ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

織豊から徳川への歴史コミュの第十二章 織田信長第2章〜天下布武

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
4)信長の爆進

桶狭間以降の主な信長の略歴を示します。


1561 永禄4年
・美濃の斎藤義龍が急死。斎藤龍興が家督を継ぐ
・斎藤龍興との森部・十四条の戦いに勝利。墨俣砦を奪取
・美濃斎藤氏の本拠地、稲葉山城を攻撃するが、敗退


1562 永禄5年
・三河の松平元康と清洲城で会見。同盟を結ぶ
・同盟関係にあった尾張犬山城の織田信清が斎藤氏と結ぶ


1564 永禄7年
・美濃攻略のため、清洲城から小牧山城へ移る
・斎藤家臣の竹中重治が稲葉山城を占拠。数日後斉藤龍興へ返却
・丹羽長秀の活躍により、織田信清の犬山城を落とす。尾張統一


1565 永禄8年
・東美濃の宇留摩城、猿啄城、加治田城を支配下に置く
・養女を武田信玄の子勝頼へ嫁がす


1566 永禄9年
・この頃から尾張守を称す
・美濃河野島で斉藤龍興と戦い、大敗


1567 永禄10年
・娘徳姫を徳川家康の嫡子信康へ嫁がせる
・妹お市を浅井長政へ嫁がす
・滝川一益に北伊勢を攻略させ、楠城などを奪取
・美濃三人衆の稲葉良通、安藤守就、氏家直元、信長に降る
・斎藤龍興を稲葉山城に攻め破る(美濃の平定)
・稲葉山城を岐阜城と改称し、小牧山城から移る
・この頃から「天下布武」の印を用いる


1568 永禄11年
・北伊勢を攻略し、三男信孝を神戸具盛の養嗣子とする
・美濃の加納に楽市楽座を認める
・この頃から弾正忠を称す
・足利義昭を奉じ上洛。箕作城を攻め落とし、六角義賢は逃亡
・池田勝正、伊丹忠親が降り和田惟政と共に摂津の三守護とする
・三好義継、畠山高政が降り河内半国づつの守護とする
・細川藤孝に山城の勝龍寺城を与える
・松永久秀が降り大和の支配権を与える
・将軍義昭から副将軍、管領を勧められるが断る
・草津、大津、堺の代官職を得る
・将軍義昭より足利家の家紋である桐、二引両を賜る
・堺などに矢銭を課すが、堺は拒否
・分国中(尾張、美濃、南近江限定か?)の関所を撤廃


1569 永禄12年
・三好三人衆、義昭を包囲、信長上洛。義昭のため二条第を竣工
・堺を屈服させ矢銭を支払わせる
・伊勢の北畠氏を攻略。次男信雄を北畠具教の養嗣子とする
・信雄を大河内城、信包を上野城、滝川一益を安濃津城主とする
・伊勢の関所を撤廃


570 元亀元年
・将軍義昭に幕府の殿中掟五箇条を承認させる
・越前の朝倉義景を攻めるが浅井長政から挟撃され、京へ逃げる
・森可成を近江の宇佐山城に留め置き、六角・浅井に備える
・柴田勝家を近江の長光寺城に留め置き、六角・浅井に備える
・佐久間信盛を近江の永原城に留め置き、六角・浅井に備える
・柴田勝家、佐久間信盛の両将、近江の落窪で六角義賢を破る
・姉川の戦い。浅井-朝倉連合軍を織田-徳川連合軍が破る
・木下秀吉を近江の横山城に留め置き、浅井長政に備える
・本願寺、三好・根来・雑賀と合し挙兵。野田・福島で対峙
・近江で浅井-朝倉が挙兵。弟信治、森可成討死
・信長、近江に向かい比叡山に逃げ込んだ浅井-朝倉を囲む
・正親町天皇、将軍義昭の仲介により浅井-朝倉と和す




この時代から、木下藤吉郎・・・後の羽柴秀吉が登場してきます。

そして、信長にとっての天敵、浅井ー朝倉連合軍との抗争が始まります。

 

面白いことに、浅井ー朝倉連合軍に破れて逃げ帰る信長のしんがりを務めたのが木下秀吉。

そして同盟軍の徳川家康。

小さいとはいえ大名の家康と、家臣の秀吉とが同じ扱いなのです。

信長の、徳川に対する扱いがよくわかります。

 

そしてこの頃(永禄9年、1566) 、朝廷の許しを得て松平元康から徳川家康へと改名しています。

徳川というのは、松平家発祥の地「得川」にちなんだものとされています。

 

この頃の武将は、よく名を変えています。

しかし名字を変えるというのは、よくよくの場合に限ります。

小さくもれっきとした大名の家康が改名するには、何かしら秘めた思いがあったはずです。

 

想像ですが、形だけの三河主君だった家康が、三河一向一揆の平定を始めとして、次第に中身のある主君へと変貌していったのではないでしょうか。

段々自信もついてきて、同盟とはいえ事実上織田家の支配下にあった家康が、自立し始めたのでしょう。

松平としてあまり良い思いがなく、これからは自分が新しい時代を作るという思いが、たぶん家康の中にあったのでしょう。

信長の躍進は、まだまだ続きます。





1571 元亀2年
・一向一揆討伐のため長島へ出兵。
・比叡山焼き討ち。明智光秀に近江志賀一郡と坂本城を与える
・羽柴秀吉、浅井の将、宮部継潤を投降さす


1572 元亀3年
・松永久秀、信貴山城に篭もり謀反
・浅井の小谷城を攻め、羽柴秀吉を虎御前山砦に留め置く
・将軍義昭へ十七条の意見書を提出。
・三方ケ原の戦。徳川家康、武田信玄に完敗


1573 天正元年
・松永久秀、岐阜へ上り謝罪。信長から謀反を許される
・将軍義昭敵対。二条第を囲み、上京放火の上、和す
・武田信玄、京に向かう途中の伊那で病没。
・将軍義昭、信長に再度敵対。義昭を追放。事実上の幕府滅亡。
・一乗谷の朝倉を攻め、朝倉義景自害。
・小谷城を攻め、浅井久政、長政親子自害。



この3年間は、信長にとって、最も重要な3年間です。

といいますのも、宿敵浅井ー朝倉連合を打ち破り、脅威だった武田信玄が病没したからです。

そして、事実上室町幕府を滅亡させたからです。

 

浅井ー朝倉連合に対して優勢にたっていた信長にとって、唯一の脅威が甲斐の武田信玄でした。

地理的条件、家柄、カリスマ、実力・・・どれをとっても、信玄が本気で上洛すれば、信長の不利は間違いありませんでした。

歴史に「もし・・・」はありませんが、もし信玄が天正元年(1573)4月12日に病没していなかったら・・・、そしてもし浅井ー朝倉連合が大逆襲していたとしたら・・・?

信長が、時代に選ばれたとするゆえんがここにあります。

 

信玄の死因は、食道もしくは胃の癌であったとも、労咳(結核)であったとも言われています。

「疾きこと風の如く」とうたうほど、その進軍の速さには定評があった武田軍が、このときばかりは異様に遅いのです。

信玄は元亀3年10月3日に甲府を立ち、上洛の途につきました。

知らせを聞いた信長は、肝を冷やしたことでしょう。

浅井ー朝倉連合に手を焼いている最中のことです。

 

しかし・・・三方が原で徳川軍をやぶったのが12月22日。

越年して伊那で没したのが4月。

映画「影武者」では、信玄は上洛の途上銃弾にあたってすでに死んでおり、家中の者が影武者をたててその死を伏せた・・・としています。

その他にも、信長の乱波(らっぱ=忍び)による暗殺説や、病気で危篤状態の信玄公が「我が死を隠せ」と命じたとか、各説あります。

 

事実はわかりませんが、医者の立場にたって文献を見る限り、食道癌と結核の合併症と思われます。

おそらく臨終の信玄は、ガリガリに痩せた状態ではなかったでしょうか。

上洛の旅の間は影武者が代役を務め、信玄は別の駕籠で指揮をしていたものと思われます。

三方が原の合戦では本物が鎧を着て顔を隠し、全軍の指揮をとった・・・。

しかし勝利したものの、家康を追うまで体力がもたなかった。

こう考えた方が、納得できます。

 

浅井ー朝倉をも滅亡させ、武田信玄の脅威もなくなり、事実上幕府を滅亡させた信長にとって、残すものは非常にやっかいな「敵」の存在でした。

武力以上にやっかいな敵・・・宗教によって死を恐れぬ民衆・・・一向一揆!

 

半農半武という当時の軍隊にあって、ある程度勝敗が見えれば、農民はもう戦闘には参加しませんでした。

命が惜しいからです。

しかし、「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば死して極楽へ行ける・・・こう言う教えを広めたのが、一向宗でした。

死を恐れぬ民衆パワーは、爆進する織田軍をも圧倒しました。

引くことを知らぬ信長です。

どうすればよいか・・・答えは「抹殺」。

 

信長の冷徹なまでの大虐殺は、ここからスタートしたと言っても過言ではありません。

時代に選ばれたものは・・・信長でした。

日本が日本であるために、選ばれたのです。

現代ならば、考えられないこと。

歴史は、冷酷に事実を告げます・・・。

 

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

織豊から徳川への歴史 更新情報

織豊から徳川への歴史のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング