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戦史研究室コミュの普墺戦争 リッサ海戦

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ちょっと目に留まったのですが、結果が非常に不思議でならない戦いがありました。1866年7月20日、普墺戦争のさなかリッサ島近海で起こったリッサ海戦です。

ウィキペディアで見たのですが、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B5%E6%B5%B7%E6%88%A6 どうすればイタリアが負けるやら。戦力展開図や、英語版には各軍の装備等の記述がありますが、双方の戦力の大部分を占めていた戦列艦は横にならなければ砲撃が出来ず、言いかえればオーストリア軍は完全に横向きになり反包囲体勢で待ち構えていたイタリア艦の餌食になっていたはず。さらにはこの時代に衝角戦術などという戦法にまで出る軍がなぜ勝てたのか不思議でなりません。お詳しい方ご教授いただけますでしょうか。

コメント(19)

イタリアの敗因はおおよそ以下のとおり。


1.海戦直前の旗艦変更。

 イタリア艦隊司令長官ペルサーノ提督はオーストリア艦隊を発見すると旗艦を「レ・ディタリア」から「アフォンダトーレ」に変更、あまりにも急すぎる旗艦変更によりイタリア艦隊は少なからず混乱した。まあ確かに「アフォンダトーレ」の方が新鋭艦(「アフォンダトーレ」は艦隊出撃時には配属されておらず、後に編入されたという経緯がある。)ではあるのですが。


2.当時の技術レベル

 当時の艦載砲の貫徹力では当時の装甲を撃ち抜けず、決定力はなかった。テゲトフ提督が衝角戦法を採用したのもそのため。また射程距離も第2次大戦などと比べればはるかに短く、詳細な数値は判らないが、おそらく1000m程度と思われる。
 また発射速度と命中率もけして高くはなく、蒸気機関の採用により軍艦の機動性が向上していた事もあり、直進してくる敵艦に有効打を与えられる可能性が低かった。さらに当時の発射火薬は黒色火薬であり、大量の黒煙が発生する。イタリア艦隊は自艦隊の発砲により視界が悪くなり、結果として艦隊戦というより艦対艦の乱戦となった。


3.イタリア海軍の作戦上の不合理

 当時のイタリア艦隊は「リッサ島の占領」と「出撃してくるオーストラリア艦隊の撃滅」と言う2つの任務が与えられており、それがイタリア艦隊の戦力分散を招いた。イタリア艦隊の木造軍艦部隊はリッサ島の攻略に当たっており、イタリア艦隊は装甲艦のみでオーストリア艦隊に挑む事になった。
 それに対してオーストリア艦隊は全力でイタリア艦隊に攻撃をかけており、軍艦の数ではイタリア軍よりも優勢であった。敵の分力に対して全力で攻撃をかけるというのは、ミッドウェー海戦によく似ている。


 というとこです、技術と戦術の関係は相互に作用を催し、進化してゆくものです。当時の技術と戦術の関係では、衝角戦法はけして旧弊な戦術ではありませんでした。
既に鉄底海峡様が答えられていますので、別の視点から

これを見てください
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Trafalgar_1200hr.gif
同じくWikiですが、これは英国が勝利したトラファルガーの会戦の最初の段階の図です。これも赤の英国艦隊が包囲されているように見えますね。

要は鉄底艦隊様の指摘されている「射程距離」の問題で、リッサの会戦の図でも、別にイタリア艦隊は図の段階で墺艦隊に射撃しているわけではないのです。

コーキ様の誤解は、一見して墺艦隊が集中射撃を受けるように見える事から生じた疑問ではないでしょうか?
>>鉄底海峡様

1浅学で申し訳ないのですが、旗艦が変更されることによる混乱とは具体的にどのようなものでしょうか。指揮が混乱すると言っても、旗艦変更は伝えてある訳ですから間違った方向に手旗信号を送るということもないはずです。

2装甲を打ち抜けない上に、蒸気機関による機動性に大砲が付いて行ってなかったというのがポイントですね。一時的に攻守の技術の間に格差が開いていたということでしょうか。

3ありゃ、非装甲艦もイタリア軍戦力の内に含まれていますが、これらは参戦していなかったのですか。これはうっかり見落としていました。



>>いぎし ちじ様
あの図には縮尺がありませんが、実際はやっと0.5海里という位接近した状態です。これはもう射程内なので疑問に思いました。

トピックとしては少しずれますが、トラファルガー会戦においては双方の軍に明かなる戦術の差が有りましたので、(構造物に対する砲撃と船体に対する砲撃)この違いにより勝敗が分かれたと認識しておりますが、これでよろしいでしょうか?
>3 コーキさんへ


>旗艦が変更されることによる混乱とは具体的にどのようなものでしょうか。指揮が混乱すると言っても、旗艦変更は伝えてある訳ですから間違った方向に手旗信号を送るということもないはずです。

 旗艦変更が伝わっていたかについては、はなはだ疑問です。当時は無線などありませんから、ボートなどによる伝令か旗旒信号になりますが、近くの船ならともかく、遠くの船になると旗による信号は読みづらくなり、僚艦からの手旗信号による伝達(伝言ゲームの要領)がなければ解読できない場合も有ります。
 しかもペルサーノ提督の旗艦変更は、1にも記しましたがオーストリア艦隊が視界に入ってからでして、あまりにも急でした。確かに「レ・ディタリア」からは大将旗が降ろされ、「アフォンダトーレ」にはためいてはいたのですが、中には事情を飲み込めない艦長もいたものと思われます。


>装甲を打ち抜けない上に、蒸気機関による機動性に大砲が付いて行ってなかったというのがポイントですね。一時的に攻守の技術の間に格差が開いていたということでしょうか。

 そのとおりです、この当時は装甲が有利でした。しかも「有効射程が短く」「発射速度が遅く」「命中率も良くない」大砲では、敵が有効射程に入ってから体当たりするまでの間に、敵艦に有効な損害を与える事ができなかったのです。ちなみに「」内の比較対象は、日清戦争時の艦砲に比べてです。
少なくともイタリア艦隊の前衛の装甲艦2隻には旗艦変更は伝わっていなかったようですよ

イタリア艦隊の装甲艦(前衛3隻・中央4隻・後衛2隻)
時間が無いので簡単ですいませんが・・・

私の持っている本は2隻説ですが、下記のHPは前衛3隻すべてに伝わってなかったとしていますね。戦闘の経過は下記のHPはとてもわかりやすいと思います
http://www.k2.dion.ne.jp/~tactic/lisa.html

参加艦艇ほか
http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/bridge/Tegetthoff/tegetthoff3.htm
http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/bridge/Tegetthoff/tegetthoff4.htm
http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/bridge/Tegetthoff/tegetthoff5.htm

他にもわかりやすく解説していただいている労作のサイトがあるのはありがたいことです
>コーキ様

レスが遅くて申し訳ありません。
内容的には鉄底海峡様やIKKI(ASDIC)様の回答を精読して頂ければ付け加える点は無いのですが、ご質問に絞って回答いたします。

>これはもう射程内なので
確かにこの当時の砲は半浬どころかもっと飛びます。でも当たらないんですよ。
当時の射撃技術はネルソン時代とそれほど変化していません。海上では艦は動揺するので、砲門から見た標的は上下左右に動き回るように見えます。
同航戦で、標的との相対位置が変わらない状態でも、必中を期すならば300mくらいまで接近する必要があるのです。ましてや直角に接近する標的は、艦から見て相対位置(方位・距離)が変化します。各艦砲がこれを的確に追尾するのは困難です。(衝突進路ならば方位だけは変化しませんが…)
これに対応するには艦自体の進路を変更するのが普通ですが、そのためには艦隊司令官が的確な艦隊運動を指示しなければ、隊形はバラバラになってしまいます。
付け加えるならば、再装填の問題があり英国海軍でも90秒くらいかかっていたとの記述もあります。ましてや墺伊であればもっと必要だったと思われます。
ですから中途半端な距離で発砲すると、標的がベストポジションの時に発射できない状況になってしまうのです。
リッサ海戦の状況でイタリア艦隊がおかれた状況は、相手の包囲殲滅どころか各個撃破されてしまう状況だったのです。

>戦術の差
その差は主に同航戦での状況です。
フランス海軍は敵の風下側に位置することを好みました。この場合風上側の砲門は斜め上を向きます。射的距離が伸び、徐々に接近する敵戦列に遠距離から攻撃できます。(いざと言うときに戦線離脱が容易となるのも大きな要因)
敵戦列が接近したときには必然的に、敵艦の上部を狙うようになるのです。
対して英国艦隊は風上側に位置するのを好みました。(実はちょっと疑問を持ってますが…)この場合、風下側の砲門は斜め下を向きます。必然的によほど接近しないと命中しませんし、接近しても敵艦の船体しか狙えません。
英国海軍は遠距離から無駄玉を打つフランス艦隊を軽蔑していたとか、海洋小説によく描かれていますが、それは上記のような状況を指しているのです。

トラファルガーに関しては、英国艦隊は追い風を受けて敵戦列に突入しましたので、英国艦隊に関しては上記の状況は当てはまりません。
それよりはむしろ、仏西連合艦隊を分断して各個撃破した戦術にその真価があります。
またその後の近接戦闘では、風向きによる艦の傾きは関係なくなっています。




あと余談ですが、タイトルが「仏墺」と間違っておりますので、「編集」機能で修正されてはいかがでしょうか?
>いぎし ちじ さん

さすがです
素晴らしい解説ですね

飛ぶと言えば2000mくらいまで飛ぶんですけどね-

特にこの頃、層成砲身の施条砲が開発されてはいるのですが・・・
おっしゃるとうり有効な交戦距離は300m以下だったでしょうねぇ

舷側砲門艦は旋回砲みたいに狙いが自由じゃないですしね・・・それで中央砲郭艦とかバ−ベット艦やタ−レット艦とか試行錯誤の末に砲塔になってくわけですが・・・そういう試行錯誤があって交戦距離が伸びていくんですよね

 荒唐無稽ですがずっと後の技術の射撃方位盤が「レ・ディタリア」に例え搭載されていてもまともに狙えなければ公算射撃もできないってわけなんです。(そもそも砲がほとんど旋回しないので射界が限られてしまい意味が無い)

 しかし、技術面はともかくとして、リッサの場合は人的要因の影響のほうが大きいと思います。イタリア艦隊の旗艦変更を前衛の先頭艦が気づかなかった時点(前衛の後続艦は基本的には先頭艦についていくでしょうから)で前衛が戦力外となってしまい数的優位が失われてしまったのは致命的な失敗だったといえそうです
改めて調べてみると話はそう単純ではなくて大口径砲の場合は装填とかの話もからんできますよね・・・中口径速射砲の時代を忘れておりました

http://ww1.m78.com/topix-2/dreadnought%20later.html

http://ww1.m78.com/topix-2/lissa.html

いや-自分も勉強になります

連続ですいません
http://ww1.m78.com/topix-2/gunnery.html
ご丁寧にありがとうございます。

有効な交戦距離は300m以下というのは驚きです。というのも薩英戦争の時平気で1KM先を撃ち合っているので、そこまで短いものなのかと思いました。片方が固定されている(薩にすれば固定砲塔、英にすれば固定目標)なので高い精度で撃てたということでしょうかね。もっとも、300m以上の距離でも確率的な射撃に基づく交戦が行われた可能性はありますね。もっともまだ当時はORという認識は無かったでしょうが・・・。

タイトルが間違えていますね。すみません。しかし編集機能が見当たりません。削除しかできないようです。
対地砲撃と対艦砲撃が根本的に違うことはすでにお気づきのようですね、対艦攻撃の複雑さはすでにいぎし ちじ さんがコメント(7)で指摘されたとうりです

確率射撃とは公算射撃や統制射撃のことかと理解しますが1860年代の技術ではそういうことは不可能です。そりゃこの時代でも号令で一斉に撃っていたでしょうが、照準装置その他が同一諸元で撃つとかいうレベルにはないためです。

砲が旋回できるようになって独立撃ち方での有効射程は3000mくらいでそれ以上は一斉打ち方を待たねばなりません。つまり、この段階(日清戦争)でも公算射撃はできていないんです。ですから確率射撃というものが公算射撃のことをおっしゃっていられるのだとしたら、残念ながらそれは違いますよとしかいえません

ちなみに一斉撃ち方が実用可能になるのはパ−シ−・スコット卿が提唱してからですね

パ−シ−・スコット卿(英語Wiki)
http://en.wikipedia.org/wiki/Percy_Scott

それから公算射撃の考えが生まれて手計算からアナログ計算機と射撃方位盤などの射撃統制装置へと技術的に進化していきます
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%84%E6%92%83%E7%AE%A1%E5%88%B6%E8%A3%85%E7%BD%AE

このあたりのことを系統立てて知りたいとお思いでしたらコメント(10)のリンク先に詳述されていますのでご精読ください
>コーキ様

>1863薩英戦争
砲戦距離に関しては、薩摩側の砲撃開始時点では砲台から英国艦隊停泊地まで約1000m。しかし英国艦隊は東方に一時離脱後沿岸に接近。海岸から数百メートルの距離を平行に航行しながら砲撃しました。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/Bombing_of_Kagoshima_Map_-_1863.PNG
この図では約200ヤード、すなわち200m未満まで接近している事となります。これが通常の射撃距離なのか、嵐のために通常の距離よりも更に接近したのか、更には正確なのかは、残念ながら詳細を知らないために申しあげられません。

余談になりますが、この距離では「英国艦隊は新式のアームストロング砲で薩摩側をアウトレンジした」と言う表現は成り立ちません。実際には個々の砲台に対する戦力の集中と射撃速度(アームストロング砲は後装砲)によって勝利したというのが実情のような気もします。まぁこのあたりは私の知識不足で断言はできないのですが…
英国艦隊のこの果敢な行動はいかにも英国海軍らしいですが、これは例外と言えるでしょう。
実際はまず当たらない距離でも偶然を狙って撃ってしまうのが心情というものです。また偶然でも自分に当たる可能性があれば接近したくないのも人情です。
トラファルガーやリッサが評価されるのも、その大胆な艦隊運動に負うところが大きいのかもしれません。

>砲台vs艦砲
基本的には仰るとおりです。艦隊側は海上戦闘のような運動をする必要がありませんから、砲撃しやすい艦隊運動が可能です。場合によっては投錨して艦を固定する場合さえありました。

しかしこの当時は「非装甲艦では陸上要塞に対抗できない」という評価がされています。(クリミア戦争のセバストポリ要塞砲撃戦の教訓)。そしてそれが装甲艦の発展の端緒となりました。しかし薩英戦争では薩摩側の砲が旧式だったために非装甲でも英国艦隊が撃ち勝ちました。(もっとも全体としては陸戦能力不足のため砲台占領・無力化が出来ず完全勝利ではありません。この戦訓は後の下関砲撃に生かされます。)

念のためクリミア戦争の図版を確認してみましたが、セバストポリ要塞砲撃戦(要塞vs木造艦)の時の砲戦距離は約300m、キンブルン砲台砲撃(要塞vs装甲浮き砲台)の際の砲戦距離は730mに描かれていました。もっともこの図が正確かどうかは確かめられないのですが…


>編集
あれ、自分のコミュでは平気でやっているのですが。
管理人自身のコミュ立てだから可能なんですかねぇ…
このコミュの管理人様に依頼しては如何でしょうか?
>11 コーキさん
>タイトルが間違えていますね。すみません。しかし編集機能が見当たりません。削除しかできないようです

他コミュで私が立てたトピックを見てみましたが、確かに削除機能しかないようです。
タイトル変更をご希望なら、私の方で修正します。
どのようなタイトルにすればいいですか?
このトピックでも構いませんので、書き込みしてください。
>>nagao eijiさん

お手数をおかけします。
「普墺戦争 リッサ海戦」に修正願います。

IKKI(ASDIC)さん
いぎし ちじ さん
勉強になります。ちょっと今慌しいのでリンク先は後日精読させて頂きます。
>15

「普墺戦争 リッサ海戦」に変更いたします。
>>IKKI(ASDIC)さん
リンク先を読んでいました。なんといっても面白かったのは舷側2.5mという、日本からすればとんでもない戦艦を作る辺り、国によって必要とされている戦力の違いを実感させられます。こんなの日本が使っていたら本日天気晴朗なれど波高し→波が高くて射撃不能、になってしまいますね。砲術に関する記述も分かりやすく書かれていて為になりました。

>>いぎし ちじさん
確かに地図ではかなり接近していますね。イギリス海軍も勝てばこそ大胆さと勇猛さが際立ちますが、これで負けでもしたら・・・(笑)

>>nagao eijiさん
タイトル変更ありがとうございます。
いえいえ、お役に立てたようでうれしく思います

私もUSSモニタ−をはじめてみたときはぶったまげました。
「潜水艦ちゃうのん?」ってw
http://misc.kitreview.com/shipreviews/images/ussmonitorreviewbg_1.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%82%BF%E3%83%BC_%28%E8%A3%85%E7%94%B2%E8%89%A6%29

モニタ−といえばフュ−リアスの46cm砲(18インチ)積んだ奴もありましたよねw

Lord Clive class monitor
http://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Clive_class_monitor
British 18"/40 (45.7 cm) Mark I
http://www.navweaps.com/Weapons/WNBR_18-40_mk1.htm

46cmといえば大和級戦艦といいたいところですが、イタリアのドゥイリオ(Duilio1880年竣工)の先込め式46cm砲も笑えます

Wikiでは450mm砲となってますがw
http://en.wikipedia.org/wiki/Italian_ironclad_Caio_Duilio

世界には驚くような艦がいっぱいですよね
>コーキ様

色々考えたのですが、翌日英国艦隊が撤退した理由に「弾薬不足」があるんですよね。
穿った味方をすれば、英国艦隊は通常警備任務で日本近傍にいた艦艇から編成されていましたので、十分な弾薬を持っていなかったのかもしれません。
なので、命中率が低い遠距離射撃という贅沢が許されなかった…とか。
まぁ、あくまで穿った味方ですが…

なんか、交渉の雲行きが怪しくなった交戦前日あたりの、弾薬量を報告された司令官の苦悩と、最後には切れて突撃しちゃう英国海軍精神っぷりを妄想してしまいます。

…これがフランス海軍だったら遠距離砲撃で多少の損害を与え「我々は敵に大損害を与えて勝利した」という公式報告書を書きそうな妄想も…

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