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戦史研究室コミュの太平洋戦争・第一段作戦

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真珠湾攻撃を初めとする緒戦の作戦方針を「第一段作戦」と呼びます。

開戦が決定され、戦争準備が始められた昭和16年後半から昭和17年3月ころまでの日本の戦略を検討します。

コメント(90)

南部スマトラ攻略作戦(バンカ、パレンバン攻略-L作戦)は、クチンの航空基地が不良のため、海軍航空部隊が未知のレド飛行場を主用することを原則とし、レド、クチンが使用不能の場合は、クワンタンなどを一時使用することとし、2月10日に実施と予定されていた。
マレー部隊が2月1日明らかにしたL作戦構想は、事前に基地航空部隊を西部ボルネオに推進し、シンガポールの退路遮断と南部スマトラ及び西部ジャワ方面の航空撃滅戦、ジャワ海方面の索敵を行ったのち、攻略戦を開始するというものであった。

ところが、レド飛行場使用の目処が立たなかったので、マレー部隊は急いでクワンタンおよびクチンを使用することにして、準備のため本作戦を2日間の延期を陸軍側に申し入れた。陸軍側は当初これに反対したが、結局2月12日に延期することになった。
しかしこの交渉中、クチンおよびクワンタン両飛行場は、陸攻の展開にはなお4、5日を要することがわかり、マレー部隊は2月6日に、さらに4日間の延期を陸軍側に申し入れた。
海軍側である南方部隊は、パレンバンの連合軍による精油施設の破壊を考慮し、損害を顧みず急いで実行すべきだとして、この延期に反対した。
このことを知った連合艦隊は、海軍部と連絡のうえ、参謀長名であまり無理をしないほうがよい旨を第2艦隊参謀長に連絡した。
海軍側の延期申し入れに対し、陸軍側である南方軍は不満であったが、やむを得ず海軍側に同意した。

その結果、南方部隊と南方軍は、L作戦を2月16日に、東部ジャワ上陸を2月27日に、西部ジャワを2月27日以前(蘭印部隊と第16軍間で協定)に延期することを決定した。
ところが航空基地の準備が予想以上に進んだため、L作戦は1日繰り上げられ、2月15日に決行されることとなった。
陸海軍航空部隊の航空撃滅戦は、2月6日から開始され、マレー部隊主力や攻略部隊も逐次出撃した。
一方、第25軍主力は2月9日、シンガポール島に上陸し、15日にこれを攻略した。シンガポールから脱出する艦船が多いだろうと予想していたマレー部隊は、主力をもってこれら艦船を攻撃し、15日までに大小10数隻を撃破した。

攻略部隊は2月15日、バンカ島のムントクに上陸し、パレンバン攻略部隊はムシ河等の遡江を開始した。この日の午前、索敵機から敵巡洋艦3隻、駆逐艦5隻がガスパル海峡北上中との報告が入った。続いてその兵力中に戦艦1隻を含むらしいとの報告があった。バンカ島の北方にあったマレー部隊指揮官は、まず航空兵力をもって攻撃したうえ、水上部隊主力をもって撃滅する方針を決めた。
航空攻撃は第4航空戦隊(空母「龍驤」基幹)と基地航空兵力によって6時間にわたり反復行ったが、巡洋艦2隻に損傷を与えたにすぎなかった。しかし敵は、日本軍の攻撃のため反撃を断念して、避退した。

陸軍落下傘部隊は14日、パレンバン飛行場と精油所を占領した。製油所の破壊は僅少だった。ムシ河を遡江した部隊は、機雷と空襲に苦しみながらパレンバンに達した。しかし輸送船が同地に到着したのは22日のことだった。
上陸した第38師団は20日、スマトラ南端のタンジュンカラン飛行場を占領した。陸軍航空部隊がここに航空部隊を転進させた。しかし海軍航空部隊は、航空基地未整備のため十分な活躍はできなかった。

南方部隊は2月17日、ジャワ攻略のため、21日付で、マレー部隊から水上部隊の一部を蘭印部隊に編入し、またマレー部隊の基地航空兵力の全力を基地航空部隊に移し、ジャワに対する東西両面からの航空作戦を基地航空部隊指揮官の統一指揮とさせ、またマレー部隊に西部ジャワ攻略作戦に協力するよう命じた。
2月初旬、南方部隊はマカッサル、バリクパパンから東部ジャワの航空撃滅戦を行い、2月20日ころ、ジャワ本島の東に接するバリ島の航空基地を攻略した。南方部隊は、東部ジャワの航空撃滅戦を徹底的に行う一方、敵の後方基地ポートダーウィンを機動部隊で攻撃、またポートダーウィンからジャワへの中継基地であるクーパン(チモール島)の攻略を、これに策応するよう実行して敵の補給路を遮断し、ジャワ東部攻略の準備を完遂する構想を定めた。
ここで問題になるのは、チモール島の東側は中立国ポルトガル領であることだった。同地には連合軍の兵力が進駐しているとの情報があるので、同島西端のクーパン攻略に伴い、ポルトガル領も押さえる必要があった。

昭和16年10月、パラオ-デリー(ポルトガル領チモールの首都)間を結ぶ日本・ポルトガル航空協定が調印され、日本は10月に飛行艇で試験飛行を行った。当時ABCD包囲陣が強化されていたこともあって、関係国はいっせいにこれを軍事的性格が濃厚であると非難した。特に本国への脅威を感じていたオーストラリアの関心は強かった。このように、南方地域におけるチモールは戦略的に重要な位置にあった。

開戦後の12月17日、ポルトガル政府は、オーストラリア・オランダ軍のポルトガル領チモール進入を発表した。
1月初め、大本営は、ポルトガル領チモールに連合軍が進入したとの情報を入手し、クーパン攻略作戦における大問題と受け止めた。
陸海軍主任者間でこの問題が検討された結果、クーパン攻略の企図秘匿のため、事前に警告を行わず、進攻作戦を行うこととなった。しかし、ポルトガル領の連合軍掃討後、同地から兵力を引揚げるかどうかで、陸海軍の意見が食い違った。
陸軍は、戦争相手の拡大を防止するため撤収を主張し、海軍は、主としてポートダーウィン作戦の基地としてそのまま確保したいとの希望が強かった。
1月28日、政府大本営連絡会議でこの件が審議されたが、決定しなかった。結局、2月2日、連絡会議において陸海軍案双方を盛り込んだ妥協案が決定された。

ポルトガル政府は1月23日、イギリスと話し合いの結果、1100名の兵力をチモールの輸送することとし、到着後は同島防衛の一部をイギリス軍から引き継ぐと発表していた。
連合軍の後方基地であるポートダーウィンに対する攻撃は、第11航空艦隊の陸攻隊と機動部隊の同時攻撃を行う構想だった。
2月10日、3空の陸偵1機がポートダーウィンを隠密偵察して2ケ所の飛行場と約25機の飛行機を認めた。
この情報にもとづき機動部隊主力(1・2航艦基幹)は2月15日にパラオを出港、海図不備のため不安な航海を続けながらも、基地航空部隊の援護と偵察報告を受けポートダーウィンに迫った。
この間、基地航空部隊は、敵船団部隊3隊発見を報じ、その一部を攻撃したが、オーストラリア西部には他に有力兵力がなく、オーストラリア艦隊主力やアメリカ増援艦隊はオーストラリア東岸に、イギリス艦隊はセイロン島を根拠地として行動中と判断された。

2月19日0622,機動部隊の4隻の空母から188機の攻撃隊が発進を始めた。当時のポートダーウィンの様子を、指揮官淵田中佐はこう書き記している。
「片田舎の一寸した町という感じ・・・港湾施設といっても、1本の貧弱な桟橋と、岸壁に多少の家がある程度で、その他は今さかんに工事中の燃料タンクだけであった。近郊にはそうとう広い飛行場があったが、小さな格納庫が2つ3つあるきりで、目ぼしい基地施設は見当たらなかった。」

母艦航空隊はポートダーウィンの奇襲に成功し、壊滅的打撃を与えたと報告した。この1時間半後、鹿屋空と1空の陸攻54機がポートダーウィン飛行場を空襲。爆弾は全飛行場を覆った。
また機動部隊は同日午後、航行中の敵艦船を攻撃撃沈した。日本軍はこの攻撃で、ポートダーウィンの機能は早急に回復できないほど破壊したと判断した。

機動部隊は21日、ケンダリーに近いスターリング湾に帰投して、この作戦を終えた。
機動部隊によるポートダーウィン空襲と同じ2月19日、バリ島に攻略部隊が上陸した。
バリ島はジャワ島の東に接し、東部ジャワ航空撃滅戦実施に最も有力な基地となりえた。しかもジャワ-クーパン-ポートダーウィンの連絡路にある要地でもあった。

バリ島攻略にはジャワ島からの敵航空部隊による反撃、ジャワ沖海戦以来姿を隠した連合軍の水上部隊の反撃が予想された。同島の敵陸上兵力は約1コ大隊と判断されていた。
日本軍はまず、基地航空部隊で東部ジャワの航空制圧を行ったうえ、上陸船団を送る予定であったが、2月10日以降天候不良のため航空攻撃が出来なかった。そこで攻略作戦を1日延期したが、なお航空進攻はできなかった。そこで航空制圧を待たず、19日上陸の予定で作戦を断行することとなった。

2月18日、攻略部隊はマカッサルを出撃した。第8駆逐隊(大潮、朝潮、満潮、荒潮)に護衛された輸送船2隻(1コ大隊基幹の陸軍支隊乗船)は2月19日0000、バリ島のサヌール沖泊地に進入、冒頭のように0100上陸に成功した。
幸い敵の抵抗はなく、人員資材の揚陸は順調に行われた。夜明けとともに敵爆撃機数機が反復空襲を加え、輸送船に若干の損害を受けた。上陸部隊は午前中に飛行場を占領し、19日中に戦闘機、20日には陸攻使用可能と報告した。

一方、連合軍側は2月17日、日本軍のバリ島攻略部隊がマカッサルを出発しようとしていることを知った。連合軍海軍部隊指揮官ヘルフリッツ蘭海軍大将は、ドルーマン蘭少将に対し、ただちにこの日本艦隊の攻撃を命じた。
当時ドルーマン少将麾下の連合部隊は、ガスパル海峡で日本軍航空部隊の攻撃を受け、引揚げてきたばかりで各地に分散していた。ドルーマンはこれらの兵力を集結してからでは間に合わないと判断し、2月19日から20日にかけて、各地から逐次攻撃に向わせることとした。

2月19日夜半、すでに揚陸を終えた輸送船相模丸は、満潮と荒潮に護衛され、マカッサルに向って外洋に出ていた。
バリ島の上陸地点にあったもう1隻の輸送船笹子丸も揚陸を終了し、大潮、朝潮とともに泊地を出港しようとしていた。そこへドールマン少将指揮の蘭軽巡デロイテル、ジャワ、蘭駆逐艦「ピートハイン」、米駆逐艦「フォード」、「ポープ」の5隻が相次いで突入してきた。ここに「バリ島沖海戦」が起こったのである。

2月20日0000、敵巡洋艦2隻が朝潮を砲撃しながらアッという間に北方へ通過していった。このとき、弾片が朝潮の探照灯に当たっただけで被害はなかった。
続いて接近してくる敵駆逐艦を発見した大潮は、これを攻撃すべく突撃を開始、朝潮も続航して魚雷を発射した。夜間での砲雷撃戦は日本側に有利に進んだ。日本軍の砲弾、魚雷が命中した敵艦は大火災となった。
そこへ新たに2隻の敵駆逐艦が現れた。大潮、朝潮の両艦は新手の敵を追撃、集中砲撃した。この敵2艦は煙幕をはりながら南方へ避退した。反転した大潮、朝潮は、まだ浮かんでいる敵駆逐艦に止めの砲撃をくわえてこれを撃沈した。この敵艦は蘭駆逐艦ピートハインであった。

この夜戦が終わった2時間後の0300ころ、ふたたび敵艦隊が現れた。米駆逐艦スチュワート、パロット、エドワーズ、ピルスベリーの4隻を先頭に、蘭軽巡トロンプが続航していた。
大潮、朝潮はこの優勢な敵に対し、砲雷撃しながら突撃した。スチュワートの舵取機械室に砲弾1発が命中し、同艦は隊列から離れた。
さらにトロンプにも命中弾があった。そこで急を聞いて反転してきた満潮と荒潮が北方から戦闘に参加、遁走をはかる敵艦5隻の隊列の中に突入しながら砲撃を加えた。このとき満潮の機関室に敵弾1発が命中して航行不能となった。

日本側の反撃に敵は北方へ避退し、輸送船は無事だった。結局、連合国側は巡洋艦3隻、駆逐艦7隻を繰り出しながら、たった2隻に日本軍駆逐艦(途中から2隻追加)に阻止され、駆逐艦1隻沈没、巡洋艦1隻中破、駆逐艦1隻小破の損害を出した。

日本軍基地航空部隊は、バリ基地整備に伴い兵力を進出させ、22日には戦闘機32機、陸攻11機に達した。敵は同基地に対し、少数機ながらも連続して執拗に攻撃を加えた。
クーパン攻略は、陸軍伊東支隊主力との協同作戦で、海軍では落下傘部隊1隊を使用する計画があった。
クーパンに対する航空制圧は、1月26日以来続けられていた。同地は敵の後方連絡線の重要拠点なので、敵の抵抗は強いものと判断されていた。

2月17日、攻略部隊はアンボンを出撃し、20日上陸に成功した。海軍落下傘部隊(308名)も降下した。陸上戦闘は敵の抵抗が強かったが、21日にクーパン飛行場を占領した。飛行場は破壊がはなはだしく、23日以降に戦闘機、25日以降に陸攻が使用可能と報告された。
21日にも落下傘部隊323名が降下した。両落下傘部隊は敵の退路に降下したため、大激戦を演じた。そして陸軍部隊と協力して、装甲車両100両と約1000名の捕虜を得た。

チモール島上陸部隊は、2月18日アンボン出撃、20日未明、同島のデリー付近に上陸し、昼頃、飛行場とデリー市街を占領した。オーストラリア兵の抵抗は強かったが、ポルトガル軍の抵抗はなかった。飛行場は最近使用した形跡がなく、戦闘機の使用可能までには4日を要する見込みであった。
現地のポルトガル当局は、日本軍の侵入を快く思っておらず、日本側との折衝は本国政府の訓令が必要と避けていた。日本政府は20日、この占領目的はあくまでも自衛のためであり、その主権は尊重する旨の声明を出した。
2月22日、在日ポルトガル公使から抗議があった。その中に、現在チモールに向っている軍隊の輸送をどうすべきかの質問があった。日本側は同地の進駐はあくまでも自衛上の必要によるものであることを強調するとともに、輸送船は一時引き返し、話し合いのうえ、あらためてチモールに派遣してもらうしかないと答えた。
23日の政府・大本営連絡会議の議事録によると、天皇もこの輸送船の取り扱いに関し、軍令部総長や外務大臣に質問していた様子である。
当時、ジャワ付近は戦場であり、続いてインド洋東部にも進撃する予定だったので、航行の安全や機密保持の点から、輸送の時期などについては決定できなかったのである。
昭和17年2月中旬までに、スマトラ、マレー、ボルネオ、セレベス、チモール島など南西方面の要衝を攻略した日本軍は、あとはジャワ本島を残すのみとなった。
ジャワ島包囲の態勢が整うと、東部ジャワに対しては海軍基地航空部隊が、西部ジャワに対しては海軍基地航空部隊と陸軍航空部隊が航空撃滅戦を開始し、なお航空基地を推進してこれを強化した。

一方、ジャワ島南方海面の機動作戦部隊は、まず第2潜水戦隊が機動海面の西方警戒配備についた。
今村均中将麾下の第16軍は、ジャワ攻略にあたって島の東部と西部に上陸作戦を敢行し、同島を東西から挟撃して攻略する予定だった。
西部ジャワに上陸する第16軍主力は2月18日にカムラン湾を出撃し、東部ジャワ上陸部隊は2月19日、一時待機していたホロを出撃して、いずれも南下を始めた。

上陸予定日は2月26日であったが、海軍側は22日、ジャワの航空撃滅戦が不十分であるという理由で上陸の2日延期を陸軍側に申し入れた。陸軍側は不満であったがこれに同意し、2月28日上陸開始と決定した。
これに基づき南方部隊および機動本隊は、25日、スターリング湾を出撃して、ジャワ南方海面に向った。
東部ジャワのスラバヤ軍港の西方、クラガンに敵前上陸する部隊は、第48師団と坂口支隊がこれに当たることとなり、陸軍輸送船38隻の船団を組んで、マカッサル海峡を南下した。
これを護衛するのは西村祥治少将率いる第4水雷戦隊基幹の艦艇22隻で、これを高木武雄少将麾下の第5戦隊(那智、羽黒)と第2水雷戦隊が支援するという陣容だった。

2月26日の朝、船団は東部ジャワまで320キロの圏内に入った。正午少し前になって連合軍の哨戒機2機が船団を発見。
この報告を受けた連合軍海軍総司令官ヘルフリッヒ蘭中将は、スラバヤで給油中のドールマン提督に「日本軍船団を殲滅し終わるまで追撃戦を続行せよ」と命令した。
その夜、ドールマン提督は麾下の艦隊を率いてスラバヤ海峡を北上した。旗艦デロイテルにつづく艦隊は、オランダ軽巡ジャワ、イギリス重巡エクゼター、アメリカ重巡ヒューストン、オーストラリア軽巡パース、そして駆逐艦はオランダ2隻、イギリス3隻、アメリカ4隻の合計14隻であった。

ドールマン艦隊は夜通し沿岸水域を航行したが何も発見できなかった。翌27日朝、艦隊はいったんスラバヤ港に引き返した。そのときヘルフリッヒ中将から電報が入った。「スラバヤ北方90マイルに日本船団近接中、これを迎撃せよ」
しかし、ドールマン艦隊は、意思の疎通を欠いた4カ国の寄せ集め艦隊なので、共通の作戦信号が準備されていなかった。そこでドールマン提督は、命令を簡単な英文に翻訳して、無電、手旗、信号燈などで各艦に伝達した。

一方、高木艦隊は、敵の動きを逐一打電する水偵の報告で、ドールマン艦隊の動静を正確に把握していた。敵艦隊の進撃に対し、第2、第4水雷戦隊が敵方に向って行動を起こした。スラバヤ沖海戦の開始である。
日本艦隊と連合軍艦隊は、翌28日早朝までに4回戦闘を行い、敵巡洋艦、駆逐艦各2隻撃沈を報じ、敵兵力をこの海面から駆逐した。
このスラバヤ沖海戦では、日本海軍が世界一を誇っていた93式酸素魚雷が、爆発尖調整不良のため自爆するという問題が起きた。
海戦のため東部ジャワ上陸は1日延期され、3月1日上陸に成功した。
一方、2月18日にカムラン湾を出撃した西部ジャワ上陸船団は、第5水雷戦隊、第7戦隊の護衛を受け、上陸地点のバンタン湾とメラク湾を目指していた。輸送船56隻、護衛艦14隻、合計70隻の大船団であった。
輸送船部隊の第3船隊に属する龍城丸には、第16軍司令官今村均中将とその司令部が乗船していた。龍城丸は陸軍の特殊船で、日本陸軍が世界に先駆けて建造した上陸作戦母艦であった。船名は秘密保持の理由からいろいろあるが、原名は神州丸といった。

上陸地点に近づいた船団は、2月27日朝、巡洋艦を含む敵艦艇数隻がバタビア付近にあるとの報告を受けた。上陸部隊は敵艦隊との決戦を回避する方針のもと、予定を1日延期して船団を上陸地点に進め、3月1日未明にバンタン湾およびメラク湾に入泊した。
ところが船団入泊直後、敵巡洋艦2隻が泊地に夜襲してきた。ここにいわゆるバタビア沖海戦が起こり、3月1日正午から約2時間の戦闘で、敵艦2隻を撃沈した。

海戦中、上陸船団に被害が発生した。1隻が沈没し、3隻が大破したのである。大破した3隻の中に龍城丸も含まれていた。ちょうど第2次上陸を行っているところだったという。
被害をもたらしたのは魚雷だった。今村軍司令官も重油の漂う海面を救命胴衣だけで約3時間泳ぎ、午前4時半ごろ舟艇に救い上げられた。
これらの輸送船の被害は、敵によるものではなかった。味方の発射した「流れ魚雷」が原因だった。のちの調査によると、第7戦隊の重巡三隈、最上のいずれかが発射した魚雷であることが判明した。そして陸軍の上陸地点付近で、93式酸素魚雷の尾部が回収された。

海軍側はさっそく、今村軍司令官に謝罪したところ、軍司令官はそれを了承し、この事実を公にしなかった。公式には輸送船に損害を与えた魚雷は、巡洋艦に続いて泊地に侵入した敵魚雷艇の攻撃によるものとされたようである。

大破・転覆した龍城丸はその後、浮揚され、修理を施されて再就役した。そして昭和20年3月1日、台湾沖で爆撃と潜水艦による雷撃で戦没した。
ジャワ島攻略戦に際して、基地航空部隊をはじめ、機動部隊、南方部隊、潜水部隊などは、ジャワ島周辺の海域で、逃げ出した敵の艦艇、商船、タンカーなどを大量に撃沈、拿捕していた。
戦果は敵艦艇数隻、輸送船40隻撃沈、ジャワ島中南部のチラチャップに対する空襲などであったが、なかでも大きな戦果は2月17日、チラチャップ沖に出現したアメリカ水上機母艦ラングレイを、バリ島の高雄空陸攻隊16機が攻撃、これを撃沈したことであった。ラングレイはジャワの危急を救援するために、P40戦闘機32機を輸送している途中であった。

一方、ジャワ攻略は順調に推移していった。西部ジャワの3ケ所に上陸した部隊は5日、バンドンに迫り、東部ジャワ上陸部隊は、スラバヤを占領し、また8日にはチラチャップに達した。
蘭印軍は7日に停戦を申し入れた。日本軍は、8日に全面降伏を受け入れ、9日、バンドンにあったスタルケンボルグ蘭印総督および蘭印軍司令官テルポーテン中将による無条件降伏によって、ジャワ全土の攻略が終了した。
米英軍1・1万も降伏し、12日ころまでにジャワ全土の占領を終わった。
南方方面の攻略作戦が順調に推移する中、フィリピンでは苦戦が続いていた。
日本軍がフィリピンに上陸すると、米比軍は既定の方針通り、マニラを捨てバターン半島に避退した。第14軍がマニラに進駐すると陸軍部は、開戦前の計画に基づき、最精鋭の第48師団と第5飛行集団を第14軍から引き抜いた。(第48師団は16軍に編入され、東部ジャワ上陸作戦に従事。第5飛行集団はビルマ方面に転進)

第14軍はバターン半島を攻撃したが、失敗して2月上旬、これを中止した。その後、陸軍部と南方軍の間で、攻撃を強化するか、封鎖してその自滅を待つかなどの意見の交換があったが、結局兵力を増強して攻撃を断行することとなり、4月9日、ついにバターンの米比軍は降伏した。
しかし、マニラ湾口のコレヒドール要塞はまだ抗戦を続けた。そのため第14軍は、ただちに要塞の攻略準備を開始した。

この間、海軍のフィリピン部隊は海上封鎖、砲撃などでこの作戦に協力するした。また基地航空部隊は一部の兵力をもって、この攻略作戦に協力し、なおコレヒドールの爆撃を続けた。

2月20日、マッカーサー大統領から、オーストラリアに移って南西太平洋部隊の指揮官となるよう命ぜられたマッカーサー中将は、3月12日に魚雷艇でコレヒドールを脱出し、ミンダナオ島から飛行機により、16日にオーストラリアに到着した。
さかのぼって1月22日、大本営はビルマ要域の攻略を発令した。
この攻略は、タイからの陸路進攻と海路機動によるもので、補給は主として海路ラングーン経由で行う予定であった。そのため海上輸送路確保のため、インド洋ベンガル湾にあるインド領・アンダマン諸島を占領する必要があった。またアンダマン諸島は、マレー半島西方の障壁をなしていたので、インド洋正面防衛の第1線として戦略上の要地でもあった。

海軍部は2月7日、連合艦隊司令長官に対しアンダマン諸島方面の要地攻略と陸軍のビルマ攻略作戦への協力を命じた。
このビルマ、アンダマン攻略に伴い、イギリス艦隊の妨害が予想された。海軍部と連合艦隊は、機動部隊主力が南西方面で作戦中なのを利用して、機動部隊をベンガル湾方面に機動させて、積極的にイギリス艦隊を捕捉撃滅する作戦を内定した。

一方、マレー部隊は3月9日、連合艦隊命令により機動部隊がベンガル湾方面の機動作戦に従事することを正式に知ったので、12日に、これに呼応する形でアンダマン作戦に引き続き、マドラス、カルカッタ方面の海上交通破壊戦、敵艦艇攻撃を行いたいと南方部隊に要望した。
マレー部隊は、第一段作戦においては有力な兵力が配備されたが、第二段作戦では、これらの艦艇が原隊に復帰するため、貧弱な海上戦力しか残されない予定だった。そのため、それ以前に西正面の防衛を確立し、援蒋ルートの妨害を与える積極作戦を希望したのである。
連合艦隊や南方部隊は、マレー部隊の要望を入れ、積極作戦の実施を決定した。
連合艦隊は2月中旬前半、第5航空戦隊を機動部隊に復帰させ、機動部隊司令部に、3月中旬から4月上旬の間に、セイロン島空襲を中心とした機動作戦を行うことを伝えた。
3月初旬、5航戦の機動部隊復帰が命じられ、3月9日、南方部隊に対し、機動部隊を基幹とする兵力をもって、セイロン島方面の敵艦隊撃滅、要地の奇襲を実施する命令が下された。
さらに連合艦隊は3月10日、第一段作戦第四期兵力部署を命じた。

南方部隊は、3月14日、第3次機動作戦として、機動部隊に4月初めセイロン島方面の敵艦艇、航空兵力、海軍基地施設の奇襲を命令し、第2潜水戦隊にはセイロン島方面の偵察、監視、攻撃を命令。基地航空部隊には機動部隊の警戒、ベンガル湾の索敵攻撃、ココス島およびクリスマス島(ジャワ本島南約220カイリのインド洋にある孤島)の偵察を命令した。
さらにマレー部隊には、ビルマ作戦協力、アンダマン諸島攻略、ベンガル湾北部の機動を命令し、南方部隊本隊にマラッカ海峡およびアンダマン諸島方面行動を下令した。

ところが前述の通り(46、47)機動部隊復帰を命じられた5航戦は、3月10日のウェーク北方に敵機動部隊らしいものありとの情報により、南下が遅れることとなった。
南方部隊は3月17日、作戦期日を送らせてセイロン島攻撃を4月5日と決定した。

なお、当時連合艦隊参謀だった黒島亀人中佐は、戦後の回想で、中央における第二段作戦の構想がなかなか決定せず、作戦計画が第二段作戦に転換すべき3月上旬に間に合わないので、その転換時機を遅らせる含みも大きな理由で、この作戦を第4期作戦として第一段作戦に加えたと述べている。
3月10日、南方部隊はアンダマン作戦(D作戦)とビルマ作戦(U作戦)の実施を下令した。この方面の航空部隊は蘭印方面の航空部隊主力を充てる予定だったが、米機動部隊の活動などに伴い、南洋、北方部隊に引き抜かれ、結局、第22航空戦隊のみが担当することとなった。

第12海軍特別根拠地隊と陸軍1コ大隊の上陸部隊は、海軍部隊の護衛のもとにペナンを出発、3月23日にアンダマン諸島のポートブレアを占領し、引き続いて同島の掃討を行った。
ポートブレアには戦闘機が使用可能の飛行場があり、また飛行艇や潜水艦の使用に適した港湾があった。
当初、ここにはイギリス軍1コ中隊が守備していたが、3月12日に撤退していた。

アンダマン作戦と関連して、3月19日からビルマ方面への海上輸送作戦が行われた。第1次輸送は船舶32隻で、第56師団の将兵を輸送した。この輸送作戦は4月28日終了の第4次輸送まで続き、護衛した輸送船数は総計134隻だった。
機動部隊によるセイロン島空襲は、5航戦の合流が遅れることとなったので、当初予定されていた4月1日から4月5日に改められた。
5航戦は3月24日、セレベス島スターリング湾に入港して、機動部隊主力と合流した。しかし、空母加賀がさきにパラオにおいて暗礁に触れ、艦底に軽い損傷を受けたので修理のため、3月15日にスターリング湾から佐世保に向って出港していた。このため、作戦に参加する空母は5隻(赤城、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴)となった。

機動部隊は3月26日、スターリング湾を出撃、ジャワ南方海面などを経て、4月5日、セイロン島の商港コロンボを奇襲した。敵航空兵力、在泊船舶および陸上施設に大打撃を与えるとともに、イギリス重巡2隻を付近洋上で撃沈した。
機動部隊はさらに9日、軍港であるトリンコマリーを攻撃して大打撃を与えるとともに、付近海面でイギリス小型空母ハーミスを撃沈した。
同日、機動部隊は引き揚げを開始し、マラッカ海峡を経て日本本土に向った。

一方、マレー部隊は、ベンガル湾北部でインドの沿岸近くまで迫り、船舶撃沈21隻、大破8隻、この他に陸上施設破壊を報じ、11日にシンガポールに帰投した。

この一連のインド洋制圧作戦をもって、開戦以来の第一段作戦は終了した。
インド洋作戦前後の状況を連合軍の側から見ておく。

イギリス艦隊は昭和17年3月までに、セイロン島に有力な艦隊を配備する計画だったが、日本軍の急進撃により間に合わず、インド洋の海上権が脅威にさらされた。
そこで、インド洋に新艦隊を急いで配備することとなったが、他方面の作戦に追われ、インド洋に十分な兵力を送る余裕はなかった。

しかし、もしセイロン島が日本軍に占領された場合は、中東および極東の全戦略態勢は崩れる重大な結果を来すので、イギリス海軍当局は、新東方艦隊司令長官ソマービル大将に旧式戦艦2隻を配属し、セイロン島防衛の任に当たらせた。しかし、ソマービルはこの兵力では不足であるとした。
そこでイギリス海軍は3月末、東方艦隊の兵力を大型空母2隻、軽空母1隻、旧式戦艦5隻、重巡2隻、軽巡5隻、駆逐艦16隻、潜水艦7隻とした。しかし、これを支援する基地航空兵力は、長距離偵察が不十分で、攻撃機はゼロに等しかった。ソマービルは、これだけの兵力で、広大なインド洋全域を担当しなければならなかった。

ソマービルは3月26日、コロンボに到着し、前任者のレートン中将と交代した。レートンはセイロン島司令官となり、在島の3軍および文官を指揮することとなった。
イギリス軍は、現状でがセイロン島は危険であるとして、同島の南西600マイルにあるマルダイブ諸島のアッズ島を艦隊根拠地としていた。アッズの英軍基地はまだ日本軍に知られておらず、比較的安全だったからである。

イギリス軍は4月1日前後に、セイロン島が攻撃を受けるらしいとの情報をアメリカから得た。この情報をもとにソマービルは3月末、艦隊をセイロン島南方に集中して、日本軍を待ち受けていた。
しかしソマービルは、艦隊戦闘を避け、兵力保全に努める方針であった。そして日本軍に対する攻撃は、空母機の奇襲によることとした。

ソマービルは、艦隊を高速部隊と低速部隊に2分していた。
3月31日、日本軍の攻撃がまもなく始められるだろうとの情報を受け、4月1日および2日の両日、索敵機の情報を待ったが、敵情を得なかった。前述の通り、日本軍機動部隊は攻撃予定を、4月5日に変更していた。
4月2日夜、ソマービルは燃料補給のため艦隊をアッズに帰投させ、一部を修理のためコロンボに送り、重巡コーンウォールをコロンボに向っていたオーストラリア兵の船団護衛に派遣した。また、空母ハーミスなどをトリンコマリーに送って、マダカスカル島攻略準備を行わせた。
イギリス艦隊主力は4日、アッズに到着した。その直後、索敵機から日本艦隊をセイロン島南東360カイリに発見との報告を受けた。
ソマービルは準備でき次第出撃を命じたが、日本軍のコロンボ攻撃阻止には間に合わないので、その帰途を狙うこととした。
一方、セイロン島にあったレートンは、直ちに防衛態勢をとるとともに、コロンボに着いた重巡2隻に南方避退を、トリンコマリーにあったハーミスに北東方避退を命じた。

4月5日夜明け、イギリス軍は日本艦隊が120カイリに迫っているとの情報を得た。続いてコロンボは日本軍の空襲を受けたが、基地機能を失うほどではなかった。
しかし4日遅く出港した重巡2隻は、5日午後に日本軍空母機の攻撃で沈没した。

ソマービルは6日はまったく敵情を得ず、日本軍がアッズに来るか、セイロン付近で待ち受けているか判断に苦しんでいた。そこへ、日本軍がアッズとセイロンの中間にあるらしいとの情報があった。そこで、ソマービルは回避を決意し、8日アッズで燃料を補給した。

4月8日午後、索敵機はセイロンの東400カイリに日本艦隊を発見した。トリンコマリー在泊艦船は外海に避退した。
9日、日本軍の空襲により、トリンコマリーの陸上施設は大被害を受けた。避退していた空母ハーミス、駆逐艦1隻、コルベット艦1隻、油槽船3隻も日本軍の空襲で沈没した。

他方、ベンガル湾北部では、同時に日本軍の別の艦隊による海上交通破壊作戦が行われ、23隻約11万2千トンの船舶が撃沈され、また4月上旬の10日間に、インド西岸でも日本軍潜水艦により、5隻約3万2千トンが撃沈された。
かくてインドの東西両側の通商および軍事上の海上交通は、一時完全に分裂するにいたった。

日本軍のインド洋攻撃の結果、イギリス海軍は低速部隊をアフリカ東岸に移すこととなり、高速部隊は引き続きインド洋方面に残し、新式戦艦を増強することとした。

一方、日本軍はこれ以後、インド洋における大攻勢を企図せず、空母部隊は内地に引き揚げ、太平洋正面の作戦を準備した。そのためイギリスは、インド洋上の崩壊を免れることとなった。
昭和17年2月後半ころの情勢はシンガポールが降伏し、スマトラおよびジャワの陥落も必至と予想されるに至った。
したがって連合軍のABDA戦域は2分されることとなり、この戦域の連合軍を1人の指揮官の下で統一的な協同作戦を行わせることは困難な状況となった。

そこでシンガポール陥落直後から、米英両国間でABDA戦域の改編が検討され始め、3月3日には連合参謀本部において、スマトラを除くすべてのオランダ領インドシナとフィリピン、さらにオーストラリアを含む太平洋方面をアメリカの担当区域に、そしてインド洋およびビルマをイギリスの担当区域とすることで意見が一致した。しかし、当時はまだジャワで戦闘中であったので、ただちにABDA戦域の解消は行われなかった。

アメリカはすでに2月22日、当時フィリピンにあったマッカーサー中将に対し、ABDA戦場解消後に編成される予定の南西太平洋方面軍の指揮官となるため、オーストラリアに移るよう命じた(3月16日オーストラリア着)。
ジャワが陥落した3月9日、アメリカはあらためてイギリスにABDAの改編を提案し、3月17日、イギリスも原則的にこれを認めた。ここにABDA戦域は解消された。
太平洋全域を担当することとなったアメリカは、3月16日、戦域を南西太平洋方面と太平洋方面に二分した。
フィリピンは南西太平洋方面戦域、トラック島などは太平洋方面戦域に区分された。また、南太平洋では、ガダルカナル島中央を通る緯度線が境界線とされた。
そして、太平洋方面をさらに北太平洋、中部太平洋、南太平洋に三分することに決定した。この組織は戦争終結まで続いた。
アメリカは太平洋におけるこれらの組織とは別に、中米および南米沿岸方面を担当する南東太平洋方面部隊をおいた。

3月17日、南西太平洋方面の指揮官にマッカーサー中将が、太平洋方面の指揮官にニミッツ大将が任命された。
北太平洋および中部太平洋方面はニミッツが直率し、南太平洋方面は他のアメリカ海軍将校が指揮することになった(後にハルゼー中将が就任)。
南西太平洋方面および太平洋方面の両指揮官に対しては、アメリカ統合幕僚会議が陸軍参謀総長と海軍作戦部長(日本の軍令部総長に相当)を通じて指導することになった。

3月30日、マッカーサーの南西太平洋方面軍に対し、次のような指導方針が発せられた。
1 将来日本に対する攻勢作戦の基地として、また日本の南西太平洋方面の征服を阻止する目的をもって、豪州の重要な軍事地域を保持すること。
2 豪州および豪州に対する重要な交通線に対する敵の進撃を、また東部マレーシア、ニューギニア、ビスマルク、ソロモン各諸島地区に進出してきた敵の戦闘部隊、補給船、飛行機および基地を粉砕してその進攻を阻止すること。
3 最近敵が征服した地域から原材料を日本に運ぶ船舶を撃破して敵に経済的圧迫を加えること。
4 南西太平洋方面とその近接地域における地上、海上および空中の補給路を保護すること。
5 南西太平洋方面の航路を定めること。
6 太平洋方面およびインド方面の友軍の作戦を支援すること。
7 攻勢準備をすること。

また、ニミッツの太平洋方面部隊に対する指導方針は次の通りであった。
1 米国と南西太平洋方面の中間において、交通補給線を確保し、海軍、航空部隊および上陸部隊の作戦に必要な島を保持すること。
2 南西太平洋方面軍を支援すること。
3 太平洋方面における日本軍を牽制すること。
4 北米大陸の防衛を支援すること。
5 重要な海上および空中の交通補給を保護すること。
6 日本軍の保持する基地に対し、大規模な上陸攻勢の実施を準備すること。初期の攻勢は南太平洋方面および南西太平洋方面から、これを発起するはずである。

上記の指令があったとき、マッカーサー、ニミッツ両者の指揮権行使は保留された。まだイギリス、オランダの承諾を必要としたし、またオーストラリア、ニュージーランドからの別提案と調整する必要があったからである。
その後、関係諸国との調整が終わり、マッカーサー大将(昭和17年4月18日進級)が正式に南西太平洋方面軍司令官になったのは4月18日、ニミッツ大将が太平洋方面部隊指揮官に就任したのは5月8日であった。
日本海軍中央は、戦争終末促進の一手段として、海上交通破壊作戦による連合軍の海上交通破壊、撹乱を重視していた。
開戦劈頭のハワイ奇襲作戦の戦果により、主力潜水艦の勢力に余裕が出たので、海軍部は連合艦隊と図り、潜水艦の大部分を海上交通破壊作戦に回す方針で準備をすすめた。

南方攻略作戦終了に伴い、海軍部は大規模な海上交通破壊作戦を企図した。3月1日、海軍部は連合艦隊に「大海指第60号」を発令して以下のような実施上の準拠を示し、その実施を命じた。

1作戦方針
太平洋およびインド洋全域にわたり極力敵海上交通線の破壊撹乱を計るものとす。
(1)太平洋方面
常時、ハワイ近海に行動せしむると同時に、適時、オーストラリア東岸、ニュージーランド沿海、アメリカ西岸、南太平洋島嶼要地、パナマ方面等へ派遣し、ハワイ・アメリカ本土間およびアメリカ西岸・オーストラリア東岸間の連絡を遮断するに努めるとともに、アメリカ西岸あるいはオーストラリア近海における敵の交通線を破壊撹乱し、敵国の与論を刺激し、敵艦隊を牽制す。

(2)インド洋方面
主としてインド洋北部およびオーストラリア西岸方面に行動せしむるとともに、適時一部を南アフリカ東岸方面へ派遣し、大西洋・インド洋間の連絡を遮断することに努める。

(3)特設巡洋艦若干を主として本作戦のため使用し、適時、潜水艦と協同し、パナマ、南アフリカあるいは南アメリカ西岸方面等に行動せしめ、敵交通線の破壊撹乱に任ぜしむ。

2 船舶取扱上準拠すべき事項
(1)純中立国と認めるべき諸国・・ソ連邦、スペイン、ポルトガル、アルゼンチン、チリ、トルコ、スウェーデン、フランス(ドゴール政権治下を除く)、スイス

(2)(1)以外の中立国船舶は、これを敵国船舶に準じ取り扱うものとする。

(3)潜水艦および航空機の作戦実施に当たりては、(1)の中立国船舶であることが一見明瞭な場合以外は、国籍の如何を問わず無警告撃沈を行うことを得。ただし日本近海、ソ連領沿岸およびペルー以南の南米沿岸等においては、努めて船舶の国籍を確認した後、攻撃を加えるべきものとす。

(4)水上艦船の作戦実施に当たっては、出来る限り正規の手続を踏み臨検するを立前とする。状況止む得ず撃沈したる場合は、なし得る限り人命の救助に努める。

(5)敵性船舶はなし得る限り拿捕し、これを内地港湾に回航せしむるを立前とす。状況これを許さざる場合にありては適宜最寄りの味方港湾に回航せしむるか、もしくは人員、載貨を処理したる後、処分す。

(6)敵国ならびに蒋介石政権側の軍人、軍属、高級船員、技術者および政府要人はこれを捕虜とするを立前とす。

上記の指示により、オーストラリア東方海面、アフリカ東岸、ペルシャ湾方面の海上交通破壊作戦が実施されたが、4月上旬内定のミッドウェー作戦などの実施に伴い、これらの海上破壊作戦は小規模なものに止まり、やがて中止された。
第一段作戦の目的は南方資源地帯の占領であったが、その狙いは戦略物資を確保することであった。第一段作戦が順調に推移するとともに南方占領地では軍政が始まった。

開戦直前の昭和16年11月20日、大本営・政府連絡会議は「南方占領地行政実施要領」を決定していた。
その方針は「占領地に対しては差し当たり軍政を実施し、治安の恢復、重要国防資源の急速獲得および作戦軍の自活確保に資す」というもので、軍政の根本目的は「治安の回復」、「重要国防資源の急速獲得」、「作戦軍現地自活」の3点に置かれ、占領地領域の最終的帰属および将来の処理は別に定めることとされた。
これに基づき、同日に「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」が締結され、南方軍政に関する基本的構想が成立した。

陸海軍は従来からそのセクショナリズムのため、しばしば意見の不一致や競合関係を生ずることが多かった。特に大陸の軍政においても両者の不協力や反目が予想以上、著しかったので、南方軍政の実施に当たっても協調関係を確立しなければ軍政は二元的指導に陥ることが予想された。そこで陸海軍中央協定が締結され、2本建てで行うという原則が定められた。
ただし、ある地区について陸海軍がそれぞれ独自の権限を行使することになれば、いわば租界的状況を呈することが憂慮されるので、こういう事態を避けるため両軍を統合し、ある地区についての軍政を一元化するため、主担任、副担任という構想を採用した。海軍の主担任地区の場合には陸軍を副担任、陸軍が主担任の場合は海軍を副担任とすることとしたのである。
軍政の中央機関としては、政府・大本営連絡会議があり、その決定事項は陸海軍がそれぞれ現地軍に指示することとされていた。また資源の取得および開発に関する企画と統制については、企画院を中心とする中央機関が、必要に応じて民間の意見を徴しつつ審議立案したものを「関係大臣」(総理、外務、大蔵、陸軍、海軍の各大臣および企画院総裁)により決定し、その重要度に応じてさらに連絡会議または閣議にかけて決定するのであった。

海軍は昭和16年12月8日、海軍省内に「南方政務部」を設置し、南方地域に関する政治、経済開発、物資取得等に関する事務を統一的に実施することになった。
そして南方政務部長には軍務局長をもってこれに充て、調査課長、軍務局第1課長、軍務局第2課長、兵備局第2課長および軍令部第1課甲部員を政務部副部員とし、それぞれ各部局を代表して連絡および事務処理に当たらせ、重要事項について合議立案させることになった。
なお事務処理に関しては、南方政務部は関係部局と緊密な連絡の下に方針を樹立し、関係部局は上記方針に基づき、所要の事務を行い運営することと定められた。

海軍の現地機関として海軍大臣は昭和17年初めまでに、戦争初期の現地軍政についての規定を定めた。
まず「艦隊司令長官および特設警備府司令長官は海軍大臣の命を承け占領地の行政を掌る」こととした。
次に占領地に設けられる特設根拠地隊または海軍特別根拠地隊の司令官が占領地の政務を管理することとした。
さらに艦隊司令長官、特設警備府司令長官、特設根拠地隊司令官または海軍特別根拠地隊司令官の隷下に海軍民政部を設置し、この民政部に部長を置き、民政の担任者とした。

たとえば、2月9日セレベス島・マカッサルを占領した海軍部隊は、占領後同地に第23特別根拠地隊を新設。攻略時に随伴した内務省、大蔵省、農林省、商工省などから派遣された官吏と戦前の在留邦人通訳をもって民政準備に着手した。
当初は、占領直後の治安維持を目的とし、一応占領前の行政機構に関係なく、インドネシア指導者をもって2月15日、マカッサル治安維持会を組織したのをはじめとして各地に治安維持会を組織した。そして3月10日、民政部長の任命によってセレベス海軍民政部が設置され、軍政実施を布告宣言し、セレベスおよびその周辺島嶼を管理した。

海軍民政部は軍人である民政部長の下に、関係各省の派遣員がそれぞれの分野を担任し、旧セレベス理事州に雇用されていたインドネシア人官吏を使用して軍政を実施した。
すなわち海軍は従来の統治組織とは無関係に、日本的な考慮の下に上部機構を編成し、下部機構はおおむね従前の区画に従い、再編する方針を採った。
一方陸軍の場合は、特別の機構を新設することなく常務において実施された。
すなわち、占領地軍政の基本に関する事項は、大本営が管掌し、これに基づく行政事項は、陸軍大臣が処理することに定められ、作戦と関係ある事項は「大陸指」として大本営から指示し、また、その他の政務事項は、陸軍省から直接指示することとされた。

現地の軍政機関としては、軍司令部の編制として「軍政部」があった。しかし軍政の実施については「南方占領地行政実施要領」に基づき、極力残存統治機構を利用し、従来の組織や民族的慣行を尊重する方針を採り、間接統治方式を採った。これは、満州および中国において、日本的な統治方式が住民の反感を買った経験によるものであった。
この結果、開戦初期には、軍が準備した軍政要員の数は極めて少なかった。これらの軍政要員は戦争開始と同時に徴用され、それぞれ訓練を受けながら上陸部隊の後を追い、占領直後から直ちに軍政の処理に当たった。
また軍政の効果を高めるため、大臣級の政治家が軍司令官の軍政顧問として、それぞれ各軍に配属された。

軍政の進行に伴い、一般原住民の政治能力の欠如、白人官吏の使用の困難なことが分ってきたので、日本人軍政要員が増加された。
ここにおいて、極力残存統治機構を利用するとの当初の方針は崩れてきた。そして、このような軍政要員の増加は、軍政の実施をしだいに「行政指導」から「行政実施」へと、つまり「間接統治方式」から「直接統治方式」へと移行させ、軍政総監部、軍政監部設置に進むこととなる。
日本は、戦争終末への第一歩をイギリスの屈服させることと考えていた。そのイギリスは植民地支配の上に成り立っており、東洋にもマレー、ビルマ、インド、オーストラリアなどの重要な植民地を有していた。
したがって日本はこれらをイギリスから離脱させることにより、イギリスの崩壊を促進する方針を採っていた。そのため軍事・政略両面からこれら植民地のイギリスからの脱落を企図していた。

東条首相は、シンガポール陥落の公表によって、特に開かれた1月16日の貴族院・衆議院両院本会議において演説をした。その中でインド、オーストラリアに対し、次のように呼びかけた。

「私はこの画期的な機会におきまして、関係各民族および各国家に対し帝国の真意を重ねて披歴したいと存じます。
 ・・帝国のビルマ進攻の真意は、英国の軍事拠点を覆滅すると共に、米英の援蒋の通路を遮断せんとするにあるのでありまして、何よりビルマ民衆にして、すでにその無力を暴露せるイギリスの現状を正視し、その多年の桎梏より離脱して我に協力し来るにおいては、帝国は欣然としてビルマ民衆の多年にわたる宿望、すなわちビルマ人のビルマ建設に対し、積極的協力を与えんとするものであります。
 数千年の歴史と光輝ある文化の伝統とを有するインドもまた、今やイギリスの暴虐なる圧政下より脱出して、大東亜共栄圏建設に参加すべき絶好のときであります。帝国はインドがインド人のインドとして、本来の地位を回復すべきことを期待し、その愛国的努力に対しては、あえて援助を惜しまざるものであります。
・・米英と提携し敢えて抵抗を続けるオランダ軍に対しては、帝国は徹底的にこれを撃滅せんとするものであります。しかしながらインドネシア民族にして我が真意を了解し、大東亜建設に協力し来るにおいては、その希望と伝統とを尊重し、同民族を米英の傀儡たるオランダ亡命政府の圧政下より解放して、その地域をインドネシア人の安住の地たらしめんとするものであります。
 オーストラリアおよびニュージーランドもまた、頼むべからざる米英の援助を期待せる無益の戦争はこれを避くべきであります。今やこれら民衆の福祉は、一にかかってこれら政府の、帝国の真意を理解し、公正なる態度に出づるや否やに存するのであります。欧州において、また香港において、さらにマレー半島において、イギリスが如何にオーストラリア軍およびニュージーランド軍将兵を利用し、如何なる好遇を与えつつあるかは、オーストラリアおよびニュージーランド民衆自ら十分にこれを知得しているはずであります。」
その後、蘭印の全面降伏、インド洋作戦、ビルマ作戦に進展などを好機として、東条首相はさらにもう一度、オーストラリアおよびインドに呼びかけたいと政府・大本営連絡会議で提案した。
3月12日、議会を招集した東条首相は、次のようにインドおよびオーストラリアに対し呼びかけた。

「地域広大なるにかかわらず、人口極めて希薄であり、しかも米英本国と隔絶せるオーストラリアが、我が精強なる武力に対し、自己を防衛し得ざることはオーストラリア人自ら知悉しているはずであります。
・・オーストラリアがいまにしてその態度を改めずんば、今日の蘭印の運命は、これ取り直すも明日のオーストラリアの運命となるのであります。
・・インド民衆に対しましては、帝国はもとよりこれを敵とするものではないのであります。・・今やビルマ人のビルマは出来上がらんとしています。インド4億の民の多年の願望でありまするインド人のインドの実現するは、まさに今日にありと私は確信するものであります。
・・今起ってインド人のインドとして大東亜共栄圏建設の光栄を担うか、ふして永久に米英の桎梏の下に奴隷の名を後世に伝えるか、今やインドは過去を清算し、この緊迫せる新事態を直視し、最後の決意をなすべき秋に当面しているのであります。」
この東条演説の反響として、ベルリン特電は「東条首相のインドに対する堂々たる呼びかけは、敵味方を問わず全世界に深い感銘を与えた」と報じた。
また3月13日には、ドイツに滞在中のインド独立運動指導者・チャンドラ・ボースが故国に向け放送を行った。

イギリスは3月31日、インドに対し、情勢に応ずるイギリス政府側の提案を受諾させるため、国爾尚書クリップス卿をインドに派遣することを発表した。
クリップス卿は問題処理に精力的に努力したが、事態の進展ははかばかしくなかった。
当時インドでは各地で反英暴動が発生し、マハトマ・ガンジーはイギリス側の提案に対し、「イギリスを寛容せず」と語り、事実上拒否をしていた。その一方でガンジーは非戦論の立場から、太平洋戦争に介入することに反対し、中立維持を主張した。
また、ネール一派の国民会議派の多数は、インドが積極的に対日戦に介入することには反対であるが、インドが外敵により侵攻される場合は、自衛のため戦わねばならないと考えていた。

4月8日、イギリスは、インド国防統轄権移譲とインド自治政府樹立に関する妥協案を示し、英印会議の全面決裂の回避に努めたが、国民会議派はこの妥協案に反対した。
4月11日、英印会談は事実上決裂し、クリップス卿は帰国を表明した。アメリカはインド方面の戦況と英印会談の難航に焦慮して、ルイス・ジョンソンを特派し、英印の妥協を協力させていた。
4月12日、ジョンソンとネールの会談が行われたが、翌13日、ネールはアメリカの干渉を拒否するに至った。
4月11日、政府・大本営連絡会議で「インド及びアラビアに関する日独伊三国共同声明案」が協議検討された。日本だけでなく、三国共同声明の形を取ることで、インドだけでなく中東のイギリス植民地に揺さぶりをかけようというものだったが、この発表に関し、次のような利害が指摘された。
・利(メリット)
1 インド問題に関し、日独伊三国の間に意見の相違があるという宣伝を打破できる。
2 枢軸側がインドを占領する意思のないことを明らかにして、インド人の疑惑を一掃することができる。
3 インドにおける独立運動を一気に高める効果がある。

・害(デメリット)
1 独伊はインドまで手が回らないから、日本だけが責任を負わされるおそれがある。
2 インド人の独伊に対する感情はよくないから、日本も同一視され、対日感情が悪化するおそれがある。

連絡会議での討議の結果、なるべく早く声明を出すことになり、ドイツ、イタリアと交渉を開始することに決定した。
その後、5月6日の連絡会議で、外務省側はドイツ、イタリアの反応を次のように報告した。
1 インドは別にして、独伊に関係あるアラビアその他の中東方面に関する宣言を行うと、枢軸国の作戦企図を暴露するおそれがある。
2 この宣言は、目下きわめて微妙な関係にあるトルコ、シリア、エジプトなどに及ぼす影響が大きいから、しばらく待ってもらいたい。
3 イタリアは、独伊の武力がこの方面に及んでいない時期にこのような宣言を行うのは、時期尚早という意向である。

以上の報告の後、外務省側は次のような提案を行った。
1 本件はもともと独伊側から申し出た問題であるが、日本は当初返事を与えず、やや遅れて今回の提案となったため、時機を失した憾みがある。
2 情勢の変化は、その後、独伊側を再考させることとなった。
3 日本としては、すでに2回にわたり総理から声明を発しているので、共同宣言はしばらく差し控えることとしたい。

結局、共同宣言は当分見送りとされ、東条首相の声明にそって、日本独自の方針で進むこととなった。
開戦から第一段作戦終了時までの間、日本海軍が失った艦艇は、主なもので駆逐艦6隻、潜水艦6隻、掃海艇6隻程度であった。この間の航空兵力の消耗は定かでないが、677機という記録がある(昭和17年3月末まで 戦闘消耗249機、その他428機)。
一方、新たに竣工して連合艦隊に加わった艦艇は、戦艦大和、軽空母祥鳳、水上機母艦日進、駆逐艦2隻、大型潜水艦4隻であった。また、航空機生産は690機とされている。

陸軍の損害も予想をはるかに下回り、南方作戦のスケジュールも約1カ月繰り上がって昭和17年3月上旬には完了の見通しだった。

第一段作戦は当事者が信じられないほど順調に終わった。しかし、第一段作戦と並行して進められた第二段作戦構想の設定は困難した。
第二段作戦は、昭和17年3月上旬には決定される予定であったが、開戦直後から陸海軍の間で戦争指導方針、作戦構想について意見の相違が生じ、1月末になっても両者の調整の目処は立たなかった。

このため、戦争指導方針の再検討から始めて打開を図り、2月初めに再検討に着手した。3月7日、政府・大本営連絡会議は「爾後の戦争指導方針」を決定し、13日にこれを上奏した。
また、第二段作戦方針はようやく両者の調整を終わり、海軍の作戦計画は4月5日に内定し、4月16日に上奏裁可を得た。

ここにおいて、太平洋戦争は新たな段階に入ろうとしたのである。
本日のNHKの番組で、意外だったことがある。
真珠湾生き残りパイロットが登場して
下記を発言していた。

現場の雰囲気では、第3次攻撃が常識だったが
命令が一向にでなかったとのことである。


その後、機動部隊から再度攻撃の報告もなく、敵信にもその気配があらわれなかった。幕僚の間では、再度攻撃すべしとの意見が起こったが、宇垣纏参謀長は、今から再攻撃を下令したのでは時機を失し、攻撃が翌朝の強襲になる、という意見で反対し、山本長官も再度攻撃に賛成しなかった。結局山本長官は、なんらの作戦指導を行わず、南雲長官の判断に任せたのである。
>パクパクさん

現場の雰囲気というのは、主に搭乗員のことですよね。
搭乗員とすれば奇襲は成功したのだし、連続して攻撃を続け、どんどん戦果を拡大すべきと考えたでしょう。勝ち戦のときは将兵の士気も大いに上がりますし。

一方、南雲艦隊司令部は最初から、一撃のみを加えたら速やかに撤退する方針だったようです。
草鹿龍之介参謀長は、戦後の回想録やインタビューでもそのように述べて、第2次攻撃までで引き揚げたことの正当性を主張しています。

司令部としては既定の方針通りに行動しただけですが、こうした方針は、事前に搭乗員には伝えられていなかったでしょうから、司令部と将兵の間に違和感が生じる原因となったのでしょう。
真珠湾攻撃について、なぜハワイ基地、特に重油タンクを攻撃しなかったのか、ということがいわれます。
当時、日本海軍は重油タンクを保護するため地下タンクを作っていました。当然、米海軍もそうしているだろうと思い、むきだしのタンク群はダミーか囮だろうと考えていたようです。
また、基地を破壊しても占領しない限り、修理で回復するのは容易なので、無理してタンクを含む基地を攻撃する必要はないと判断したようです。

南雲司令部が3次攻撃の必要性を認めなかったのは、主目標である太平洋艦隊撃破を成し遂げたということの他に、上記のような理由があったからだと思います。
12月8日に合わせて、「カナダの第二次世界大戦」を連載中です。
どうぞご覧下さい。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=1&comm_id=1611536&id=25509006

日本海軍中央は、戦争終末促進の一手段として、海上交通破壊作戦による連合軍の海上交通破壊、撹乱を重視していた。
開戦劈頭のハワイ奇襲作戦の戦果により、主力潜水艦の勢力に余裕が出たので、海軍部は連合艦隊と図り、潜水艦の大部分を海上交通破壊作戦に回す方針で準備をすすめた。

ちゃんと日本も海上交通破壊作戦を
重視していたのですね。
この出所の文献を教えてください。
潜水艦の運用についても、当然、あったと
おもわれますから。



太平洋艦隊司令長官ニミッツが言った

 「古今の戦史に於て、主要な武器が、其の真の潜在能力を少しも把握されずに使用されたと云う稀有の例を求めるとすれば、其れは正に第二次大戦に於ける日本潜水艦の場合である」

ドイツの事例や先例を研究しているにもかかわらず
日本軍がなぜ、潜水艦の運用方法を
誤ったのか興味のあるところです。
すでに皆さんはご存知とおもうが
おもしろい本があった。

光人社
新野哲也著

日本は勝てる戦争になぜ負けたのか


原因は、国際主義。
いまで、いえば、グローバルスタンダード。


きわめてわかりやすい本である。

>86
日本海軍は対米戦は暫減邀撃作戦を、潜水艦を含めて想定していたので、軍艦を撃沈するために設計された。
そのため大型化したのもあり、思想的・戦術的にも通商破壊は余り考慮されなかった…
というような話を読んだ記憶があります
旧海軍において、潜水艦による通商破壊戦の研究・実施が
およそ組織的になされなかったのは、やはり痛恨事でございました…(ToT;;
>本日のNHKの番組で、意外だったことがある。
真珠湾生き残りパイロットが登場して
下記を発言していた。
現場の雰囲気では、第3次攻撃が常識だったが
命令が一向にでなかったとのことである

NHKの番組も間違えているかもしれませんが、

用語としては第二次攻撃が常識だったのです。

第一次攻撃が一派と二派の波状攻撃をしたということなので

必要だったのは 第二次攻撃だった・・・という用語の使用法について

述べている指揮官の話を読みました。丸。

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戦史研究室 更新情報

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星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。