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『正しい日本語』に疑問を持つコミュの正しい日本語の弊害を語ろう!

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このトピは『正しい日本語』を
声高に叫んでる人が巻き起こした弊害を語るトピです。

それではみなさんどうぞ!

コメント(36)

よだきい は大分以南の方言です。
派生語や流行語を、正しくない使い方として議論するならまだ良いのですが、
方言すら正しい日本語と認めない方が問題だと思います。
地方で独自の進化を遂げた日本語が方言であり、
その地方に在住してる人々は、
方言をスタンダード言語としているのです。
それをも否定するのは、
あまりに狭量と云わざるをえません。
標準語なんて日本の歴史を見れば極最近のものですもんね。

江戸弁も関東弁も標準語じゃないし。
標準語ってなんだろう?
>「共通語は現実であり、標準語は理想である。共通語は自然の状態であり、標準語は人為的に作られるものである。」

標準語なんて恩着せがましい考えは好きくないっすね。
お互いに通じる言葉で共通語ならわかる気がする。
したがってお互い通じるならなんもさ方言だってイイべさ。
僕の中で標準語というのは、
理想でなく必然によって人為的に作られたものであると思っています。

本来、言語の目的は、
相手に対して情報伝達を行い、
双方でコミュニケーションを取るというものだと考えます。

これが新聞を始めとする、マスの情報伝達において、
共通の情報伝達手段として発達したのが標準語でしょう。

BIG FEET氏が言われるように、
標準語ではなく共通語であれば、
もっと柔らかく世間に取られたのかもしれません。

しかし現代の風潮である、
「標準語こそ正義! 正しい日本語を使え! コノヤロー!!!」
には疑問を得ずには居られません。
うんうん!そそ!

つまり、これが標準=スタンダードっていう基準が、
何を持ってスタンダードなのかがハッキリしてないのに
標準って言い切っちゃうからいけないんですよ!

だから、「これが標準語」と決め付けちゃうことからして
無意味であるし、それが正義と論点をすり替えちゃってるから、
それは違うだろうということと思いますわ!

>ら抜き言葉も過去形も、もしかするとそのうち標準語になるかもしれないし。

これが一概にダメって言っちゃう方が危険でしょう。
確かにキレイな表現とか、文法的に変という見方はあるかもしれないが、
言葉は生き物である以上、意味が通じればOKなんですよ!
例えば「好きくない」っていう言葉があったけど
意味的には通じてるわけだし、
最近の「ヤバイ」も意味が変わった使われ方されてるけど
成立しちゃってるから否定はできません。

だから、コノヤローで否定しちゃうことで天下を取ったような
態度に出ること自体が滑稽というか裸の王様ですから!
言語の持つ「記録」という役割を考えると

「正しい日本語なんて強制すんなやい!」

のような考え方にも問題があると思います。


話し言葉と書き言葉は別ものです。

話し言葉はある程度自由でいいと思いますが、

書き言葉には正しさを求めるべきだと思います。



例えば「確信犯」の本来の意味をご存知でしょうか。

現在、確信犯と言えば「悪い事とわかっていてそれをやること」という意味ですが、本来は「正しいと思ってやった事が結果として悪い事になってしまった」という意味でした。

後者の意味で確信犯と書かれた昔の書物を、現在の人が現在の意味で捉えてしまっては作者の意図と食い違いが生じ、意味がわからなくなってしまいます。


「正しい日本語」に賛成!反対!ではなく、柔軟に考えるのが賢いのではないか、と私は思います。
私は、言語学者でも、ヒステリックに「正しい日本語」を叫ぶ者でも
ありませんが、乱れた日本語は正すべきとの考えを持つ一エンジニアです。
従って「正しい日本語の弊害を語ろう!」というトピック名に
少なからぬショックを受けたため、全ての発言を精読しました。

まとめてみると以下の3通りの主張に集約されます。
A) 言葉は本来流動的なものであり「正しい日本語」=標準語なるものの
正統性の根拠が薄弱である
B) 用語法・文法の類はアプリオリに決まったものではなく、実情に合わせて
帰納的に解釈されるものである
C) 標準語からの逸脱に対する「正しい日本語」の強制は、自然かつ自由な
言語の使用に対する硬直した反応である

これらの主張には、私もあらかた賛成します。私が日本語の乱れを嘆く理由は、
これらとは別の観点によるものです。

まず標準語の存在に関しては、不人気乗りさんが5で発言されているように
必要により人為的に策定されたものであり、言語機能として最低限、
「同一言語使用者間の意味の相互不達を避けること」
以外に本質的な意義は認められないものと考えられます。
従って「相互伝達性の担保」という目的を超えてまで、標準語の使用を
権力的に強制すべき理由などありません。

一方、問題のある日本語として指摘されているケースを改めて見直してみると、
1) 方言由来の単語、用語法
2) 限られた集団内における隠語・符牒(業界用語、女子中高生言葉など)
3) 文学的・詩的表現効果としての意図的な逸脱または造語(「シクラメンのかほり」など)
4) 感覚的な語義用法の拡大(「ヤバイ」、「普通」、「ありえない」など)
5) 誤読(「他人事(たにんごと)」、「早急(そうきゅう)」など)
6) 口語的便用・簡略化(「ら抜き」、「本が売ってる」、「名詞+する」など)
7) 複数語義の混用(「二の舞を踏む」、「的を得る」など)
8) 語義の無理解による誤字・誤読(「やむ負えない」など)
9) 誤解・無知による語義の転用(「確信犯」、「役不足」など)
くらいに分類できるのではないでしょうか。

次コメントに続く >>>
>>> 前コメントからの続き

先ず標準語は1)を否定するものではありません。ただし多くの地方出身者が
一同に会するような状況での使用は相互伝達の観点からは明らかに不適当です。
同じ理由によって、意志の伝達性、公共性が話し言葉よりも要求される
「書き言葉」に使用することも避けるべきです。
すなわち相互不達が懸念される場合、1)の使用は控える事が良識として要求される
ことになります。

次の2)に関しても、特定集団内の単語・用語法という観点から、上記1)と全く同じ
理屈が成り立ちます。

また3)に関しては、自覚的に相互不達をも辞さず、表現活動として常識的用語法を
敢えて逸脱するわけですから、標準語の存在意義と矛盾するものではありません。
何故ならば、これらの表現が全ての人にとって同じ意味に解釈される必要は想定
されておらず、逆に解釈の幅、イメージの広がりにこそ意図があるからです。

4)については、既存の語に新感覚の用法が編み出されたわけであり、本質的には
文学的逸脱である3)と何等変わりがありません。正確な語義よりも、感覚的・曖昧な
意味が共有されている状態にこそ、これらの新用法の存在意義があるからです。

さて問題は、残りの項目にあります。私は、5)から9)の順番に従って「乱れ」の
度合いが強く、あくまでも相互不達回避の観点から正されるべきだと考えます。

5)に関しては、違和感を禁じ得ないものの、書き言葉においては差異がなく、
発話の音から、容易に本来の意味を推定できるため相互不達の危険は低いと考えられ
ます。しかし「誤読」と認識する人が存在する間は、誤読が完全に定着したとは
言えず、それを指摘された話者は、少なくとも誤読であることを認識しておく
べきであると考えます。何故なら言語の流動性を認めるにしても、明らかに「正解」
が存在するものは、「誤読由来の新しさ」でしかないからです。

6)の場合、標準文法からすれば文法的誤謬ですが、標準語策定の主旨を脅かすもの
ではありません。よって上記5)と同様の扱いで十分であると考えます。
唯一気になることは、生まれつき「ら抜き」、「本が売ってる」環境で日本語を
覚えた年少者の中に能動・受動・敬語、自動詞・他動詞の区別が曖昧になり、
格助詞の使用法が不安定で、意味が正確に把握できない文章を書く人が現れつつ
あることです。
よって、言葉の相互伝達性を担保するためにも、特に書き言葉において、最低限
「皆に通じる日本語」の習得は必要であると考えます。

7)については、話し言葉の勢いの中では、言わんとする内容が十分理解できるものが
多く、相互不達の危険は比較的低いと思われます。しかし複数の語義の組み合わせで
一つの意味を表すイディオムにおいて、混用がなされた時点でそれは「誤りであること」
が確定しており、更に本来の意味を成さなくなっています。よって、このケースに
ついては、誤りの指摘を受けたら素直に改めるべきと考えます。

8)は、例えば「止むを得ない」を「やむ負えない」と誤解した時点で、表記上の誤字
のみならず、発音的にも本来の句を想定できないものに歪められています。よって、
相互不達を回避する意味から、正しい原義に改めるべきです。

9)に至っては、明らかな誤りであり、意味上の逆転が生じているため、深刻な相互不達
を引き起こします。誤用が完全に定着し、辞書的にも誤用が「新解釈」と認知される
までは、誤用の指摘を受けた場合、直ちに改める義務を負うものと考えます。

まとめると私は、歴史的・習慣的に原義が定まっており、それに対して明白な誤用を
犯していると認められた場合、これを批判的に指摘する行為は「正しい日本語の弊害」
どころか積極的・肯定的意味を持つ、ということを主張します。

長文失礼致しました。活発な議論の叩き台になれば幸いです。
>Ziffさん
興味深く読ませていただきました。おおむね同意です。
5)6)については、いずれは規範的な日本語に取り入れざるをえないでしょうね。
私の基準では、もはや「乱れ」として指摘する対象ではないという認識です。

特に、6)についてですが、、
文法機能のねじれた文章を書く人は、年少者に限られません。
私が前に働いていた会社の部長(もう還暦を迎えたと思います)の文章は本当にひどいものでした。
その"年少者"の書く文章の文法的誤謬は、本当に「ら抜き」「本が売ってる」式日本語の蔓延のせいでしょうか?

「ら抜き」のせいで、能動・受動・敬語の使い分けが曖昧になったとは、私は思いません。
むしろ逆です。
現在の"標準語"では、助動詞「れる」「られる」は「受身」「自発」「可能」「尊敬」の4つの意味を表すとされています。
対して、「ら抜き」すなわち「一段&カ変動詞未然形+れる」の形は、「可能」の意味だけを表します。
4つの意味を表すのに、同じ助動詞を使いまわしていては不便なので、「可能」だけを表す特別な形が出現したのでしょう。
不便に感じるようになった理由は、「召し上がる」「ご覧になる」等の敬語が衰退して、「食べられる」「見られる」式の尊敬表現が盛んになったことも関係があるかもしれません。が、これは誤用ではありません。
また、なぜ「可能」が独立したのか、については、五段動詞には対応する下一段の可能動詞が存在するのに対し、一段&カ変動詞には存在しなかったことが挙げられると思います。


「本が売ってる」については、
例えば、以下の例文だったら、私はNGだとは思いません。

・この本は 近所の本屋で 売っています。 (係助詞「は」による取り立て: 近所の本屋で この本を 売っています。)

「売る」の動作主を言いたければ「彼らは」ですが、特定の人物が念頭にあるわけではないので、省略したほうが自然です。
この文の中で言いたいことは、「誰が野菜を売っているか」ではなく「何が売られているか」であり、自他の区分を考えずに文意だけ汲み取れば、自動詞的意味合いのほうが強く感じられます。
そう考えると、格助詞「が」を使いたくなる気持ちは分かります。
もちろん、受身文のほうがより良いとは思います。

・この本は 近所の本屋で 売られています。(← 近所の本屋で この本が 売られています。)
>Ziffさん
何度も絡んですみません。

6)の「名詞+する」については、口語的使用・簡略化というよりは、
私は日本語の持つ新語創出機能のひとつであり、日本語の長所だと思っています。
「名詞+る」(例:「メモる」「コピる」「写メる」「マクる」・・・)も同様です。

8)については、
「あたらしい」←「あらた」に関してはどうお考えですか?

7)9)についても、いますぐには思い浮かびませんが、
誤用が共感を得て、定着して今では標準語に取り入れられてしまっているものもありそうですね。

結局、5)〜9)は、いずれも、標準語への移行の過渡期にある表現です。
現在使われているそれらの表現の大部分が標準語に取り入れられる前に廃れてしまうとしても、その表現を使う人が大勢いて、彼らの間で意思疎通が成立しているのは事実です。
そして、私は、語彙や文法の通時的な変化は、その言語が生きている証拠であり、良いことだと思っています。

ただし、標準語として定着する前の段階の語彙に関しては、TPOに応じて言い換える配慮が必要だし、そのための知識も必要だというZiffさんの主張には賛成です。
本題に戻って、「正しい日本語」の弊害ですが、
以下のような「ら入れ」が起きているのは、「ら抜き」=日本語の乱れ
という認識がまちがって広まってしまったせいだと思います。

×今日は残業せずに早く帰られる。
○今日は残業せずに早く帰れる。

×狭くて入られない/通られない。
○狭くて入れない/通れない。
>真通さん
さりげなく軌道修正してみたんですが、、バレましたか??

私には、いわゆる「正しい日本語」を過剰に意識しまったせいでおこる「過訂正」のほうが興味があるんです。
つきつめれば、過訂正もそういった「輩」のせいで起こされた現象であることには変わりない気もしませんか?
ヨッコさん、コメントをありがとうございます。概ね同意見ですね。

■「ら抜き」について
ここまで蔓延すると、この流れを押し留めようとしても最早無力感を覚える
だけです(笑)。ヨッコさんの仰るとおり「ら抜き」による可能表現には
それなりの合理性があるからだと思います。

しかし「今日は…早く帰られる」などの「過剰ら入り表現」が現出した理由は、
ヨッコさんの「ら抜き」批判の高まりによる「過訂正」説もさることながら、
過渡期であるが故に「ら抜き」常用者自身が「ら抜き」を自覚していることに
原因があるのではないかと考えています。

つまり「らを抜いている」という自覚が残っているために、改まった場面で、
「何か入れなくては」という意識が働き、五段・サ変の可能表現にも
余分な「ら」を入れてしまうのではないでしょうか。
これを裏付ける証拠は、「今日は…早く帰れれる」などの「過剰れ入り表現」
までもが散見されるからです。

従って御指摘に従い「ら抜きによって能動・受動・敬語の使い分けが曖昧に
なった」を撤回し、より具体的に「ら抜きによって、五段・サ変動詞の可能表現
までが乱れた」に訂正します。

■「本が売ってる」について
この表現を使いたくなる気持ちについては同感です。
知り合いの36歳の教養ある男が会話で多用するため、私がそれを指摘したところ
「文法的誤用は自覚しているが、使用に当たっての違和感は全く無い。
さすがに書くときには使わない」
とのことで、そんなものかな程度に思っていました。

ところが最近、新書の中にもこの手の格助詞の誤用を複数回発見し、かなり
驚きました(著者は20代)。既に若い人の間で能動態・受動態や自動詞・他動詞と
格助詞の使い分けが崩壊し、それが書き言葉にも定着しつつあるのではないかと
危惧しています。何故なら格助詞は日本語の論理構造、すなわち意味決定の要
であり、正確な論理の伝達不全が起きる一歩手前の状況に近づきつつあると
考えられるからです。これは何としても批判し、少なくとも書き言葉からは
排除すべきではないでしょうか。

■「名詞+する」
「メモる」「コピる」「写メる」「マクる」などの便法に関しては大いに結構、
これでなくては表せない微妙なニュアンスもありますから、私もこうした例は
肯定的にとらえています。

しかし、新聞が株式概況でもないのに「官房長官は△△に対して好感している」
と書いたり、大企業幹部が謝罪記者会見で「そんなことまで苦情されても困る」
などと言うのはかなりみっともない話です。

まあしかし「嫌悪する」「陳情する」などは普通に使われており、これは習慣の
問題に過ぎないわけですから、ここら辺りが時代的に最も変わり易く、
また容認されていくのではないでしょうか。

■「あらた・し」から「あたら・し」、「あたらし・い」への変化について
完全に移行しないまま使い分けという形で定着している珍しい例だと思います。
ところで「あらたし」から「あたらし」への変化は平安時代と聞いています。
すなわち1000年以上前に、音の変化が加わり、その後じっくりと時間の波に
洗われた末に現在の併用状態に至っているわけですね。
私は正直言って、こういう自然な変化こそが言葉の経時的変化・変容であって、
言葉に対する意識が低下した結果、続々と現れた誤用を「変化」として
無闇に受容してはならないと考えています。
これはあくまでも相互伝達の担保と、言葉の恣意的な改変に対する
リスクヘッジという観点からですが。
>Ziffさん
■「ら抜き」について
>つまり「らを抜いている」という自覚が残っているために、改まった場面で、
>「何か入れなくては」という意識が働き、五段・サ変の可能表現にも
>余分な「ら」を入れてしまうのではないでしょうか。

まさにその現象を指す言葉が「過訂正」です。
真通さんの言う「正しい日本語を主張する輩」を過剰に意識した結果、引き起こされる誤用ですね。
私は「ら抜き」は歓迎していますが、過訂正には否定的です。

以下の専用コミュをご参照ください。
「ら抜き言葉推進派」
http://mixi.jp/view_community.pl?id=35618

■「本が売ってる」について
>少なくとも書き言葉からは排除すべきではないでしょうか。
同意します。

ただし、
若年層でヴォイスにゆらぎが出てきている、ということは、
数百年後の日本語からは、受動態や自他のペアが(部分的に)淘汰されているのかもしれません。
言語の通時変化は、簡略化の道を辿るからです。

>正確な論理の伝達不全が起きる一歩手前の状況
変化の過程では、世代間の伝達不全は、起きるかもしれませんね。
でも、基本的には、伝達できない言語は言語ではありえません。
外からみてどんなに意味不明に見える言葉でも、仲間内では意思疎通は必ず成立しているはずです。
助詞にゆらぎがあるのなら、かつて助詞が担っていた機能を、ほかの何かが代替して担っているはずです。
例えば、ゲルマン祖語→英語の変化の課程では名詞の屈折が退化しましたが、そのかわりにSVOとかSVOCとかの語順が固定されたため、英語話者はお互いに意思疎通できています。

■「あらた・し」から「あたら・し」、「あたらし・い」への変化について
現在では、「あたらしいノート」は言いますが、「あらたしいノート」は言わないので、併用とは言えないように思います。

>こういう自然な変化こそが言葉の経時的変化・変容であって、
「あたらし」は、正しくは「あらたし」のところを、ラ行とタ行の発音が難しくてうっかり言い間違える人が多かったことから生まれた言葉ですよね。
1000年前であろうと、発生当初はまぎれもなく「誤用」だったのです。
「言葉に対する意識が低下した結果、続々と現れた誤用」と何が違うのでしょうか???

>無闇に受容してはならないと考えています。
>相互伝達の担保
たしかに、そういった良識に濾過されることで、「じっくりと時間の波に洗われた末」、
淘汰されるべき誤用は淘汰され、広く認められた誤用だけが、数百年を経て「標準語」として定着していくのでしょうね。


現在採集できる誤用の中に、千年後に標準語になっているものが存在しないとは、断言できません。
訂正
>現在では、「あたらしいノート」は言いますが、「あらたしいノート」は言わないので、併用とは言えないように思います。

形容詞「あたらしい」と形容動詞「あらた(な)」の併用、ということですね。すみません。
ちょっと目を放している隙に、面白い展開になってきていますね。
ヨッコさんの言う「語彙や文法の通時的な変化」というのは、
いつの時代でもあったのではないかと、僕は考えています。

また、使う媒体によって、日本語の表現方法の変化も見過ごせません。
例えば、文章を書く時の段落の取り方や、
句読点の付け方にも時代ごとに変化が見受けられます。

今このように、ネット上で「トピックス」という形を取り、
我々は文章を書いているのですが、
僕などは『読み易さ』を想定し、句読点単位に近い形で段落を設定しています。
ネットが普及するまで、この様な段落付けは「悪い例」として教育されてきました。

句読点の位置も同じように
文章を読み上げる場合の「ブレスポイントの役割」という、
重要な役割を演じる物として本来は設定されているはずですが、
意図的に段落付けと併用し、
「読ませたい部分のインパクト付け」で使用するケースが多々あります。

Ziffさんの言われる、
相互不達に対する危惧も理解できます。
しかし、日本語に限らず、人が言語を主として意思伝達する場合、
様々な言い回しをもって相互不達を回避します。
その中から、便利で、使いやすい、
新たな言葉が生まれても不思議ではありません。
それが使いやすいものなら標準化されていくでしょう。
そう考えると、標準語も常に変化していると見るのが自然ではないでしょうか。

一部事象を捉えると、正しい日本語について嘆きたくなりますが、
今の「標準」ですら、常に変化し続けているのです。

そう考えると、標準でない日本語が出てきた場合、
「標準となり得る可能性を、目くじらたてて潰さなくても良いじゃん?」
と思うのですよ。
>>23 不人気乗り。さん
上のほうでいっぱい書かれてる「目くじらたてる」ような人って、本当に存在するんでしょうかね〜?
私は会ったことないんですけど。。

あ、ごめんなさい。不人気乗り。さん=トピ主さんでしたか冷や汗
私と同郷なのですねわーい(嬉しい顔)
東京人相手に北九弁全開で喋ると通じませんよね。で、「標準語喋れよ」と言われて傷ついた経験、私もあります。
東京の人って、母方言がほぼ標準語に近いので、きっちりした母方言を持つ私たちを羨ましがってる面もあると思います。
>>25 ヨッコさん
東京は地方出身者のるつぼですからね。
めいめいが自分のくにの言葉でしゃべると通じなくなってしまうので「共通語でしゃべるのがマナー」みたいになっているのかもしれません。
国際会議で、いきなりアラビア語で話しかけられてしまったら、「えと、すみません、英語でしゃべってくれます?」と言うというようなことかも。

>きっちりした母方言を持つ私たちを羨ましがってる面
そうですね。微妙なとこですね。
方言で、「○○のことは××っていうんだよ」と聞いたとき、「へえ!すごい!おもしろい!」「いいな、面白いな」と感じるのは確かです。
その「いいな」は「羨ましいな」というより、「こういうのがある世界でよかったな」という「いいな」なんですけど。

たまたま自分の母方言が共通語と近いからといって、その価値がほかの方言よりひくいと思ったり、母方言に対する愛着や矜持がほかの地方の人より薄くなったりするわけではないから、「羨ましい」という発想にはならないような気がしますが、まあ人によるのでわからないですね。
「汚名挽回」という言葉があります。
80年代あたりのメディアじゃ普通に使ってました。

ところがある日、誰かがこの言葉を「間違っている」と言いだしました。
確かに、彼の論理は一見正しく、支持する人が現れました。
そして、ウッカリ使ってしまった人は馬鹿にされ、叩かれ、精神的にフクロにされました。

「汚名挽回」については、テレビで引っ張りだこな、とある言語学者の先生が、
著書において「必ずしも誤用ではない」という見解を示しておられます。
しかし、もはやこのような論理的な意見ではなく、
「汚名挽回=誤用」「誤用を使う奴はバカ」「汚名挽回という奴=バカ」という、
感情論のみが先行する形となってしまいました。

で。
「汚名挽回」が誤用と思わなかった人たちも、その勢いに押される形となり、
あるいは間違ってると思わなくても、非難してくる相手をするのが面倒になったため、
今では「汚名挽回」を使う人は、ほとんどいなくなりました。

「汚名挽回」という言葉の現状について、私はこのように理解しております。
「正しい日本語」の弊害とは、大げさに言うならば、
まさしく人間が太古より変える事のできない狭量さ、愚かしさを想起させてくれうような気がします。
なんとなく、歴史上の様々な弾圧の歴史が思い出され、非常に嫌な気分になってくるのは、
私だけでしょうか。

「汚名挽回」について追記。

この言葉がこれだけ叩かれるようになったのは、決して論理的なものではありません。それは後付のレベルのような気がしております。
普通に使われていたこの言葉が急に使われなくなった理由は『機動戦士Zガンダム』というアニメに登場する悪役の一人『ジェリド・メサ』にあるらしいです。

ジェリドという人、多少性格に難があるものの、能力の高い人物として設定されたはずでした。しかし主人公のカミーユ・ビダンにはどうがんばっても勝てない。
で、その人が敗北を責められた時に「汚名挽回します」と言ったらしい。当時のアニメでは普通の用法ですし、当時の視聴者もさほど気にしなかったはず。またジェリドがどんなにカミーユに勝てなくても、それはカミーユの強さによるものだと皆が納得していたような気がします。

しかし。
昨今では「設定上強いけど勝てない人物」に対する風当たりが非常に強いようです。例を上げれば『キン肉マン』のウルフマンやブロッケンJrやジェロニモ、『ドラゴンボール』のヤムチャなど。
そしてジェリドもまた、そういう扱いを受けるようになりました。そして彼の言った『汚名挽回』が「まさしく『汚名』を『挽回』している」とあげつらわれるようになったと。
つまり『汚名挽回』を責める人の頭の中には、「がんばっても勝てない=ザコ」のジェリドが念頭にあるわけです。論理的なものは所詮、後付です。

別の説としては、とある痛い発言を繰り返したネット上の人物が『汚名挽回』と繰り返して発言した、という事もあったようですが。

いずれにせよ。
『汚名挽回』を馬鹿にする原点は、劣った人間、成果の上がらない人間に対して馬鹿にする気持ち、差別意識が根底にあるように私には思えます。
そして『汚名挽回』なんて言葉をあげつらい、馬鹿にする事で、安易に優越感に浸り、自分がその相手よりも上だという気分になれる。
あまりに安っぽく、嫌な心持だと思うのは、私だけでしょうか。
「これぞ正しい日本語であるぞ」と(人づての)知識を振りかざす方々は自らのちっぽけな功名心にどれだけ気づいているのか・・
その自己顕示欲を満足させるために、時に攻撃的になり、嫌味を吐き、バカにし、ましてや自分に嘘をついてまで自論を正当化するといった行為に及ぶ者が一部に見受けられ、残念に思います。

そういった人物を目撃したことがないという方は、日本語についての関連コミュをいくつか見てください。かなりの頻度で、同じ人物が同じことをやっているのに出くわすと思います。どこから自信とやる気がわいてくるのか、少々へこまされたくらいでは数日で復活してきよります。
「日本語について話し合う場」を「自分の知識を披露する場」と勘違いし、いつまでも気づかない様子で困ったものです。

本当に教養ある人物であれば、他人を攻撃する必要などないはずですから、明らかな間違いを説明するにしても、人間的厚みを持った応対を見せてほしいものです。


皆さんとても冷静で理論的であり、同意できることばかりです。

でもそれだけに、こちらについては結論がしっかりしてしまっていて、後は何を語るべきかなと。
実際の個人名を槍玉に挙げたのではまずいでしょうし。それはそれで別の盛り上がりがありそうですが・・
本日のmixiニュースで「間違って使ってない?日本語の誤用」というものが挙がっていました。
間違って覚えている人が多いもの、本来の語源からは間違いだが既に市民権を得たもの、まったく逆の意味が同時にあるとされるもの、間違っていそうで実は正しいものなどなどいろいろあるよということでしたが。

このニュースを扱った個人の日記をざっと見ると、
「それって間違いなんだよね・・と言い出すやつってウザイよな」
という主旨のものが数多くあり、なんとなくほっとしたような。

正しい知識はそれとして大事にすればいいのですが、知っているからっていつでもどこでも人の話の腰を折ってまで物識り顔で高説を垂れていいというものではないっすよね。

彼らが正しいと確信している事だって、100年前や100年後には変容や、逆転すらしているかもしれないし、現に今の時点ですらどちらが正しいとも言い切れないものがボロボロあると思います。
とすると、彼らは何を持って「正しい」と主張しているのかそのよりどころに不明瞭なものを感じます。

語源?辞書?日本人の○%がそう思っている?学者の本でそう読んだ?ハア?

それを言い出したら誤用の代表格といわれているあれやこれやだって、彼らのほうが誤用・時代遅れということになるのではないかと。
知識を披露しているはずが、逆に了見の狭さを露呈しているだけでは。

聞いててウザイというのももっともながら、正しい日本語にこだわることが、彼ら本人にとっても本来の目的であるはずの意思の伝達・コミュニケーションに悪影響を及ぼしているように感じます。
古い書き込みへのコメントで恐縮ですが。

> #20 2008年02月07日 13:14 Ziff

> しかし「今日は…早く帰られる」などの「過剰ら入り表現」が現出した理由は、

それは「過剰」なのではなく、古くからの形です。
四段活用の動詞については「ら」がなくても可能動詞として既に通用すると考へて
よいだらう、といふだけであつて、正式な形としては「ら」のついた形なのださう
です。

> これを裏付ける証拠は、「今日は…早く帰れれる」などの「過剰れ入り表現」
> までもが散見されるから

これは証拠ではなく、別の現象ですね。「帰れる」でもいいけれど、「帰られる」
も間違ひではない(といふか本来の形)、「帰れれる」は間違ひ、といふことです。

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