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BDについてもっと知りたい!コミュの「ダビッド・ベーを囲んで」

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 10月5日(金)に東京の日仏学院で行われた David B.(ダヴィッド・ベー)『大発作(原題は L’Ascension du Haut Mal)』日本語版(明石書店刊)出版記念イベント「ダビッド・ベーを囲んで」に行ってきました。

 入場できるのは早いもの順ということで、かなり余裕を持って行ったんですが、さすがに入れない人が出るというほどではなかったですね(笑)。1階のラウンジと2階の映写室(?)の回りに原画が飾られていて、開場時間になるまでそれらを見て過ごしました。当然『大発作』の原画もあったりして、それはそれで感銘を与えるのですが、特に素晴らしいのがウィンザー・マッケイのコミックス史上の傑作『Little Nemo in the Slumberland(眠りの国のリトル・ニモ)』のパロディ作品です。「Little Fafou in the Slumberland(眠りの国のリトル・ファフー)」と名づけられたその作品、非常に気が効いています(タイトル、正確じゃないかも…)。ファフーってのは『大発作』の中に出てくる少年時代のダヴィッド・ベーその人なんですが、彼自身にとって夢というのは非常に大きなモチーフなわけで、そんな彼がいとも軽やかにパロディの形を借りた自分の作品の相対化をしてみせるところにちょっと感動してしまいました。ちょうどすぐ近くにご本人がいたので、こんな作品を描いてるんですねって聞いてみたら、ちょっと前に本になってるとのこと。調べてみたら、『Little Nemo – 1905-2005 un siècle de rêves(リトル・ニモ―1905年から2005年 夢の世紀)』って名前で Les Impressions Nouvelles(レ・ザンプレッション・ヌーヴェル)という名前の出版社から2005年に出版されているみたいです。ちゃんと説明文を読んでないのでわかりませんが、多くの作家や批評家が寄稿している一種のトリビュート本なのでしょうか。どうやら Moebius(メビウス)や大友克洋も参加しているみたいですね。ダヴィッドさんはベルギーの出版社だと言っていたような… ぜひ読んでみたいもんです。

 さて、話が逸れてしまいましたが、本題です。19時開演の予定でしたが、当日の出演者の1人斎藤環さんがいらっしゃるのがちょっと遅くなって、19時10分か15分頃に始まりました。まず、日仏学院の方でしょうか、フランス人の司会者がダヴィッド・ベーおよび『大発作』、それから翻訳について説明をし、それから開演になりました。最初にもう1人の出演者細萱敦さんが会全体の段取りを説明。最初の30分で細萱さんがBD作家としてのダヴィッド・ベーを紹介し、次の30分で斎藤さんが精神科医の立場から『大発作』という作品にアプローチする、そして次の30分をクロストークのような形にし、最後の30分が質疑応答に当てられるという予定でした。

 で、まずは細萱さんのお話。2003年に川崎市市民ミュージアムで「フレンチコミック・アート」展という展覧会が行われたわけですが、その当時はまだBDの翻訳は少なく、その時紹介したダヴィッド・ベーの『L’Ascension du Haut Mal』が、今回約5年の歳月を経て『大発作』というタイトルで翻訳されたことに感慨深いものがあるとのこと。そのダヴィッド・ベーの『大発作』以外の作品を概観し、彼が影響を受けた作品を紹介しつつ、日本のマンガとBDの違いまで考えるというのが、最初の30分間のコンセプトです。細萱さんの紹介に続いて、ダヴィッド・ベーがコメントを差し挟んでいくという形式で、なかなかうまくまとめるのが難しいので、お2人の言葉を特に截然とわけずに箇条書きのような形で記しておきたいと思います。

1.Casterman(カステルマン)社が出していた『(À Suivre[ア・シュイーヴル])』に掲載された『Zèbre(ゼブラ)』という作品について。当時は子ども向けの挿絵の仕事をしており、その後に描いた初めての個人的な作品がこれであるとのこと。

2.『大発作(L’Ascension du Haut Mal)』を出版した L’Association(ラソシアシオン)という出版社について。フランスでは漫画雑誌はほぼ壊滅状態で、作家が自分たちの本を出すために出版社を作ることもある。その代表がラソシアシオンである。1980年から1990年にかけてほとんどのBD雑誌は消失してしまった。アルバムと呼ばれる単行本が出版の中心になったが、その多くが伝統的なカラーで描かれた冒険ものなどで、自分たちが入り込む場所を見つけることができなかった。ラソシアシオンでは白黒作品を出版することになるが、これは経済的な理由とともに美学的な理由からでもある。ただ、1人ラソシアシオンだけがこうした運動を担ったというわけではなく、1990年代とは、フランスの Ego Comme X(エゴコミックス)を初めとして、ベルギー、スイス、スペインなど、全ヨーロッパで一斉にこのような運動が起きた時代である。

3.『大発作』以前の代表作に『Le Cheval Blême(蒼白の[蒼い]馬)』と『Le Tengû Carré(四角テング)』があり、これらの作品については『大発作』の中にも描かれているが、これらについてはどうか。『Le Cheval Blême(蒼白の[蒼い]馬)』は言わば、『大発作』の前史をなす作品である。ちょうど家族の病をどう表現すべきかということで悩んでいた頃でもあった。夢というのは本人の意思とは関係なくひとりでに紡ぎだされるという点で、個人的であると同時に fantasmagorique(夢幻的)な営為(自伝的であると同時に虚構的)でもある。当時はあまりに個人的なものでラソシアシオンですら出版できないと考えていたが、トロンダイムやキロフェール、コンチュールといった仲間たちに見せたところ、熱狂的に支持してくれた。『Le Tengû Carré(四角テング)』については、『Le Cheval Blême(蒼白の[蒼い]馬)』の直後に出された本であり、前著が自伝的な要素を強く持っていた反動もあり、純粋な物語を描きたいと考えていた。世界の歴史や伝説、宗教などに興味を持っているが、この作品のソースとなっているのは若い頃に読んだラフカディオ・ハーンの小説である。

4.『Fusée(ロケット)』という雑誌の「ゴジラ」特集号。「La Mort de Gozilla(ゴジラの死)」という作品を寄稿。上に挙げた『Le Tengû Carré(四角テング)』と言い、ダヴィッド・ベーをジャポニズムの文脈で考えることも可能ではないか。

5.白黒BDの伝統について。日本のマンガとの比較で、BD=カラーという説明がよくなされるが、必ずしもそうではなく、ダヴィッド・ベーは昔からある白黒BDの伝統の上に立っている。まず、ダヴィッド・ベーに影響を与えた白黒のBDとして『Charlie Mensuel(月刊シャルリー)』という雑誌の存在を無視することはできない。Wolinski(ヴォランスキー)が編集したこの雑誌は1970〜1980年頃にかけて大きな影響力を有していた。ダヴィッド・ベーにも大きな影響を与えることになるコンビ Sampayo(サンパイヨ)と Muñoz(ムニョス)の作品がフランスに紹介されたのもこの雑誌を通じてでした。大人向けのBDを意識的に発表しており、白黒表現の力強さと多様性を開拓した点に大きな功績が認められる。同じ『月刊シャルリー』に作品を発表していた作家に Georges Pichard(ジョルジュ・ピシャール)がいる。『大発作』の中に描かれているように、彼は一流の作家であると同時に、パリの美術学院におけるダヴィッド・ベーの師でもあった。ダヴィッド・ベーは教師としても人間としても優れたこの人物から多くのことを学んだとのこと。2003年に出版された『大発作』のフランス語オリジナル版『L’Ascension du Haut Mal』第6巻がピシャールに捧げられているが、惜しいことに彼はそれを手にすることなく、この世を去ってしまった。それ以外でダヴィッド・ベーに影響を与えた作家としては、Hugo Pratt(ユーゴー・プラット)と Jacques Tardi(ジャック・タルディ)の名を挙げることができる。とりわけジャック・タルディはテーマの点でダヴィッド・ベーと親近性のある作家である。共に祖父が戦争に従軍するという体験を有しており、ダヴィッド・ベーはタルディのデッサンに多大な影響を受けている。

 と、ここまでが細萱さんのお話で、ここからは斎藤環さんのお話になります。パトグラフィー(病跡学)の立場からダヴィッド・ベーの『大発作』を読むという感じでしょうか。

 まず、斎藤さんによるパトグラフィーについての簡単な説明。芸術家の中には、うつ、統合失調症、癲癇という病理を抱えつつも、それを創作へと昇華する人たちがいる。癲癇であったとされる有名な芸術家としては、ドストエフスキー、フローベール、ゴッホが挙げられる。ドストエフスキーなどは、癲癇が睡眠中に発症したために、覚醒している間に発作が起きる直前のエクスタシーを記述することもできたのだが、一般に発作そのものを表現に取り込むことは難しいとされる。いきおい患者の身辺の人が癲癇の発作を記述することになるのだが、それをエピパトグラフィーと言う。エピパトグラフィーの有名な例としては、高村光太郎とその妻千恵子、彫刻家ロダンとカミーユ・クローデルの関係が挙げられる。それぞれ発作がなかだちとなって、創造活動が行われている。一家の長男の発症が家族を巻き込んでいく様を描いた『大発作』もこうしたエピパトグラフィーの1例として考えることができる。

 続いて、斎藤さんからダヴィッド・ベーに質問。以下にそのやりとりをごくごく簡単にまとめます。

斎藤:現在では多くの場合、癲癇は薬物によるコントロールが可能。副作用が起こるようなケースも多くはなく、『大発作』を読んだ読者が癲癇を恐ろしい病気と誤解する可能性がある。ここに誇張はないのか? また著者の意図は奈辺にあるのか? 
ダヴィッド・ベー(以下DB):自分としては見た通りを描いたまでだ。当時(1960〜70年代)、有効な治療法は存在していなかった。そもそも原因の特定ができず、薬は発作を弱めはしたが、完全に抑えることはできなかった。

斎藤:現在は発作は治まっているのか?
DB:以前よりはましになっている。ただ、薬で完全に抑えることはできず、時に非常に大きな発作が起きることがある。

斎藤:『大発作』を読むと、反精神医学療法に向かった過程が詳細に描かれていて興味深い。このような治療法に向かったことは回り道だったのか、それとも有意義なことだったのか?
DB:それは私にとってか、それとも兄にとってか?
斎藤:切り離して考えることは難しいが、結果的にお兄さんの病は治らなかったのだから、あなたにとってどうだったのかを聞かせていただきたい。
DB:かつてあるインタヴューで、私の子ども時代が不幸であったかと聞かれたことがある。答えは否である。つらくはあったが、興味深い子ども時代であった。私はそこから現在の仕事に向かうきっかけと批判精神を得ることができた。

斎藤:ご祖父が体験した戦争やチンギス・ハーンの戦争など非常に多くの戦争が描かれているが、なぜこれだけ多くの戦争を描いているのか? ヒッピー的反戦文化の影響を受けた両親の無力さに対する反発があるのか?
DB:私たちの生活自体が戦争であった。兄の発作が始まるまでは、私たちは普通のどこにでもある家庭だったのだが、発作以降は毎日が戦争のようになってしまった。両親の属している文化ということもある。また、両親は参加しなかったが、アルジェリア戦争も重要な影響を及ぼしていたに違いない。当時、既に漫画家だった私自身がそうした戦争としての日常生活を感じとっていたのだろう。

斎藤:作品を読むと、あなたは癲癇に対する恐れを抱きつつも、それを異物として排除してこなかったように思われる。あなた自身、癲癇をどう受け止めていたのか? 自分自身に内在するものと捉えていたのか?
DB:最初は当然敵意に近い感情を抱いていた。しかし、後にそうした感情を相対化することができるようになった。兄の癲癇を目の当たりにすることで、それが自分にとって当たり前のものになったという感じである。

斎藤:あなたの家族の結束に感銘を受けるとともに、それとは真逆の公共の場における世間の敵意や嫌悪感に驚かされた。そういった反応はフランスでは当たり前のものなのか?
DB:現在ではどうかわからないが、当時は非常に強い敵意が存在していた。狂人や麻薬中毒者と混同されることもあった。そういったものを排除しようという風潮があったように思われる。

斎藤:この作品は、語り手が子どもから思春期を経て大人に至る成長の物語とも言える。そんな中で性にまつわるエピソードの少なさに驚かされるのだが、これは意図的に排除されているのか? あるいは、癲癇と向き合うためにそうならざるを得なかったのか?
DB:私は必ずしも私に起きた全てを語っているわけではない。少年時代のそれについては意図的に語っていないと言っていい。大人になってからのものだが、私の恋愛については第6巻に描いてはいる。ただ、兄が常に孤独だったように、恋愛は私にとっても禁じられたもののように感じていた。

 以上で斎藤さんのお話はおしまい。最初の予定に従えば、ここでクロス・トークになるはずだったんですが、そうはならずに再び細萱さんに戻って、ダヴィッド・ベーの『大発作』以後の作品の話に。以下に細萱さんとダヴィッドさんのやりとりを簡単に記します。

細萱:『大発作』は15ヶ国語ほどに翻訳されている。この作品は言わば私BDと言っていいものだが、各国語に訳されてどのような反響があったか? また、この作品以後のフランスの流れはどのようなものか?
DB:たしかに今現在多くの作家が自伝的な作品を描いている。以前はアメリカから紹介されたロバート・クラムの作品などを除くと、自伝的な作品は存在しなかった。だからこそラソシアシオンという出版社を作ったのだ。BDがそれまでそうだったように子ども向けのものに留まっていなければならない理由はない。文学のように多様な形を取るべきである。そして今ではエッセイ的なものやルポルタージュまで含めてかなり多様な作品が現われてきている。

細萱:現在『Babel(バベル)』という作品が進行中である。この作品は戦争についての新たな切り口を提示しているようだが?
DB:必ずしも戦争だけではない。この本はある意味『大発作』の延長である。『大発作』は少年時代から大人に至るまで、各時代の自分の視点や感情を導入した作品だが、『バベル』については現在の視点から描かれている。とりわけ1960〜70年代の自分にとって重大であった出来事―文化的なこと、政治的なことを含めて―を歴史的に眺め、多様な形のまま取り込もうとする試みである。それはバベルの塔のようにさまざまな要素が積み重なってできあがるはずのものであり、言わば、私にとって世界‐書物となるべきものである。

 ここで、『大発作』以後のダヴィッド・ベーの仕事の紹介はおしまい。この後、質疑応答に移りました。聴衆とダヴィッド・ベーのやりとりを全部書くのは大変なので(笑)、どんな質問が挙がったかだけ簡単に記しておきます。

■日本の戦後は1945年以降だが、フランス人にとって戦後とはどのようなものか? インドシナ戦争、アルジェリア戦争、スエズ動乱と続き、5月革命辺りからようやく落ち着いてくるように思えるのだが…

■マクロビオティックの創始者桜沢如一は日本では忘れ去られた存在だが、あなたはこの人物の影響を受けているのか?

■癲癇を患っているあなたのお兄さんを家族が一丸となって支えている姿に感銘を受けた。家族が支えになってくれず、1人で戦わねばならないような状況に陥った時、どうすればいいかアドヴァイスをいただけないか…

■以前、来日した折、谷中のイベントで、ご自身がメビウスやビラルといった作家たちとは違うと強調していらしたのが印象に残っている。実際、今回翻訳されたものを読んで、従来のBDよりは映画や文学に近しいものを感じたが、あなたご自身、どういった文学や映画に影響を受けてきたのか?

■あなたの作品を読んで、創作がセラピーの機能を果たしているのではないかという印象を抱いた。私自身、似たような経験があり、創作活動を行うことで、家族の団結を深めることができたという経験を得たのだが、あなたの場合はどうだったか? 本を出す前と後で家族の関係は変わったか?

■絵柄についてだが、中世の版画の影響はあるのか?

■感情を怪物などの形で表現する方法は日本ではあまり馴染みがなく、感銘を受けた。どこかアール・ブリュット(=アウトサイダー・アート)を思わせるところもあるのだが、そうしたアートの影響はあるのか?

 質疑応答は以上です。ダヴィッドさんはそれぞれの質問に丁寧に答えていらっしゃいました。個人的には、影響を受けた文学や映画は何かという質問に対しての答えが興味深かったです。文学に対するオマージュを作品の中に盛り込んでいるという話になって、エマニュエル・ギベールと一緒にやってる『Le Capitaine Écarlate(深紅の船長)』を自ら紹介してくださったんですが、それによると、この本の主人公は19世紀末に実在した作家マルセル・シュオッブで、この冒険好きだが、実際には蒲柳の質であった作家にこの本の中で冒険をさせているとのこと。シュオッブには『架空の伝記』という作品があって、その中で彼は歴史上の人物の伝記を想像で書いちゃってるんですが、今度はダヴィッド・ベーとエマニュエル・ギベールがシュオッブの「架空の伝記」を描いてるわけで、聞いててちょっと感激しちゃいました。

 最後に3人の出演者の方々がそれぞれ総括をしました。まずは斎藤環さんから。日本で『大発作』のような作品はありうるでしょうかという細萱さんの問いに対しておおよそ以下のように答えていらっしゃいました。

 おそらくこういう作品を前にして日本の読者は戸惑うのではないか。様式化した絵柄、漫画を描く際の文法の違い、日本のマンガでよく用いられる漫符を用いていない点… いくつか原因が考えられるが、感情をシンボルやイコンを用いて描く点も読者を戸惑わせるはずである。このような作品は読むのに時間がかかり、文学作品のような重量感を与える。日本の私マンガを読む際には情緒の回路を通じて読むために共感作用が生ずるのだが、『大発作』のような作品はシンボルの回路を通じて読まねばならないために、それに慣れるのに時間がかかる。ただ、このように様式化した表現を通してしか描けないものがあり、シンボルの積み重ねの果てに感動的なラストシーンがあるだけに特別な感銘を生むものである。情緒的な表現とは異なるこのようなプリミティヴな印象を与える作品が、日本のマンガに影響を及ぼす可能性もあるかもしれない。

次いで細萱さん。

 マンガとBDの間にはかなりの差異が横たわっている。現時点でBDが日本語に訳されるということは少ないが、今回の明石書店のように、本来、マンガの出版をしていない出版社がテーマに着目してBDを翻訳するということがこれから増えていくのではないか。今後の発展に期待したい。

ここで、細萱さんから明石書店の担当者山岡さんと『大発作』の翻訳家関澄かおるさんの紹介がありました。

 最後にダヴィッド・ベー本人による総括。

文化的な障害、それからことによるとテクニック的な障害があるのかもしれませんが、ともあれ楽しんで本書を読んでください。

とのことでした(笑)。以上で終わりです。刺激に富んだ非常に良いシンポジウムだったと思います。ダヴィッド・ベーさん、斎藤環さん、細萱敦さん、お疲れさまでした。

コメント(9)

すばらしいレポ、ありがとうございます。
とても充実した時間のようでしたね
行きたかったなぁ

でも斉藤さんのお話は難しそうですね
見事なレポート、ありがとうございました。

読んでみたくなりました。
ショードヴァル様、詳細なレポ有難う御座いました。
この討論会、私も参加しておりましたが、
私としては、ダヴィッドさんを含め、家族全員が
お兄様を決して見捨てず、常に支え、共に癲癇と闘ったことが
この「大発作」を感動的なものにしている、ということに尽きると
思いました。
後、水頭症のお子さんが二人いるお父様から「この作品から家族に
変化はあったか」という質問が印象に残りました。

「結局、この家族は救済されたのだろうか」という疑問と共に、
最後、ほろりとさせられた、この「大発作」ですが、
こうして著者から直接貴重なお話を伺い、とても幸福な、
感動的な一夜でした。
この後バレエのテレビが放映されていたと友人から聞かされましたが、
知っていても観なかったでしょう、多分。

それにしても、ダヴィッドさん、素敵な方でしたわあ・・・ハート
やはり、この様な大きな苦難を乗り越えて成長した方は
人間のスケールか、どこか違う、という気が致しました。
詳細なレポートありがとうございます。
参加できなかったのがとても残念です。何かのかたちにして活字にまとめられたらよろしいのでは?
>Kigalisoupe さん
同時通訳の機械を借りることができたんですが、それを使うとフランス語がはっきりと聞き取れないので使わないことにして、そのため、聞き逃しちゃってる部分が結構ありそうです(笑)。斎藤さんのお話、明快でわかりやすかったですよ。ラカン派の精神分析の話とかになったらお手上げだったでしょうけど(笑)。

>midor0ma さん
ぜひ読んでください。たぶんイタリア語になってるんですよね? フランスには自伝的なBD、あるいは私(わたくし)BDを描く人が結構いるってことなんですけど、イタリアはどうなんですかね? イタリア漫画についてもいろいろと勉強したいところです。

>菫子さん
素晴らしいシンポジウムでしたよね。実際に病に悩んでいる方々がこうして『大発作』に励まされたというようなことを告白なさるのを聞いて、僕は『大発作』について翻訳されたBDという視点しか持ってなかったので、新鮮な驚きを感じました。当たり前って言えば当たり前なんですが、他の本のように人に感動を与えられる素晴らしい本だということですよね。ダヴィッドさんは質問に対して、安易な返事をなさっておらず、その点に好感を覚えました。

>Father U さん
ご参加できず残念でしたね。こういうイベントが他にもたくさん行われるようになってくれるといいのですが… 僕が書いたものはともかくとして、このシンポジウムの内容は活字にする価値があると思います。と言ってもなかなかそういう媒体がなさそうですね…(笑) 
ショードヴァルさん、詳細なレポありがとうございます。
そしてお疲れさまでした!
数日中に私も日記を書くつもりでおりますが、ぜひこの記述へのリンクをお許しいただきたく思います。

このシンポジウムは、BDについてとBDにおけるダビッド・ベー作品の位置づけを分かりやすくまとめてくださった細萱さんの解説と、斉藤さんの病理学的見地から得る疑問への解明、そして最後の質疑応答がほどよくバランスをもって行われた有意義な会であったと思いました。
時々、ハッとさせられる内容も多々有り、勉強になりました。

ただ、個人的には少々アカデミックすぎる内容であったような印象を覚えたのと、良い悪いを抜きにして、「BDとは(いまだに)こういう扱いなんだ」という感想を持ちました。
というのも、ショードヴァルさんがレスでお書きになったように、「僕は『大発作』について翻訳されたBDという視点しか持ってなかった」と受け取られている方々が他にもいらっしゃるのだろうなと思うと、感情的にはちょっと残念でなりません。
細萱さんの仰ったような「私マンガ」に限らず、国内外を問わず作者とは、こと作品を描くことにおいて身を削るような想いをしているはずです。
今回のシンポジウムでは、質疑応答の時間帯において、読者のなかには本人あるいは身内に病を抱えた人がいて、彼らがその想いを作者にぶつける場面がありました。
私は本来、BDうんぬんを抜きにして、作品とはこのように語られるべきであろうとも思うほうです。
このあと、ダビッド本人に「シンポジウムでの質問に対して、答えるのは難しくなかった?」と訊いたところ、「慣れてるから大丈夫だよ。ただ、実際に病気であるとか家族が病気だという人に対していいアドバイスを与えてあげられないのが難しいところだ」とのこと。つまり彼らの問題は個別のものである。言い換えればダビッドが経験してきたものもパーソナルなものであるということをきちんと自覚してるわけですね。それでも世界的に評価されるに至る事実をもっと取り上げて欲しかったように感じました。
BDと日本漫画における「記号」の違いも重要であり、BDがいかに日本人読者に受け入れやすいものにしていくかは常に抱える命題ではありますが、「作品ありき」という考え方も失ってはならないと思います。
仏文学や映画と同様、BDもそういった捉えられ方がいつ来るのだろうかと願ってやみません。

<情報補足>
1)「Little Nemo – 1905-2005 un siècle de rêves」を発行したLes Impressions Nouvellesという出版社は、ブノワ・ペータースが個人的に立ち上げた(確か)ベルギーの出版社です。この本、装丁も美しく非常によい本です。

2)ダビッド・ベーが日本に初めて紹介されたのは、フレデリック・ボワレが企画した2001年のイベントです。(初来日もこの時です)
他のオルタナ系BD作家の紹介もありますので、ご参考までにどうぞ。
http://www.boilet.net/jp/nouvellemanga.html
>仙の道さん
熱い書き込みありがとうございます(笑)! リンクは大歓迎です。ぜひどうぞ!

たしかに若干アカデミックなシンポジウムでしたね。ただ、これはダヴィッド・ベーという作家の性質上仕方がないところもあるのではないかと思います。ダヴィッドさんは、10月4日の東京工芸大学のワークショップで一日ご一緒させていただき、その人となりを拝見した限りでは、冗談を言ったり、おちゃらけたりする一面を持っていらっしゃいますが、その一方で、非常に知的な方であり、それはシンポジウムでのお話にもよく表われていたと思います。既にコミュで紹介しているインタヴューを読んでも明らかですよね。幅広い日本の読者層に受け入れてもらいたいという気持ちはもちろん僕も持っていますが、現実問題としてダヴィッド・ベーにまず関心を持つのは文学や美術なんかが好きなタイプの人間であり、そういう人たちにアピールするという点では、非常にいいシンポジウムだったのではないかと思います。少なくともそういう人たちにBDも面白いじゃんという印象は与えられたんじゃないでしょうか?

「BDとは(いまだに)こういう扱いなんだ」という点ですが、お気持ちはよくわかります。ただ、僕の「翻訳されたBDという視点しか持ってなかった」という発言は、この作品がつまらないとか、読者の心に迫らないというようなことを言ってるわけではないので、まあ、大丈夫だとは思いますが、誤解をなさらないように(笑)。ダヴィッドさんのお兄さんと同じ病に悩む読者がこの作品を読んで励まされるというのはよくわかる話です。BDうんぬんという知識じゃなくて、作品と向き合いそれ自体のよさを玩味すべきじゃないかという話もよくわかります。ただ、一方で、日本にはマンガという非常に強力な先行ジャンルが存在しており、その中でBDが認知されるためにはBDって何なのかという説明は絶対必要だと思うんですよね。今回のシンポジウムでも、感情を怪物のようなシンボリックな形で表現するという方法は日本のマンガではあまり見られないという話が質疑応答の中にありましたが、こういう説明こそがBDを日本に文化の中に溶け込ませる要因になるのではないかと思います。もちろん仙の道さんもBDをうんぬんすることがダメだと仰ってるわけではなく、「『作品ありき』という考え方も失ってはならない」という表現に端的に表われているように、知識だけに偏らない健全な紹介をしようというお話だと思いますが、曖昧な表現を用いた者の責任としてBDというジャンルを語ることの意義を一応自己弁護しておきます(笑)。文学や映画同様、BDについてもジャンルではなく、作品そのものが論じられるようになることを僕も願ってやみませんが、文学や映画は日本に紹介されているものの数が圧倒的に違うので、今の時点であまり簡単に比較はできなさそうですよね。小説にしても映画にしても日本語に訳して紹介してきた人たちの努力が積み重なって、これこれのジャンルだと構えることなしに、今、特に違和感なく消費できるようになってるわけで、大切なのは翻訳で読めるBDが増えることかなと思ったりします(笑)。

「いいアドバイスを与えてあげられない」という点、上でも述べましたが、安易な返事をなさらないダヴィッドさんの態度に感銘を受けました。僕は正直、この作品が「癲癇」という問題に回収されてしまうことをもったいないことだと思っています。もちろんそういう読みもありだと思うんですが、僕的にはあまり興味をそそられません。僕がこの本を読んで共感したのは、ダヴィッドさんの孤独であり、幻想的なものに対する愛、それから神秘主義や幻想文学の列挙の部分に見られる博識です。僕はこういうところに感銘を受けたけど、他の人は他の部分が気に入るだろうし、つまりは読者の数だけ読み方があるってことでいいんじゃないでしょうか(笑)? それこそこういう感想を述べることが作品と向き合うということになるのかもしれませんが、こういう話もBD研究会の中とかだったらできるかもしれませんね。

補足情報ありがとうございます! 2001年当時、僕はBDのことを全く知りませんでした(笑)。当事者的には隔世の感って感じでしょうね。ただ、まだまだ紹介されてない作家もたくさんいることでしょうし、これから翻訳紹介がさらに進むといいですね。
ショードヴァルさんこそ、熱いレスをありがとうございました(笑)
どんなリアクションをくださるのか、ちょっと想像と違ってたところがあったのが面白いです(←深い意味はありませんよあっかんべー
上記の私の発言に、ひとつ説明を加えるなら、10年以上の間なんらかの形でBDに携わってきた人間として、いまの心境は「漫画は漫画である」ということです。
ベーデーと略すとフランス=ベルギー漫画を指しますが、バンド・デシネと仏語でしっかり表記すると(すみません、ブラウザの関係でアクサンが出ない場合があるのでカタカナで失礼@@)、漫画(あるいは漫画表現)そのものを指すといった使い分けがあちらにはあるようです。ここを大事にしたい。
私個人のモチベーションは、「良い漫画作品」を日仏双方に知ってもらいたいところにあるため、ショードヴァルさんの仰るような日本におけるBDの現状が、その逆に対しあまりにもギャップがあって10年来ほとんど変化がないことにおいて、このシンポジウムで改めて実感し、一瞬「遠い目」になった……ぶっちゃけそんな想いがあったということです。

とはいえ、こんなことを現時点で考えているのは私だけかもしれない(笑)
ショードヴァルさんが、このコミュを立ち上げられて、熱心に活動されているのを見るにつけ、目映いばかりですよ〜ぴかぴか(新しい)
このノリ(勢い)に便乗して、このタイミングでまたいろいろとチャンスを見つけたいです♪ これ以上のディープな話はまたいずれお目に掛かった時にでも。
>仙の道さん
特に熱くするつもりはなかったんですが、もう寝ないと死ぬというような状況の中で書いてたらなんかうまく文章をコントロールできなくなってしまいました(笑)。ちょっとぎすぎすした印象を与えてしまっていたら申し訳ありません。

「BD(ベーデー)」と「Bande Dessinée(バンド・デシネ)」の違い、めちゃくちゃ面白い話ですね! なるほど、そういう使い分けをしたりするんだ! 以前、短くまとめられたBDの歴史を勝手に訳したことがあるんですが(http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=1&comm_id=424387&id=3533003)、たしかにここでもバンド・デシネって言い方を漫画全般の意味で使っていて、訳すのに困ったことがありました。結局、「漫画」と訳したんですけど…(笑)

「漫画は漫画である」というお話、非常によくわかります。オルタナティヴな作品については十分そういう路線でやっていけるのではないかと思います。ただ、やはりもう少し翻訳自体が増える必要があるのかなと思ったりします。僕は『大発作』を、BDについてほとんど知識のない、ただマンガや映画はすごく好きな友人に貸してみたんですが、普通に面白いが、重いという感想を得ました。日本のマンガとの比較でいくと、どうしても速度のある読みができないという点で、ある種の読みの快楽が減殺されてしまうというのは否めないことだと思います。逆に斎藤環さんが仰ったように、これを文学のような濃密さとポジティヴに表現することもできるわけで(別に文学が偉いというわけじゃありませんけど…)、BDの魅力をうまく説明する必要というのはどうしても出てくるでしょう。僕も一読した時には友人と同様な感想を持ったわけですが、2度目に読んだ時にはちょっと違った感想を持ちましたし、他のBDやオルタナ系漫画の文脈で考えてみると、また別の意味合いを帯びるということもあると思います。おそらくこの作品だけでも十分価値はあると思いますが、他にもBDやオルタナ系の漫画が多く訳されれば、それらとの関連でさらに興味を喚起できるのでは…? 自伝的な作品ということで言えば、ファブリス・ノーの『Journal (日記)』(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=20930065&comm_id=424387)とか、オリヴィエ・カとアルフレッドの『Pourquoi J’ai Tué Pierre(僕がピエールを殺した理由)』(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=16772084&comm_id=424387)とか、エティエンヌ・ダヴォドーの『Les Mauvaises Gens – Une histoire de militants(レ・モベーズ・ジャン―活動家たちの物語)』(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=12291969&comm_id=424387)とか、アメコミだけど、アリソン・ベクデルの『Fun Home – a family tragicomic(ファン・ホーム―ある家族の悲喜劇)』(http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=21376822&comm_id=424387)とか。

つい最近になってBDに関心を持った者の目からみると、2005年以降はサトラピも訳されたし、今回こうしてダヴィッド・ベーも訳されたし、『平壌』のような作品も地味に翻訳紹介されているし(笑)、あるいは『ブラックサッド』のようなオルタナ系とは違う、でも非常に洗練された作品も翻訳されたし、ということでそれほど事態は悪くないのかなという気はしなくもありません。でも、もっとたくさん翻訳されてほしいですけど(笑)。ただ、90年代にも同じような状況があり、それが尻切れトンボになっちゃった風なので、そんなことにならないように祈るばかりです。1994年に出たマックス・カバンヌの『目かくし鬼』(小澤晃訳、講談社デラックスKC)なんてほんとに素晴らしい作品なのに、普通に手に入らないのはもったいないですよ。あと、日本語版を読んでないので出来がわかりませんが、ボードワンの『旅』とかね。

ということで、なんかまた長くなっちゃいましたが、さらにディープな話はまたお会いした時に(笑)。

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