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コメント(8)

JBの生い立ちを調べたので読んでみて欲しいです。

2006年12月25日、ジョージア州アトランタで、ジェイムス・ブラウンが死去した。享年73歳。ジェイムスの代理人が、12月24日に肺炎で入院し、日が変わった午前1時に友人達が見守る中、息を引き取ったとコメントしている。”Godfather Of Soul”の早過ぎる、そしてあまりに呆気ない死がもたらしたものは大きい。今後、様々な形でトリビュート企画が持ち上がることが予想されるが、もう彼のシャウトをリアルタイムで聞くことはできない。この寂しさは時が流れれば流れるほど、我々の胸に満ちていくと思われる。

ジェイムスは今年も元気だった。2004年に前立腺がんの手術を受けているが、3月には来日し、東京国際フォーラムでライブを行っている。しかも、今週もコネチカット州などでコンサートが予定されており、入院した際にも「週末のライブまでには治して、ツアーも続ける」と話していたそうである。死を迎えて一番驚いたのは、ジェイムス本人だったのかもしれない。

ジェイムスの生い立ちには謎とされている部分が多い。1933年5月3日にジョージアで生まれたことが定説になっているが、サウスカロライナ、テネシーなど諸説が入り乱れている。何故こうした状況になったのか、それはジェイムスが極貧の中で過ごしていたからである。両親は駆け落ちして森の中に小屋を建てて住んでいたが、収入はテレビン油を採取して得るだけで、母親はその貧しさに耐えられず、幼いジェームスを残して行方をくらましてしまう。ここからジェイムスは、父親と2人で生活していくことになるが、当然家にいては金が入らないので、彼は外に出っ放しとなり、ジェイムスは一日のほとんどを1人きりで過ごすことになってしまう。
5歳の頃、父親からハーモニカを買い与えてもらい、ジェイムスは父親がよく口ずさんでいたブルースを吹くことになる。これがおそらく、彼にとって初めての音楽との関わりだと思われる。しかし、それでも孤独は癒されず、ジェイムスの人格を形作る上で、大きな影響を与えることになっていく。
しばらくすると父親が出稼ぎに出ることを決めた為、ジェイムスはオーガスタに住む叔母に預けられることになる。だが、ここがまたすごい環境だった。叔母が経営していたのは売春宿だったのだ。そして、事態は全く変わらなかった。ジェイムスには着がえる服さえ与えられず、毎日同じ服を着続けていた為、遂には学校から登校拒否まで受けてしまうのだ。しかし、そんな暗闇の中でジェイムスには、周囲の人からギターを習い、壊れたオルガンをもらって日々それを弾く、といった音楽的な環境も出来上がっていく。また、カウント・ベイシーなどのビッグ・バンド・ジャズの存在を知ってその楽しさに身を躍らせ、オーガスタにやってくるサーカスなどを見てはショウビジネスの一端を垣間見るなど、徐々に社会との接点を得るようになっていく。更には野球やボクシングにも才能があるところを見せるなど、もしチャンスと金があれば、音楽以外でも名前を売っていたかもしれない?という日々を過ごすのだ。
だが、貧困が盗みに走らせた結果、ジェイムスは16歳の時に逮捕され、少年院に送られることになる。ここでも看守からのいじめに遭うなど厳しい状況が続くが、ジェイムスは塀の中で仲間となった者達とゴスペルのグループを結成し、これが大評判を得た結果、当初は最低でも8年とされていた収監生活が3年に減刑されるという幸運を得るのである(ただし、再犯の可能性があるとしてオーガスタに戻ることは許されなかった)。

1953年、ジェイムスはゴスペルグループのフレイムスを結成し、ここでR&Bもアカペラで演じるようになると、その圧倒的な歌唱力が話題を呼び、彼が根城にしていたトコスの街を中心にその名を知られる存在となっていく。そしてライバルでもあったリトル・リチャードが、フレイムスを自分の事務所に紹介し、マネージメント契約を結ぶことを勧めるという思いがけない展開の末、ようやくジェイムス達は音楽で安定した仕事を得ることになるのである。

フェイマス・フレイムスと名前を変えて迎えた1956年、ジェイムスは遂にキング・レコードとの契約を勝ち取り、録音の機会を得る。こうしてデビューシングルの「プリーズ・プリーズ・プリーズ」が誕生するものの、レコード会社のシド・ネイサン社長がこの曲の歌詞の無意味さに激怒し、宣伝はおろか自分達で売ることすら放棄した結果、関連レーベルのフェデラルにレコード販売を押付けるという事態を招くことになる。当然、プレスが終わったそれをジェイムス達は手売りしながら、ツアーに出ればその街のラジオ局に足を運びオンエアリストに入れて欲しいと頼み込む、というあまりにも辛い毎日を余儀なくされる。だが時間はかかったものの、最終的にこのシングルはミリオンセラーになっていく。

そんな中、事務所は新たな展開をする時期に来ているとして、グループの名前をジェイムス・ブラウン&ザ・フェイマス・フレイムスに変更することを示唆するが、これにジェイムス以外のメンバーが反発し、なんとグループを辞めてトコスに帰ってしまうという事件が起きるのである。売れはしないものの、せっかくミュージシャンとしての地歩を確立していたジェイムスは、いきなり活動ができない事態に追込まれるてしまう。だがこの窮地を救ったのが、またもリトル・リチャードだった。彼はツアー中、突然「これからの人生を神に捧げる」と話して、引退を決める。困った事務所は、ジェイムスにリトルの代りにツアーに出て欲しいと頼み、ジェイムスは自分の名前でやると言うのなら、という条件を出してこれを受け入れるのだ。このツアーで、仕事を失うことになるリトルのバックバンドのメンバーと知り合ったジェイムスは、戻ってくるとフェイマス・フレイムス時代の仲間にも声をかけ、新たにシングル「トライ・ミー」の録音に挑むことになる。これがR&Bチャートで1位をマークするヒットとなって、遂にジェイムスはスター歌手の座を手に入れるのである。

1961年にニューヨークのアポロシアターの舞台に立つことを決めたジェイムスは、本番2週間前にケンカが元でまたしてもフェイマス・フレイムスを解散させるという事態を招きながらも、旧友ボビー・バードらを呼び寄せて急造ながらバンドを立ち上げ、他のミュージシャン達との共演という環境ではあったものの無事にこの大仕事をやり遂げる。これが、ジェイムスを本当の意味でビッグネームにするきっかけとなったのである。
以降ジェイムスは、その激しいステップと情熱溢れるボーカルで人気を博していくが、何と言っても彼の存在を知らしめたのが1963年にリリースされた「ライブ・アット・ジ・アポロ」だった。このアルバムは、当時としては珍しい「本当の意味でのライブ盤(というのも、この頃はスタジオで録ったテイクに拍手の音をかぶせるニセモノライブ盤が主流だったのだ)」で、やはりキングのシド社長が反対した為、ジェイムスはこれを自費で製作し、更にはシングルカットを要求する声をねじ伏せてアルバムでのみ勝負するという賭けにも出る。これがなんと1年以上もチャートに入り続ける大ヒットを記録するのである。ここからジェイムスは、1960年代R&Bの象徴的な存在として認められ、また音楽シーンに君臨していくことになるのである。
更にジェイムスは、従来のR&Bのリズムを強調し、自分のパワフルなボーカルとバックバンドとの間でスリリングな駆け引きを売り物にした「Funk」という独自の世界を創造し、展開していく。彼はライブこそが自分を表現する最高の舞台であり、その記録としてレコードを残すという「逆転の発想」を続けるのである。

こうした「動いていることを要求する」姿勢は、バンドのメンバーとの対立を生むだけでなく、ジェイムスが反発する者を情け容赦なく切り捨てるという唯我独尊ぶりにつながっていく。しかも、ライブではバックバンドのメンバーへ常に自分のアドリブに合わせることを義務づけ、ステージでは何が起きるかを予想させながらの演奏を強いるという状況を生むことにもなっていく(実際、間違えると罰金を徴収していたほど、ジェイムスはこのスタイルに拘っていた)。だが、こうした緊張感こそジェイムスのステージにのみ存在する魅力であり、多くのファンが支持する理由にもなっていた。代表曲「セックス・マシーン」に流れる張り詰めた空気は、その集大成とも言えるものでもあった(ゲロッパ!ゲロンラッパ!だけじゃないってことっすね)。
音だけでなく、ジェイムスの繰り出す言葉もまた際どく、鋭いものだった。その為か、ナショナルチャートで彼の曲が1位になることは遂になかったが、R&Bチャートに連ねたヒット曲は100を越えるとまで言われている。しかもリリースしたアルバムに至っては170枚を下らないと言われ、その多作ぶりからも彼がファンからどれだけ強く愛されてきたが伺える。年間350回のライブを行ったこともあるそのパワフルさ、魂の叫びをダイレクトに打ち放つその野太い声、何をどう切り取ろうが、文字では彼の本質の数%も表現できないこのもどかしさがある。



アルバム170枚って何曲生み出したんだ?!
ネットで調べたらアルバム確かに半端ない量ありましたウッシッシ
ライブ版の多さが尋常じゃないです!
輸入版取り寄せようかなって思ってるんですが…

どうやらX'masSongだけで,20曲近くあります!
JB関連でもう一つ。

JBが世間から蔑まれてたのは黒人だから、ていうのはみんな知ってると思うんだけど、その蔑まれてた社会に対するラップを歌ったのがJBでそれがfunkでした。

そんで、lockっていうのはその黒人差別を同じ黒人であるJBが作ったfunkを使ったダンスでハッピーになって忘れようっていうダンスだから本来lockはハッピーダンスです。

それとは反対に怒りにかえたのがクランプ。殴ると犯罪になっちゃうからダンスにしたんです。

さらにアニメーションは黒人差別という現実から逃げる、現実逃避のすべとして生まれました。ロボットになりきって人間じゃなくなるってこと。

だから自分は前までfunkで踊ったり、funkyに踊ったりするの嫌いだったけど、まずlockするならハッピーダンスから入ることが大事だと思った。

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