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戦史研究室コミュの日本再軍備

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北朝鮮の日本人拉致事件やミサイル発射実験、中国の経済発展と海軍力増強などをきっかけに、日本の安全保障や防衛問題が熱く語られるようになっています。現在そして将来、日本がとるべき戦略、戦備を判断する1つの手段として、「日本再軍備」の歴史を検討することは重要な意味があると思います。

「日本再軍備」の背景には、日本国憲法、特に第9条との関わりも重要な要素です。憲法改正が現実の問題となりつつある状況で、護憲にせよ改憲にせよ、国防と軍備から目をそらしてはならないでしょう。
そのためにも「日本再軍備」の歴史を知ることは大切です。

ここでは、「史録 日本再軍備」(秦郁彦 文藝春秋 1976)をベースに、その他の様々な資料を加味しながら、日本再軍備の歴史を追っていきます。

さらに、自衛隊発足後の日本の戦略、軍備の変遷史も扱いたいと思います。

コメント(58)

連投すみません。

人種差別廃絶については、第一次大戦後、パリ講和条約の際に提案されたようですが、米英により拒否されたようです(連盟には米国は加盟していませんので…)。

・日本の人種平等提案
http://ww1.m78.com/topix-2/racial%20equality%20proposal.html
ロンドン軍縮を機に統帥権干渉うんぬんは、1930年ごろでしたか?
明治憲法以来、現実派が主流をしめた日本の政治が世界情勢・趨勢のリアリティを見失うころですね。
 歴史街道だったかなあ、、、ヨーロッパが共食いのごとき焦土消滅戦の様相をしめした第一次大戦から、戦争は経済上不毛だという考え方に染まっていった。。。

 この流れに日本はついていけなかったのではないかという。。。確かにロンドン会議か何かで欧米の7割という数字が出たとき、海軍の将軍が抗議の切腹自殺をしている。東郷元帥も噛み付いていた記憶がある。

 実際に日清日露では戦艦兵力装備が足りなく苦労していたから現場の人間にはたまらないだろうというのも判る。

    ***

 しかし、経済はまた別物で、将功なりて万骨枯れる。軍強壮にして国枯れる。。。世界恐慌、東北の冷害が日本にトドメを刺す。

 そして、、、長距離水雷、航空兵器が海軍戦力のありようをすっかり変えてします。。。万物流転。ですねえ。
>瑠璃絵さん

 コミュ主さんに申し訳ないなあと思いながらの記載です。
アメリカの建国の歴史とは侵略と暴力の歴史で、平和と孤立が一番似合わない国のように私は思います。

・アメリカ建国からインディアンの虐殺。
・メキシコ領だったカリフォルニアなど西アメリカ一帯の侵略
 略奪の連続。
・アフリカからの黒人奴隷の歴史。。。
・フィリピンにおける高知族の虐殺。

 どの国も血と暴力の歴史で似たりよったりなのですが
アメリカもまた略奪戦争の連続のように思いますよ。
ごめんね。私もトピ主さんに申し訳ないと思うんで
親切な方はメッセ下さいね。
>KKさん
>瑠璃絵さん

お気になさらずに、どんどん発言してくださいね。
ここは私だけのトピではありません。

皆さんの発言で活発化すれば、それが一番嬉しいです。
日本再軍備の起源は、第2次世界大戦中のワシントンに始まると言ってよいかもしれない。

第2次世界大戦を今度こそ、「戦争を終わらせるための戦争」にしようと意気込んでいたルーズベルト大統領は、戦後世界の平和をアメリカのリーダーシップの下で、政治的には国際連合、経済的にはブレトンウッズ体制(※1944年にアメリカのブレトン・ウッズで連合国側が決定した通貨体制。ブレトンウッズ協定とGATTによる通貨・金融・貿易の国際経済体制)を基軸として確立する構想を立てていた。
この夢は、冷戦の最中、1971年のニクソン・ショックで崩壊するのであるが、日独両ファシズム国家も、軍国主義を一掃し、世界平和の脅威とならない民主主義国家として再生すれば、この新たな戦後国際社会へ参加することが認められていた。

日本に対するアメリカの戦後構想と占領政策は、こうした条件付き認可という枠組みの中で固められていくのであるが、問題は日本が参加資格を得るためには、古い政治・社会体制をどこまで矯正すれば良いのか、という点にあった。
この点をめぐって、戦争の後半期にアメリカ内部では、「穏健派」と「急進派」の間で日本観をめぐる鋭い対立が生まれ、現実の対日政策も大きく揺れ動いていく。
ここで、当時のアメリカ指導者層の平均的な日本と知日派専門家たちの水準を窺わせる討議の一例を紹介してみる。
この討議が交わされたのは1943年10月22日で、南東太平洋で要衝ラバウルの攻防戦が激化しようとしていた時期にあたる。

出席者の名称と所属機関をあげておく。
ヒュー・ボートン博士(国務省・東アジア班)
バランタイン(極東局)
バンデンボッシュ(国務省)
ハミルトン・アームストロング(ACPEP)
ジョージ・ブレークスリー博士(国務省・東アジア班)
アルジャー・ヒス(極東局)

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議長「アメリカの対日世論はどんな状況か」

ボートン「専門家の間でも二派に分かれている。一派は、天皇制と軍国主義は固く結びついていて、天皇制廃止をふくむ旧体制の全面的破壊が必要と信じている。別の一派は、日本国民が天皇に責任はないと信じ天皇制の廃止は受け付けないと見て、リベラルな勢力を起用して漸進的な改革をやれると主張している」

議長「あなたの見解はどうか」

ボートン「民主的改革は天皇の協力なしには困難と思う。それに統帥権独立の廃止も憲法の改正も天皇の権限となっている」

議長「他に意見は」

バランタイン「日本人に敗北を覚らせるには東京を1週間占領すれば十分で、その方が憲法改正よりも効果がある。同時に何世代もかかって固められた天皇の権力は崩壊するだろう。もし軍国主義者が天皇を山の中へ移して立てこもっても、我々の思考法を理解できるリベラル派が協力してくれるだろう。天皇だけが軍を押さえられるから、少なくとも降伏後しばらくは天皇制を維持した方が良いと思う。その間に軍国主義者を一掃すれば良い」

議長「ここは重要なポイントだと思う。しかし、軍国主義者が天皇をもう一度独占する危険はないのか」

バランタイン「降伏宣言に将軍たちもサインさせれば良い。敗北の責任は彼らにくるだろう」

バンデンボッシュ「将軍たちは天皇の意思を無視して開戦したと言われるが」

バランタイン「よくわからないが、多分天皇の意思表示は非公式なものだったのだと思う」

アームストロング「アメリカの世論は天皇を(戦争)犯罪人と見なすだろう」

バランタイン「日本の天皇は『君臨すれども統治せず』である」

アームストロング「もし天皇が処刑されたら日本人はどう反応するだろうか」

ボートン「空恐ろしいほどの影響を与えよう」

バランタイン「天皇に屈辱を与えるのが目的なら、天皇を大佐か准将クラスに降伏させる方が効果的だ」

バンデンボッシュ「我々が半永久的に駐兵しないかぎり、軍国主義者が権力を奪い返す危険がある」

バランタイン「私は、軍がそれほど強力だと思わぬ。彼らは勝利の連続で権力を得たのだから敗戦で威信の95パーセントを失い、二度とチャンスは来ない。日本の穏健派(モデレート)を信頼しても大丈夫だ」

ブレークスリー「天皇制を残す約束を与えるべきである」

アームストロング「アメリカの世論が承知するだろうか」

アルジャー・ヒス「天皇制を残すことの短期的利益と長期的な得失を区別せねばならぬ。中国も天皇制廃止を強く望むだろう」

議長「ジョージ・ワシントンも最後は神の意思が決めたもうと言っている。我々は大胆にやるべきだ」
対日政策をめぐるアメリカ政府部内の論議は、大体、このようなパターンの繰り返しだった。

専門家でない委員たちは、天皇制に代表される日本の国家体制と日本人の心理構造を、西洋的教養の枠内で理解しようと、もどかしい努力を払っている。
一方、専門家の方は「日本と日本人のことは我々以外に理解できるはずがない」という調子だったが、他の委員は具体的に反論できる知識に乏しいから、「それでは世論が納得しないだろう」と逃げるしかなかった。

当時の世論調査によると、アメリカ民衆の平均的なイメージは、「日本人は7千万人の狂信者から成る不治の好戦的国民」で、「日本人が世界の善良な市民になりうると考えていたのは10人のうち1人」(1943年6月の調査)というところで、「善良な日本人とは死んだ日本人だけだ」というジョークも横行した。

日米開戦で抑留され、交換船で帰ってきたグルー前駐日大使が演説旅行で、天皇を弁護する言動があったと吊るし上げられ、良識派といわれていたニューヨーク・タイムズですら「天皇制や神道主義は、戦時中に論ずべき話題ではない」と論説したほどであった。

結局、日本に関する限り、専門家とそうでない者(一般国民もふくむ)の間の知識格差があまりにも大きかったから、議論は初歩的な段階で堂々めぐりしがちだった。
グルー前駐日大使、ドーマン前駐日大使館参事官、バランタインらは知日派の中でも特に保守的な親日派と見られて、「天皇閥のアメリカ代表」と悪口を言われ、国務省の中国派や太平洋問題調査会(IPR)系統の極東専門家たちからも敵視されていた。

このあたりの人脈関係はなかなか複雑で、中国派の中もホーンベックに代表されるオールド・チャイナ・ハンドとヴィンセント、ジョージ・アチソン、ジョン・サービズら中国共産党に親近感を持つ若手の進歩派に分かれいた。
一方、日本派の方も、ボートン、フィアリーらはIPR系の進歩的グループの影響を受けていた。

その中で、保守・進歩の両分子を持つ日本派と中国派の対立がしだいに顕在化していく。
その争点は要するに、戦後アジアでアメリカの利益を代表するリーダーの役割を、再生する日本に期待するか、改革された統一中国に渡すか、ということにあった。

この場合、中国を立てるためには日本を押さえ込む必要があり、中国派は必然的に反日的とならざるを得ない。
進歩的中国派の大御所と目されたオーエン・ラチモア教授が天皇の流刑を唱え、トルーマン大統領にグルー国務次官の免職を直訴したのはその一例である。

同じような対立は、対ドイツ政策の決定過程でも、より深刻な形をとって存在していた。
1944年、ヘンリー・モーゲンソー財務長官がドイツの戦後処理案として、ドイツの産業を消し去り、農業国へ戻るよう強制する「モーゲンソウ計画」を提案した。
この計画案は国務省や陸軍省を差し置いて、直接ルーズベルト大統領に提出された。

大統領はこれを受け入れる方針だったが、モーゲンソーがユダヤ系アメリカ人であったため、ドイツが「ユダヤ人の悪魔が作った全滅計画」と宣伝して、ドイツ国民の戦意高揚に利用しはじめたので、モーゲンソー計画はそのままの形では実施されず、大幅に緩和された。
それでもドイツ降伏とともに、米英仏ソの4大国によって開始されたドイツ占領は、モーゲンソーの色濃い影響力を残す厳格なものとなった。

国務省の知日派はモーゲンソーに代表される厳罰派や反日派が対日政策に介入してくるのを警戒し、1944年初夏までに完成した大量の政策文書を手元に留めたまま、1年以上も上層部にあげなかった。
事実、モーゲンソーは対ドイツ占領政策の決着がつくと、対日政策に介入しようとするが、1945年4月のルーズベルト大統領の急死で勢威を失い、まもなく辞任する。

ルーズベルト自身も、祖先が中国貿易で財産を築いた家庭的伝統があって、日頃から中国への親近感を隠さなかったから、彼が生きていれば対日政策はかなり変わっていたであろう。
1945年5月8日、ドイツが連合軍に無条件降伏した。その直後、アメリカ統合参謀本部が日本本土侵攻作戦(ダウンフォール作戦)を最終的に決定した。作戦日数は1年半、アメリカ軍の死傷者は非公式に100万と見込んでいた。
この頃、日本の軍部は上陸するアメリカ軍の第一波を追い落とす成算があると主張し、アメリカ軍も、日本本土や満州・中国に残存する日本軍戦力を過大に算定し、太平洋の島々の玉砕戦や神風特攻の体験から、戦争はまだ続くと判断していた。

一方、国務省を中心に、グルーなどの知日派は、早くから日本国内の和平派に呼びかける戦術を提案し、ポツダム宣言で天皇制の残置を約束すれば、和平派が抗戦派を圧倒し、アメリカ兵の流血なしに終戦に持ち込めると熱心に説いた。
スチムソン陸軍長官も同調したが、無条件降伏という原則にこだわったバーンズ国務長官が反対し、トルーマン大統領の裁断で天皇制には触れないまま、7月26日にポツダム宣言が公表された。
紆余曲折はあったものの、翌8月に原爆投下とソ連参戦のダブル・ショックを受けた日本は、国体(天皇制)護持についての確認を得られないまま降伏に踏み切る。

客観的に見れば、文字通り「刀折れ、矢尽きて」の敗北であったが、アメリカにとって日本の降伏は予定よりも早かった。事態の急速な展開に対し、ワシントンでは差し迫った日本占領に対処できる基本政策が完全に固まっていなかった。

アメリカ政府は、マッカーサー軍の日本進駐に間に合わせるため、とりあえず知日派が用意していた政策文書をほぼそのまま採用するしかなかった。
昭和20年9月6日、トルーマン大統領は「降伏後における米国の初期の対日方針」に署名したが、それは2年前の昭和18年10月にブレークスリーが書いた「日本の戦後処理に適用される諸原則」と骨子はほとんど変わっていない。
非武装化と民主化を占領目的の基本としているが、個別の政策については総括的、抽象的に言及しているだけで、天皇制の存廃という懸案すらまだ保留されたままであった。

日本進駐のスケジュールは、アメリカ軍の先遣隊が8月28日に、30日にはマッカーサーが厚木に到着する予定となっていた。
アメリカ政府は、何も指令なしでアメリカ軍を日本に進駐させると混乱を招くと判断し、マッカーサーが厚木に着陸する前日の8月29日にこの指令を、内報の形で概要を知らせた。

マッカーサーはこの時、マニラで作成した一応の軍政計画を携行していた。それはドイツと同じような直接軍政に近い方式で、軍事法廷による秩序の維持、軍票の使用による経済統制を予定し、それを告知する3種類の布告文を、9月3日に日本全国の街角に掲示する手筈となっていた。
これを知った日本政府は、ミズーリ号艦上での降伏調印式の翌日、9月3日の朝、重光葵外相をマッカーサー司令部に派遣して、布告の中止と日本政府を通じた間接統治の採用を懇請した。

マッカーサー司令部はこの懇請にあっさり応じたが、その理由は以下のようなものがあった。
第一に、ポツダム宣言が天皇および日本政府の既存機構を通じる間接統治方式の適用を約束しており、非公式に伝達された大統領指令もこの趣旨で書き換えられていたこと。
第二に、厚木進駐から数日の見聞で、マッカーサーは日本軍がすでに戦意を完全に失って解体しつつあり、一般国民も虚脱に近い平静さで占領軍を迎えているのを知ったからであった。
ゲリラ戦の継続を覚悟して戦闘態勢で乗り込んだマッカーサーとは、天皇の聖断が果たした予期以上の威力に驚くとともに、直接軍政に固執する必要はなさそうだと判断したのである。

そればかりでなくマッカーサーと占領軍は、聖断に示された天皇制の魔術的効果を、占領政策の達成という新たな目標へ全面的に利用しようと決意した。
そして後でも触れるように、マッカーサーはアメリカ本国の反天皇制論者を説得するため、天皇を戦犯に指名したら無限に続く日本国民のゲリラ的抵抗を誘発するだろうという危険を警告して天皇制の存続に同意させる。
一方、対外戦争での敗北という初めての経験をした日本では、宮城占拠事件や厚木航空隊の反乱など抗戦派の爆発もあったが、8月28日、アメリカ占領軍の第一陣が厚木に乗り込むまでに鎮静し、「史上稀に見る成功した占領」の時代が始まった。
占領軍兵士の暴行に脅えて山の中へ逃げ込んだ若い女性が、アメリカ兵の腕にぶら下がって街頭を歩く風景が見られるまでに、数ヶ月もかからなかった。英会話熱とダンス・ブームが席巻し、アメリカナイゼーションの波が日本全土を洗った。
それは、ナチスドイツ軍を追い払ってローマに入城した米英連合軍が、イタリア市民から「解放軍」として熱烈に歓迎された風景を想起させた。

ドイツ国民がナチスから「解放」されたように、日本国民も「軍閥」の手から「解放」されたわけだが、ドイツの場合と異なるのは共犯意識があまりなく、逆に被害者意識が強かった点であろう。
東久邇宮内閣はそれを逆用して「一億総懺悔」論を唱え、戦争指導者の責任までウヤムヤに霧散させてしまった。

ドイツのようなナチス狩りも起らず、占領軍の国際軍事裁判で一応の決着がついたのちは、戦争責任(敗戦責任を含む)の追及は忘れ去られてしまったばかりか、「戦犯」的な政治家や言論人が占領終了と同時に華々しく復活していった。
>マッカーサー司令部はこの懇請にあっさり応じた。

マッカーサーが軍政施行を思い留まったのは、サザーランド
少将も同席の元で重光葵外相がおこなった気魄ある説得と
そして最後の一種の脅し?があったからでもある。

それは
「占領軍が軍政を敷くのはポツダム宣言以上のことを要求する
もので、日本側の予期せざるところのみならず、日本政府の
誠実なる占領政策遂行の責任を妨げ、混乱の端緒を見ること
になるやも知れぬ。
その結果に対する責任は日本側の負うところではない ! 」

若い頃から外交交渉の場数を踏んだ、老練な外交官の面目躍如
とも言える。。
>たっくんさん

書き込みありがとうございます。
これからもドシドシ書き込みお願いしますね。
対外戦争で敗れた経験を持たない日本にとって、太平洋戦争の敗北が与えたショックは決して小さなものではなかったはずである。敗戦の初体験が日本国民にどのような反応を起こすかを適確に予測できた人は、内外を問わずほとんどいなかったというのが事実ではなかろうか。
マッカーサーも先遣隊の報告を沖縄で慎重に検討したのち、思いきって丸腰で日本に入ってきたというのが実相で、内心はビクビクものであった。

しかし、アメリカ側の予想に反し、日本人の占領軍への反抗はなく、懸念されていた抗戦派の暴発も8月28日のアメリカ占領軍が厚木に乗り込むまでに沈静化した。
その結果、「史上まれにみる成功した占領」と評されたが、幣原内閣の書記官長だった楢橋渡によると、日本人が猫のようにおとなしいのは、天皇制の運命を案じて隠忍しているからで、その期待を裏切ったら凄惨な復讐が起るだろう、とGHQ高官に警告し続けていたという。

のちにマッカーサーが天皇制の存置をワシントンに要請した電報のなかに、ほぼ同様の判断が出てくるところをみると、「負けっぷりを良くする」ことに徹した日本の低姿勢が、かえって占領軍に不気味な威圧感を与えたと言えそうである。
一方、マッカーサーが「平穏な占領」の成果に満足を表明している裏では、全国に張られたGHQの情報ネットが治安の動向、特に旧軍人や右翼に鋭い監視の目を光らせ、身動きのできない状態に封じ込んでいた。
間接統治方式の採用は、こうした封じ込めをかえって成功させる要因となった。日本の優秀な官僚組織、なかでも警察の情報網は占領軍の期待を上回る能力を発揮したからである。

しかし、被占領民族の内発的抵抗やサボタージュを軍事力の威圧だけで押さえることは出来ないから、旧敵国民の復讐感情を融解させる各種の配慮も工夫された。
アメリカは、第1次世界大戦後のドイツを戦勝国が復讐感情にかられて、あまりにも苛酷に取り扱ってヒトラーの台頭を招き、第2次世界大戦の誘因となったことを教訓とし、その過ちを繰り返さないよう注意を払っていた。

アメリカの対日占領政策は、いわばアメとムチとの巧妙な組み合わせから成り立っており、それは少なくとも日本国民の間に潜在していた復讐感情が肥大していくのを防止することには成功した。
逆に言えば、占領政策の如何によって日本は、非軍事化・民主化とはまったく異なった方向に進んでいた可能性があったといえる。

例えば、8月18日と20日に東部軍参謀長の高嶋辰彦少将は、「正義日本の勝利」と題して司令部職員に訓示を行った。
高嶋少将は、終戦の聖断を「世界の不幸を救う神の如き裁定」てあり、これによって第2次世界大戦を終結させ平和をもたらしたのであるから、「神の世界では日本天皇の大勝利」だと述べた。
そして終戦は、「真剣勝負で夕方になって他日を期すという礼道」に沿ったもので、「軍備の解体とか武装の解除とかも日本みずからやる」のであって、「物の世界で少し手落ちがあったから、これを回復して追いつき追い越すのだ」と述べ、将来における「皇軍」の復活を期待した。

東部軍は宮城占拠などいくつかの不穏事件を引き起こし、将兵の動揺はなお静まっていなかったので、多分に慰撫的意図があったと思われるが、隠忍自重して他日の再起をはかるという説は説得力があり、東部軍だけでなく、日本全国で同様の例があったという。
高嶋少将の訓示は慰撫的意図があったとはいえ、敗戦についての軍部の責任意識があまりにも希薄だったことを示唆している。進駐してきたアメリカ軍も、敗戦国の日本政府が示した鈍感さに驚いた。

進駐要領の打ち合わせにマニラに派遣された河辺虎四郎参謀次長は、可能であればアメリカ軍の東京進駐を阻止するよう交渉せよと命じられたが、こういう非常識な発想が出たのは、日本の指導者層に「敗北の作法」の心得が欠けていたのであろう。
マニラの飛行場で、出迎えの米軍将校に河辺中将が握手を求めて拒絶される写真が残っている。河辺中将にしてみれば、日露戦争の乃木・ステッセル会見が念頭にあったのかもしれないが、「昨日の敵は今日の友」の論理は勝者が示す寛仁であって、敗者が要求する性質のものではないということがわかっていなかったのである。
握手を拒絶した米軍将校は、昨日までの仇敵と握手する現場写真が発表されたら本国の世論が激昂したに違いないと弁明している。

「できるだけ日本人の自発性に一任すべし」との本国指令を守って静観していたマッカーサー司令部は、10月4日に政治犯釈放・特高追放の指令を発したのを皮切りに直接改革を強行するに至ったのも、敗戦意識の薄い日本政府の鈍感な対応ぶりに業を煮やしたからであった。
もっとも軍と政府首脳は、敗戦の責任を自問するよりも、占領時の軍の維持をどうするかで頭がいっぱいだったとも言える。
日本は統治機構も残され、ドイツと異なり国土のほとんどが保持されたのだから、限定的な軍備は当然残されると考えていたようである。
8月24日、下村定陸軍大臣は全軍に対して、降伏調印式が予定されていた8月31日までに軍旗を奉焼せよと命じたが、近衛第1師団に対してだけは31日まで奉焼を待て、と指示している。
少なくとも天皇制の存続に必要と考えられる近衛師団は維持できると楽観視していたのではないだろうか。

軍首脳は占領が終われば、いずれ新軍の再生は当然と予想して、何とか火種になる組織を残して引き継ぎたいと念じていた。

彼らが一様に思い起こしたのは、第1次世界大戦敗北の後、ゼークト将軍が試みたドイツ国防軍の再建方式であった。
ゼークトの知恵にならって陸軍が将来の再軍備の拠点に選らんだのが近衛第1師団の温存だったのである。

終戦当時、約1万5千人いた近衛第1師団将兵の中から約4千人を選抜し、禁衛府と皇宮衛士隊を新設する構想が8月29日に決定された。
政府はさらに、「政府の終戦処理を安寧裏に整々迅速に遂行するに必要なる警備力を確保」するという名目で、約25万5千人の警察力と22万7千人の武装憲兵部隊を残置し、陸軍大臣の指揮監督下におく案を、8月29日の終戦処理会議で内定した。
警察力の約三分の一と憲兵部隊は、機関銃以下の小火器で武装させ機動力を持たせようというもので、人数だけでいうと平時の陸軍兵力を上回る規模であった。
ところが、9月2日に降伏調印式が行われ、付属文書の一般命令第1号が日本政府と大本営の布告として発令されると、例外なき全面的な武装解除、復員が始まった。
陸海軍解体の状況を暦日で追うと、9月13日に大本営、10月10日に海軍総隊・連合艦隊、10月15日に参謀本部、教育総監部、軍令部、11月30日に陸軍省、海軍省とその一切の付属機関が廃止となる。

8月29日に決定された政府の構想は、10月初めには通常の警察官18万6千余、内乱鎮圧、災害対策用の武装警察隊2〜6万人に縮小されたが、10月11日になってGHQから「これらの申し入れは好意的に考慮されず」「警察力の員数、組織または武装の増強は目下のところこれを実施すべからず」との回答を受け、流れてしまった。

日本側はせめて禁衛府だけでも残したいとGHQに懇請した。GHQの中でも情報担当のウィロビー少将は、こうした日本政府の要請に好意的だったという。
しかし、昭和21年3月、禁衛府と皇宮衛士隊の解散を命じるGHQ指令が発せられ、日本側の望みはかなえられなかった。
この時、百数十名の衛士が、無給で良いから皇居を守護させてほしいと血判状を提出したが、却下されている。
同じ頃、海軍の方も陸軍とは別行動で将来の再建に備えたいくつかの構想を暖めていた。

1つは終戦の年の10月に海軍省で立案された「沿岸警備隊」の新設案である。目的は「海上武力喪失に伴い、海上治安維持、漁業保護、船舶救難、密輸防止等の完璧を期するため海上警衛力を強化する」ことにあり、残存した駆逐艦以下の旧海軍艦艇約60隻を転用し、人員8,640名、年間経費2,700万円程度の陣容で全国の主要海港に分散配置しようとするものであった。
この案の結末はよくわからないが、昭和23年5月に海上保安庁が誕生して、この構想を受け継ぐこととなった。これについては後述する。

保科善四郎海軍中将の手記によると、米内光政海軍大臣は、終戦直後に「連合国は極東の平和維持と民主安定の見地より最小限の国防力を残すだろう」との楽観的見通しを持っていたようである。
そして、軍務局長だった保科中将に新海軍再建構想の検討を命じ、その際に「海軍伝統精神の美風を新海軍に承継させる」よう要望した。

この他に、海洋開発を目的とする「海事省」の設置や、復員軍人対策として復員援護局を作る案も出たが、前述のような占領軍の姿勢では実現の見通しはなかった。

日本陸海軍の首脳陣、そしておそらくはウィロビー少将でさえ、この段階では連合国が公表していた非軍事化・非武装化政策を、あまり深刻に受け取っていなかったらしい。
職業軍人だけでなく、およそ近代国家の政治訓練を受けた人々によって、軍備を持たない独立国家など想像の外であった。

戦争放棄を規定した新憲法第9条の出現は、こうした盲点を見事についた離れ業であった。
それでは、第9条が憲法の規定として入ってきた事情とは、どのようなものだったのだろうか。
アメリカは早くから、ポツダム宣言などで示された連合国の占領目的を効果的に達成するためには、憲法の改正によって日本の国家体制全体を改変する必要があると考えていた。
第1次世界大戦の経験から、連合国は占領終了後における日本・ドイツ両国の軍事的復活に対して警戒的であり、それを防止するための手段を慎重に考慮した。後述する国際的査察制度もその一例であったが、占領中の諸改革を定着させ、その効果に永続性を持たせるためには、憲法の改正が不可欠と判断していた。

もっとも、ポツダム宣言においても、初期の対日方針などの公表文書でも、憲法改正の必要性は明言されず、その方向を示した「日本の統治体制の改革」(SWNCCー228)がワシントンからマッカーサーに指令されたのは1946年(昭和21)1月という、かなり遅い時期であった。
憲法改正を含んだ指令が、初期改革のほぼ一段落したのちになった理由は以下のようなものと思われる。

1 「日本国の最終的な政治形態は、ポツダム宣言に従い、日本国国民の自由に表明せる意思により決定されるべきものとする」とのバーンズ回答(1945年8月11日)の趣旨から、憲法改正を連合国の要求として出すのは適当でなく、それが「永続的な価値を有し、したがって最も効果的であるためには、日本政府が自ら発議し、実施したもの」でなければならないし、また「連合国によって強要されたものであることを日本国民が知れば、日本国民が将来ともそれらを受け入れ、支持する可能性は著しく薄れるであろう」と判断された。

2 憲法改正で最大の焦点となると予想された天皇制の取り扱いについて、アメリカおよび連合国内部における見解の統一が難航した。

3 憲法改正の前に実質的な改革を先行させた。

以上の理由から、「日本の統治体制の改革」をGHQに交付した時点になっても、ワシントンは天皇制の存廃について公式の結論を与えず、日本国民の選択という形式で、マッカーサーに事実上の決定を委ねた。

しかし、できるだけ日本政府に主体性をもたせながら、望ましい内容の憲法改正を実現しようとしたアメリカの努力は成功せず、結果的にはGHQが起草したアメリカ製憲法草案を日本が受け入れる形で終わった。
それは、GHQがたびたび要望したにもかかわらず、日本政府が憲法改正に熱意を持たず、明治憲法の弾力的運用ないし最小限度の部分的修正で切り抜けようとしたからであった。
憲法改正についてGHQが示した最初の示唆は、1945年10月4日、マッカーサーから近衛文麿に伝えられた。当時、近衛は東久邇宮内閣の副首相格であった。
近衛は憲法改正事業をマッカーサーから委託されたものと受取り、アチソン政治顧問を訪問して具体的な「助言と示唆」を聞いた後、京都帝国大学の佐々木惣一博士を顧問として起草にとりかかった。

アチソンが明治憲法の欠陥を指摘する形で述べた改正点は、議院内閣制の採用(明治憲法では、内閣制は法律による規定であり、憲法による規定ではなかった)、衆議院の強化と貴族院の民主化、枢密院の廃止、国民の基本権の保障などがあった。
軍事については軍部の政治に対する影響を抹殺し、軍部大臣を文民にすることが強調されている。

アチソンは国務省にこうした経緯を報告して、憲法改正についてのアメリカ政府の見解を示してほしいと要望した。
これに対し、国務省は政府としての公式政策は近い将来に決定される見込みであると述べた後、担当者のとりあえずの見解を連絡してきた。それは天皇制の存否に応じて新憲法にふくまれる条項を整理したものであるが、天皇制が存続する場合の1項として、「将来許されるかもしれない軍隊を所管する大臣は文民でなければならず、軍が直接天皇に進言しうる特権はすべて排除される」という規定があるのが注目される。
昭和21年1月11日、ワシントンからGHQに伝達された正式指令では以下のような項目が列挙された。
・天皇の権限の縮小
・統帥権独立の廃止
・国務大臣の文民制
・議院内閣制(明治憲法では内閣制は憲法事項ではなく法律事項であった)
・議院の予算統制権
・地方自治の強化
・基本的人権の拡大

ワシントンは、GHQがタイミングを考慮しながら日本政府にこの線にそった新憲法を制定させるよう誘導する役割を期待していた。

しかし、タイミングと誘導のやり方については、きわめて微妙な問題の起ることが予想された。
そこでワシントンは、GHQへの伝達に当って指令の公表を禁じ、「実施されるべき改革を詳細に明示した公式の指示を日本政府に発するのは、最後の手段とすべきである」と取扱い上の注意を与えた。

一方、日本側では、アチソン構想を参考にした近衛案が11月下旬に完成して天皇に提出されたが、戦犯に指名された近衛が12月6日に自決したため、憲法改正の主役は、幣原喜重郎内閣の松本蒸治国務大臣を委員長とする「憲法問題調査委員会」の手に移った。
この「憲法問題調査委員会」が設置されたのも、GHQの指示によるものであった。
昭和20年10月9日、東久邇宮内閣に代わって幣原喜重郎内閣が誕生。11日、新任挨拶に訪れた幣原に対し、マッカーサーは強制ではないことを断りつつも、憲法の自由主義化を示唆した。事実上、憲法改正の作業を開始するよう指示されたのと同様だった。
一方、その1週間前にマッカーサーから憲法改正をもちかけられちた近衛は、10月11日、天皇に拝謁し、内大臣御用掛を拝命した。近衛は勅命により、公式に憲法改正の作業に当たる資格を得たのである。
ここに、公式の憲法改正作業が、2つ同時に進行し始めたのである。

10月13日、幣原内閣は憲法問題調査委員会の設立を発表し、その委員長に松本蒸治国務大臣を任命した。同委員会が「松本委員会」といわれる所以である。

松本は、明治10年(1877)生まれで当時68歳。東大法科卒業後、農商務省の参事官を経て、東大助教授、教授となった。教授を退官後、満鉄副社長、法制局長官、商工大臣などを歴任した。
松本は、当時の日本法曹界の元老であったが、その専門は商法であり、憲法問題について専門外の分野であった。
その松本を憲法起草の責任者として強く推薦したのは、幣原内閣の外務大臣だった吉田茂だった。

委員会顧問には、有名な天皇機関説事件で貴族院議員を辞職した美濃部達吉と東大名誉教授だった野村惇治。
委員には天皇機関説事件に抗する論陣を張り、戦後は憲法学者として知られる宮沢俊義、あるいは楢橋渡・法制局長官、小林次郎・貴族院書記官長、河村又介・九州大教授など憲法学界の重鎮を集めた豪華な顔触れが揃った。

しかし、美濃部も宮沢も憲法改正には反対であることを、委員になる前から新聞や講演で明らかにしていた。
委員会全体の空気はかなり保守的で、明治憲法(大日本帝国憲法)でも運用しだいで民主主義に適応できるという解釈に傾いていた。
昭和20年10月中旬、1つの事件が起きた。近衛文麿が憲法問題に関する談話を外人記者に発表したのである。
それは「天皇退位条項の挿入もありうる」という内容のもので、この近衛談話は10月23日に日本の各紙で公表された。

近衛は、10月12日に内大臣府御用掛に就任すると、京大時代の恩師であった憲法学者の佐々木惣一の協力を得て、独自に憲法草案作りを始めていた。
近衛は、明治憲法の基本的枠組みをほぼ保ちながら、天皇の大権の制限や臣民の自由の尊重など、民主主義の強化とそのための天皇制の改革というGHQの憲法改正の方向性をかなり反映したものを目指していたようである。

文麿の次男である近衛通隆氏(歴史学者)は、以下のような回想を残している。
「父の憲法への考え方の基本は、天皇の御一身の安全を守ること、さらに天皇制の安定的な存続をはかることにつきます。そのためには、むしろ、天皇の権能を大幅に削減する必要があると考えていました。
父は、天皇に御隠退願って、東京から京都へお移り願うことも真剣に考えていたらしく、京都の仁和寺などへ数回にわたって下見の出かけたほどでした。
父は戦前からイギリスの王室のあり方、すなわち、君臨すれども統治せず、に共感しており、将来日本でも、ああいった皇室のあり方が理想だと考えていたようです」

「天皇制の存続」がすなわち「天皇家の存続」と結びつくことは、近衛も他の法律学者(政治家、軍人、一般国民など)も同様であったろうが、近衛の場合、「天皇家の存続」がなにより重大だったと思われる。
そのため、近衛は「天皇家の存続」のためならば、天皇制権限の縮小やそれに伴う国家組織の変革を行うことに、他の関係者ほど抵抗がなかったのではあるまいか。極論を云えば、「天皇家が存続」されれば、現にある国家組織にこだわるで必要はないし、憲法など天皇家を守るための手段にすぎないと考えていたのかもしれない。近衛は、「天皇制の存続」と現にある国家組織の存続とを切り離して考えていたのではあるまいか。

こうした近衛の考えは、必ずしも周囲の理解を得られたわけではなかった。近衛の顧問であった佐々木博士ですら、近衛の考え以上に、より明治憲法の枠内での改正をめざしており、近衛は意見の調整にてこずっていたほどである。
この点、佐々木博士と松本委員会のメンバーの憲法改正に対する姿勢は、ほぼ一致していると言える。

彼らにとって「天皇制の存続」が大切だったのは、天皇制が国家組織の最も重要な要素であると考えていたからであった。
したがって「天皇制の存続」と現にある国家組織の存続とを切り離して考えることは不可能であり、それゆえ国家組織を規定する憲法の改正に難色を示したのは当然であった。
さらに、GHQからの指示に対する反感や自負心などがからみ、彼らは一層、憲法改正に消極的になっていった。

近衛と他の関係者の心のミゾは、時間がたつにつれ深まる一方だった。
10月23日の新聞に掲載された近衛談話を見た松本国務相は激怒した。松本は、憲法改正の作業は重要な国務であり、当然内閣がやるべき仕事と考えていた。松本にとって近衛の動きは、明らかな越権行為に思えた。
松本は幣原首相に、この件を政治問題として取り扱うよう要請した。幣原首相は木戸幸一内大臣に会見し、善処方を依頼、木戸内大臣は松平康昌秘書官長にその旨を話し、すぐに近衛を訪問させた。
事態はにわかに慌ただしくなった。結局、近衛が訂正の談話を発表することで、この問題は解決した。

こうして憲法改正の作業の中心は、あくまで内閣にあることを認めさせた松本国務相は、10月27日、午後2時、首相官邸会議室において初めての憲法問題調査委員会を開いた。
松本委員会は当初、「憲法問題調査委員会」という名前通り、調査研究が主眼であり、憲法改正を目的としていなかった。しかしながら、憲法をめぐる内外の世論は厳しいものがあって、改正の方向で検討せざるを得なくなっていく。

しかし、既述の通り、全体の空気はかなり保守的で、明治憲法の改正は最小限度に留め、むしろ解釈の変更によって、民主主義に適応したものにしようとする考えが主流となっていた。
したがって、統帥権、戒厳、非常大権の規定を削る程度で、天皇大権の多くはそのまま残し、軍の消滅した現在の状態は「一時的の変態」と見て、国家永遠の基本法である憲法は、陸海軍の存続を当然の前提とする考え方であった。

近衛案の起草に当たった佐々木博士も、当初は天皇制の存否を国民投票にかけることを提案したが、ポツダム宣言は「天皇制の存廃や将来の軍備の存廃とは無関係」と理解していた。
おそらく、当時の法律学者のほとんどは、この佐々木博士の理解と同様だったと思われる。
既述の通り、松本委員会のメンバーは当初、憲法を改正するつもりはなく、憲法問題の調査研究を目的とすると認識していた。
昭和20年10月27日に行われた最初の委員会は、以下のような討議がなされた。出席者は次のメンバーである。

松本蒸治
美濃部達吉
野村惇治
宮沢俊義
楢橋渡
小林次郎
河村又介

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松本 「・・この調査委員会の使命は憲法改正案を直ちに作成するということではなく、その必要はおこった場合、直ちに応じうるように調査研究を行い、資料を整備するにあります」

宮沢 「おうかがいしますが、憲法改正が必要だと仮定した場合ですね、それはポツダム宣言に関係する部分に限定して考えるべきか、それとも従来、学説上問題のあった点も含めて考えるべきか、という問題があると思われますが」

松本 「必ずしも、ポツダム宣言に関する部分に限定する必要はないでしょう」

野村 「しかし、さし当たっては、問題を重点的に局限せざるを得ないのじゃないですか。例えばポツダム宣言にいう民主主義的傾向の助長のためにはどうすればよいかという問題があります。
 さらに我々は軍はなくすべきだと考えておりますが、それにはどのような改正が必要になるか・・」

美濃部 「私は軍をなくすことには反対です。日本は確かに現在は軍備を撤廃したけれども、永久になくていいものではない。憲法は永遠なものであり、日本が独立国であることを前提として立案すべきものです。とすれば当然、軍の規定は憲法に設けてなければいけないものですよ」

野村 「しかし、われわれは・・」

美濃部 「もし日本が敗戦国であるという現実にもとづいて立案するのなら、天皇も連合国最高司令官の指揮を受けると書かなければいけなくなる」

小林 「美濃部先生のご意見に賛成です」

楢橋 「いや、ご意見ですが、旧日本軍関係者の意向では、この『天皇は軍を統帥す』という字句は削っていただきたいということがありまして・・軍備を撤廃して平和国家一本槍でいきたい。そうでないと逆に天皇制もふっとんでしまうのではないかと・・」

松本 「独立国たる以上、軍がないということは考えられない。相手側から強いられた宣戦はどうなります。もちろんマッカーサーと交渉してそれが出来ないというのなら削ります。しかし、それもやらないで最初から削って立案しろと言うのなら、私は御免こうむる」

楢橋 「私はただ軍の意向を取りついでいるのですから私に怒られても困ります」

松本 「そんなことを言うものがあったら、いつでもここへ連れてきてもらいたい。私からよく話して聞かせます」

宮沢 「まあ、しかし、向こうが置けというなら置く。置くなというなら置かないというのではなくて、向こうの意向にかかわらず、平和国家という大方針を掲げる以外、日本には道がないのですから、むしろこの際、思いきって撤廃した方がいいと思いますが」

松本 「しかし、軍備のない国というものは、実際にはありません。国際連合に加入するには軍備がなければならないのです。それに加入し得ない国家になれというのなら、それは別ですが」

野村 「しかし、我々としては、ポツダム宣言を度外視して独善的な改正案を考えることは出来ないでしょう。民主主義を徹底するについては、第1条から第4条の天皇の規定に触れざるを得なくなるのではないですか」

松本 「第1条、第4条については、触れないことを原則にしたいと考えています。この事項については、議会に修正権があるわけですから、それを通じて、いろいろと実質的な問題の発生を刺激することになります。私の考えでは、第3条の『天皇は神聖にして』というところを、『天皇は至尊にして』と改めて、その他はそのままにしておくのがいいと思っていますが」

美濃部 「どうだろうね。そこのところなんだけれども、『天皇の一身は侵すべからず』というのは」

小林 「あるいは『天皇は国の元首にして侵すべからず』『天皇はその行為に付責に任ぜず』などというのもありますが」

河村 「天皇の無問責を露骨に規定するのは避けた方がいいと思いますね。天皇が統治権を行使しながら、その責を負わないというのは、少なくとも一般人には理解し難いところですから」

松本 「ともかく、この問題はポツダム宣言でも日本国民の自由意志にもとづいて決定すべきものとしているわけですから、特にマッカーサーに相談することもないと思う。日本人の総意は、天皇制を支持するものであると私は絶対に確信しております。もちろん、共産主義者などの例外はありますが、日本人の総意は山の如く動かぬのであります。
 第1条、第4条に触れなければデモクラティックにならぬ、などということがあるはずがない。私は第1条、第4条はまったく触れる必要はないと思っております」
松本委員会の作業がようやく軌道にのりはじめた頃、世界の政治情勢は米ソの対立を軸として大きく変わりつつあった。
昭和20年10月下旬、ハリマン米駐ソ大使との会談において、スターリン首相は、日本の旧勢力がいまだ一掃されないことに不満を表明し、対日占領統治への参加を激しく要求してきた。

この頃、アメリカの有力紙は、近衛文麿による憲法改正作業を激しく攻撃し、近衛こそ戦争犯罪人に指定されるべきだと主張した。
国内でも、戦時体制を敷いた近衛の責任問題の追求が激しくなり、また、宮沢俊義らが近衛の憲法改正作業を批判した。
吉田茂の側近である白洲次郎は、近衛がマッカーサーに憲法改定を託されたことを宣伝して回り、近衛を助けようと試みたが、内外のメディアの反応を恐れたマッカーサーは11月1日、次のような声明を出した。

「近衛公爵が、連合軍当局によって、憲法改正のために専任されたことはない。近衛公爵は、東久邇宮内閣の副首相の資格において、日本政府は憲法改正を要求されるであろう旨を通告されただけである。その翌日、東久邇宮内閣は総辞職し、本件に関する同公爵と連合軍当局のその後の関係は、その時点において終焉した。近衛公爵のその後の関係は、まったく天皇との関係にとどまり、連合軍総司令部は同公爵をなんら支持するものではない」

近衛はGHQに切り捨てられた。そして、これに追い討ちをかけるように11月9日、近衛は、東京湾上に浮かぶアメリカ砲艦アンコン号に連行され、米戦略爆撃調査団の査問を受けた。
アメリカ側が質問したのは、軍部と政府の関係についてであった。しかし、軍部と政府が二元化させた「統帥権」の問題は、アメリカ側には理解し難い内容であった。
また、昭和天皇への責任追及を避けるために、近衛はあいまいな答えをせざるを得なかった。こうした近衛の態度はアメリカ側をいらただせた。

近衛にとってあらゆる情勢が不利であった。11月下旬には内大臣府が廃止されることに決まった。そして11月19日、A級戦犯11名が逮捕された。
近衛は私邸の荻外荘で、一人黙々と憲法私案にとりくんでいた。そして内大臣府が廃止される直前、11月22日、近衛は遂にその私案を脱稿して天皇に奉答した。

近衛私案は、後に出てくる松本私案に比べると、はるかに民主主義的、自由主義的色彩の濃いものであった。
たとえば天皇については、次のような案文が書かれてある。
1 天皇統治権を行うは万民の翼賛に依る
2 天皇の憲法上の大権を制限する主旨の下に・・・

しかし政府はこれを無視した。近衛の奉答書は、昭和36年2月、総理官邸内の内閣参事官室の金庫から発見されるまで闇に葬られた。

12月6日、近衛のもとにGHQからの逮捕命令が届いた。そして、巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日、近衛は荻外荘で青酸カリを飲んで自殺した。
これは、昭和天皇に戦争責任が及ばないようにとの苦渋の選択による行為だったともいわれている。
近衛に逮捕命令が出る少し前の11月26日、第89回帝国議会が開かれた。この議会では、本会議および各種委員会において憲法に関する様々な議論がたたかわされた。
12月8日の衆議院予算委員会において、諸議員と松本国務相の間で憲法問題に関する質疑応答があった・・・

中谷武世(無所属倶楽部)「総理、ならびに松本国務大臣は、しばしば憲法改正は調査会において調査中であって、未だ内容を申し上げる域に達していないという意味の答弁をしておられますが、憲法上の直接機関である議会に、その進展状況が報告できないというのは、どういうことですか」

松本「たびたび申し上げておりますように、調査会はまだ発足して間もないのでありまして、その内容についてお話するだけのものが出来ておらないのでありますが、しかし、かげでこそこそと悪いことをしているように思われても何ですから、ここで私の大体の構想を申し上げまして、ご満足を願いたいと思います」

・・ここで松本国務相は、いわゆる「松本四原則」を発表した。それは以下のようなものだった。

1.天皇が統治権を総覧するという基本原則は不変であること。
2.議会の議決決定権を拡充するために、天皇大権事項をある程度削減すること。
3.国務大臣の責任を国務全般にわたるものとし、同時に議会に対して責任を負わせること。
4.臣民の自由および権利保護を拡大し、これらへの侵害に対する救済を完全なものとすること。

松本はこの四原則によって、政府の秘密主義を非難する声に応えようとしたのである。しかし・・・

水谷長三郎(社会党)「(いきりたって)毎日の新聞に目を通してごらんなさい。天皇制、あるいは陛下の戦争責任というような問題が公然と新聞い論ぜられている時期になっているではないですか。
こういう場合に、相変わらず昔通りのことを言っていると、私はかえって、ひいきの引き倒しだと思いますよ。あなたが本当に日本の君主制を護ろうというのなら、もっと民主主義的方法と、民主主義的な考えで対処しなければいけないんじゃないですか?
私は主として、政治論として、政治的立場から、この問題を考えてみる必要があると思うのです。あなたは本当に、この第1条から第4条の部分に触れずに民主主義化が行えると思っているのですか?」

松本「ここで、第1条から第4条に関して議論を致しますことは、学術上色々と・・・」

(野次) 学術上じゃない。それは政治問題だ。

松本「何か色々とおっしゃる方もいらっしゃるが、ともかく、その点に関しては、意見の相違と申し上げるほかはない。私は少なくとも、それに触れなければ民主主義化が出来ないとは考えておりません」

本領「我が国は現在、占領下にあるのです。ポツダム宣言には、日本国民の自由な意志によって、我が国の国体が決定されるのではないですか」

松本「私はそのように考えておりません。占領軍の動きと我が国の統治権とは本質的には別のものであります。
たとえば日蝕がある。日蝕がある故に太陽がなくなっているということは間違った見方で、光がさえぎられていることはあっても、太陽自身はなくなっていないのであります」

・・最後の松本の答弁は、「天皇日蝕論」として有名になった。なお、GHQ民生局次長ケーディスらは、この国会論戦を逐次、英訳して読んでいた。
松本委員会は12月末になってもまだ、「大日本帝国憲法」という名称から「大」の字を外すかどうか議論していたくらいで、アメリカ側の期待に応えられるものではなかった。
松本委員会の委員はオールド・リベラリストと呼ばれる思想傾向に属しているが、彼らの感覚からすれば、満州事変以後の日本の軍国主義化を精算して、大正デモクラシー段階まで復帰すればよかろうということにあったようである。

しかし、アメリカ側でもグルーに代表される古い知日派は、似たような日本観に立っており、支那事変(日中戦争)の責任者である近衛文麿に憲法改正を委託した事実が示すように、初期のGHQは、諸悪の根源を軍部とその取り巻き勢力だけに限定する方向だった。
こうした占領軍内部の対日観を変動させた原因の1つが、E・H・ノーマンの登場だった。

ハーバート・ノーマン(Edgerton Herbert Norman)は、カナダ人の宣教師の子として1909年に日本の軽井沢に生まれた。
ハーバード大学、コロンビア大学で日本史を研究。日本のファッシズム化の根本原因を封建遺制に求め、日本の近代化の原点を日本の中に発見する研究をまとめる。これが、「日本における近代国家の成立」(1940)で、日本理解のテキストとして占領軍に大きな影響力を与えた。
1945年8月25日、カナダ外交官として終戦直後に来日。GHQはノーマンの助力を求め、彼はマッカーサーの右腕として民主化政策を推進していた。

ノーマン史観に従えば、徳川時代から8・15に至るまで日本は連続して封建的支配体制の下にあり、近代民主主義の伝統はほとんど存在しなかったことになる。ノーマン史観は大正デモクラシーを認めず、8・15を少なくとも明治憲法の成立までさかのぼって追究する立場をとっていた。
つまり、松本国務相の答弁も、松本委員会の活動内容も、GHQにとってみれば、まったく認容する余地のないものであった。
憲法改正案を検討していたのは近衛や松本委員会だけではなかった。昭和20年12月から昭和21年1月にかけては、政党や民間からいくつもの憲法案が発表された。
なかでも高野岩三郎の憲法研究会案は、国民主権を明確に打ち出し、生存権や言論の自由など国民の権利義務を一変させようという進歩的なものであった。この憲法研究会案にGHQは強い関心を示した。12月下旬にこの案を受け取ったGHQはクリスマス休暇を返上して同案を翻訳し、年明け早々には報告書がアメリカ本国の国務省に送られ、無論、マッカーサーにも提出された。
一方、天皇制の廃止をかかげていた日本共産党は、延安から帰国した野坂参三の提案を容れて、国民が望むなら天皇制は残す、という柔軟な路線に切り替えて国民の心をつかもうとしていた。

こうした流れの中、改憲に乗り気でなかった政府も松本委員会に急いで作業を終えるよう督促するようになった。

周辺情勢も大きく動こうとしていた。
昭和20年12月16日、モスクワで米英ソ三国による外相会談が開かれた。この席上で、天皇制の廃止を強く主張するソ連、オーストラリアも参加する日本占領政策の決定機関として極東委員会の設立が決定された。
極東委員会が発足すると、憲法改正についてマッカーサーは委員会の決定に服さなければならなくなる。天皇制存続を前提に憲法改正を考えていたマッカーサーは作業を急がねばならなかった。

しかし、松本国務相は、そうした国内外の情勢の変化とはかかわりなく、そして、これに呼応するようにして発表された天皇の人間宣言(昭和21年1月1日)にもさして動揺することなく、ただ黙々と憲法改正私案の最後の仕上げに取り組んでいた。
昭和21年1月4日、松本の私案が甲案、乙案という形でまとめられた。その内容は、両案とも明治憲法を基本としており、天皇の大権をある程度制限し、国民の自由や権利を保護強化するものの、天皇主権は不変だった。天皇の軍事大権も、ほぼ明治憲法のまま残されていた。

両案は、1月30日から2月1日にかけて臨時閣議で検討されることとなった。
第3条の「天皇は神聖にして侵すべからず」は、別案として「天皇は至尊にして侵すべからず」と改められたが、これについて臨時閣議では「至尊」より「尊厳」がいいとか、いや「至尊」でよいとかいった議論が交わされたという。

しかし、「天皇は軍を統帥す」(第11条)や「天皇は帝国議会の協賛を以て戦を宣し和を講ず」(第12条)については、閣僚から異論が出た。反対というよりもGHQがとても容認しないだろうという見通しからだった。
幣原首相は「この条文を置くと司令部との交渉が1、2ヶ月もひっかかってしまいはしないか」と心配し、「世界の大勢から考えると、我が国も軍はいつか出来るかもしれない。しかし今日この規定をおくことは刺激が強すぎるように思う」と述べ、吉田茂外相や楢橋書記官長らも同感の意を表した。
吉田外相は「この点は、ホイットニー民政局長とも打ち合わせて、相手方の意向を確かめてはどうか」と提案したが、松本国務相は頑として動かなかった。
2月2日の松本委員会でも、あらためて陸海軍条項が論議され、楢橋から旧陸軍首脳も第11条を残しておくと天皇制の方がふっとんでしまうと心配しているから削除してほしいと説得したが、松本は自説を譲らなかった。

結局、松本案を正式にGHQへ提出するに際して、軍条項について説明書を付すことになったが、松本の意見もそれなりに筋が通っていた。
明治憲法で「陸海軍」となっていたのを、あえて「軍」のみにしたのは、きわめて小規模の軍隊しか想定していない、という意味を含めていた。軍の規定を削除すると、かえって将来、夢想を抱く者を生む危険があるし、軍を設置するために憲法改正の必要が生じる。また国連加盟が許された時に割り当てられる義務を遂行できなくなる・・
法律家としての松本の良心は、幣原首相以下の閣僚ばかりか、旧軍の幹部すら国家百年の大計を忘れて、当面占領軍の意を迎えるだけに目を奪われ、独立国家として欠くことのできない基本条件を犠牲にすることを許せなかった。

しかし、事態は松本の正論を超えた次元で進行しつつあった。
マッカーサーが腹心のホイットニー民政局長を呼んで、日本国憲法草案を民政局スタッフの手で至急起草するように命じたのは、昭和21年(1946)2月3日のことだった。
民政局は、日本政府の松本委員会による憲法改正案の審議状況を注視していたが、前々日の2月1日、毎日新聞がスクープした松本案はきわめて保守的であって、承認を与えられる線からはるかに遠く、また世論の反響も好評でないとみて、自ら憲法改正案の起草にのりだすことになった。

作業の責任者に指名された民政局行政課長のケーディス大佐は、ホイットニーからいわゆる「マッカーサー・ノート」を受け取った。
それは、
1)天皇制の存置
2)戦争放棄
3)華族制の廃止
4)イギリス型の予算方式
の4ケ条を記した黄色の軍用のメモ用紙で、これ以外は全部委せると言い渡された。

この中の、(2)戦争放棄が憲法9条として法文化されるのであるが、第9条をめぐる争点を整理してみると、次の3点にしぼられるといえる。

1 第9条は、当時のアメリカおよび連合国の対日占領政策からきた必然的産物であったか。

2 第9条はだれが発案したのか、またその発意の主たる動機は何か。

3 第9条の緩和解釈を意図した、いわゆる「芦田修正」の趣旨は国際的にも承認されたのか。
「1 第9条は、当時のアメリカおよび連合国の対日占領政策からきた必然的産物であったか」については、アメリカの戦後政策が形成された第2次世界大戦終結前後までさかのぼる必要がある。
アメリカおよび連合国の初期対日占領政策は、日本の非武装化と非軍事化を最大の目標としていた。しかもそれは、陸海軍三軍を解体するにとどまらず、政治、経済その他の広汎な分野における改革と再編成を通じて軍国主義の根源を徹底的に断とうとするものであった。
たとえば、トルーマン大統領からマッカーサーに交付された「初期の対日方針」(1945年9月)という指令では、日本が「
再びアメリカの脅威となり、または世界の平和および安全の脅威とならざることを確実にする」と強調している。

大陸や太平洋戦線で日本軍が展開した玉砕戦や特攻は、アメリカや連合国の心胆を震え上がらせた。そのため連合国の日本軍国主義に対する警戒と恐怖心は異常とも思えるほど強かった。
したがって、日本の非軍事化が達成され、日本が民主的平和国家として再生するまでには、かなりの長期間を要すると考え、その後の日本の安全保障と防衛のあり方にまで関心が及ばなかったともいえる。

日本の非武装化を確実なものとするためにアメリカが考案したのは、1946年(昭和21)2月にバーンズ国務長官がイギリス・ソ連・中国の3ヶ国に提示した「日本国の非武装化及び非軍事化に関する四国条約案」であった。
この条約案は結局成立しなかったが、占領の終了後も日本の非武装を維持するための監視機関を設置し、25年の有効期限がすぎても更新できる規定をふくみ、日本の再軍備を半永久的に不可能とする厳格なものだった。
この四国条約案の存在をマッカーサーは知らされていなかったという見解もあるが、そうだとしても、こうした連合国間のきびしい空気が伝わっていなかったとは思われない。

一方、憲法改正の基本方針について、ワシントンからGHQへ伝達された「日本の統治体制の改革」(1946年1月7日)という指令では、「天皇は・・軍事に関する権能をすべて剥奪される」とか、「政府の文民部門は軍部に優越することを規定する」という部分があるのみで、戦争放棄にはまったく触れていない。
そこで、アメリカ政府は日本が軍隊を保有することを当然の前提としていた、と解し、四国条約案との矛盾を指摘する研究者もいるようである。
しかし、この指令は、憲法改正はできるだけ日本政府の発意に委せ、GHQから押し付ける形をとらないよう注意している点に特徴がある。したがって、日本政府の「自主的」な憲法改正案は、当然、軍の存置を選択するだろうと見越した上で、アメリカは日本の非武装化を主要連合国間の条約によって確保しようと考えていた、ともいえる。

そうだとすれば、日本国民の発意という形で、憲法に「戦争放棄」の趣旨をもりこむ方が、より賢明な対応ではないか。マッカーサーと彼の腹心たちは、こう判断したのかもしれない。
ケーディスをはじめとする憲法起草者の間では、日本国憲法が制定されても、近く改定されるであろうと思っていた者が少なくない。それは彼らの母国であるアメリカ憲法が比較的簡単に改正を重ねているからで、こうした感覚に立つと、非武装化を25年の国際条約で縛るより、憲法に挿入する方が、日本国民を将来にわたって拘束する程度は少ないということになる。

ジャーナリストのマーク・ゲインは「ニッポン日記」の1946年3月6日の項に、「マッカーサー自身が書いたという第9条」について、「占領が終わりさえすれば、日本が何らかの口実をもうけて軍隊を再建することは到底疑えない」と断じ、「本質上、新憲法は欺瞞を生むもの」と非難している。
新憲法がアメリカ製であったことは、翻訳調の条文を読めば誰の目にも明らかで、当然、アメリカ側でも承知していた。
アチソン政治顧問事務所のマックス・ビショップは国務省あての報告で、日本言論界の熱烈な反応を要約した後、「非日本語的な用法とスタイルのため、大多数の日本人はこの草案が日本人でなくアメリカ人が書いたもに、と想像している。このことは長期的にみて日本国民の受容と支持を減退させる要素となろう」と書いた。
ゲインやビショップは、新憲法を一種の暫定法とみていたことがわかる。

結論的にいえば、第9条は、当時の日本が置かれていた国際環境では必然的に受け入れざるをえない条件の1つであったのだろう。むしろ、国際条約で強制されるよりは好ましい選択であったのではないだろうか。
次に「2 第9条はだれが発案したのか、またその発意の主たる動機は何か」という論点に移る。

第9条のアイデアが、昭和21年(1946)1月24日のマッカーサー・幣原喜重郎会談の中で生まれ、2月3日のマッカーサー・ノートで具体化されたことは、ほぼ確実といわれている。
そのため、第9条の提案者はマッカーサーか幣原のどちらか、というのが通説だった。

中でも最も広い支持を集めるのがマッカーサー説である。

当時、占領政策を実質的に取り仕切って運営していたのはGHQであり、その最高司令官はマッカーサーであった。憲法の条文や内容が誰の発案であれ、それを採用し、決定する最終権限をもっていたのはマッカーサーであった。
それだけに、「マッカーサー憲法」「GHQ憲法」「占領憲法」などといわれるように、当初から日本人の多くが、第9条はマッカーサーの発案だと思っていた。

前述のように昭和21年2月3日、マッカーサーは戦争・戦力放棄条項を盛り込み、第9条の原案を示している。それは以下のようなものであった。
「国家の主権的権利としての戦争を放棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれも放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない」

この戦争放棄条項がマッカーサーの意向であることは、マッカーサーが自伝で「幣原が言い出したこと」と言うまでは、誰も疑ってみようともしなかった。
マッカーサー説を主張するのは、GHQとやり合った日本側の松本烝治、芦田均、吉田茂、楢橋渡ら日本政府要人と、マッカーサーの取り巻きだったGHQのケーディス、シーボルト、リゾーなどがいる。

吉田茂は、
「マッカーサー元帥の考えで加えられたものと思う。幣原首相との会談で意気投合したことはあったと思うが、幣原首相が申し出たものではないと思う」と証言している。

内閣法制局第1部長として草案作成に携わった佐藤達夫は、こう述べている。
「幣原首相が具体的な提案をしたとは思わないが、両者が意気投合したことは事実であろう」

幣原首相の秘書官・岸倉松は、
「幣原は9条条項には全く関係していないが、彼の戦争放棄の悲願がマッカーサー元帥を深く感動させて、これが動機となってGHQ案に規定されたものだと確信している」と憲法調査会などで述べている。

9条条文を書き上げたケーディスは、
「戦争放棄はマッカーサー元帥のアイデアであった」
と肯定し、対日理事会米国代表であったW・シーボルトも
「戦争放棄を言い出したのはマッカーサーで、幣原首相は意外な内容に当惑した、と聞いている。マッカーサーは、当時、占領を出来るだけ早く、1〜2年で終えたいと考えており、その使命は日本を再びアメリカの脅威にならぬようにすることなので、侵略戦争をしないと憲法に明記させれば使命を達成できると考えたと思う」
と述べている。

GHQのF・リゾーは、こう述べている。
「私はホイットニー将軍から聞いたが、これはマッカーサー元帥のアイデアだといっていた。ところが、昭和25年には、幣原首相のアイデアであり、元帥は喜んでうけいれた、と聞いた。繰り返すが、最初に聞いたときは、マッカーサー元帥が言い出したということだった」

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