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戦史研究室コミュの太平洋戦争 講和の見込み

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日本は、米国の経済制裁が主因で太平洋戦争に踏み切りましたが、敵国領土を全面占領して無条件降伏に追い込むことが不可能なことは、当時の首脳も知っていたはずです。

とすると・・・どこかで講和が必要なわけですが、彼ら(当時の政府・軍幹部)はどのあたりでどのような条件で講和する見込みでいたのでしょうか。
終戦間近の諸工作は知っていますが、開戦〜43年辺りまではどのように考えていたわけでしょうか。

考えてもいなく、条件を煮詰めたり等もしていなかったのでしょうか。
ご存知の方、いらっしゃいましたら、教えて頂けましたらと思います。

なお、テーマがテーマだけに、複数答えがあるかもしれない、とも思いましたので、質問トピにではなく、単独トピを立てて伺わせて頂きました。

コメント(6)

1、資源地帯を占領して、奪回部隊を排除して、長期持久したうえで、向こうから手を差し伸べてくるのを待つ

つもりでいたんでしょうか。

2、勝ち続けて、ハワイまで占領した上で、対米講和に移る

つもりでいたんでしょうか。
それとも

3、オーストラリアや中国を追い込んで講和のテーブルに着かせ、対米講和に繋げていく

つもりでいたんでしょうか。

結局のところ、いつか講和するつもりでいながら、その時期に迷い具体的計画も立てず、気付いたら負けこんでいた・・・という感じなんでしょうか?
何か史料や日記等から具体的な記述を見た方はいらっしゃいますか?
開戦当初は、ドイツがソ連を破ることでヨーロッパ戦線が終息し、日本もその講和交渉に便乗する、という可能性も考えられたでしょうが、42年の春までにはもう誰の目にも怪しくなっているでしょう。

とすると、何か考えたなら別の可能性も模索されたはずですが、どうなんでしょうexclamation & question
「太平洋戦争・第一段作戦」トピック(http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=1&comm_id=396416&id=2899420)に開戦から第一段作戦終了時(昭和17年3月)までの日本の戦略について書き込みしています。元ネタは「戦史叢書」大本営陸軍部(2)(3)などです。

大雑把に言えば、ドイツがイギリスを降伏させ、ソ連に大打撃を与えれる。そうすればアメリカ国内に厭戦ムードが蔓延し、講和会議を望む声が大きくなるだろうというものでした。第一次大戦末期の状態を予想していたようです。
当時、ブロック経済体制下でしたので、満州・中国と南方資源地帯をおさえて大東亜共栄圏内で自存自衛を図るというのが、日本の方針だったようです。
ところが、その頼みのドイツが昭和16年12月8日の段階で、対米宣戦布告の確約をしなかったことに陸軍は焦燥感を深めます。ヒトラーが対米参戦を決めたのが12月10日で、「大本営機密戦争日誌」には、「・・戦争の前途に大なる光明を認め得るに至る。真に天佑神助と言うべく慶祝に堪えず。」 と記され、陸軍首脳部は真珠湾攻撃成功以上に喜んだといいます。

現在の視点からみると、ドイツ軍の攻勢は限界に達していましたが、駐独、駐伊大使がドイツ寄りの情報を流していましたし、陸軍上層部のドイツびいきもあって、実態は理解されていなかったのでしょう。

昭和17年3月、「今後採るべき戦争指導の大綱」で「英を屈伏し米の戦意を喪失せしむるため、引続き既得の戦果を拡充して長期不敗の攻戦態勢を整えつつ、機を見て積極的の方策を講ず」と規定され、「英を屈服」させる手段の一つとしてインド工作及び進攻作戦が計画されます。これが後にインパール作戦に発展します。そして、「米の戦意を喪失」させるため海軍が実施した作戦の一つがミッドウェー海戦でした。

昭和18年以降、戦局悪化が明らかになると、アメリカ艦隊へ「一大決戦」を強要し、アメリカの継戦意欲を削ぐことが中心になり、末期には特攻作戦を中心に、敵に一大出血を強いて出来るだけ有利な講和を結ぶことに一縷の望みを抱くようになります。
ありがとうございます。
参考になります。

該当のトピックは戦史叢書中の記事ですか?
>4

そうです。基本的に「戦史叢書」の記述です。
ただ、戦史叢書がすべて正しいというわけではないので、その点はご注意を。

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