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千載和歌集コミュの崇徳院の歌  その2

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崇徳院の歌  その2


百首歌めしける時、春の歌とてよませ給うける
   朝夕に花待つころは思ひ寝の
     夢のうちにぞ咲きはじめける  (春歌上 41 崇徳院御製) 
 
「朝に夕に花を待つ頃は、花を思いながら寝るその夢のうちに、花は咲きはじめたことであるよ」(イベリコ)

 「夢のうちにぞ」というと、古今和歌集の次の歌が思われる。

山寺に詣でたりけるによめる。
   宿りして春の山辺に寝たる夜は
     夢のうちにも花ぞ散りける  (春歌下 117 つらゆき)

「宿をとって、春の山のほとりに泊まった夜は、夢の中までも、花が散っていたことよ」(久曾神昇)

 崇徳院は「夢のうちにも」ではなく、「夢のうちにぞ」と微妙は変化をもたせている。「ぞーける」の係り結びを保持したかったのだろう。「夢のうちにも咲きはじめけり」では弱い表現になってしまう。

 松野・片野は「思ひ寝の」で、次の清輔の歌を参考歌として掲げる:

   思ひ寝の心やゆきて尋ぬらん
     夢にも見つる山さくらかな

 だいたい、「思ひ寝」とは恋しい人を思って寝ることだろうが(下例)、花をも「思ひ寝」の対象とすることは興味深いことである。

   きみをのみ思ひ寝にねし夢なれば
     わが心から見つるなりけり  (恋歌二 608 みつね)

「いとしいあなたのことばかりを思いつづけて眠った夜の夢だから、本当に私は心からあなたを見たのですよ」(「全訳古語例解辞典」 北原保雄編)

 しかし、上掲の貫之の歌は次のようにしても、意味は同じであろう。「思ひ寝」の対象は古今和歌集の時代から人にも花のような物にもあてはまるとしてもよいだろう。

   宿りして春の山辺の思ひ寝の
     夢のうちにも花ぞ散りける  

さて、崇徳院の歌の調子では、「朝夕に花まつころは」が印象薄くするようだ。貫之の上掲の歌に比較すれば明瞭である。また末句の「咲きはじめける」はどことなく弱い感じが否めない。


崇徳院の話 「百人一首一夕話」より  その1
「この帝保安四年二月五歳にて位に即かせられ、関白忠道公摂政たり。それより十七年を経て保延五年五月、御父鳥羽上皇御寵愛の藤原得子(後に美福門院と申し奉る)御子体仁君を生み給ひければ、上皇御喜び斜ならずすなはち今上崇徳院の御養子とし給ひ、崇徳院の御后皇嘉門院を養母とし給へり。 上皇を体仁君を御寵愛の余り、同じ月これを立てて崇徳院の東宮と定め給へり。かくてまた翌年の永治元年上皇御落飾ありて鳥羽法皇と号し奉る。その年の十二月法皇の御計らひとして、にはかに当今崇徳院の御位を廃して体仁君を位に即け給へり。これすわなち近衛院なり。崇徳院は御在位十八年といへども幼くして御位に即かせ給ひしかば、今年僅かに二十二歳にて御位を廃せられ給へり。させる御過ちはなけれども法皇美福門院の愛に溺れ給ひて、その御子を早く御位に即けんとてかく計らひ給ひしなり。これより崇徳院を新院と号し奉る。この時体仁御年三歳なりしかば、法皇専ら政事をほしいまゝにし給へり。かくて近衛院の御代となりて、久安六年三月藤原多子を以て皇后とせらる。多子は徳大寺中納言公能の女なり。容顔美麗なるを以て左大臣頼長これを養女として入内せしめ皇后とせられしかば、これより頼長の威勢日々に盛んになりたり。同年六月また藤原呈子を以て中宮とせらる。この呈子は藤原伊通の女なるを、関白養うて中宮にかしづき納れられたるなり。初め忠通弟の頼長とその威を争ひて兄弟不和なりしに、頼長多子を養うて后とし、いよいよその権をほしいまゝにせらるゝによりて、兄の忠通公も負けじ魂に呈子を養うて中宮の供へられしより、ますます兄弟その威を争はるゝやうになりたり。」

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