・南海地震が発生するようなら、日本社会は、壊滅的な状態に追い込まれることになろう。

 それだけではない。地震は、いつ起きるかは分らないが、植物異常は、確実に全国を覆い始めていて、今年の秋には、多くの農作物に不作や凶作の兆候が表れ始めることだろう。

 既に「杉枯れ」は、近畿圏だけでなく、中部、関東、東北にも広がっている。この2〜3年で、日本の山々の7割以上が禿山になることを示している。

 山が荒れると川が荒れる。川が荒れると海が荒れる。そのことは、既に日本の山々を針葉樹林化することによって起きた現象によって立証されている。

 急速に進む「植物異常」によって、我々は、この秋から食糧に困る事態に追い込まれる。

 自然循環の狂いと生命循環の狂いは、人類が、この地上に暮らすことの出来る時間が、残り僅かであることを告げているのであろう。
 「東北大震災支援活動報告」…?
  「何が起きたのか…?」?
   …暮らしと仕事の喪失

 先程も、鶴見緑地まで自転車を走らせてきた。桜を見にいったのではない。木々の緑が既に目に眩しく成り始めているため、木々と草花の状態を確認するために行ったのである。

 そこに三々五々集う人々は、昨日と変らない退屈な日常を送っておられる。東北では失われてしまった退屈な日常。

 東北の人々は、その退屈な日常が如何に大切なものか、今、痛感し、それを取り戻そうと、必死に立ち向かっておられる。

 退屈な日常は、二つのもので成り立つ。一つは、安定した収入。今一つは、昨日と変らない今日があることである。

 今回の大震災の特徴は、被災者の仕事と暮らしの両方を奪ったことにある。仕事では、職場の建物も、機械類も、設備も奪われ、暮らしでは、土台となる家を、家財を奪われてしまった。その上に、多くの人々が大切な家族までも奪われておられる。

 被災地の人々の生活を立て直すためには、先ずは仕事が出来るように支援することから始めなければならないだろう。収入が無ければ生活は不可能なのだから。

 どのようにすれば職場を復活させるお手伝いが出来るのだろうか…?

 大企業なら、その企業自身の力で再建することが可能だろうし、中小企業でも、巨額のお金が掛る事業なら我々庶民には手助けのしようがない。しかし、個人事業で行っていた人々のお手伝いなら、我々にも協力できるかもしれないし、検討するに値するものと思われる。

 たとえば、近畿の林業組合に依頼して間伐材の無償提供を受け、養殖いかだを組み上げる作業代もカンパで募り、これを添えて現地に送る。そうすれば、漁業の復旧のお手伝いが出来ると同時に、現地に養殖筏を組むというアルバイトも提供することが出来る。

 要は、被災地に仕事を創出し、仕事と復旧を可能にするような道筋を提供することが肝要である。

 国も、地方も、復興事業を他府県の業者に依頼するのではなく、より多くの人々を地元で雇い、復興事業に当ってもらえば、復興と仕事の提供の二つが可能になる筈である。復興は、早い復興より、地元が元気になる政策を採用すべきであろう。

 私がやっている「便利屋さん」という仕事も、被災地の人々に、そのやり方を教え、復旧のお手伝いをしながら収入も得る術を教えてあげなければならない、と、考えている。

 チラシの作り方、チラシの配布の仕方、受注とその処理の仕方、そして、作業等、基本的な宣伝、受注、処理の仕方を伝授しなければならない、と、考えている。それが被災地の復興の一助になるものと考えているから。
 「東北大震災支援活動報告」…?   2011年04月13日01:31
 「何が出来るのか…?」?
  …腐葉土を作ること

 被災地の支援をしたい、と、思うのは、日本人ならすべての人々が思っておられることだろう。だが、何をすれば良いのか分らず、徒に時間を過ごしているだけであろう。

 大阪に居ても、やれることは多くある。例えば、家庭の生ごみを堆肥化し、それを集めて現地に送ることでも、被災地の農家の手助けをすることが出来る。

 津波に襲われた田畑は、塩によって満たされている。そのため、表面の土を剥がして捨てるか、水を張り、しろかきをし、排水することを繰り返さなければならない。

 問題は、その後に入れる土である。諸外国から輸入することも可能であろう。しかし、それには膨大なお金が必要である。この土を、各家庭から出る生ゴミを堆肥化することによって被災農家に送ることが出来る。

 1軒で作れる腐葉土の量は僅かでも、全国の家庭で作れば、大量のものになり、被災地にそれを送れば、新しい土として役立つことだろう。

 塩害は、農業にとって致命的な打撃となるものである。それを一日も早く回復させるためには、土の入れ替えは必要不可欠な要件である。

 被災地から遠く離れた家庭でも、このような協力が出来るし、それが被災農家に限りない力を与えるもになることだろう。
 「東北大震災支援活動報告」…?    2011年04月14日16:24
 「何が起きたのか…?」?…仙台港と多賀城

 東北の被災地に2度足を運んだのは、そこで何が起きたのか、観察し、肌で実感し、その上で、何が出来るのか考えてみたかったからである。

 最初に被災地に足を踏み入れたのは、3月18日夜9時頃のことである。仙台在住のマイミクさんに電話を入れ、付近の状況を聞き、45号線に出た。

 後で考えれば、仙台港の入口付近だったのだが、その時は、まだ、そのことを知らず、真っ暗闇の中、凄惨な車の墓場状態を見て衝撃を受けた。

 これを見て、この地を支援活動地にすることを決めてしまった。

 ガソリンに不安を抱いていたので致し方なかったが、それでも、もっと被災地をジックリ見て廻ってから決めるべきであった、と、後々後悔した。

 支援活動しようと決めたのは、多賀城市。だが、後ほど理解するようになったのだが、多賀城市は、仙台港で持っているような街である。この港が復旧しなければ、市の財政は保てない。急がれるのは、港の復旧であって、市民生活は、後回しになる。

 その為、ボランティアなど無用のものと考えられても仕方ないのであろう。港が復旧しなければ、市民生活もあったものではないからである。

 市民生活の柱も「仕事」にある。それを立て直さない限り、市民生活の復旧など在りえない、と、市幹部は考えているのであろう。

 よって、支援物資も一応は受け取るが、積極的に市民に配布することはしない。ボランティアも、来れば一応受け容れるが、積極的に活用しようとはしない、という状態になるのであろう。

 それは分るが、哀れなのは、放置された市民である。津波被害に遭った戸建住宅には、震災から20日以上経過した4月2日でも、一品の支援物資も届いていなかったし、孤立したマンション等の集合住宅にも、物資は一切届けられていなかった。少々考えさせられる事態と言わざるを得ない。

 仕事の復旧は、急務である。しかし、そこに到るまでは数ヶ月の時間を要しよう。その間の生存に欠かせない水や食糧や衣類などの手当ては、地方行政の責務ではないのか、と、首を傾げざるを得なかったのが実感である。
 「東北大震災支援活動報告」…?     2011年04月16日17:19
  「何が起きたのか…?」?…七ケ浜(ひちがはま)

 多賀城から数キロ東南に行った所に「七ケ浜町」がある。全国最小の行政単位の町である。

 後ほど、多賀城ではなく、ここを支援すれば良かった、と、思った所である。

 火力発電所もあるが、丘陵地が連なり、そこから浜に降りる道が続いていて、夏は、海水浴客で賑わう所のようで、保養所や別荘も多く立ち並んでいる。その七つ在る浜(村)すべてが津波によって流されたようで、丘陵地の小学校や公民館が避難所になっている。

 それぞれの浜に降りると、すべてが洗い流され、廃材やガレキが散乱していて、浜のほとんどが沼地のようにヘドロに覆われている。かつての姿を知らない者にとって、どのようなことが起き、どのようになったのか、想像することすら出来ないのだが…。

 人々は、落ち着いて行動しておられる。が、主力産業である観光が成り立たなくなった今日、この夏をどのように過ごされるのだろうか。そんな思いに囚われる町である。

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