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戦史研究室コミュのガダルカナル攻防戦

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昭和17年(1942)8月7日の米軍上陸から、昭和18年(1943)2月7日の日本軍撤退までの半年に及ぶガダルカナル島攻防戦。
たった1つの飛行場をめぐる戦いが、太平洋戦争の天王山となり、「ガ島は餓島」と呼ばれるほど凄惨な戦いとなりました。

※私自身の勉強の意味合いもあり、かなり細かい部分まで記述します。また、内容によっては記述が繰り返されることもあるため読みづらいと思いますが、ご了承ください。
※地図は「戦史叢書」所収のものを適宜掲載するつもりですが、お手持ちの地図資料やWeb資料などで各自確認していただけると、記述内容がよりわかりやすくなると思います。
※記述へのご意見などございましたら、遠慮なく書き込みください。

【2024.2.22更新】
■第1期:昭和17年1月〜昭和17年8月25日(トピック1〜126)
□関連年表(トピック127)
■第2期:昭和17年8月26日〜昭和17年9月30日(トピック128〜263)
□関連年表(トピック265)
■第3期:昭和17年10月1日〜(トピック266〜)

※ガダルカナル戦の推移はニューギニア戦と大きく関わっていますので、別トピックの「ニューギニア戦」もご参照ください。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6979665&comm_id=396416

【主な参考文献】
「戦史叢書」(朝雲新聞社)/「ガダルカナル戦記」(亀井宏著 光人社)/「米軍が記録したガダルカナルの戦い」(平塚柾緒編著 草思社)/「歴史群像シリーズ」(学研)/「年表太平洋戦争史」(日高英剛編 国書刊行会)/「日本軍事史年表 昭和・平成」(吉川弘文館)

コメント(266)

【総攻撃失敗の確認9 攻撃失敗直後の作戦指導2】

一方、連合艦隊司令部は9月15日川口支隊の攻撃失敗を知り、電令作第289号を以て下記のとおり命令した。

一 ガ島陸軍は12日乃至14日攻撃実施せしも 飛行場奪回に成功せず 兵力を整理後図を策するに決せり

二 ガ島攻略作戦は陸軍兵力増強を俟って再興せんとす

三 各部隊は既令の外左に依り作戦すべし
 (イ)南東方面部隊
  (1)陸軍増援部隊(重火器を含む)を急送すると共に敵の増援阻止
  (2)敵航空兵力撃破作戦を続行すると共にブイン基地整備を促進す
  (3)重火器を増強(別令)し 陸軍と協力敵のガ島利用を封ず
 (ロ)潜水部隊はガ島附近に集中 敵の増援を遮断
 (ハ)支援部隊現任務を続行 特令によりトラック回航待機
【総攻撃失敗の確認10 第17軍司令部の分析】

以上で、川口支隊の攻撃失敗直後における陸海軍上級司令部の作戦指導、戦局の感じ方の一端を見ることが出来るのであるが、当時、関係者は川口支隊攻撃失敗の原因について、どのように分析していたか、今その主要なものを摘記すれば次のとおりである。

第17軍司令部(小沼回想に軍司令部の見解として記述してある)

一 タイボに上陸した敵のため一部の糧秣等を押さえられ、且つ攻撃準備のため十分な時間の余裕がなかったこと。

二 敵の火力(殊に砲兵)優越

三 ジャングルのため部隊の連絡が十分とれず、支隊長の命令のように突撃したのは支隊兵力5大隊中、歩兵第124連隊第1大隊と歩兵第4連隊第2大隊の2個大隊に過ぎず、結局突撃兵力が不足したこと。すなわち一木支隊の水野大隊は13日攻撃準備位置に就くことが出来なくて攻撃しない(水野少佐は翌日戦死)。歩兵第124連隊第3大隊は突撃しない。
 歩兵第124連隊主力はルンガ左岸地区から策応する予定だったが、舟艇機動中の損害が多かったのと地形が錯雑かつ隔絶していて連絡がとれなかったため攻撃しない。新たに増加された歩兵第4連隊の第3大隊は上陸後、戦場に急行したが間に合わず、海岸道方面からするその攻撃は翌朝となったこと等。

四 支隊長が支隊の根幹たる歩兵第124連隊主力を舟艇機動により手裡から脱し、他の建制でない諸部隊を人少の支隊司令部で指揮し、いわゆる非建制部隊の掌握不十分、協同不十分の弊に陥ったおそれがあること。

五 密林内でしかも地図は極めて不完全で用をなさないため、方向の維持困難であったこと等。
【総攻撃失敗の確認11 連合艦隊司令部の分析】

連合艦隊司令部(司令部としての公式記録はないが、宇垣纒参謀長の日誌に記述されている)

一 敵の決意(最初の攻勢作戦今秋の中間選挙戦に対する大統領の名誉を欠く。損害又損害に拘らず兵力の注入使用)牢固にして、その防備対抗手段に万全を期しあるを軽視し、第一段作戦の我術力を過信し、軽装備の同数(或は以下)の兵力をもって一挙奇襲に依って成算を求めたこと。(参謀本部、17軍、川口支隊等全部楽観的に経過した) 

二 敵の制空権下に於て天候の障害多く我航空機の活用並びに輸送が困難であったのに対し、敵は損害を顧みず相当に増強を継続し、防禦を固くしたこと。

三 奇襲以外火砲の利用等考慮少なく(「津軽」にて運搬せる十二糎野戦高射砲1門は陸揚の際、照準器破損持ち帰り、他の1門はタイボ岬付近に揚陸林冲に隠匿し何等使用せざりしが如く)また軍の統率連繋全からず。(川口支隊長直接の部下は2コ大隊にして、他の1コ大隊及び一木支隊残兵は他の建制部隊である。岡連隊長は西方に占位し、両者の間に何ら通信連絡をとり得ざりが如く)支離個々の戦闘を為せること。(13日に延期せる事をも通知出来ず一部は12日攻撃開始)

四 主隊の進出位置適当ならず(天日暗き天然のジャングルを進出するの困難)進撃容易ならず 加うるに各大隊毎の左右連繋に欠け協同不能に陥りたること。

五 奇襲は敵の意表に出て初めて成功すべきに拘らず、聴音機等の活用により早期に発見せられ、予期せざる銃砲火の集中を受け先頭部隊の損害と相俟って精神的にも挫折せしこと。(戦死200余、戦傷を合し654、一割程度に過ぎず)
 之を要するに敵を甘く見すぎたり。火器を重用する防禦は敵の本領なり。今後陸海軍共第一段作戦の成果に陶酔する事なく頭を洗って理屈詰めに成算ある作戦を確立し、機に臨んで正攻奇襲の妙用を期すること最も肝要なり。


※戦後出版された宇垣纒参謀長の日誌「戦藻録」(昭和27年初版)
【青葉支隊主力等の増派1】

青葉支隊は8月10日、第17軍の指揮下に復帰し、当初ポートモレスビー作戦、次いでラビ作戦に充当するよう計画されていたが、ガダルカナル島の戦況により、その歩兵第4連隊第2大隊は9月4日に、同第3大隊(1中隊欠)は9月11日にガダルカナル島カミンボに上陸し、ともに川口支隊長の指揮下に入ったことは既述の通りである。

百武第17軍司令官は川口支隊の攻撃が失敗に終わったことを知り、9月15日、「軍はガ島西北部に攻勢の拠点を占め、後図を策する」決心をして、川口支隊長に対して「攻勢拠点の占領」、「敵情捜索」等に関する所要の命令を下達したことも前に触れた。この命令の末項は次のとおりである。

9月15日夜以降カミンボ湾に上陸すべき歩兵第4連隊主力を基幹とする部隊を上陸と共に川口支隊長の指揮下に入らしむ

そこで歩兵第4連隊長中熊直正大佐の指揮する第1大隊基幹の約1100名は、第4駆逐隊司令の指揮する駆逐隊7隻に分乗して、所命のとおり9月15日夜カミンボ湾に上陸、直ちに同地付近からエスペランス東方約2キロメートル付近にわたる海岸を警備する態勢についた。


※第4連隊長 中熊直正大佐(少佐当時のもの)
【青葉支隊主力等の増派2】

青葉支隊長那須弓雄少将は、9月4日にすでにラバウルに到着していたが、9月20日軍は青葉支隊に対して、次のように命じた。

青葉支隊の残部を成るべく速やかにショートランドより海軍艦艇によりカミンボ湾に上陸し 川口支隊長の指揮下に入らしむると共に 支隊長は成るべく速やかにガ島に到り 川口支隊長より其の任務を継承し 川口支隊を指揮すべし
指揮転移の時機は任務継承完了後とする

青葉支隊司令部はこの命令に基づき、9月21日巡洋艦によりラバウルを出港、9月22日ショートランド到着、支援残部の兵力を率いて10月1日夜ガ島カミンボに上陸した。

青葉支隊とともに軍の指揮下に復帰して、なるべくすみやかにラバウルに前進を命ぜられていた独立戦車第1中隊および野戦重砲兵第21大隊第2中隊(九六式十五榴4門)は、水上機母艦日進によって9月12日ダバオを出港して9月15日ラバウルに入港した。

また、8月29日軍の隷下に入りラバウルに前進を命ぜられていた迫撃第3大隊(迫撃砲36門)は、9月8日マニラを出港、中旬すでにラバウルに入港していたが、百武軍司令官はこれらの部隊に対しても、「速やかにショートランドに到り、該地より海軍艦艇に依りガ島に上陸し、川口支隊長の指揮下に入るべき」を命じた。

野戦重砲兵第21大隊第2中隊は10月3日夜、また迫撃第3大隊は10月8日夜、ともにタサファロング付近に上陸して川口支隊長の指揮下に入った。独立戦車第1中隊のガ島前進は著しく遅れて、10月14日夜の第一次船団輸送により上陸した。
【川口支隊のマタニカウ川河畔に向かう転進1】

川口支隊長は9月14日11:05、離脱の決心をして命令を下したことは前に述べた。第一線各部隊に対して将校を派遣して伝達したその命令は、次のようなものであった。

一 第1大隊主力は昨夜二〇高地(※正確な位置は不明であるがムカデ高地南側の台端と推定)を夜襲したるも 本朝撤退し逐次現在地に集結中なり
 第3大隊の尖兵中隊は昨夜半敵第一線に突入せしも爾後の状況不明にして主力は逐次現在地に集結中なり
 左翼隊たる岡部隊は昨夜飛行場西側橋梁に向かい攻撃せるも(※実際は攻撃していない)意の如く進捗せず 本朝来西南方密林内に在り
 右翼隊(熊大隊)および青葉大隊(※第4連隊第2大隊)は昨夜それぞれ敵陣地に突入せるものの如きも その後の消息全く不明なり
 砲兵隊は逐次西南方に前進中にして今朝来東川の線に達せり

二 支隊は一時敵と離脱し大川西南方地区に集結し後図を策せんとす

三 護衛中隊は大川左岸地区に沿い密林内に進路を啓開すべし

四 右翼隊、中央隊は左記序列を以て前項進路を前進 アウステン山東北麓に兵力を集結すべし
 左記
護衛中隊、患者、第1大隊、支隊司令部、
第3大隊、青葉支隊、熊大隊

五 第3大隊は約1個中隊の兵力を現在地付近に残置し支隊主力の前進を掩護すべし

六 左翼隊(岡部隊)は一部を飛行場西南方約2キロの高地に於て敵の前進を拒止せしめ 主力はマタニカウ河河口右岸地区に後退すべし

七 予は支隊司令部と共に行動す
【川口支隊のマタニカウ川河畔に向かう転進2】

一方、左翼隊長・歩兵第124連隊長の岡明之助大佐は9月13日夜の支隊主力方面の夜襲が失敗に終わったことを知るとともに、当面するアメリカ軍の火力が激烈であるので、戦闘を一時中止する決心をして、第8中隊(機関銃1小隊を付す)を残置して、主力の転進掩護を命じ、第2大隊の主力は9月14日没後、逐次トラ高地南方約1キロの密林内に集結するよう部署した。

折から前記の支隊転出命令を受領した岡連隊長は15:00、以下の要旨の命令を下達した。

一 連隊は一部を獅子(シシ)高地附近に残置し 支隊主力の収容に任じ 主力はマタニカウ河左岸地区に兵力を集結せんとす

二 青葉大隊(※第4連隊第3大隊)はマタニカウ河左岸地区に後退し敵の海岸道方面よりする突撃を拒止すべし

三 第2大隊は一時戦闘を中止し帰途を秘匿しつつ 連隊主力の位置に兵力を集結すべし

四 各隊のマタニカウ河左岸集結の時期に関しては別に示す

この命令に基づき、第2大隊は第一線を撤退してシシ高地に集結した。歩兵第4連隊第3大隊は16:30薄暮を利用して後退し、途中敵の砲撃を受けたが、20:00過ぎマタニカウ河左岸旧海軍守備隊本部の位置に到着した。
【川口支隊のマタニカウ川河畔に向かう転進3】

中央隊左第一線であった第1大隊は、9月14日13:30、離脱に関する支隊命令の要旨を受領。敵の重囲を脱するため最後の攻撃を行い、負傷者を収容しつつ逐次敵と離脱し、15:30支隊司令部の位置に撤退した。続いて大隊は全力で重傷者を担送し、敵機の攻撃の間断を利用して、9月15日夜明けまでにルンガ川の渡渉を完了、同日日没、ルンガ川西方約3キロの位置に達した。

中央隊右第一線であった第3大隊も同様に支隊命令により患者を収容しつつ後退、支隊司令部の位置に退った。

第二線攻撃部隊であった歩兵第4連隊第2大隊も撤退の支隊命令を受領したが、この大隊は敵陣地深く突入して各所に散在していたので、他の正面に比べてその離脱はきわめて困難であった。第7中隊方面は何とか連絡できたが、突破の先端である第6中隊には9月16日になって初めて退却命令が伝わった。当時第6中隊は飛行場南東方地区に依然頑張っていたが、食糧もすでに尽き果てて、大きな働きはできない状況だった。命令を受けた第6中隊は9月16日の夕刻、占拠地を徹して退却の途についた。

右翼隊は敵陣陣地に突入後、支隊司令部との連絡が途絶していたが、9月15日午前中に中川上流約6キロの地点で、大隊配属の無線分隊と会い、支隊命令を知った。そこで11:00ころ行動を開始して敵前を離脱した。16:00ころには中川上流約8キロの地点に到達した。

砲兵隊はこれより先、9月14日払暁以後、中川陣地および敵戦車に対する射撃を考慮し、逐次陣地を南西方に移動するよう命令を受けていたが、続いて支隊主力の撤退の状況を知って、砲兵隊も支隊集結地に向かい密林内を前進した。
【川口支隊長の転進指導9月15〜18日 1】

川口支隊長はルンガ川上流左岸、アウステン山東側にあって、9月15日17:00までに諸報告を総合して次のことを知った。

歩兵第124連隊第1大隊および歩兵第4連隊第2大隊の損害は、半数以上である。熊大隊は13:00ころ依然、飛行場南側、中川の線でアメリカ軍と相対している。その損害は大隊長以下約100名である。砲兵隊は16:40ころ東川上流約6キロの地点を南西進中である。歩兵第4連隊第3大隊は9月14日夜、マタニカウ川西岸地区に後退した。

翻って9月11日夜、カミンボに上陸した第17軍参謀松本大佐は、携行した無線機をエスペランスに開設していたが、川口支隊本部、岡連隊本部の細部の位置が不明であるため、川口少将、岡大佐と直接会うことができずにいた。

9月15日攻撃の失敗を直感した松本大佐は、川口支隊長あて、「状況不利なる場合は、マタニカウ川以西に兵力を集結し、後続部隊の来着を待ち爾後の攻撃を準備せられたく軍の意見である」と電報した。
【川口支隊長の転進指導9月15〜18日 2】

9月15日17:30、上述の松本参謀の電報を受領した川口支隊長は、糧秣も皆無となり、飛行場攻撃再興が困難になってきたので、支隊の兵力をマタニカウ川左岸地区に集結するよう決心を変更して、19:00次の命令を下達した。

一 敵輸送船2隻は昨14日午後西川(大川南西方約1キロ)河口附近に上陸せるものの如し

二 支隊は兵力集結地をマタニカウ河左岸地区に変更せんとす

三 岡部隊長は成るべく速やかにマタニカウ河右岸地区に到り支隊主力の同地附近通過を容易ならしむべし

四 第1・第3大隊(第10中隊ならびに第12中隊の1小隊機関銃1小隊欠)は本属に復帰すべし ただし配属工兵、速射砲中隊の半部は支隊直轄とす

五 支隊主力(第1、第3大隊の患者、青葉大隊、岡連隊速射砲中隊半部、独立工兵第15連隊の1小隊、工兵第7連隊の1小隊)は青葉大隊長の指揮を以てマタニカウ河左岸地区に向かい前進すべし

六 第12中隊の1小隊ならびに機関銃1小隊は支隊主力後衛となり明払暁現在地出発支隊主力の進路を前進すべし

七 砲兵隊および熊大隊は成るべく速やかに支隊主力の進路をマタニカウ河左岸地区に前進すべし
【川口支隊長の転進指導9月15〜18日 3】

川口支隊長は前進中、歩兵第124連隊長・岡明之助大佐から、マタニカウ川、ルンガ川間に舞鶴道(※添付地図参照)が啓開されている旨の電報に接して、9月16日は進路をアウステン山南側からマタニカウ川河谷にとって北進した。

朝08:00、岡連隊長から、「アウステン山から海岸に至る間、敵の出撃の模様はない。連隊主力はアウステン山北麓に、青葉支隊の第3大隊はマタニカウ川左岸高地に陣地を占領し、支隊主力の転進を掩護している」との報告に接した。

連合軍は支隊の攻撃開始以来、飛行場に対して連日艦艇で兵力の増援を続行していたが、転進する部隊を大規模に追尾する気配はなかった。

川口支隊司令部および支隊主力は9月17日夕、歩兵第124連隊本部東方の小流の線に、9月18日08:00、その先頭をもって遂に連隊本部の位置に到着した。砲兵隊、熊大隊の転進は著しく遅れて、支隊主力との連絡は途絶していた。

この転進間、将兵は飢餓と闘い、若芽や雑草を食いつつ、険阻なジャングル地帯を西進した。
【川口支隊長の転進指導9月18〜23日 1】

川口支隊長は9月18日、歩兵第124連隊長・岡大佐に対してこれより先、同連隊に復帰させた連隊主力を掌握した後、逐次マタニカウ川左岸地区に兵力を集結するよう命じた。

また歩兵第4連隊長・中熊大佐に対して、同連隊の一部をもってカミンボ基地を確保し、主力でコカンボナ以西の地区に兵力を集結して、後方連絡線を確保するよう命ずるとともに、船舶工兵第6連隊に対して、支隊軍需品および軍隊の揚搭ならびに輸送に任ずるよう命令した。

そしてまた一方、撤退が遅れている砲兵隊、熊大隊等に対しては、すみやかにコカンボナに集結するよう命じたのであった。

歩兵第124連隊長・岡大佐は依然その態勢で、部隊の掌握に努めた。

歩兵第4連隊長・中熊大佐は、上記命令に基づき、第3大隊にマタニカウ川左岸高地の陣地を撤収させ、第2大隊を掌握して、連隊の主力をもってコカンボナ以西の地区に兵力を集結し、海岸線の警備および後方連絡線の確保に任じた。
【川口支隊長の転進指導9月18〜23日 2】

9月18日11:45,川口支隊長は第17軍参謀長から以下の要旨の電報を受領した。「軍は中央の方針に基づき 後続新鋭兵団を増派し 飽く迄ソロモン群島の要地奪回を企図しありて 支隊は軍将来の攻勢のため支撐たるべし」

9月19日の正午ころ、支隊長はコカンボナに到着した。この日の夜、軍から「独立戦車第1中隊および野戦重砲兵第21大隊第2中隊は20日夜、タサファロング付近に、また迫撃第3大隊はカミンボ湾付近に上陸して、ともに川口支隊長の指揮下に入る」という命令を受けた。

当時、支隊の主力は数日来の絶食を克服しつつなお転進中であって、熊大隊および砲兵隊の所在は不明であった。

9月20日正午、川口支隊長は新たに上陸して支隊長の指揮下に入るべき部隊等に対して、以下の命令を下達した。

一 独立戦車第1中隊は上陸後カミンボ附近に於て敵に絶対に遮蔽し機を見てタサハロング以東に前進すべし なお戦車1小隊(三)を上陸と共に第1船舶団に配属すべし

二 重砲兵中隊および迫撃砲大隊は成るべく速やかにコカンボナに前進し 敵飛行場の射撃準備を為すべし

三 青葉連隊長はカミンボ附近に来襲する敵飛行機を撃墜し防空に任ずべし

四 脇谷連隊長は次期作戦を顧慮し特大発を戦車の揚搭以外に使用することなく 敵に対し絶対に秘匿すべし
【川口支隊長の転進指導9月18〜23日 3】

これより先、9月18日、第17軍司令部においては越次、山内両参謀のガダルカナル島派遣が決定した。その任務はすみやかにガ島に至り、川口支隊との連絡および次期作戦準備資料の収集であった。越次、山内の2参謀は9月21日無事、川口支隊長の下に到着した。支隊の戦闘経過を聴取するとともに、軍将来の作戦指導および準備について川口支隊長に伝達した。

当時における支隊の態勢は次のとおりだった。

歩兵第124連隊長・岡大佐の指揮する第2、第3大隊基幹の部隊は、アウステン山北麓にあって転進掩護、部隊の整理ならびに所在不明部隊の捜索等に任じていた。同連隊の主力は9月21日連隊主力の位置に合し、22日からマタニカウ川に向かう前進を準備中である。

砲兵隊、熊大隊との連絡はまだとれず、その所在も不明であった。

歩兵第4連隊は、依然コカンボナ以西の警備および後方連絡網の確保に任じていた。
【川口支隊長の転進指導9月18〜23日 4】

川口支隊長は9月22日11:00、コカンボナで次の命令を下達した。

一 敵僅少部隊は大川の渡河点附近に現出しあるものの如く 時々同方面を砲撃しあり 我が新鋭部隊は続々コカンボナに到着しあり 海軍設営隊は21日本職の指揮下に入らしめらる

二 岡連隊第3大隊長は歩兵約1中隊半および連隊無線1分隊を以て大川沿岸方面に到り熊大隊、砲兵隊等を捜索し且敵情を偵察すべし 糧食を成るべく多量携帯するを要す

三 青葉連隊第3大隊は一部の兵力を以て糧食をアウステン山東北麓に集積すべし 細部に関しては岡連隊本部と協議決定すべし

四 門前大佐は13ミリ二連装機銃2基操作に要する人員1箇小隊をカミンボに派遣し青葉連隊長の指揮を受けしむべし 給食は陸軍より之を受くべし
【川口支隊長の転進指導9月18〜23日 5】

通信部隊の連日連夜の努力により、9月16日以来通信が全く途絶していた熊大隊と、9月23日05:50、無線により連絡することができた。

その連絡により同部隊は転進間進路を誤り、ルンガ川上流付近で糧食がないため餓死の一歩手前にあることがわかった。そこで歩兵第124連隊長・岡大佐は第5中隊(工兵1小隊五号無線1機属)を連絡のため出発させた。

9月23日16:00、川口支隊長は海軍門前部隊に対して、在ガダルカナル島海軍諸部隊をあわせ指揮し、主力をもってボネギ(タサファロング)付近に、一部をもってカミンボ付近に位置し、揚陸軍需品の前送および患者の後送ならびにカミンボ、マタニカウ川間の道路の補修に任ずるとともに、在マタニカウ海軍本部陣地付近において、敵情の監視、偵察、通報に任ずるのほか、同地を基点として支隊司令部間の連絡に任ずるよう命じた。



※(左)九四式五号無線機・三二号型送信機
 (右)同上      ・三二号型受信機
【転進末期の戦闘指導 1】

ガダルカナル島飛行場付近のアメリカ軍は、9月20日以来、連日マタニカウ川河口およびルンガ川渡河点付近を射撃したりしたが、積極的企図は認められなかった。ところが9月23日にアウステン山の歩兵第124連隊から「敵は陣前一帯の密林を焼却し射界を清掃すると共に陣地前要所に対し、試射を実施している」という報告があった。

また9月24日、川口支隊長は第17軍司令部から「通信諜報に依れば、敵は新たにソロモン方面に対し上陸を企図しまた近くマタニカウ川よりカミンボの間に上陸し、我を分断するの企図あるやに鑑み、川口支隊は従来の攻撃準備を促進するのほか、速やかに有力なる一部を支隊の後方地区に配置し、敵の上陸を排擠(撃ちしりぞける)せしむるを要する」旨の電報を受領した。

この指導電に基づいて川口支隊長は9月24日14:00、コカンボナで次の命令を下達した。

一 諜報によれば敵は近くマタニカウ河よりカミンボ間に上陸し我を分断する企図あるものの如し

二 支隊は此の敵を撃攘せんとす

三 岡連隊、青葉連隊第2、第3大隊および海軍部隊は各々現在地附近に陣地を構築すると共に 別に後方山地に拠点を占領し 敵が自己正面に上陸するに際しては出撃以て之を撃攘すべし

四 青葉連隊主力は敵上陸に際し本職の指揮に入り前項部隊と協力するの用意にあるべし
(※注)当時青葉連隊主力はすでに軍命令によって川口支隊長の指揮下にあったが、支隊長はこれを知らずにいた。支隊からの照会で9月26日軍から回答があり初めて承知した。

五 自今 各隊は低空を飛翔する敵飛行機を撃墜すべし
【転進末期の戦闘指導 2】

9月24日15:00ころ、歩兵第124連隊炊事場付近に機関銃および迫撃砲を有する約200のアメリカ軍が来襲して舞鶴道を遮断した。当時、岡連隊長は川口支隊長と連絡のため、マタニカウ川左岸に出発していて不在であった。

岡連隊長は敵機の活動が盛んとなり、敵の上陸企図がいよいよ濃厚となったので、熊大隊および砲兵隊の誘導を断念して、マタニカウ川右岸にいる部隊をすみやかに同川左岸に撤退集結させる決心をした。そこで熊大隊と連絡中であった第5中隊をアウステン山麓に、また舞鶴道上ルンガ川付近に位置した第8中隊をマタニカウ川左岸にそれぞれ撤退を命じた。

第8中隊はこの命令に基づいて舞鶴道上の敵の監視哨線の間隙を突破して、9月26日04:00、連隊主力の位置に到着したので、第2大隊主力は同日同時ころ、道路を占領しているアメリカ軍を避けて、南方に迂回路を求めて後退中であり、熊大隊主力はアウステン山南麓に停止中、その一部である歩兵2中隊と工兵小隊が一本橋上流のマタニカウ川付近に到着しつつあった。

岡連隊長はこの状況を知って、第12中隊にマタニカウ川一本橋右岸に進出して、第2大隊ならびに熊大隊の転進を掩護するよう部署した。

第12中隊は命令に基づき前進し、10:50一本橋右岸で約100名の敵が南進して来るのに遭遇した。ただちにこの敵を攻撃して、12:30ころ、これを撃退して、渡河点右岸高地を占領した。
【マタニカウ川河口付近の戦闘 1】

一方、マタニカウ川河口方面では、9月26日09:50、飛行機およびルンガ岬西川付近の海岸にある海岸砲ならびに重火器の掩護の下に、約300名のアメリカ軍が攻撃前進して来て、マタニカウ川を渡河しようとしてきた。左岸を占領していた第9中隊はこれに反撃を加えて、約30分後に撃退した。

アメリカ軍は戦闘機も引き続いて間歇的な砲撃を実施していたが、9月27日夜が明けると、再び前日と同じように飛行機と砲兵の支援下に、約100名が河口付近、また10:40ころ約80名が第12中隊の陣地正面の一本橋東方から攻撃して来たが、日本軍の第一線はこれを撃退した。

ところが11:15ころになると、駆逐艦に支援された上陸用舟艇9隻がルンガ岬から海上を西進して来て、クルツ岬に猛烈な艦砲射撃をしたあと、岬の西部に上陸、マタニカウ川付近にある日本軍の後方を遮断してしまった。
【マタニカウ川河口付近の戦闘 2】

岡連隊長は直ちに、クルツ岬の西方約2キロ付近で待機中の第2大隊主力に攻撃を命ずるとともに、前記の第12中隊にその主力で第2大隊を増援するよう命令した。第2大隊主力は、この敵を北方から海岸南方の密林内に圧迫するよう攻撃して、これをその密林内に逃走させた。

13:30、アメリカ軍は上陸用舟艇2隻で再度上陸を試みたが、日本軍の機関銃射撃のため反転した。河口付近にいた第9中隊は、アメリカ軍が上陸したので直ちに配備を変更して戦闘を準備したが、戦闘を交えるまでには至らなかった。

15:00ころになると、又々上陸点付近に艦砲射撃と飛行機の銃爆撃を加えつつ、上陸用舟艇7隻により約700名のアメリカ軍が上陸して来た。当時、第2大隊主力は前回の戦闘地区から西方に移動して隊伍を整頓中であり、上陸点付近には前夜、舞鶴道を引き揚げてきた第8中隊が集結中であった。


※(中)アメリカ軍のLVT(上陸用舟艇)
 (右)ガダルカナル島に上陸するアメリカ軍
【マタニカウ川河口付近の戦闘 3】

アメリカ軍は新上陸部隊と前回密林内に敗走した部隊とが、呼応して攻撃を始めた。第2大隊長は第8中隊に「敵を海岸に撃滅する」ことを命じた。同中隊は果敢な白兵戦の後、アメリカ軍を撃破した。

そこで岡連隊長は第2大隊に、攻撃を一時中止して、クルツ岬西方2キロ、海軍陣地付近に兵力の集結を命じた。

第12中隊はこの間、密林内の前進に時間を要し戦闘に間に合わず、9月28日警備地区に帰還した。第2大隊は9月27日の夜、アメリカ軍の後退した海岸南側約1キロの高地に突入したが、アメリカ軍はすでにマタニカウ川右岸に退却していたので、9月28日払暁までに所命地点(細部位置不明)に集結した。

此のマタニカウ川付近の岡連隊の戦闘は、一木、川口支隊の攻撃失敗以来、初めて見る順調な戦闘経過であった。二見参謀長はその日記に「岡部隊上陸せる敵を撃破遺棄死体60と。初めての快ニュース嬉し」と記している。
【マタニカウ川右岸占領問題 1】

これより少し前、川口支隊のマタニカウ川右岸撤退の報に、9月16日、大本営の田中新一第1部長はラバウルにいる井本熊男中佐あてに、次のように電報した。

川口支隊は爾後の攻撃再興の為にもマタニカウ河の線より後退せしむべからざるものと思考せらる

9月28日10:50、川口支隊長は次の軍命令を受領した。

最も速やかにマタニカウ河右岸地区に攻勢の拠点を占領し10月8日頃よりの砲兵を以てする飛行場砲撃を準備すべく砲兵3中隊を近く支隊長の指揮下に入らしむる

当時、川口支隊長は、その前日の27日に予備隊であった歩兵2コ中隊を岡部隊に復帰させ、28日04:00の発令で次のとおり部署していた。

・歩兵第124連隊(歩兵第4連隊第3大隊の1中隊、機関銃2小隊を配属)は現在地を確保して、敵の前進をマタニカウ川の線で拒止
・歩兵第4連隊は歩兵1箇大隊等でラウンド・ヘッド(※注 正確な位置は不明であるが、語意からみて、エスペランス岬ビサレ付近と考える)以西なかんずくカミンボ湾の確保
・同連隊配属工兵はコカンボナから西方海岸に沿い野砲通過の目的で道路補修
【マタニカウ川右岸占領問題 2】

9月28日ころの川口支隊の実態は、岡部隊、青葉大隊は飛行場攻撃と26、27日の戦闘で人員半減して戦力は著しく低下し、熊大隊、砲兵隊、兵站病院、防疫給水部等もまた兵器、器材等を全く放棄していて、使用に堪えない状態であった。

そしてこれに加えて、給養は一日三分の一定量に満たないため、戦力の回復はおろか衰弱増加の傾向にあって、支隊の患者約1000名も疲労と栄養不良のため逐次死亡者が増加し、マラリアの再発、下痢患者等が多発しているという状況であった。

従って、砲兵を推進するための道路補修も、工兵中隊が器具材料を携帯していないので、計画どおり進捗していなかったし、その砲兵が射撃するための弾薬集積も、砲兵陣地を掩護するための対空火器の準備もきわめて不十分な状態にあった。

そこで川口支隊長は、直ちにマタニカウ川右岸を占領することは、その戦略的価値から見て、当然敵の奪回攻撃を覚悟しなければならず、それによって局部的な決戦を強要される結果になり、支隊戦力の大部を消耗する公算が大きい。また右岸攻撃中にマタニカウ川と、カミンボの中間地区にアメリカ軍が上陸すれば、後続兵団や砲兵の揚陸も不可能となる。ゆえに右岸地区の占領は砲兵の射撃実施に間に合う範囲でなるべく遅く実施すべきである、という意見であった。
【マタニカウ川右岸占領問題 3】

9月29日の朝06:20、再び次の軍命令が到着した。

 敵のガ島に対する上陸企図の兆候は其の後消滅せり 川口支隊は新たにコカンボナ以西に配置せる部隊を原態勢に復帰し速やかにマタニカウ川右岸要地を奪取し前命令の任務を遂行すべし

そこで川口支隊長は07:00、コカンボナで次の命令を下した。

一 軍通報に依れば敵のガ島に対する上陸企図の徴候は漸次減少しつつあるものの如し

二 支隊はマタニカウ川右岸地区に次期作戦のため攻勢拠点を占領し砲兵を以てする飛行場射撃を準備せんとす

三 岡大佐は飛行場射撃の砲兵掩護および攻勢拠点確保の目的を以て歩兵第124連隊および歩兵第4連隊第3大隊(第11中隊を欠き無線1分隊を属す)ならびに旅団無線1分隊を指揮しY日マタニカウ川河畔の敵を撃破し一部を以てアウステン山 主力を以て旧連隊本部位置附近より海岸道に亘る間を占領すべし Y日は別に示す

四 中熊大佐は歩兵第4連隊(第2中隊および第3大隊を欠く)を指揮し一部を以てマタニカウ川左岸地区 主力を以てコカンボナよりタサハロングの間に位置し敵上陸の場合は之を撃破すると共に岡連隊を増援し得るの準備に在るべし

五 歩兵第4連隊第2中隊長は部下中隊、旅団無線1分隊および海軍高射機関銃隊を併せ指揮しカミンボ湾に於ける上陸掩護ならびに同地の警備に任ずべし

六 野砲兵第2連隊第1大隊長は部下大隊(第2中隊欠)を以て成るべく速やかにマタニカウ川の線に至り敵飛行場に対する射撃準備を為すべし

七 工兵第2連隊の1小隊および独立工兵第15連隊の1小隊を併せ指揮し砲兵射撃ため其の前進路の補修に任ずべし
 特にタサハロング以東を先ず完成するを要す

八 門前海軍大佐は主として前項工兵中隊の作業を補助すべし

九 第33固定無線は独立無線第3小隊を併せ指揮しカミンボに於て支隊および軍司令官間の連絡に任ずべし

十 中岡大尉は独立速射砲中隊、熊大隊、独立工兵第28連隊の1小隊、高射砲隊の一部および防疫給水部を併せ指揮し輸送隊となり陸路糧秣の前送に任ずべし

十一 第2師団衛生隊、川口支隊衛生隊、兵站病院はカミンボに向かい患者の後送に任ずべし

川口支隊長のこの命令は第17軍の満足するものではなかった。翌9月30日06:30、更に次の軍命令を受領した。

 支隊のマ河右岸要地奪取は刻下の急務なるにつき即時実施し その結果を報告すべし

ここにおいて川口支隊長は歩兵第124連隊に即時マタニカウ川右岸要地占領を命じ、岡連隊長は10月3日微弱な敵を駆逐して、歩兵1中隊をマタニカウ川一本橋東岸およびマタニカウ川河口右岸高地に陣地占領させることに成功した。
【大本営 直後の作戦指導 1】

9月15日に第17軍から受領した「川口支隊主力の夜襲奏功せず、第17軍司令官は支隊長に対しマタニカウ川河谷に地歩を占め、敵情地形の捜索を命じた」という主旨の電報は、少なからざる影響を大本営に与えた。

派遣参謀として現地にいた井本熊男中佐からも、攻撃失敗に関する報告が再度、大本営陸軍部第1部長あてに寄せられた。これに対して9月17日、田中新一第1部長名で、次のような大本営作戦部の判断が返電された。

一 (前略)貴官の報告を受領す

二 ガ島方面の戦況に関しては貴官の意見の如く戦力を統合し必成を期して攻撃を再興するを要すといえども全般の情況は決して悲観視するを要せざるものと判断せらる
 最近数時間に於ける米国側の放送その他を綜合判断するに彼等戦況を楽観しあらず 成功しあるものと断定しあらざる如し
 従って攻撃再興の期日は概ね第2師団主力を投入せる時期すなわち現地海軍側意見の如く10月上旬ないし中旬頃とするを適当とすべく又川口支隊は爾後の攻撃再興のためにもマタニカウ川の線より後退せしむべからざるものと思考せらる

三 (略-増加兵力の件、後掲)


※大本営陸軍部(参謀本部)第1部長 田中新一少将
【大本営 直後の作戦指導 2】

一方、大本営においても陸海軍部首脳間に、川口支隊失敗について情報の交換、合同検討が行われたが、その要旨は大体次のようなものであった。

海軍側は、
「ガ島作戦の経過を見るに米側の本格的反攻の実相が今や明らかとなり、或は決戦にまで発展するのではないかと思われる。海軍としては勿論之を好機として、敵撃滅の作戦に出る積もりであるが、陸軍側の情勢判断は如何。又ソ連の情勢は南東太平洋に於ける陸海協同の強力なる作戦の実行を許すかどうか」とたずねた。

之に対して陸軍側は、
「対米情勢判断に於ては貴見に同意を表する。ソ連の情勢については、今後幾多の変遷はあるにしても、少なくとも今秋冬の間は概して日ソ間の現状を維持するものと見て差支えなかるべく、従って先ず安んじて、南東太平洋に必要なる作戦を展開するに支障なかるべしと思われる。陸軍としては関東軍およびその他より必要なる兵力、資材を南東太平洋方面に転用する件に関して至急検討する用意あり」と述べた。


※(左)大本営海軍部(軍令部)
 (右)大本営陸軍部(参謀本部)
【大本営 直後の作戦指導 3】

しかしながら、この陸軍側の発言は、海軍側の言う、本格的反攻→決戦に発展→好機捕捉→敵撃滅という一連の論理に全面的に同意し、かつその措置が可能であったと見るのは問題である。

この点の詳細な史実の解明は別に譲るとして、その例としては、同じ9月27日に第17軍の戦力を増強するため、大陸命第688号で約20単位に近い部隊の第17軍編入を発令しておきながら、前記、田中第1部長発電の第3項で次のように打電している。

 左記兵力は10月上旬までに現地に到着する如く緊急に輸送を処理しつつあり
  15榴1大隊
  10加1中隊
  戦車1連隊  
  野戦高射砲1大隊
 沖電第601号貴電による緊急輸送兵力の希望は船舶の関係上目下の処右の程度以上に如何とも為し難き状況にあり

これは当時の客観情勢として船舶関係を増徴しない限り、大規模な兵力資材の転用がすでに行き詰まっていたことを物語っているのである。
【大本営 第17軍への兵力増強 1】

9月17日、杉山元参謀総長は「第17軍方面の今後の作戦指導の方策並びに大本営として採るべき処置」として、次のように上奏している。

1 川口支隊攻撃不成功となりし主なる原因は 我はジャングル等を利用して行う奇襲に主眼を置きたる為 連絡不十分にして兵力を分散し且戦力も十分統合発揮するを得ざりしに対し 敵の防禦組織特に其の物的威力予想以上に整備せられありしことに在りと判断せられ 今や同島に於ける戦闘は全くの力押しに依るの外なき状態と判断せらる

2 第17軍の今後に於ける作戦指導は目下研究中にして軍の企図の詳細は未詳なるも 青葉支隊の残部、第2師団主力および戦車中隊、重砲兵中隊ならびに大本営より先般増加せる自動砲(10)、重擲(30)、火炎発射機(10)其の他の各種の兵器資材を増加し 陸海軍戦力を統合発揮し 一挙に飛行場を奪回するの腹案を有し 其の攻撃時機は10月になると存す

3 ソロモン方面に対する敵の増援は海軍之が阻止に努めあるも 今尚依然行われつつある状況に鑑み此方面に更に兵力を増加する必要ある場合も予想せられ 又ラビ方面も努めて早く占領するの必要あり 其の後に行うモレスビー作戦もあるを以て 此際第38師団、速射砲2大隊、戦車1連隊、15榴1連隊、10加1中隊、野戦高射砲2大隊、30糎臼砲1大隊、独立工兵(甲)1連隊、揚陸団1箇および所要の後方部隊を第17軍に増加せらるるを至当と存す

4 第17軍に以上の兵力を増加せらるるに於てはニューギニア方面に対する作戦任務を有する第17軍か目下手中に有する兵力を思い切ってソロモン方面に注入し得るのみならず今後敵情の変化に対し速やかに之に対応することも出来 又ラビ飛行場占領を努めて速やかならしむる為にも有利なり 殊にモレスビー攻略作戦完遂の為にも是非必要なる処置と思考す


※杉山 元(すぎやま げん/はじめ、1880〜1945)
【大本営 第17軍への兵力増強 2】

この上奏による兵力増強に関する9月17日発令の大命は次のとおりである。

大陸命第688号
命令

一 別紙第1の部隊を現所属指揮官の隷下より除き第17軍戦闘序列に編入す

二 別紙第2の部隊を大陸命第681号(※注 第14軍から輸送関係部隊を第11軍、北支那方面軍にそれぞれ編入するもの)に拘らず第14軍戦闘序列より除き第17軍戦闘序列に編入す

三 関東軍司令官、第4師団長および留守第3師団長は別紙第1、第2の部隊をラバウル方面に派遣し 第17軍司令官の隷下に入らしむべし

四 隷属転移の時機は内地、豪州、支那および南方港湾出港の時とす

五 細部に関しては参謀総長をして指示せしむ


別紙第1

一 関東軍司令官の隷下より除き第17軍戦闘序列に編入する部隊
   独立速射砲第6大隊
   野戦重砲兵第4連隊(甲)
   野戦重砲兵第7連隊(乙)の1中隊
   独立臼砲第1連隊の一部(3中隊基幹)
※注:これらの部隊はそれぞれ第20軍、第3軍、第5軍および第3軍から転用したもので、南太平洋の戦局に応じ関東軍から抽出された最初の部隊である。野重(乙)は10糎加農砲、臼砲は鉄条網破壊用口径30糎。

二 支那派遣軍総司令官の隷下より除き第17軍戦闘序列に編入する部隊
   戦車第8連隊
第23軍戦闘序列より除く部隊
 独立山砲兵第10連隊
 独立工兵第19連隊(甲)

三 南方軍総司令官の隷下より除き第17軍戦闘序列に編入する部隊
第16軍戦闘序列より除く部隊
 第38師団
 独立速射砲第2大隊(1中隊欠)
第25軍戦闘序列より除き第17軍通信隊編成に編入する部隊
 独立無線第80小隊(輓)

四 第14軍戦闘序列より除き第17軍戦闘序列中の第17軍通信隊編成に編入する部隊
 独立無線第53小隊(自)
 第42固定無線隊

五 第4師団長および留守第3師団長の隷下より除き第17軍戦闘序列に編入する部隊
   野戦高射砲第41大隊(乙)
野戦高射砲第38大隊(乙)


別紙第2

第14軍戦闘序列より除き第17軍戦闘序列に編入する部隊
   第3野戦輸送司令部
   独立自動車第38大隊 
   第10患者輸送隊本部
   患者輸送第53、第54小隊
※注:9月7日の大命により第3野戦輸送司令部は北支那方面軍に、その他の部隊は第11軍に転用され、五号作戦に充当されるものであった。


※大本営陸軍部-大陸命・大陸指総集成
【大本営 第38師団の状況 1】

大命発令当時、第38師団は以下のような状況にあるとの電報があった。

区分     位置     状態      備考
師団主力   北部スマトラ 随時出発し得
田中支隊   パレンバン  出発期日研究中 歩兵第229連隊の
2コ大隊基幹
東方支隊主力 ジャワ    随時出発し得  伊東少将の指揮する
歩兵第228連隊の
2コ大隊基幹
東方支隊の  チモール   約10日後
1大隊           出発を得

大本営は9月18日、第38師団の編制について「馬匹は約200頭を増加し合計1200頭とし、自動車は概ね現編制定数約100輌とせられ度、但し東方支隊は徒歩爾余の主力は二分して其の第1次を歩兵1連隊基幹にて馬匹、第2次を自動車編制とせられ度」と指示した。


※蘭印(インドネシア)地図
【大本営 第38師団の状況 2】

この第38師団は開戦初頭、香港の攻略に任じた後、昭和17年1月4日、第16軍の戦闘序列に入り、師団主力は南部スマトラ方面に作戦して、パレンバンその他の石油資源の所在地を占領するとともに、ジャワ本土攻略のための航空基地を占領した部隊であり、また、その東方支隊は軍直轄としてチモールを占領し、東海林支隊もまた軍直轄として直路バンドンに迫り蘭印降伏に偉効をたてたのであった。

その後師団主力は第25軍の指揮下に入り中部スマトラに集結、セイロン作戦を目標として熱地における上陸作戦を訓練していたのである。

当時、第38師団の編制の概要ならびにその主要職員は次のとおりであった。

師団長            中将 佐野忠義
参謀長            大佐 阿部芳光
参謀             中佐 親泊朝省
参謀             少佐 細川直知
参謀             少佐 黒崎貞明
(ラバウルに着任)
第38歩兵団長        少将 伊東武夫
歩兵第228連隊長      大佐 土井定七
歩兵第229連隊長      大佐 田中良三郎
歩兵第230連隊長      大佐 東海林俊成
山砲兵第38連隊長      大佐 神吉武吉
工兵第38連隊長       中佐 岩淵經夫
輜重兵第38連隊長      中佐 薮田秀一
第38師団通信隊長      少佐 伊藤遼一
第38師団兵器勤務隊長    大尉 小出貞治
第38師団衛生隊長      中佐 服部乙一
第38師団第1野戦病院長 軍医少佐 鈴木敏美
第38師団第2野戦病院長 軍医少佐 伊藤卓蔵
第38師団病馬廠長    獣医少佐 林次郎

各歩兵連隊は連隊本部、歩兵大隊3、歩兵砲隊(砲4門)、通信隊から成り、各歩兵大隊は歩兵4中隊、機関銃1中隊、大隊砲小隊(砲2門)に編成されていた。

山砲兵連隊は連隊本部と3大隊から成り、各大隊は3中隊、1中隊は山砲4門で構成されていた。


※(左)蘭印(インドネシア)地図
 (右)佐野 忠義(さの ただよし、1889〜1945)
【大本営 兵站部隊の増強】

第38師団を中心に多数の軍直轄部隊がこのように、9月17日発令になったのであるが、これと前後して主として兵站関係の部隊が、次のように第17軍の戦闘序列に編入されている。

大陸命第687号(9月14日 前出)
 第39野戦道路隊
 第76兵站病院
 第22野戦兵器廠の一部
 第22野戦自動車廠の一部
 第22野戦貨物廠の一部

大陸命第695号(9月23日)
 電信第24連隊の一部
 建築勤務第61中隊
 第17防疫給水部
 建築勤務第55中隊
 第16兵站病馬廠

大陸命第699号(10月2日)
 近衛師団第7陸上輸卒隊
 第8師団第9陸上輸卒隊
 水上勤務第35中隊

これらの部隊は、大東亜の各方面から連合軍の潜水艦の出没する海面を航行して、まずラバウルに前進し、そして更にまた、大部分の部隊は連合軍の制空権下に、ソロモン海域を突破して、ガダルカナル島に上陸しなければならないのである。このためには一糸乱れぬ海軍との協同が、絶対に必要となってきた。


※ガダルカナル島への鼠輸送のため駆逐艦に乗り込む将兵
【大本営 第8次陸海軍中央協定】

大本営陸軍部は南東方面に対する第8次の陸海軍中央協定を策定した。その全文は次のようなものである。

大陸指第1275号
指示
 大陸指第1246号別冊の情勢に応ずる東部ニューギニア、ソロモン群島作戦に関し別冊の如く増補す
 昭和17年9月18日

別冊
 情勢に応ずる東部ニューギニア、ソロモン群島作戦に関する陸海軍中央協定増補
  昭和17年9月18日
     大本営 陸軍部
     大本営 海軍部

一 作戦要領の第1条に基づき左の如く増補す
陸軍兵力資材の増加を待って陸海軍共戦力を統合発揮し 一挙にガダルカナル飛行場を攻撃奪回す
此間海軍は各種の手段を尽くしてソロモン方面に対する敵増援を阻止する

二 作戦要領第2条を左の如く改む
 前項作戦の情況之を許すに至らばV号作戦前 陸海軍協同して努めて速やかにラビ飛行場を占領す

三 作戦要領中に左の件を増補す
 海軍はソロモン群島および東部ニューギニア方面の飛行場を更に増強整備するに努む
 陸軍は右の為要すれば所要の援助をなす

四 カ号作戦(※注:ソロモン群島要地奪回作戦)およびト号作戦(※注:東部ニューギニア要地攻略作戦)終結後確保すべき外郭の要地左の如し
 ソロモン群島(サンクリストバル島およびレンネル島を含む)
 ルイジアド諸島
 ラビ、サマライ附近
 ポートモレスビー附近(キド飛行場を含む)
 情況に依り更にパプア湾沿岸要地を占領確保することあり

中央協定の第7次は既述のように第6次の「改定」であったが、今回の第8次は第7次の「増補」として出された。

どちらも8月13日に下令された大陸命第673号「第17軍司令官は依然東部ニューギニア方面に於ける作戦を遂行すると共に、海軍と協同してソロモン群島の要地を奪取すべし」という、基本方針に基づくものであった。
【大本営 軍参謀の増強】

田辺盛武参謀次長が南東太平洋方面視察の結果、第17軍司令部の幕僚陣の強化が要望され、これまで3名だった軍参謀が、一躍11名に増員された。

松本博参謀は第2師団の作戦主任に転出して、その後任は大本営研究班長小沼治夫大佐が9月15日発令された。小沼参謀は関係方面と連絡の後、9月18日東京出発、9月19日トラックで連合艦隊司令部と所要の連絡をして、9月20日ラバウルに着任した。

また井本熊男大本営派遣参謀と交代する予定で、大本営の作戦班長であった辻政信中佐が、前述の陸海軍中央協定増補を携えて9月25日、ラバウルに到着した。辻中佐が参謀総長から与えられた訓令は以下のようなものであった。

「9月18日東京発、約6週間の予定を以て第17軍方面に出張し 第17軍と大本営との連絡に任ずると共に第17軍の作戦業務を援助すべし 現地滞在間第17軍司令官の指揮を受くべし」

当時における第17軍参謀部の陣容は以下のとおりであった。

参謀長         少将 二見秋三郎
高級参謀(作戦)    大佐 小沼治夫
大本営派遣参謀(作戦) 中佐 辻 政信
大本営派遣参謀(情報) 中佐 杉田一次
第17軍参謀(船舶)  少佐 篠原 優
第17軍参謀(後方)  少佐 越次一雄
第17軍参謀(通信)  少佐 平岡與一郎
第17軍参謀(航空)  少佐 田中耕二
第17軍参謀(情報)  少佐 山内豊秋
第17軍参謀(作戦)  少佐 林 忠彦
第17軍参謀(後方)  少佐 山本筑郎
第17軍参謀(船舶)  少佐 家村英之助

かくして大本営は第17軍に所要の部隊を増強し、陸海軍の統合作戦計画(第8次中央協定)を策定し、且つこれに加えてここに述べたように軍司令部幕僚の陣容を飛躍的に増加し、また各種の準備を急いだ。


※第17軍参謀長
 陸軍少将 二見 秋三郎
昭和17年(1942)8月26日〜9月30日までをガダルカナル戦-第2期とし、
関連年表を記載します。
昭和17年(1942)

8月27日
 一木支隊第2梯団と川口支隊を5次に分けて
 ガダルカナル島に上陸させる艦艇輸送計画が決定される。

8月28日
 トラックを出発した川口支隊主力が同日未明にラバウルに到着。
 午後、ショートランドに向けてラバウルを出発。
 第1次輸送が失敗。駆逐艦1隻が沈没し、乗船していた川口支隊第2大隊に損害を出す。

8月29日
 第2次輸送が成功。

8月31日
「情勢に応ずる東部ニューギニア、ソロモン群島作戦に関する陸海軍中央協定」発令。
 第3次輸送成功。川口少将率いる川口支隊主力がガダルカナル島に上陸。

9月1日
 川口支隊の舟艇機動部隊(岡部隊)がショートランド出発。

9月5日
 ガ島沖を航行中の岡部隊が米軍の空襲を受け、大損害を蒙る。

9月7日
 川口支隊長、ガ島飛行場および付近敵陣地への攻撃計画(第1次総攻撃)を示達。

9月8日
 米軍がタイボ岬に上陸するが、同日中に撤収。
 川口支隊、第1次総攻撃のための前進を開始する。

9月12日
 川口支隊のガダルカナル島飛行場夜襲、不成功。

9月13日
ガダルカナル島飛行場への川口支隊の第2次夜襲攻撃、不成功。

9月14日
川口支隊長、敵と離隔し兵力を集結し後図を策すと第17軍に報告。

9月15日
 第17軍司令部、川口支隊の第1次総攻撃の失敗を確認する。

9月17日
 杉山元参謀総長が
「第17軍方面の今後の作戦指導の方策並びに大本営として採るべき処置」を上奏

9月21日
 ガダルカナル島に派遣された第17軍参謀が川口支隊長と合流

9月26日〜28日
 マタニカウ川河口付近でアメリカ軍が攻撃前進するが、これを撃退
次回からは、「ガダルカナル攻防戦 第3期」の書き込みを始めます。

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