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戦史研究室コミュの質問コーナー・・作戦編

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「作戦」に関する質問コーナーです。
時代、国家を問わず、すべての戦史を対象とします。

史実の作戦についての疑問、質問だけでなく、
「もしもこうしたら・・」という、
「イフ」を語る場所として使っていただいても結構です。

コメント(45)

>連合艦隊
>海軍と協力してインド進撃
ありえない話でもなかったようです。
ドイツ海軍が提案していたと思います。

>ボンド大佐
>ハワイを押さえることで米艦隊の太平洋での作戦には大きな打撃
ネックはやはり、その後の補給ということにありそうですね。

潜水艦によるハワイ近海での通商破壊作戦は、大規模に実施した場合、効果はあったでしょうかね?
史実では、ハワイからの哨戒機の妨害でそれほどの戦果はあげられなかったようですが。
げ、6でお2方の名前の後に敬称をつけるのを忘れていた。
連合艦隊様、ボンド大佐様、申し訳ありません。

ハワイ近海での通商破壊作戦について提案しましたが、史実でも第一段作戦の目処がついた昭和17年3月1日、大本営海軍部が連合艦隊にハワイを含めた太平洋全域とインド洋、アフリカ東岸に対して大規模な通商破壊作戦を命令していたようです。
一部は実施されましたが、結局、ミッドウェー海戦の決定と実施などで中途半端なものに終わったようです。
トピックのタイトルを変更しました。
太平洋戦争に限らず、戦史全般を扱うトピにしたいと思います。
>taka (?_?) 様

むむ・・またも難問ですね。

南雲中将と第1航空艦隊首脳部は、作戦目的をミッドウェー島攻略と認識していたと言われています。そのため、南雲艦隊の索敵は敵艦隊発見のための索敵ではなく、「敵艦隊がいないことを確認するための索敵」だったとも言われています。ミッドウェーに敵空母が来るはずがないという先入観に囚われていたというわけです。
ですから、偵察機発進の遅れもそれほど気にしていないようですし、連合艦隊からの「半分は陸上攻撃用、半分は敵空母攻撃用に準備しておけ」という指示に反し、友永大尉の「第2次攻撃の必要を認める」という電報が届く前から、全機を陸上攻撃用に兵装転換させています。
したがって、予定時刻通り索敵機を発進させ、かりに発見できたとしても、兵装転換の混乱は生じていたと思います。

そもそも連合艦隊は、ミッドウェー島占領に向けて厳密なタイムスケジュールを組み、多数の艦隊を派遣しています。先陣である南雲艦隊はそのタイムスケジュールをこなすため、敵空母との対決よりも要地攻略を重視したとしてもやむえをえないところです。
ミッドウェー海戦の索敵について、その問題点を洗い出すために索敵についての要点と海戦の流れを述べてみます。
(時刻は日本時間、なお現地時間はプラス3時間)

作戦実施にあたり、敵情索敵として以下の3つが計画された。
1 飛行艇による真珠湾偵察
2 潜水艦部隊による索敵哨戒
3 母艦航空隊による索敵哨戒

1 飛行艇による真珠湾攻偵察は、2式大艇2機をウォッゼから発進させ、途中ハワイ列島の西につながるフレンチフリゲート環礁に着水し、ここにあらかじめ配備していた潜水艦から燃料補給を受けて再び離陸、真珠湾を偵察して帰投する計画だった。
昭和17年3月4日に実施された「K計画」と同じ方法をとるもので、「第2次K計画」と呼ばれた。
しかし、フレンチフリゲート環礁に米水上艦艇が哨戒しており、退去する気配がないため、5月31日に中止となった。

2 潜水艦による索敵哨戒は、6月2日までに15隻が、ハワイーミッドウェー間に散開配備する予定だった。
しかし、予定日の6月2日に配備を終えたのは1隻のみだった。残りの潜水艦は修理に手間取るなどの理由で、結局、配備を終えたのは6月4日だった。
これが結果的には致命的な失敗となった。米空母エンタープライズとホーネットは、6月3日、日本潜水艦が配備される予定の地点を通過して、5日夜明けにミッドウェー島北方200マイルに位置した。予定通り潜水艦が配備されていたら、敵空母を発見できたかもしれなかった。

結局、1および2の事前索敵は失敗に終わり、第1航空艦隊(南雲艦隊)は敵空母の情報を得ないまま、ミッドウェー島に近づいた。

3 母艦航空隊による索敵哨戒は、指示された7つの索敵線を1機ずつ飛行する一投索敵だった。
発進時刻はミッドウェー島攻撃隊と同時発進とされた。すなわち第1次攻撃隊が発進すると、空母上では第2次攻撃隊が兵装を備え発艦待機し、索敵機より敵艦発見の報が入ると直ちに発進するという、日本機動部隊がハワイ作戦以来採ってきた攻撃体制だった。

6月5日午前1時30分、上空警戒機、第1次攻撃隊(ミッドウェー島攻撃)、対潜警戒機、索敵機に発艦命令が出され、各艦より逐次発艦していった。しかし、中央の4本の索敵線を担当する利根・筑摩の水偵の発進が遅れた。
午前1時35分、第5索敵線の筑摩1号機が発進。
午前1時38分、第6索敵線の筑摩4号機が発進。
午前1時42分、第3索敵線の利根1号機が発進。
午前2時、   第4索敵線の利根4号機が発進(30分遅れ)。
午前3時30分、第1次攻撃隊、ミッドウェー島上空に到着。
※この頃、南雲中将は付近に敵空母はいないと判断し、午前4時少し前に、兵装を雷装から爆装へと命令する(記録では午前4時15分とされている)。

午前4時、   友永隊長が「第2次攻撃」を要請。
午前4時05分、ミッドウェー基地航空部隊が南雲艦隊を空襲し始める(〜午前5時30分ころまで)。
※基地航空部隊(陸軍機および海兵隊機)からの空襲が続いたことで南雲中将は敵空母がいないと確信し、爆装を急がせる。

午前4時28分、利根4号機から「敵らしきもの10隻見ゆ」の報告が入る。
※利根4号機は、続いて敵艦隊の方位を報告したが、それは実際の方位よりも大きく北にずれていた。原因は、利根4号機の偵察員が作図を誤り、予定航路と、実際に飛行した航路がズレていたためのミスとも言われている。
一方、報告を受けた1航艦司令部も報告艦位の誤りに気づかなかった。報告地点よりも実際は、敵はもっと近くにいたのである。これに気づかなかった1航艦司令部の大きなミスが、後の作戦判断を誤らせる。

午前4時45分、利根4号機の報告に基づき南雲中将は、敵空母の存在の可能性ありとして、ふたたび兵装を雷装に転換することを命じる。
※南雲中将は、先程の兵装転換から30分しかたっていないので、艦攻の大部分はまだ雷装のままだと考えていたふしがある。しかし兵装転換というのは、はずすのは簡単で、装着に時間がかかるものであった。そのことを南雲中将は知らなかったようである。

午前5時20分、利根4号機は「敵はその後方に空母らしきもの1隻を伴う」と報告。
※1航艦は、ここではじめて敵空母の存在を確認した。この頃、南雲艦隊は敵機のはげしい空襲にさらされており、第2次攻撃隊(敵空母攻撃)につけるべき戦闘機も防空のため出払っていた。
甲板ではまだ航空機の兵装転換が行われていたが、第2航空戦隊司令官山口多聞少将や、1航艦の幕僚は即座の出撃を具申した。
しかし南雲中将は、利根4号機の報告から敵空母までの距離もかなりあると判断し、第1次攻撃隊を収容し、陣容を整えて敵空母を攻撃することを決意した。
出撃時刻は、兵装転換が終わる予定の午前7時30分と定められた。

午前5時20分頃、米空母から攻撃隊が出撃する。
午前6時25分、ホーネット雷撃隊15機襲来。
午前6時45分、エンタープライズ雷撃隊14機襲来。
午前7時15分、ヨークタウン雷撃隊13機襲来。
※敵艦載機が襲来してきた頃、第1次攻撃隊が帰還した。南雲中将は上空護衛の零戦をさらに増強するとともに、第1次攻撃隊の収容を命じた。
4隻の日本空母は、直衛零戦の発進、第1次攻撃隊の収容、そして第2次攻撃隊の兵装転換を同時に行うことになり混乱に陥った。
敵機は零戦がほとんど撃墜し、空母の損害はなかった。しかし、たまたま雷撃機の攻撃が続いたため、上空直衛の零戦も艦隊防空要員も水平線に注意を注ぎ、上空警戒が手薄となっていた。

午前7時23分、第2次攻撃隊の発進準備がほぼ終了。この時、エンタープライズ急降下爆撃機33機が急降下爆撃を開始。赤城、加賀、蒼龍が被弾炎上した。

午前7時45分、利根4号機の交替機として発進した2式艦偵(筑摩5号機という資料もある)が、敵空母の正確な位置を報告。
午前7時58分、飛龍から第1次攻撃隊発進。
午前10時31分、飛龍から第2次攻撃隊発進。
午後2時03分、飛龍、被弾炎上。

以上が大きな流れです。
ここから、索敵面を中心に問題点を探りたいと思います。
考察1
飛行艇による真珠湾偵察について

アメリカ軍がフレンチフリゲート環礁に哨戒艦艇を貼り付けて動かさなかったのは、暗号解読によってこれを察知していたためと言われています。
また、2式大艇の出発予定日は5月31日(夜間にハワイ上空到達の予定だったと思われる)でしたが、エンタープライズとホーネットは5月27日に、ヨークタウンも5月31日にハワイを出港していますので、予定通り出発できたとしても、米空母の動静をつかむことは出来なかったと思われます。

考察2
潜水艦部隊による索敵哨戒

米機動部隊の実際の航路上の哨戒ラインだったのは「乙散開線」と呼ばれ、8隻の潜水艦が配置される予定でした。内1隻(伊164潜)は5月17日、九州南西方にて米潜水艦の雷撃を受け沈没。残りの7隻も老朽艦であることから修理に手間取り、配置が終わったのは予定より2日遅れの6月4日でした。その間に米機動部隊は、哨戒線を通過していました。
ミッドウェー海戦自体が開戦後半年間の休みなき戦いで、艦艇全般が整備を要する時期に、無理を押して決行されたという背景があり、不運だったと一言ではすまされない問題があると思います。

11では触れていませんが、南雲艦隊が事前に米空母の情報を知る最後のチャンスがありました。
6月4日夜、後方を進撃中の「大和」敵信傍受班が、ミッドウェー海域にて米空母と思われる呼出符号を含む敵無線を傍受したのです。ところが、この貴重な情報は、無線封止を金科玉条とした連合艦隊司令部により、大和から赤城に知らされませんでした。このため南雲艦隊は、事前に敵空母の情報を何も得ず、「ミッドウェーに敵空母はいない」と楽観して戦場に向いました。
しかし、これには異説もあって、実は大和と同類の無線を空母「飛龍」でも一部傍受していたという説があります。にもかかわらず、おそらく事務処理上の不手際から加来艦長や山口司令官はおろか、通信参謀にも伝達されなかったと言われています。
レイテ沖海戦で、小沢艦隊からの電報が栗田艦隊に届かなかった件をみても、当時の日本海軍は通信技術やシステムに欠陥を抱えており、上記の異説も十分ありえることと思えます。

いずれにせよ、日本軍は戦略情報の入手にことごとく失敗しており、その理由は単純な不運やささいなミスによるものでなく、作戦計画の根本的な欠陥、さらには日本軍が抱えていた体質的問題が潜んでいると思われます。
事前の戦略情報活動に失敗した日本軍。では、海戦時の索敵についてはどうでしょう。

>9
>戦後検証したら、計画時間に行ってれば空母部隊を発見できたと・・・・ これほんとうにそうだろうか?

利根4番機が予定時刻通り発進していたら、史実の敵空母の航路から外れて、あの時間に発見できなかったという説も有力です。30分遅れたため、偶然にも敵発見につながったのであって、むしろ幸運であったと言えます。
利根4号機は、実際には予定された索敵線を飛びませんでした。30分遅れて発進したのに、当初の予定の時間で北上したため、予定コースよりも内側のラインを飛行したのです。
利根4号機が敵空母を発見したのは、この内側のライン上でのことだったので、予定の索敵線を飛行した場合、時間的にもコース的にも敵空母を発見する可能性は低かったとされています。

利根4号機の発進遅延が問題にされるのは、30分早く発進していれば、敵発見は30分早くなり、そうすれば雷装から爆装に転換命令が出されず、そのまま敵空母を攻撃できたはずだというイフ論によるものです。
タイムスケジュールで言うと、
0400 友永隊長より「第2次攻撃の要あり」電報受ける。
0415 雷装から爆装へと兵装転換命令
0428 利根4号機が「敵発見」を打電
となるので、報告が30分早ければ兵装転換しないですむはずだったというわけです。

ところがこれには異論もあって、海戦の報告書である「機動部隊戦闘詳報」には「0500頃、利根第4番索敵機より『敵らしきもの10隻見ゆ』との報告があり」と記述されており、司令部に電報が届いたのは0500だったとなっています。
淵田美津雄中佐も著書「ミッドウェー」で「午前5時頃、赤城艦橋に利根4番機からの電報が電文室から届いた」という内容の文章を書いています。他にも草鹿龍之介参謀長や源田実参謀なども戦後記した著作で「午前5時司令部到着説」を記しています。

打電後、司令部まで30分以上かかったのは、まず利根4号機は母艦である利根に対して打電し、利根の信号班が暗号化された電文を解読し、それを赤城に中継し、赤城の信号班がそれを受信し、司令部に届けられたという経緯をたどっているためと推測されます。

ともあれ、午前5時に電文が司令部に届いたのが事実とすれば、30分早く敵を発見したとしても、混乱の原因である兵装転換(雷装→爆装)は行われた後であり、結果は史実と変わらない可能性が高いと思います。
まだ読んでないんですが。

「やっぱり勝てない?太平洋戦争―日本海軍は本当に強かったのか」

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4890631860/qid=1146825297/sr=1-6/ref=sr_1_10_6/503-1327174-7830323

これによるとハワイ攻略もミッドウェーの利根機の機動部隊発見も無かったって結論みたいですね。
いろいろと一般からは「常識」とされてることに異議を申し立ててるみたいです。
データ偏重すぎな気がしないでもないですが。
読んだら何か意見が書けるかも。
>「やっぱり勝てない?太平洋戦争?日本海軍は本当に強かったのか」

その本、読みましたよ。
11〜13の記述もこの本を参照にした部分があります。本の内容が正しいか否かはともかく、通説とは違った視点を持ちたい方にはおすすめですね。でも、日本海軍賛美派の方は読まない方がいいでしょう(笑。

あらためてミッドウェー海戦について調べていますが、一筋縄ではいきませんわ。負け戦でちゃんとした原資料がないから、時間経過も資料によってバラバラだし。

別コミュですが、イフ論も交えた「ミッドウェー海戦論」を書いています。もし関心がございましたらお読みください。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6142475&comm_id=824928
ミッドウェーの空母被弾時の甲板には航空機はほとんど無かったようですね。
ドーントレスの機長も赤城の甲板に数機しかいないの見てますし。
これじゃあ、攻撃隊の発艦はうまくいっててもいつになったのか。

それと、戦闘後の米空母の写真見るとほとんどが鎮火して一見平気なように見えるんですよね。
ダメージコントロールの賜物でしょうか。
魚雷や爆弾を当てても回復しちゃう米空母。
怖いですね〜。
>ミッドウェーの空母被弾時の甲板には航空機はほとんど無かったようですね

「魔の5分間」とよく言われるように、あと5分あれば待機していた全機が発艦できたとされていますが、事実は、「あと5分あれば兵装転換が完了する」とも言われています。
格納庫内での兵装転換作業はほぼ終了したが、その後、飛行機の発艦準備作業が待っているので、本当に発艦できるまで、あと30分はかかったという当時の体験者の回想もあります。

ただ、空母によって状況は違っているようでもあり、体験者の回想や手記を読んでも矛盾する表記が見受けられます。記憶も吹き飛ばしてしまうほどの強烈な経験だったのでしょう。
日本がインド洋に進出してスエズ打通をする小説は林譲二氏の「兵隊元帥欧州戦記」があります。
結果、イギリスは連合国から脱落、アジアの資源とバーターでイギリスの兵器を導入して日本が戦うというのが続編の「焦熱の波濤」です。
幾多の幸運がありますが、戦争資源的にはそんなに割かずに実行してます。
結局はそれだけでは戦争に勝てないんですけどね。
>神風行った人と米軍被害で計算すると一人一殺くらいの割合

そうなると、米軍に出血を強いるという特攻の目的の1つは果たされたということになるのでしょうかね。それが日本の望む講和に結びつかなかった点で成功したとは言い難いのですが。
米軍は人命を大事にするとか、出血に弱いとか評価されていたようですが、ヨーロッパ戦線なんか太平洋戦線の数倍の死傷者を出していますからね。当時の日本指導者たちの甘さがうかがわれます。

米軍の強さは物資や装備だけでなく、それをシステムとして統合するのがうまいことにあると思います。例えばレーダーをとってみても、そこにCICという情報管理システムを組み合わせ、無線で戦闘機と連絡し合うやり方を確立し、対空砲火の射撃官制装置にも応用するなど・・
その1つ1つに高度な科学技術が必要なので、日本はとても追いつけませんね。
それと、イギリスとの同盟関係が大きかったと思います。太平洋戦争が始まるまで2年間、ドイツと戦っていましたから、実戦経験がアメリカ軍の強化に役立っています。レーダーも、もともとイギリスの技術を輸入していますし。
このトピの主旨と少し違うかも知れませんが、一つ質問があります。

それは、現在私は、日本陸軍のフィリピンなどを含めて、グァム、サイパンなどの南洋群島に派遣された連隊の玉砕・全滅された当時の兵員の構成を調べているのですが、今一、良く解らないのです。

敗戦が色濃くなってから補充されたであろう、それらの兵員は、どの様な人たちだったのか知りたいのです。

当然ながら殆どの兵員が戦死された訳ですが、いろいろインターネットで調べてみたのですが、私には、なかなか見付けられないのです。

連隊名までは解るのですが、その連隊区司令部がどの様な人々を徴兵したのかが解らないのです。

その辺について多少なりとも、ご存知の方がおられましたら、是非、教えて戴きたいのです。

どうか宜しく、お願い申し上げます。
>24
>敗戦が色濃くなってから補充されたであろう、それらの兵員は、どの様な人たちだったのか知りたいのです。

「どの様な」の意味をもう少し具体的に言っていただけないでしょうか。
年齢層や職業層のことでしょうか。

戦争後半もしくは末期とはいえ、部隊によって千差万別です。
ペリリュー島や硫黄島の将兵たちは現役兵が多かったといいますし、満州における根こそぎ動員や本土決戦ように動員された兵士は、40代の人が相当いたといいます。

詳しく知りたいというのなら部隊別に調べるしかありません。
連隊史や部隊史の本をご覧になってはいかがでしょうか。
東京都にお住まいなら、近くの公共図書館を通じて都立図書館などに所蔵している本が借りられます。ネット等で部隊史の本を検索して、お近くの図書館なりに相談されてみてはいかがでしょうか。
>25 nagao eiji様

 早速のコメントありがとうございます。

 それでは、ご教示戴いた方法で調べてみようと思います。

 実は、先日、韓国に出張致しました際に、韓国の会社の役員の方達に懇親パーティーを開いて戴きまして、夕食をしながらの話題の中で、日本軍の南洋で戦死した兵隊達は、その多くが朝鮮人だったと言う話を聞いたのです。

 私は初耳でしたので、答えられなかったのですが、本当か?と思い、それ以来調べているのですが、よく解らないのです。

 この話が事実でしたら、私の是までの韓国・朝鮮人の歴史に対する認識が一変して仕舞うからです。

 戦争末期には、それまで実施していなかった朝鮮人に対する徴兵を実施したところ、応募者が殺到して選抜する必要があった程だと聴いていたからです。

 その辺の実態を知りたかったので、調べていたのです。

 陸軍士官学校出身者の朝鮮人の氏名は全て、偕行社発行の20000円程度する陸軍士官学校の名簿に載っておりましたので、将校については殆ど解りそうです。

 問題は、徴兵された兵士達の、その後の正確な行方なのです。

 
P.S.

>戦争末期には、それまで実施していなかった朝鮮人に対する徴兵を実施したところ、応募者が殺到して選抜する必要があった程だと聴いていたからです。

 上記を、下記の様に訂正致します。

        記

戦争末期には、それまで実施していなかった朝鮮人に対する徴兵を実施したところ、応募者が殺到して選抜する必要があった程だと聴いていたので、もしかしたら、それらの朝鮮人の人達なのか?と、思ったからです。

>日本軍の南洋で戦死した兵隊達は、その多くが朝鮮人だったと言う話を聞いたのです

これは、発言された方が間違っているか、もしくは聞き違い(通訳の誤り?)でしょう。
人数の絶対数から言っても、「日本軍の南洋で戦死した兵隊達は、その多くが朝鮮人」なわけがありません。

>戦争末期には、それまで実施していなかった朝鮮人に対する徴兵を実施したところ、応募者が殺到して選抜する必要があった程だと聴いていたからです。

これは、昭和19年4月に実施された「朝鮮半島における徴兵制」と、昭和13年から実施された「朝鮮人陸軍特別志願兵」がゴッチャ混ぜになっていると思われます(海軍は昭和18年から朝鮮人特別志願兵制度を実施)。
特別志願兵制度の施行以前は、朝鮮人が一般の兵卒として陸海軍に入隊することはできず、朝鮮人の日本軍人は洪思翊に代表される、陸軍士官学校を卒業して士官に任官した者、旧大韓帝国軍から朝鮮軍人として日本陸軍に転籍した者に限られていたといいます。
また、海軍兵学校、海軍機関学校などの海軍の士官養成諸学校は、最後まで朝鮮人の入校を認めなかったようです。

この特別志願兵は、確かに「応募者が殺到して選抜する必要があった程」で、以下のような数字が記録されています。
昭和13年(1938) 志願者2,946人 合格者406人 倍率7.3倍
昭和14年(1939) 志願者12,348人 合格者613人 倍率20.1倍
昭和15年(1940) 志願者84,443人 合格者3,060人 倍率27.6倍
昭和16年(1941) 志願者144,743人 合格者3,208人 倍率45.1倍
昭和17年(1942) 志願者254,273人 合格者4,077人 倍率62.4倍
昭和18年(1943) 志願者303,394人 合格者6,000人 倍率50.6倍
(アジア歴史資料センター Ref. B02031284700)

各地域別人員と死者の比率として、以下のような記録があります。
(以下における動員とは、日本本土を離れ、外地に向かった人数のこと。戦地に赴いた数と大ざっぱに考えてよいと思う)

朝鮮
 全体 動員:242,341人 復員:240,159人 戦没or不明:22,182人 戦没or不明率:9.2%
 軍人 動員:116,294人 復員:110,116人 戦没or不明:6,178人 戦没or不明率:5.3% 
 軍属 動員:126,047人 復員:110,043人 戦没or不明:16,004人 戦没or不明率:12.7% 
台湾
 全体 動員:207,183人 復員:176,879人 戦没or不明:30,304人 戦没or不明率:14.6%
 軍人 動員:80,433人 復員:78,287人 戦没or不明:2,146人 戦没or不明率:2.7% 
 軍属 動員:126,750人 復員:98,590人 戦没or不明:28,160人 戦没or不明率:22.2%  
日本本土
 全体 動員:781.4万人 復員:551.4万人 戦没or不明:230万人 戦没or不明率:29.43%

上記の数字でわかるように、日本人の数が突出している一方、朝鮮および同じ植民地だった台湾の数字は似ており、「日本軍の南洋で戦死した兵隊達は、その多くが朝鮮人」が数字上から否定されると言えるでしょう。

なお、上記における朝鮮人軍人は、ほとんどが特別志願兵の方々と考えていいでしょう。昭和19年4月の徴兵制で兵士になった朝鮮人の方々は、訓練中に終戦となり、戦地に赴いていないといわれているからです。
>良い子さま

マーシャル諸島など玉砕の島に多数の朝鮮人軍属が派遣されたのは事実ですね。
マキン、タラワなどにもいたんじゃなかったかな?
彼らの運命は軍人以上に悲惨だったでしょうね。

疑義を発した「日本軍の南洋で戦死した兵隊達は、その多くが朝鮮人」も、「日本軍の南洋で戦死した『軍属』達は、その多くが朝鮮人」という意味ならば、まぎれもない事実といえるでしょう。

>柳先生さん
>朝鮮人軍属による捕虜虐待(フィリピンや韓国で現地の人から話が聞けました。)

差別される者は、それより弱者を差別するといわれていますね。
戦争という非日常の場面だけでなく、日常でも見受けられる現象です。これは人間社会の根本にかかわる問題なのでしょう。
>nagao eiji様

 貴重な資料と、ご指摘に感謝申し上げます。

 確かに、通訳の男性の発言内容には、時々良く解らないところがありましたので、軍人と軍属の区別が付いて無かったのかも知れません。

 また、朝鮮人の応募兵と、徴兵との違いが正確に理解できました。

 本当に、ありがとうございました。

 今回の疑問点は、殆ど解消できました。心より感謝申し上げます。

 

>良い子さま

 南洋における朝鮮人軍属の実態や、状況が大変良く理解できました。

 真にありがたく、心より感謝申し上げます。
随分昔に読んだ「ニミッツの太平洋海戦史」を、最近になって再び読んでみたのですが、当時も疑問に思ったのですが、そのままになっていたのを、今回また読んでみて、再度同じ疑問を思い出した次第です。

それは、珊瑚海海戦についての記述の中で「真珠湾攻撃以来日本海軍の暗号を解読できたので戦略的にアメリカは優位に立っていたが、軍事力を結集させるのは容易ではなかった」と言っているのです。

この場合のニミッツが言う「真珠湾攻撃以来」とは、日本軍の真珠湾攻撃が終わった後の事からなのか?真珠湾攻撃時も含めての事なのか?よく解らないのです。

全体の文脈から考えると真珠湾攻撃後からの様に感じるのですが、その辺は如何なのでしょうか?

もし、真珠湾攻撃後の事だったとしたら、その場合は何処の事を指しているのかを知りたいのです。

また、英文では、どの様に書かれているのか興味があります。

その辺の違いが確認できるかも知れないからです。

その辺の事について、ご存知の方がおられましたら教えて下さい。

宜しく、お願い致します。
山城さん
  
 手元に資料がないのでとりあえず記憶ですが、米海軍情報部が日本海軍の作戦用暗号の解読に本格的に取り掛かったのは、真珠湾攻撃のあとです。それまでは「提督級暗号」という余り使用されない暗号の解読を試みていました。(結局、これは戦争中は解読できませんでした。)

 ですから、ニミッツのいう「真珠湾以降」とは12月7日を含まないわけですね。

  
リトルーEさま

やはりそうですか。真珠湾攻撃の後ですか。

スティネット説の可能性を、多少なりとも期待したのですが、米軍関係資料のオーソリティーであられるリトルーEさまが、左様に仰られるのでしたら間違いは無いと思いますので、残念ながら諦めざるを得ません。

考えてみれば真珠湾攻撃時にはニミッツは未だ少将であり、左様な情報を知る立場にもなかった訳ですから、全く、ご指摘のとおりですね。

よく解りました。ありがとうございます。
マル4計画の翔鶴級2隻を取りやめて飛龍級を量産すればよかったって説がありますが、ドックや予算的に可能だったのでしょうか?
作戦とは直接関係が無いのですが、人事組織と指揮権について質問があります。

先ず始めに、連合艦隊の司令長官の次に副司令長官と言うのはいたのでしょうか?

次に、指揮権についてですが、副司令長官がいなかったとしたら、司令長官の次は参謀長だったのでしょうか?

帝国陸軍の場合、参謀が直接指揮をとったりして、参謀制度が崩壊していたように思われるのですが、海軍は如何だったのでしょうか?

この辺の事が良く解りませんので、教えて戴ければありがたいです。
>42

海軍の場合、「軍令承行令(ぐんれいしょうこうれい)」という法令で、作戦上の指揮権の継承序列が定められていました。
簡単に言えば、司令官や艦長が戦死した場合、その部隊もしくは艦艇に同階級の者がいればハンモックナンバー(海軍兵学校卒業時の成績)順に指揮権が移行する。同階級の者がいなければ階級の高い者が指揮権を行使するというものです。

連合艦隊でいえば、連合艦隊に所属する高級指揮官の中で軍令承行令の名簿に基き、長官の職責を受け継ぐ者(次席指揮官)がすでに決まっています。したがって、「連合艦隊副司令長官」という役職はありません。
太平洋戦争初期から中期にかけての次席指揮官は、当時、第2艦隊司令長官だった近藤信竹中将でした。山本長官が戦死した時、後任の古賀峯一大将が着任するまで連合艦隊の指揮をとっていました。ちなみに、古賀大将はそれまで横須賀鎮守府司令長官で、連合艦隊とは別組織の指揮官でした。
古賀長官が殉職した時は、軍令承行令の規定によって南西方面艦隊司令長官だった高須四郎大将に指揮権が移ることになりましたが、「あ」号作戦(マリアナ沖海戦)の準備をしていた軍令部との間でトラブルが続いたようです。

軍令承行令は、もともと藩閥制度の弊害をなくすため海軍兵学校卒業成績に基づく序列制度が考案され、実施されたものでした。ハンモックナンバーを基準とすることで、地縁差別による派閥の横行がなくし、明朗で公正な人事が期待されるとして定着したのですが、太平洋戦争の時代になると、実態に沿わない事例が多数出てきました。

いずれにせよ、海軍の場合、陸軍のように指揮官を無視して参謀が勝手に指揮権を行使するということはなかったといっていいでしょう。
>nagao eiji様

 軍令承行令の事は知っていたのですが、具体的にはどの様に行われたのかは解らなかったのです。

 大変、明快な解説を戴きまして、本当に良く解りました。

 ありがとうございました。

 
> 43

基本的な内容にとりだてて問題があるわけではありませんが、言葉
遣いや用語に関して、若干気になるところがありましたので。

>連合艦隊の司令長官の次に副司令長官と言うのはいたのでしょうか?

答は「否」ですが、一般論として如何なる職員が置かれるべきかに
ついては、艦隊(艦隊司令部、戦隊司令部等)にあっては「艦隊令」、
艦船等にあっては「艦船令」等に規定するところがあります。また、
実際の部隊にこれら規程上の職のうち具体的に何が置かれ、また配
員すべき官階やその員数については「定員令」内の「定員表」で規
定されます。

艦隊令が定める聯合艦隊及び艦隊司令長官の幕僚には、以下の職員
があります。

参謀長、参謀、副官、機関長、軍医長、主計長

この他「司令部附」も職員と見なすのが妥当と考えます。

なお、明治の初めのころは艦隊職員として「司令次官」なる職名の
配置があったことを付記しておきます。

軍令承行令とは、艦船部隊等を指揮する権限の順序を定めたもので、
私の理解するところは「艦船や部隊の指揮官が指揮を執ること不可
能になった場合に、代わりに誰がその艦船や部隊の指揮を執るべき
かの順序を定めたもの」であり、一般には当該艦船部隊内の兵科将
校の「官階の上下、任官の先後」に従って継承の順位が定まります。

官階同一の場合の順位を示すのが「現役海軍士官名簿」に示される
「電報符」であり、兵科にとどまらず機関科、主計科とも生徒学校
卒業時の席次から進級時にその序列を累次変更し、その時点での先
任順序を示したものです。すなわち厳密には「兵学校の卒業時の席
次」ではなく、最新の現役海軍士官名簿での序列(さらには名簿発
行後の進級による席次の変更を踏まえた序列)が継承の順序です。

ちなみに「ハンモックナンバー」の意味として「生徒学校卒業時の
席次」「現時点での席次(電報符)」のいずれ(あるいは両者)に
該当するのか未だ確証を得るに至ってませんが、今のところ両方に
該当するものとの説に自分は立っています。

参考までに書くと、士官の定期進級は概ね11月、教育年度の開始は1
2月、異動はこの時期に行われ、それが落ち着いた1月1日時点での配
置に基づき現役海軍士官名簿は調製されますが、昭和17年度以降は
必ずしもこの慣例に従わず、昭和16年12月、昭和17年11月、昭和18
年6月、昭和19年7月と変則的になっています

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