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Gaugeコミュの002 アートを見るのは誰か?

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結論から書けば、アートを見るのは、アーティストの知り合いだけだ。

そんなことはない、西洋美術館にルノワールが来れば連日大入りじゃないか、とあなたは言うかもしれない。彼らがルノワールの知り合いなのか、と。
しかしはっきり言える。彼らが見ているのはアートではない。

前回からも書いているように、アートは現代において(現代の日本において、なのかもしれないが)、余りにもふわふわと掴みどころがなく、それは魅力でさえ有り得ないほどの掴みどころのなさだ。
だからそろそろはっきりと定義しなければならないだろう。現代において、アートとは何なのかということを。

表題の質問に戻ろう。僕は初め、「アートを見ている人間は、いない」と書こうかと思っていた。でもさすがにそれでは言いすぎで、そう思っていないわけではないが、説得力がない。
それでもう少しだけ考えて、「知り合いは、見ている」という結論にした。あるいは、「知り合いには、見えている」ということに。

肝要なのは、その作品を明確にアートだと自覚しながら鑑賞できるには、どのような条件が必要なのか、ということだ。
そしてそこから必然的に導き出されるのは、アートをアートと自覚しながら鑑賞(或いは体験)できる環境は、我々が普段生活している世界(というのは僕が想像できる限りにおいての「普段」だが)においては、殆ど無い、ということだ。


(続きは、随時更新します。)

コメント(3)

こんにちは。コメントありがとうございます。

「わかる」という言葉を使いながらレスしていきますと、僕の論旨としては、『現代においてアートは、「わかるわかる、それわかる!」と思いながら鑑賞されなければならない』ということになります。
上記エントリー後半にある『その作品を明確にアートだと自覚しながら鑑賞できる』という状態がそれです。
とはいえ、勿論それは段階的な話であって、いずれは『「わからない」でもいいじゃない!』という松尾スズキ的ヴォイス(姿勢)が打ち出されても良いとは思うのですが、でも今はまだ駄目です。おあずけです。

さて、そこでsaintphallさんの仰る「わかる」という言葉に立ち戻りますと、それは僕の言う「わかる」とはちょっと違うようです。
というのは、例として出ている
>「まったく何を言ってるんだかさっぱりわからない」
>「あーーわかるわかる。言いたい事は全部わかる」
といったケースがいずれも、『結局、退屈しながら観ている人たち』の抱えている状況を指しているようであるからです。

アートに限らず、あまねき鑑賞において、退屈は「悪」です。
もし「退屈を楽しむ」ことが出来る人がいるのなら、彼は(彼女は)退屈を楽しんでいるのではなく、「一般の人が退屈と呼ぶだろうからそう呼ぶけど実際はそうじゃない何か」を、退屈どころか楽しんで味わっている状態であると言えるはずです。

「いやーーっはっは!わっかんねえなー、これ!!もっと見せて!」と、喜んでるのか戸惑っているのかわからないような(或いはその両方のような)統合不全的かつブルージーな反応をしながらある種の作品(文学でも音楽でもアートでも構いませんが)に接している人がいたとすれば、その人は僕には幸福であるようにしか見えませんが、なぜなら彼は全く退屈していないようだからです。
つまりここでは、「わからない」事と、「面白いと感じる」事が矛盾なく両立しているわけですが、おそらく川上弘美さんと糸井さんが言っている「わからない」は、この肌合いに近いそれだと思います。

と同時に触れなければならないのは、saintphallさんの仰る
>「あーーわかるわかる。言いたい事は全部わかる」
という反応は、その彼(彼女)が「アートの持つ価値(魅力)」を「アートをわかる自分の価値(権威)」へとすり変えてしまっている点にも顕れているように、その鑑賞自体が全然楽しくなさそうだということです。
場合によってはそれは、
>「まったく何を言ってるんだかさっぱりわからない」
という苛立ち混じりの感想・感情・鑑賞以上に、退屈な鑑賞行為でさえあるかもしれない。というのは、それが前例(「あーーわかるわかる。言いたい事は全部わかる」)の「わかる」が内包している「退屈さ」からイチ抜けした爽快感があるからなのかもしれない。

ともあれ、こういうことです。
川上弘美さんと糸井重里さんが前提としている「わかる」というのが、例えば『安心社会から信頼社会へ』という本を
>この本は、不明なところがなくて
何て気持ちがいいんだろう、と思いました。
数式を読むような気持ちのよさがあります。
という感想とともに引くことからもわかるように、「わかる=気持いい」という意味で使われているのに対して、
>「あーーわかるわかる。言いたい事は全部わかる」
における「わかる」は、「不快」とまでは言わないまでも、「わからなかったらアタシどうしようアタシ」という「不安」を打ち消さんがための虚勢としての、ないし感情には繋がらない手札的・知識的情報としての「わかる」であって、もしそこに順列をつけるとすれば、川上&糸井の言う「わかる」はアート鑑賞における「わかる」よりずっと先を行っている。
言い換えれば、川上&糸井さんの話している「本」の世界と、僕の捉えている「アート」の世界とでは、「わかる」に関する解釈のレベルが違っていて、前者の方がレベルが高くて話が先に進んでいるんですね。

もう少し説明すると、川上&糸井さんが言っている事を要約すれば、

『「わかる」っていうのは気持いいから良い事だけど、「わからない」っていうのも大事だよね』

という、ちょっとどうかと思うぐらい当たり前のことなのだけど、なんとアート鑑賞の分野においては、そんな当たり前のことさえ、まだ全然流通していない、というのが僕の見方です。
つまり、まず第一にアートにおいては「わかる」ということが、「気持いいこと」であるという前提がないのです。
僕がまずはっきりさせたいと思っているのはその事で、アートを観ることが、退屈だったり不安だったりましてや不快だったりするわけがないじゃないか!っていう事なのです。

そして、もしそれが、つまり『アートを観て「わかる」って思う事は、なんだかスッキリして気持いい事だよね』ということがまず、川上&糸井さんが既に前提としているような形で前提になったなら、ようやくそこからさらに、『ねえ、アートの中には「わからない」ものがあるんだけど、でも何か面白いんだよね』というレベルに行けるんじゃないかな、と思うのです。
さて、そんな話からもう一度、「アートは誰が見るのか?」という問いに戻ってみましょう。
すると、「アーティストの知り合いだけがアートを見る」という状況は、俄然リアリティを持ち始めるのではないでしょうか。
というのも、その作者の性格や普段している格好や、酒が好きか『デスノート』が好きか、音楽はクラシックを聴くと虫唾が走って卒倒するがインキャパシタンツを聴くとうっとり眠れるほど落ち着いてしまうのか・・・といった趣味嗜好を知った上でその作品を観ることで、鑑賞者の中には否応なしに作品の持つ意味(「意味」とはなるべくなら避けたい語のベスト3ぐらいに入れたい語なのですが、そう言うしかないので言いますが、ノベルとかでも良いです。あんまり意味わかんないけど)が、生成されるからです。

と、考えると今度は、「それは作品の外部情報または2次情報であって、作品そのものとは切り離されるべきだろう」という考え方も僕の中には出てきて、それもその通りなのですが、しかしそれまた早い話が、まだそんなレベルじゃない。
と、言いながら、ではもしそうした「知り合いしか知り得ないような2次情報(作者の履歴)」を取り払った上で見えるもの、見え得るものについて考えてみると、確かに、
「作者の履歴なんてどうでもいい、この作品自体が素晴らしいのだから!」
という状況は余りにも望ましいものであると言わざるを得ない。
そうあって欲しいとも思う。
と同時に、これまでの我が身を振り返ってみるに、そこまである種「高められた」作品に出会ったことが果たしてあっただろうかと思うのです。

思うに、そうした経験(「作者の履歴なんてどうでもいい、この作品自体が素晴らしいのだから!」と言える経験)を僕が出来ずに来たのは、そう感じるに適した鑑賞環境に僕らが恵まれていなかったからではないのだろうか。

(そう思いませんか?)

例えばルノワール(を、また引き合いに出しますが)の展示を僕らが見るとすれば、それはバイトから帰って来て部屋で「真剣10代しゃべり場」を見ながらプシュッとビールを開けて、あーお疲れ、俺。ふと右手の壁を見るとルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』がいつものように佇んでいる・・・なんていうことは絶対なくて、西洋美術館とか安田火災記念美術館とかに行かなくてはならないわけです。ではそれは、作品を移動・保管するには適した会場であるとして、鑑賞することに適していると言えるでしょうか。言えるわけがない。

問題は、場所の大きさだけではなくて、例えば軽井沢のどこかにルノワールの小品があってそれを観に行くとしましょう。小さな記念館といった風情のその美術館で、ちょっとどうかと思う法外気味の料金を支払って中へ入ると、そこには確かにルノワールのものとおぼしき15号程の絵が飾ってあります。
どうでしょうか。あなたはその絵を観るときどんな具合ですか。
僕は多分退屈です。
なぜならそれは、これまで幾度となく強制され、教えられてきた鑑賞の仕方であるからです。
絵を観る時に大声で歌っていてはいけないのはなぜでしょう。静かな会場を静かなままに保ちつつ、絵の前でゆっくり座っていることも出来ず(場合によっては、数秒見たら移動を強いられる・・・)、ましてやコーヒーを片手に、さらにましてやビールを飲みながら観ることだってできやしない。

思うのですが、美術館でいわゆる名作を前にしたとき、僕らは膨大な不特定多数の「他の人たち」とともにそれを観ている、という「錯覚」を抱いているのではないか、というのが僕の仮説です。
さらには、その「一緒に観てる感」というのは、例えば映画館で見ず知らずの人々と映画を観るといった状況を指して語られるようなメリット(いろいろあるんですが、割愛します。)と同時に、或いはそれ以上に、『いつ、その「他の人たち」に怒られるかわからない』という、いわば仮想敵に対する恐怖心や不安といったものを煽るデメリットの方が大きいのではないかとも思っています。
言い換えれば、美術館で名画の前に立ちながら、僕は美術館付きの警備員や学芸員の何百倍という、仮想の監視の目に晒されているように想像してしまい、その人たちのことばかりを見ている(強く意識している)のではないか。

そして既に触れたように、それは大きな美術館での問題とは限りません。
軽井沢にあるルノワールの絵の前で、僕は足を棒にして腰に疲労を感じながら退屈している自らの様を、ありありと想像できます。座ることも叫ぶことも酒を飲むこともTVを見ながら横目に絵をチラ見することも出来ないまま、僕は絵でなく、これまで僕とともに僕の前にある絵を鑑賞してきた、そしてその僕を監視してきた、茫漠と連なる仮想の「他の人たち」を見ています。

言うまでもありませんが、それは「アートをアートであると明確に自覚しながら鑑賞できる環境」では、まったくありません。
表題に置いた「アートを見るのは誰か?」に対して、「誰も見ていない」と書こうとしたのは、そうした環境のなさを言うものでもありますが、もしかすると、そんな風に思っている(気付いている)人は殆どいないんじゃないか?という警告や不信に近い形でのそれでもあります。
アートの面白さに触れた人は勿論それこそ莫大な数がいると思いますが、しかしその環境については謳われない。或いはその歌は届かない。

まずは「誰もアートを見ていない。アートを見ている自分を見ている監視者を見ているのだ」という論を立てることで、さてそれでは、これまで「名画」「名作」「傑作」と呼ばれてきたアート作品を、本当の意味で観て行くにはどうすれば良いのか、という方法が見えてくると思うのです。

具体的には、今言ったような「強制力をもった」「監視者」のような、これまで名画の前に立ちはだかっていたベールを剥ぎ取る、という工程などがあると思いますが、ひとまずはこの辺りで今回の表題を用いての第1部みたいなものは落ち着くかもしれません。

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