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佐賀の吟遊詩人 かっくんちゃんコミュの『杵島の花筒』

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納塚春夫氏によって文芸誌『城』第71号に寄稿されました。

かっくんちゃんを知る上で、「伝承」の部分が少ない
もっとも正確な情報源と思われます。

このコミュでは、基本的にこの文に描かれた歴史を軸に
考証をすすめていければ、と・・・。

このトピでは『杵島の花筒』以外にも、
出版物や、ホームページなどの情報も募ります。

コメント(16)

佐賀新聞社刊『佐賀県大百科事典』(p.137)より

「香月知事」(僕が小学校時代の知事)「勝尾城跡」(九州探題・渋川義俊により築城)
「かつぎ屋」(ヤミ米の売人。ヤミ米を喰わず餓死した山口判事も佐賀の人)
などの項目に並んで、なんと「かっくんちゃん」の項目も。

当時門付する芸人はたくさんいたと思われるが、この扱いからして
単なるの芸人・名物男ではなかったことがわかる。

「昭和前期、佐賀にいた門付。杵島郡白石町須古出身、
名前を市原角一といい、角くんちゃんは、角一の名前から出た愛称。
背中から首にかけてコブがあった。
いつも半裸で自家製の三味線は三弦でなく一弦であったが、
そんな音楽でもこなす天才的素質を持っていた。
奇声をあげて小唄などを歌い、銅貨を出すと
口にふくみ、おにぎりを出すと砂をつけて食べた。54歳で死去」

・・・とあります。
『目で見る 武雄・鹿島・杵島・白石・藤津の100年』
(郷土出版社・2003年2月5日発行)「昭和戦後」の項目より



漂泊の辻音楽師・カックンチャン(白石町・昭和20年代)

杵島・藤津郡を巡りながら三味線や太鼓を奏で、
その技能は天才的であり、地元の人気者であった。

一本糸の三味線は手作りで、ひとりで大太鼓・小太鼓を
笛に合わせて打鳴らした。
また、即興で風刺的な歌を聞かせた。

もらった握り飯を道端に転がして食べるなど
奇人ぶりも有名であった。
白石町生まれで昭和25年に没した(提供:温泉通り振興会)



「25年没」は「27年」の間違い。
ネットで下のような文章を見つけたんですが、「長谷川角一」というのは単なる誤記なんでしょうか。気になります。


http://www2s.biglobe.ne.jp/~saql/saql/2.51.016.htm

 欄干橋 (大正一五・一〇)松原二・三丁目、呉服元町の境。

 昔は橋はそり橋で下を通る舟は材木や魚などを運んでいた。初秋の頃は菱売りさんが欄干そばに坐って菱を売っていた。またカックンチャン(長谷川角一、杵島郡須古生まれ、昭和二七年ごろ死去)がニッポウサンマツイの時など、人通りの多いこの橋の挟で一絃の一味線をかかえて客の求めに応じ、機転のさいた即興曲や芸を披露し爆笑の渦を巻きおこした。門付(かどづけ)をもらうと銭は耳にはさみ、にぎり飯は道に転がしてから食べていた。今はこの奇特な姿も見られない。
嘉瀬川のかっくんちゃんの「嘉瀬川」を聞き間違えて長谷川のような気がしますね。
> rikkiさん

なるほどー。
この誤記を積極的に解釈するなら、名字と間違える人がいるほど、「嘉瀬川」がかっくんちゃんの代名詞として浸透していた、ということにもなりましょうか。
>styloさん

かっくんちゃんをよく知る深川重衛さん(故人)が書かれ名文が
嘉瀬川の集会所に展示してあったのですが
それによると
「須古からきた」といえば
「かっくんちゃんのところか」
という返事がかえってきたぐらい
佐賀で広く知られていたようです。

深川さんの散文なら著作権とかはないだろうし(ないですよね?)
いずれここにアップしたいなと思います。
以前佐賀コミュでUPしたんですが、深川重衛氏の文章は嘉瀬川公民館に飾ってあるものです。

書き起こしをするか否かの問題はあるかもしれませんが、一応貼らせてください。

中央と右の写真はクリックすると画面上でも読めるのではと思います。
私が初めて聞いたかっくんちゃんの名字は「長谷川」でした。
一部の人達の間で間違った名字が浸透しているようですね。
なぜ長谷川なのか謎ですね。

昨日佐賀市立図書館の調べ物コーナーに「角くんちゃん」というファイルに過去の新聞の切り抜きなどまとめて資料として保管してありました。そこで上の資料や『杵島の花筒』などをコピーさせて貰いました。『杵島の花筒』は読んでとても良かったです。なんとか本文をこちらに紹介できない物でしょうか?
それと当時の死亡記事などもありました。
「目で見る・佐賀百年」明治・大正・昭和秘蔵写真集
佐賀新聞社発行 より

カックンちゃん 本名・市原角市、杵島郡須古出身。大正から昭和20年代にかけて県内を門付けして歩いた芸人。一弦の三味線を手に、どんな歌でも弾きこなす素質を持っていた。

カックンちゃん 角市の名前から産まれた愛称。にぎり飯を泥と砂につけて食べた。奇行が多く屏(へい)の狭い上部の板に寝ころんでも落ちなかった。おとなしい性格で県民から愛された。54歳で死去。
>すに小さん

瘤に布を巻いている方の写真、
この本にも扱われているということは
やはりかっくんちゃん本人の写真だったんですね!
この写真は、僕ですら昨年の今頃までみたことがありませんでした。
晩年の写真だとは思うのですが。うおお・・。

>屏(へい)の狭い上部の板に寝ころんでも落ちなかった

まるでスヌーピーですね。
かっくんちゃんの当時の死亡記事です
死因が胃潰瘍になってますね(笑
___________________
昭和27年8月28日の佐賀新聞より

◇杵島郡はおろか全県下の名物男として愛嬌タップリ町のボードビリアン”カックンちゃん”がさる二十四日未明自宅で近親に看取られて突然亡くなった。

◇本名は市原角市では気分がでない通称カックンちゃんは本籍・・・・・番地で戸籍面では明治三十七年三月生まれだから四十八になるわけだが同村役場では六十に、三歳だと推定。

◇約二十年前ごろから噂された特異な体質を研究するため九大医学部の要請でご遺体は解剖されるとの事はデマだったらしく同村で火葬に付された、同村副島医師の診断で病院は胃かいよう、発病以来四日間の寿命で最近はなんとなく元気がなかったそうだ。

◇町の人気者カックンちゃんのあの一本三味線の鮮やかなさばき、にぎり飯を草履のうらでコスッてほうり込む芸当、三等切符の汽車旅行、その他かず限りない逸話をもつ天真爛漫の野人の姿は秋風と共に去ってしまった。

___________________
訂正: 
六十二、三歳 

三等電役顔負けの二等切符の汽車旅行 

何分読み辛くたぶんこれで合っていると思います。
死亡年齢は資料によってまちまちですね。

>瘤に布を巻いている方の写真、
>この本にも扱われているということは
>やはりかっくんちゃん本人の写真だったんですね!

この写真はわりと鮮明でした。
頬骨の形状からも本人だと思います。
髪の毛や髭がある事とか立位の写真のイメージと少し変わりました。坂田明に似ているかも?
三味線のネック(棹)がボコボコに見えます。
ネット上で、
http://www.ktknet.ne.jp/henomohe/sakuin.htm

「中島虎彦氏」の作品というのがあって、その中で、
季刊誌 「ふるさと紀行」
(東京都、佐伯清美編集、会員制季刊誌、ずいそう集、各5枚)
                  
★昭和61年秋の号・秋にちなみ  「かっくんちゃんの光と影」

というのがありました。
内容は、読んでいませんが、かっくんちゃんのことが何かかかれているようです。
読んでみたいけど、こういうのって、図書館とかにあるのかな。。。
>ももさん

佐賀市立図書館にあるそうです。
『杵島の花筒』もあるのでいまのうちに是非行かれてみては?
なんしか、これだけ人々の心に残っていながら
活字になってる量が少ない、というアンバランスにも
また惹かれます。


>すに小さん

うおおお・・・・この記事読みたかったんですよ。
ありがとうございます!

死亡記事がのるくらいだから、
当時の人気ぶりがしのばれます。
新聞の文体も、今とくらべりゃかなりくだけてるなぁ・・・。
♪引いて押して 押して引いて
サマちゃんの腰は ゴムの腰

・・・という春歌をかっくんちゃんが唄った、
と『杵島の花筒』に出てきますが
さいきん炭坑節を調べていて
「引いて押して 押して引いて」
というフレーズがでてきました。
元ネタはこのへんにあったんでしょうね。
炭坑節は地域や時代でさまざまに
変化していったようです。

余談ですが村八分『ぐにゃぐにゃ』の歌詞にも
「引いて押して 押して引いて」
というフレーズが出てきます。

「和」モチーフを好んだチャー坊っぽい
(歌詞は固定せず頻繁に変わっていたようですが)。
僕は深川さんの詩や杵島の花づつ、外にもカックンチャンの幼なじみの川崎要さんのカックンチャン生前中のリポートとか持ってます。
白石町公民館で聞いたらコピーさせて貰えました。

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