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古木の明日を考える会コミュの雑談トピック (2015〜)

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残念ながら「引退」となってしまいましたが、NPO法人を立ち上げ、
野球だけでなくスポーツ振興に一役買うことになった古木克明氏。

今後もその動向に注目していきましょう!

新たな雑談トピックを立てます。


コメント(29)

みなさん!
3月10日(火)夜、横浜で古木克明×村瀬秀信のトークショーが行われます。(有料)
詳しくは、↓をご覧ください!

http://mixi.jp/view_event.pl?comm_id=51905&id=77867536&comment_count=0
かわきちさん、ありがとうございます。皆様、ぜひどうぞ
いまなんとなくTBSチャンネル2で第3回DeNAベイスターズカップの総集編みたいな番組見てたら、
横浜ヤング侍というチームの監督で古木が映ってびっくりしました!
残念ながら試合は大差で負けて初戦敗退してしまったようですが…
あんまりびっくりしてインタビューで何を喋っていたか聞き逃してしまいましたが(^_^;)

リトルの監督となってハマスタを訪れていたんですね
感無量…野球に携わっていることが嬉しい…がんばってほしいです。
石川の走塁を褒めています。

https://www.youtube.com/watch?v=T0aj8zJ9y0Q
古木さんが

飛雄馬は白崎より全然守備うまいね。
俺が言うなって言われるんだろうけど。
#baystars

ってつぶやいてて、鼻からお茶吹きそうになりました。
>>[6]  

この書き込みを、6月20日の今見て、なんかもう…(T_T) おおお。
今年のあの 縦縞のユニ ほっしーーなーって思うんですけど、 ワッシは今年も古木ユニです!
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2980135

ご無沙汰しております。
ドラ1本に出るみたいです。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw2981927

昨日の続き、守備の話題です…
お久しぶりです。
東洋経済オンラインに記事が出ていました。
今は「3足のわらじ」とのこと。

https://toyokeizai.net/articles/-/229174 
横浜、オリックスでプレーし、引退後は総合格闘家に転向した元プロ野球選手の古木克明氏(37)が4日、自身のツイッターを更新。現役時代に使用していたグラブがネットオークションに出品されていたことを明かし、「悲しい」と心境をつづった。

 古木氏は「このグラブ、オークションに出されていた」と自身が横浜時代に使用していたグラブが、ネットオークションに1万5000円で出品されていることを写真付きで紹介。「悲しい」と心境をつづり、「しかもズタボロになっている。大切に使っていたのに」とグラブの状態の悪さを嘆いた。

 だが、古木氏の知人がこれを落札し、グラブが自身のもとに戻ってきたと告白。細かい部分までオイルを塗り、「元気になってくれました」とグラブが“復活”したことを写真付きで報告した。

 フォロワーからは「グラブが古木さんのもとに帰ってきて良かったですね」などの声や、「オークションに出す人の神経が分からん」といった声が上がった。

スポニチアネックス・10/4から
https://chojumikata.com/crosstalk/1617/

セカンドキャリアのインタビュー記事がありました。
先日とある駅前を通りかかったところ、選挙の候補者が演説中。
名前が…

古木邦明

1文字違いでした…

気がつけば、プロ野球のない5月4日を過ぎていました…

久しぶりに、記事を見つけました。
NIKKEI STYLEに掲載されているようです。
長いので、2つに分けて本文を載せておきます。

《連載》キャリアコラム ライバー、古木克明さん

「松坂大輔世代」のプロ野球界を代表する強打者として活躍した元横浜ベイスターズの古木克明さん。甲子園からプロ野球、そして総合格闘家、米プロ野球の独立リーグを経て、大学院大学でビジネスをゼロから学び起業した。「型破り」のホームランバッターと呼ばれた古木さんは今、インターネットを通じてライブ配信する「ライバー」としての活動も開始した。栄光と挫折を経験した後、なぜ起業家の道を選んだのか、古木さんに聞いた。
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■「野球が大嫌いになった」元ドラフト1位の思い

「野球が大嫌いになった」。1998年にドラフト1位で横浜に指名されるなど野球エリートだった古木さんだが、横浜、オリックス・バファローズと10年あまりの現役生活を終えるころにはこんな心境に陥っていた。

愛知県の豊田大谷高校2年生のときに、夏の甲子園大会に出場して1試合2本塁打を放つなど注目を集め、高校日本代表にも選ばれた。3年生の夏の甲子園では、入場行進時に学年が同じ松坂大輔選手(当時は横浜高校、現埼玉西武ライオンズ)と「よろしくね」とあいさつを交わし、活躍を誓い合った。大会ではチームをベスト4に導き、プロに進んだ。

派手なホームランを放ち、明朗快活な人柄だが、実は常に不安だった。「いつまでやれるのか」。中学生のときには腰を痛め苦しんだ時期もあった。プロはケガとの戦いだ。2002年には巨人の桑田真澄投手(当時)など大投手から次々本塁打を放ちブレーク。03年には22本の本塁打を記録するなど活躍した。

だが、その後は伸び悩んだ。故障などの問題もあり、打率は振るわなかった。しかも守備で失策が多く、やじられた。「打てない」。何度もコーチとぶつかった。09年には戦力外通告を受け、現役を引退した。

型破りのバッターは、突然、総合格闘家になると表明、周囲を驚かせた。実は以前から格闘技に興味を持っていたのだという。プロ野球選手から転身を果たした先輩としてはプロレスにはジャイアント馬場氏、K―1には立川隆史氏の例があった。「じゃあ僕は総合格闘技で名をなしたい」と飛び込んだ。

■大学院で経営を学ぶ

試合で相手と向き合っているときに、ふと気づいた。「打撃不振に陥った際に自分は相手を知ろうとしなかった」。格闘技は当然相手の研究から始まる、本来、打者も相手投手の研究・分析をすべきだった。しかし、自身のフォームばかりが気になり、独りよがりになっていた。格闘技にのめり込む一方で、野球のことが頭から離れなかった。1年半で格闘技に見切りをつけ、プロ野球のトライアウト(入団テスト)に参加するなど再挑戦した。

しかし、壁は厚かった。渡米してハワイの独立チームにも挑戦したが、最終的な引退を決めた。引退後のプロ野球選手は野球スクールや球団職員など野球関係の職に就くケースが少なくない。しかし「もう嫌だった。野球界に戻りたくない。しかし、野球しか知らない」と悩んだ。

「もっと広い事業領域でやりたい」とセカンドキャリアを模索。「桑田さんは引退後に早稲田大学大学院に行ったけど、あくまでスポーツを専攻。そうじゃなくて事業を起こすための勉強はできないか」。14年に門をたたいたのが事業構想大学院大学(東京・港)だった。社会人が経営を学び、新しい新規事業などを考える私立大学だ。これまでは野球漬けの毎日、「横文字の経営用語は全然わからなくて。ケーススタディーや3C、4Pとか。はてなマークだらけだった」。ただ悪戦苦闘しながらも新鮮な気分だった。

ゼミの教授から「知ることは楽しいよ」と後押しされた。野球には限界があるが、知ることに限界はないと感じた。

「リーダーシップとは『もてたい』という気持ちで」。野球をやっていたとき、モヤモヤと言葉にならなかったことを言語化し、分析・整理できるようになった。2年の修了時の事業テーマを考える際、新たなビジネスモデルを発想する起点として「そもそもなぜ野球が嫌になったのか」を自己分析した。単純に打撃不振に陥ったからか、そうではない。
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■「こんばんは。球打ち波乗りおじさんです」

野球の世界は子供のころから監督やコーチの命令が絶対、典型的な上意下達だ。「自由な発想ができない。それが嫌だったのだ」と気づいた。さらに日本の野球界の現状を考えた。ファッションの一つとして、米国にはニューヨーク・ヤンキースなど人気球団の帽子をかぶる若者は少なくないが、日本のプロ野球のアイテムをオシャレに着こなす若者の姿はあまり見ない。野球は格好いいスポーツではなくなってきている。

「若者に格好いい、子供に自由な発想での野球を、それをテーマに事業を興そう」。16年に「The Baseball Surfer(ベースボールサーファー)」という新たなブランドを立ち上げ、起業した。野球界の課題を解決するサービスの展開するため、アパレル、野球スクール、イベントの3事業を柱に据えた。アパレルはオンラインショップを軸に展開、スクールは古木さんの暮らす地元、神奈川県の湘南を中心に少年野球の教室をスタートした。上から目線の指導法ではなく、本人が自ら気づく手法を取り入れた。「フォームのここを直したらいいとこちらが思っても、本人が本当に納得しないとまた悪いフォームに戻る」と自戒を込めて話す。

「こんばんは。球打ち波乗りおじさんの古木です」。39歳となった古木さん。3月2日からDeNAが運営するライブ配信「Pococha(ポコチャ)」を使って若者との交流を始めた。ユーチューブと違い、一方通行の発信ではなく、リアルタイムでファンと双方向でコメントを交わせるのが特徴だ。

古木さんは動画制作サービスなどを展開するViibar(ビーバー、東京・品川)のライバーマネジメントプロダクション「ビーバー」に所属。ほかに埼玉西武ライオンズなどで活躍した原拓也さん、東京ヤクルトスワローズなどで活躍した米野智人さんなど元プロ野球選手を中心に計14人が参加し、「野球ライバー」と呼ばれている。「野球以外にも趣味のサーフィンやTシャツづくり、住んでいる街の観光スポットなどをテーマにして生配信で盛り上がっているけど、若い人ばかりだから、すっかり天然ボケのジイジキャラにさせられた」と笑う。

プロスポーツ界は、ほんの一握りの選手を除いて早期にセカンドキャリアの選択を迫られる過酷な世界。今やビジネス界でも転職は当たり前だ。曲折しながら、新しい道を探さなくてはいけない。「松坂にはできるだけ長くがんばってほしい。僕は野球の新しいスタイルを模索し、もっと若い人に身近なものにしたい」と語る古木さん。松坂世代の葛藤と挑戦はまだまだ続きそうだ。
8月8日(今日)の「バース・デイ」に出演!!

 横浜、オリックスでプレーした古木克明さん(39)が、8日放送のTBS「バース・デイ」(土曜後5・00)に出演する。松坂世代屈指のスラッガーと呼ばれた古木さんは、28歳で現役を引退し、その後は格闘家に転身。13年には米独立リーグのハワイ・スターズに入団し野球復帰したが、1シーズンで引退。野球人生に区切りをつけた現在の驚きの生活を明かす。

 松坂大輔(現西武)率いる横浜高校が優勝した1998年の夏の甲子園、古木さんは愛知・豊田大谷高校の主砲としてチームをベスト4に導く活躍を見せた。そしてドラフト1位で横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)に入団すると、プロ4年目、21歳の若さで4番を任された。「才色兼備のハマの4番」「イケメン新ゴジラ」と呼ばれ、野球雑誌の表紙も飾った。

 しかし03年、守備でエラーを繰り返し、打撃もリーグワースト2位の131三振を振るわず。出場機会は減っていきレギュラー争いからも外れ、07年には自ら志願しオリックスへ移籍。そこでも結果を残せず、09年に28歳で戦力外通告を受けた。古木さんはその後4年にわたり計6回トライアウトを受け続けたが、オファーは届かなかった。

 現役時代に結婚した妻とは離婚。「何もかもがうまくいかなくて、死んだ方が楽だなって思って…」というほど追い詰められたという。

 そんな古木さんは戦力外からわずか2カ月後、格闘家へ転向し周囲を驚かせた。だが、野球選手時代に味わった充実感はなかったという。

 そして11年、再び野球選手を目指すと決断。だが、再びトライアウトに挑戦するも不合格。それでも野球を諦める事が出来ず、米独立リーグのハワイ・スターズに入団した。「野球に対するけじめをつける場所を探していた」という古木さんは、1シーズンをプレーし、野球人生に区切りをつけた。

 現在は新たな人生をスタートさせている。3年前に知人の紹介で知り合った女性と再婚し、2歳になる息子の父となっていた。さらに33歳の時に「将来、会社を立ち上げる」という目標を掲げ大学院へ入学。経営や事業を立ち上げるためのノウハウを学び、ついにある事業を立ち上げた。「古木さんがミシン使っているのが意外」とスタッフも驚いた、古木さんが立ち上げた事業とは。
●大学に進学していれば “栄養費” をもらえたのに……
 一方で、逆指名の “恩恵” を受け損なったドラ1もいる。1998年に、横浜ベイスターズから1位指名(松坂大輔の外れ1位)を受けた古木克明氏(40・横浜→オリックス)だ。じつは古木氏は、ダイエーホークスに入団する予定だったという。
「高校生(愛知・豊田大谷高)のころから、ダイエーのスカウトが来てくれていました。高校2年時には、ドラフトで上位指名したいと打診があり、自分はダイエー以外は行かないつもりでした。
だけどこの年、たまたま九州の高校生でほかにも活躍した選手が多くて、『地元優先だから申し訳ないけど、4位で獲るから』と。それでもドラ1と同じ評価で、契約金1億円と年俸800万円で話がついていました。
 そこにあとから横浜からも話が来て、『松坂(大輔)を外したら1位でいくから』と言われ、実際にそうなりました」
古木氏の場合、高校生だったので逆指名扱いではなく、裏金もなかったという。
「契約金9000万円を提示されて、実際は8800万円でした。でも年俸は、800万円提示で880万円。120万円をケチられた感じですね(笑)。ダイエーとのあいだで決まっていた条件を伝えたので、多少上げざるを得なかったんだと思います。それがなければ、もっと安かったんじゃないかな」
 高卒で入団した古木氏は、大学から遅れて入団してきた同年代の選手たちの契約金の額が気になったという。
「僕も、大学経由でダイエーを逆指名してプロ入りする選択肢もあったんです。ミールマネー(栄養費)の話もありました。結局、高卒で横浜に行きましたが、那須野とかの話を聞くと、『大学に行って逆指名すればよかったな』と。
村田(修一)も、年俸1500万円で入団しましたが、実際は2000万円ぐらいもらっていたんじゃないかな。僕はけっこう活躍しても、最高到達年俸は2800万円でしたから、『なんで、まだ何もやってない新人が、そんなにもらってんだよ』と思ってました(笑)。
 横浜にドラ1で入ったからって、特別なことなんか何もなかったですよ。給料も上がらなかったし(笑)。選手や裏方さんは、いい人ばかりでしたが、フロントには不信感しかない。ただでさえ、小学校の卒業文集で『絶対に行きたくない球団はロッテと大洋』って書いてたのに(笑)」

週刊FLASH 2020年12月1日号より
※ 元「ドラ1」選手5人が明かす“裏特約”…という記事の中の一節に登場しています。
 他にも、那須野(現在は、板橋区大山町でお好み焼き「ひだまり」を開業)や、一場の話も出ています(笑)
https://smart-flash.jp/sports/122489
https://toyokeizai.net/articles/-/397249?page=6

東洋経済にバース・デイ放送時のダイジェスト記事が載っていました。
リンク切れに備え、後日全文掲載する予定です。
夏の甲子園、長崎商業高校のスタメン捕手が古木仁(ふるきじん)選手! 甲子園に古木が戻って来た!
>>[21]  そういえば、1試合2発打ったのは第79回大会の長崎南山戦でした。これも因縁?
NHK三重WEBから

みなぎるパワー 古木克明さん “夢持つ大切さ”中学生に語る

10月21日 17時12分

プロ野球で活躍した松阪市出身の古木克明さんが21日、志摩市の中学生たちに夢を持つことの大切さを伝えるオンラインの特別授業を行いました。

志摩市の大王中学校で行われたオンラインの特別授業は、日本サッカー協会が企画したもので、高校時代に甲子園に出場し、ドラフト1位で入団した当時の横浜ベイスターズなどで活躍した松阪市出身の古木克明さんが、「夢先生」を務めました。

古木さんは、2年生の生徒27人に対し、小学校の頃、いじめられていたが、当時の清原和博選手にあこがれて目標にしたことや、野球に熱中したことでいじめから解放されたことなどを話してました。そして、夢を実現するためには、「なりたいことに対して逆算することで、努力することが見えてくる」と語りかけていました。

このあと、生徒たちは「大工になってお父さんの跡継ぎをしたいです」とか、「高校に合格したい」などそれぞれの夢を紙に書いて発表していました。

授業に参加した女子生徒は、「夢をかなえるには、いっぱい努力して、いろんな苦労を乗り越えて夢をかなえるのが大切だと思いました」と話していました。

https://www3.nhk.or.jp/lnews/tsu/20211021/3070006592.html
(リンクは切れる可能性があります)
今年のドラフトを前に、記事が出ていました。
https://www.baseballchannel.jp/npb/140782/
https://www.baseballchannel.jp/npb/140787/
https://news.yahoo.co.jp/articles/b6bdf6fa6b80047a0a74a5834fc26f592f2819ba
【ドラ1の知られざる苦悩】元横浜・古木克明(1)ホームランの基礎を作った建築士の父
小学校時代にすでに大器の片りん
 野球の裏側には理不尽さがぺったりと貼りついている。
打者がバットの芯にボールを当てて飛ばしたとしても、その先に野手が待ち構えていることがある。一方、当たりそこねの、緩い球が野手の間に落ちて安打となる、なんてこともある。そのため熟練の打者になるとわざと芯を外し、野手のいない場所に球を落とすこともあるという。
 そうした野手の配置に頓着しない種類の打者も存在する。それは外野手の頭を軽々と越えていくホームランバッターである。彼らのバットから放たれたボールは、優雅な放物線を描いて、ゆっくりとスタンドに消えていく。こうしたホームランを量産できるのは、プロの中でもごく一握りの男たちに過ぎない。そして彼らは球を遠くに飛ばすことに強い美学とこだわりを持っていることが多い。
 古木克明はその一人だった。
1980年11月10日、三重県松阪市で古木は生まれている。二人きょうだいで、妹が一人いる。
「子どもの頃から躯は人一倍でかかったです。小学校の入学式のとき141センチあったはずです。もう頭一つ、いや二つぐらい飛び抜けている感じで。太っちょでいじめられっ子。泣き虫でしたね」
 野球を始めたのは父親の影響だった。
「田舎だったので、庭や広場で親父とキャッチボールをしてました。最初は楽しいんですけれど、ぼくは10球ぐらい投げたら満足してしまう。でも親父はやめさせてくれないから、楽しくなくなってしまう」
 父親は古木をまず「ジュニアホークス松阪」というボーイズリーグに入団させた。ただこのチームの主体は中学生で、小学生の選手は少なかった。そこで1年ほど経った後、リトルリーグの「松阪リトルリーグ」に移ることになった。
 この頃から古木は潜在能力の高さを示し始めていた。
「自分で言うのもなんですけれど、小学4年生の中でぼくは桁が外れていたんですよ。(投げる)球も速いし、打球もガンガン飛ばすし。4年生たちの中でやらせていると危ないからって、小学6年生のAチームに入れられました」
 古木の長距離打者としての基礎を作ったのは父親だった。父親は古木が小学校に上がる時期に建築士として独立していた。時間の自由が利くこともあったろう、自宅にバッティングゲージを設置、毎日夕食後の7時から2時間程度の練習に付き合った。
「親父はすごく勉強家で、ティーバッティングをして、常に打球が45度の角度に上がるように意識させたんです。建築士だったので、そういうのが得意だったんです。45度を測って、そこに印をつけてボールを当てる」
ボールを遠くに飛ばすためには、厳密にはバットの芯ではなく、少し上に当てる必要がある。古木の父親はその当てる場所を息子に意識させたのだ。
やがて強打者、古木の名前は近県で知られるようになった。
「小学4年、5年、6年でホームラン66本。もちろん練習試合を含めてです。万博記念公園内の球場に少年グラウンドがあるんです。西日本大会という大会で、そこのセンターのバックスクリーンを越えたことがありました」
 すごく飛ばす選手がいると話題になったみたいですと古木は他人事のように笑った。
「ホームランを打てるかどうか分かるんです」
 古木はシニアリーグを経て、愛知県の豊田大谷高校に進学した。
 入学当初は出場機会は与えられなかったが、夏が終わり新チームになると古木は主力として起用されるようになった。
「1年生の秋、県大会を勝ち抜いて東海大会まで行ったんです。そのときレフトにガーンってホームランを打って、(翌春の選抜)甲子園には行けなかったんですけれど、それで注目される選手になったんです」
 それからしばらくは自分の中では一番凄かった時期がやってきたんです、と古木は身を乗り出した。
「ホームランを打てるかどうか分かるんです。だから仲の良い奴に、次の打席ホームランを打ってくるわって言って、カチーンと打ってました。2打席連続というのは少なかったのですが、とにかく毎試合ホームランを打っているような感じでしたね」
 好調を保ったまま、高校2年生の夏になり、愛知県大会を迎えた。
好調を保ったまま、高校2年生の夏になり、愛知県大会を迎えた。
「初めての地方大会だったので、すごく緊張していて、結果が思うように出なかったんです。準決勝ぐらいから調子が上がってきたという感じで、結果としてはホームランを打って甲子園に出ることが出来ました」
 甲子園で初戦の相手は長崎県代表の長崎南山高校だった。古木は三番サードとして先発出場している。
「憧れていた舞台だったので、最初はガッチガチでした。すごい展開が早かった。気がついたときは6回ぐらいまで行っていたんです」
(25からの続き)
古木がはっきりと覚えているのは、第4打席目の三振である。
「ボールが来たときに行けると思って振ったら、(ボールが)親指に当たった。痛いけど恥ずかしいから、必死で我慢してました」
 そして、1対3で先行された9回表、ランナーを一塁に置いて古木に打席が回ってくる。
「第5打席目にホームランを打つんですけれど、そのとき初めてようやく地に足が着いたような感じでした」
 古木の打った球は一直線にレフトスタンドに吸い込まれて行った。打った瞬間にホームランと分かる強い打球だった。同点ホームランである。
 このホームランにより試合は延長戦に入った。そして12回表、ランナーを一人置いて古木に7回目の打席が回ってきた――。
 2ボール2ストライクから古木は軽くバットを振ったように見えた。打球はふわりとレフト方向に高くあがった。平凡なレフトフライかと思われたボールは風に乗って、どんどん伸びて行く。そしてポール際ぎりぎりに入った。
 逆転ホームランである。試合はこのまま豊田大谷が勝利した。1試合2本塁打はPL学園の福留孝介以来だった。

豊田大谷は続く2回戦で山梨県代表の甲府工業と対戦している。
 1回表、甲府工業が2点を先制。その裏、三番に座っていた古木が二死から二塁打を打っている。試合の流れを考えれば、豊田大谷はここで1点返したい場面だった。
 四番打者がバッターボックスに入ったのを見て古木は二塁ベースから離れた。すると甲府工業の二塁手がすっと近づき、グラブで古木の躯に触れた。その瞬間、塁審が「アウト」と叫んで手を挙げた。隠し球である。

試合後、古木は「小さいころからボールから目を離すなと言われていた。相手がうまいとはいえ、自分は実行できなかった」と報道陣に後悔の言葉を語っている。
 豊田大谷は1回の拙攻もあり、試合の流れを最後まで掴むことができず2対4で敗れた。
 長距離打者としての類い稀な才能と、どこかすっぽりと欠けた部分。その後の古木を象徴するかのような試合だった。

(2)につづく
プロ野球の世界で古木の1980年生まれは特別な意味を持つ。松坂大輔がいる、いわゆる松坂世代である。
 松坂が頭角を現したのは、高校2年生の秋からだった。そして3年生となった春の選抜高校野球では150キロを越える速球を投げ込み、横浜高校を優勝に導いている。
 豊田大谷高校の古木克明が同じ年の投手として初めて意識したのは、藤川球児だった。
 古木、そして高知商業の藤川の二人だけが、2年生の夏の甲子園の後、高校日本代表に選ばれた。
「球児のストレートは140出ているか出ていないか、ぐらいしかなかったんですよ。でも横から見ると、速い。甲子園で優勝したピッチャーとかよりも切れがあって速く感じたんですよ。こいついいピッチャーだなと思っていた。そのときぼくは松坂の投球を実際に見たことがなかったので、球児の方がスゲーんじゃないのって思ってました」
松坂に対しては対抗意識と弱気がいりまじっていたという。

「ぼくは2年生から(夏の甲子園に)出ていた訳じゃないですか。彼よりも(全国)デビューは早い。だから俺を差し置いて、という気持ちはありました。悔しいと思う反面、今、対戦しても打てないだろうな、絶対に松坂とはやりたくないと思っていました」
 というのも、高校3年生になった古木はバッティングを見失っていたのだ。
 きっかけは高2の冬にバッティングフォームを修正したことだった。
「周りから(右)脚を上げたほうがいいぞとか言われて、チャレンジしてみたんです。やってみたらそれまでのすり足よりもはるかに打球が飛ぶようになった。それでぼくも勘違いしてしまった。もっとホームランを打ちたいというのがあった。そうしたらフォームがばらばらになってしまった。早く気がついてやめれば良かったんですけれど、何が正しいのか訳が分からなくなってしまった。脚を上げれば変化球に対応しやすくなるはずなのに、躯がひらきっぱなしで変化球が打てない」
 それでも高校3年生の夏、豊田大谷は愛知県大会を勝ち抜いて甲子園出場を決めている。
「そもそも県大会の前、メンバーに入れる自信もなかったんです。打率は落ちていたし、2年生に背番号を取られてもおかしくなかった。甲子園に行けたのは、周りがカバーしてくれたからです。ぼくらの世代は結構メンバーが揃っていたので。常に苛々していて、チームメイトが見かねて声を掛けて救ってくれた面もあった。3年生の夏の甲子園はぼくの中では全然駄目でした」
とはいえ、本人の言葉ほど成績は悪くはない。

 1回戦の東福岡戦では、4打数1安打3打点。五回一死二、三塁での第3打席ではセンター前安打を打ち、先制点をたたき出している。試合は6対4の勝利。続く智辨和歌山戦でも4打数2安打2打点。ホームラン1本を放っている。準々決勝の島根県代表の浜田戦は4打数1安打1打点。唯一の例外が準決勝だった。京都成章を相手に4打数4三振。試合も1対6で敗れている。
「自分の中にはっきりとした憧れの像があったんです。例えば、清原さんは高校通算ホームラン64本、松井(秀喜)さんは60本。そういう人を目標に置いていたんです。それと比べたら自分は全然足りない。そんな風に考えていたから、全然自信が持てなかったんです」
夏の甲子園が終わり、進路を決める時期がやってきた。
 高校屈指のスラッガーである古木のところにはプロ野球各球団のスカウトが何度も見に来ていた。
 中でも福岡ダイエーホークスは、高校2年生のときから上位で指名すると明言していたという。
 次に熱心だったのが横浜ベイスターズだった。ドラフト会議前、古木はベイスターズのスカウトと会っている。その席で、ベイスターズは松坂を1位指名する、松坂を抽選で外した場合、古木を指名するという。
 ただ、古木にとってベイスターズは希望球団ではなかった。

 98年度のドラフト会議は11月20日に新高輪プリンスホテルで開かれた。
 この年のドラフト会議は少々盛り上がりに欠けていた。大学、社会人の選手には1球団二人を上限に逆指名の権利が与えられていた。読売ジャイアンツは大阪体育大学の上原浩治と近畿大学の二岡智宏、中日ドラゴンズは日本生命の福留孝介、NTT東海の岩瀬仁紀などの指名が確定していたのだ。焦点は松坂の交渉権をどこが獲得するか、だった。

古木はドラフト中継を教室のテレビで観ていた。まずは第1回指名選手の発表が始まった。

「授業中で観たくないと思っていたんですけれど、他の生徒や先生も興味があるからテレビをつけたんです」

 日本ハムファイターズ、西武ライオンズ、そしてベイスターズが松坂を1位指名。沖縄水産の新垣渚にはホークスとオリックス・ブルーウェーブの2球団が1位指名した。
「ああ、また松坂を指名したと思っていて、純粋におー、すごいなと」
 抽選の結果、松坂の交渉権は西武、新垣はオリックスが獲得した。
 ベイスターズが松坂を外したことで、自分を指名するかもしれないと古木は思った。ただし、第1希望のホークスも新垣を外している。ホークスが1位で指名してくれるかもしれない。

 ところが――。

 ホークスの指名は九州学院高校の内野手、吉本亮だった。そして、ベイスターズの指名選手として古木の名前が読み上げられた。
「来るな、来るなって念じてました。そうしたら、うわっ、来ちゃったよって。拍手とかは起こらなかったですね。みんなぼくが横浜に行きたくないというのを知っていたので、教室中がしらーっとしてましたね」

その日の夕方五時半、横浜の監督である権藤博が豊田大谷を訪れている。

「その日のうちに速攻来てくださった。どこにあるのかと思った、遠かったよと。バッターでは鈴木尚典、守備では石井琢郎を目指してうちに来てくれと言われて。でもぼく、鈴木尚典、石井琢郎って言われても、知らなかった。誰って感じでした」

 この年、ベイスターズは38年ぶりにセントラル・リーグ優勝、その勢いで日本一となっていた。その中で鈴木尚典は2年連続の首位打者、石井は最多安打と盗塁王になっている。
「ぼく、優勝したの観ていなかったんですよ。横浜で知っていたのは、佐々木(主浩)さん、ローズ、駒田(徳広)さん。あとは昔にテレビで観ていた斎藤明夫さんぐらい」
ベイスターズは意中の球団ではなかったが、プロ野球選手になれることは嬉しかったという。

「ダイエーに行きたいと言っていましたけど、ぶっちゃけ、どこでも良かった。プロは憧れ、夢でしたから。横浜に指名して欲しくなと思いながらも、指名されたときはとりあえず良かったと。ただ、1位指名については何とも思っていなかった」

 ベイスターズは古木に背番号3を提示している。それはマシンガン打線を引き継ぐ、若手スラッガーとしての期待の表れだった。

(3)につづく
お久しぶりです。
オープン戦のシーズンだなーと思って、応援歌の動画を見ていたら…
勝又選手の応援歌に流用されていたんですね涙
かつまたとかつあき…
似てるなくもないか…
引き継がれた喜びを今頃知って、投稿しておきます。

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