ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

戦史研究室コミュの佐藤市郎について

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
どうも初めて、
トピを立てさせてもらいます。
海兵36期の次席
(宮様クラスだったので、
実質は、クラスヘッド)の
佐藤市郎についてです。

海兵ヘッド、海大もトップという
絵に描いたようなエリート街道ですが、
なぜか1940年に中将にて
予備役に編入されてしまいます。

この理由をご存知のかたは、
コメントいただけないでしょうか?
お願いします。
ちなみに、同期の次席は、
開戦時の海軍次官沢本頼雄です。

補足
ご存知とは思いますが。
佐藤市郎は、
故・岸信介、故佐藤栄作
両首相の兄弟の長兄です。

コメント(10)

表向きは病気だったが、実際はロンドン軍縮会議の
海軍代表として活躍したのが艦隊派の息のかかる人事局
に睨まれて退役する前から旅順だか、どっかの外地の司令官
にされてそのまま上がりみたいになった、日本にとってみる
残念な人ですよね。

そう考えると、太平洋戦争は昭和初期に既にいろんな事象の伏線があり運命付けられていたと考えるほうが妥当ですよね。

軍人の大半、国民の大半のマインドセットが覇権という妄想に向かっていたような・・・
病弱であったということと、条約派であったことが予備役編入の理由ではないか?と言われていますね。

プロフィールを見ると、中将まで昇進していますが戦隊司令官や艦隊司令長官には就いていないんですね。
大佐昇進以降は殆どが陸上勤務。
予備役編入前の最後の仕事も旅順要塞司令官という陸上勤務ですね。
>けいさん
早速のコメント、
ありがとうございます。

>表向きは病気だったが、

そうだったんですか。

>実際はロンドン軍縮会議の
>海軍代表として活躍したのが
>艦隊派の息のかかる人事局に睨まれて

としても、同じ代表の山本などは、
ほぼ順調に昇進していますよね。
軍縮会議で何か目立つ言動とかが
あったのでしょうかね。
>涼月さん
コメント、ありがとうございます。

>大佐昇進以降は殆どが陸上勤務。

軍縮会議派遣というのは、
海軍ではエリートコースですし、
巡洋艦とはいえ艦長職を務め、
教育局第一課長までは、順調ですよね。
少将進級後も呉鎮の参謀長と
ちょっとエリートコースから外れたようですが、
特に閑職という感じではないですよね
どの辺りで問題が発生したのでしょうか?
参考までにウィキペディアの解説を記載します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%B8%82%E9%83%8E

佐藤 市郎(さとう いちろう、1889年(明治22年)8月28日〜1958年(昭和33年)4月14日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。山口県熊毛郡出身。

大正・昭和期の海軍軍人・歴史家。山口県田布施町 に、父・秀助、母・茂世の長男として生まれた。岸信介・佐藤栄作両元首相の長兄としても知られる。弟である岸信介は、「頭の良さから言うと兄の市郎、私、弟の栄作の順だが、政治力から言うと栄作、私、市郎と逆になる」と語っている。

佐藤家は士族であり、酒造業を家業としていた。曽祖父・信寛は長州藩士として長沼流軍学を修め、明治になると浜田県知事、島根県県令等を務めた。祖父・信彦は漢学者である。秀助は、元山口県庁官吏であり、岸家より佐藤家に婿養子として入っていた(ちなみに市郎の弟の信介が後に跡継ぎがいなくなった岸家に養子に入ることになる)。

東京府立四中を経て、海軍兵学校36期・海軍大学校18期(同期には南雲忠一がいる)において、在学中はほぼ満点に近い成績(海軍兵学校時代は平均97.5点)を残した(いずれも首席)ため、「海軍始まって以来の秀才」と称される(ただし、海軍兵学校36期の卒業順位は、192人中2番で成績は優等とされている場合がある。これは、卒業順位1位が有栖川宮栽仁王とされているからで、実質的には首席である)。1927年のジュネーブ軍縮会議には日本海軍を代表して参加する。同年には連合艦隊首席参謀、翌年には「長良」艦長と順調に昇進して、主に軍令部で活躍した。

海軍大学校教頭を経て、1938年には、海軍中将・旅順要港部司令官(昭和13年11月15日-昭和14年11月15日)となったが、病弱であったために2年後の1940年には退役を余儀なくされる。このとき、勲一等旭日大綬章が贈られている(昭和15年4月29日)。引退後の1943年に『海軍五十年史』を執筆した。佐藤市郎の息子である佐藤多満・信太郎 による『佐藤市郎―軍縮会議回想録その生涯』という本がある。この本は、佐藤市郎が参加した1927年のジュネーブ国際会議(「壽府三国会議秘録」)、1930年のロンドン軍縮会議(「倫敦会議抜き書」)の二つの覚え書きを元にした回想録である。

------------------------------------------------------

『佐藤市郎―軍縮会議回想録その生涯』によれば、佐藤はロンドン軍縮会議で健康を害し、軍人生命を縮めた、とされているようです。

なお、略歴は以下の通り。

1908(明治41)年 海軍兵学校(36期)卒
           卒業成績192人中1番
           兵学校時代の成績は平均点が97.5点
1920(大正9)年  海軍大学校(18期)卒
           フランス駐在
1927(昭和2)年  ジュネーブ軍縮会議随員
         11月15日 聯合艦隊首席参謀
1928(昭和3)年12月10日 海軍大佐に昇進 
                「長良」艦長
1929(昭和4)年 5月 1日 軍令部出仕
          8月29日 国際連盟海軍代表
1931(昭和6)年 7月20日 帰朝
          12月1日 軍令部出仕
1932(昭和7)年11月15日 教育局第1課長
1934(昭和9)年11月15日 少将に昇進 航空本部教育部長
1936(昭和11)年 4月1日 呉鎮守府参謀長
          12月1日 海軍大学校教頭
1938(昭和13)年11月15日 中将に昇進 
                 旅順要港部司令官
1939(昭和14)11月15日 軍令部出仕
1940(昭和15)年 4月 1日 待命
           4月 5日 予備役編入
           4月29日 勲一等旭日大綬章
やはり、情報はあまり多くないようですね。
本もあまり出ていないようでしたし。
せめて、艦隊派だったのか、
条約派だったのか、
スタンスが明確にわかればうれしかったのですが...

何かの本で井上成美が
佐藤市郎を評しているのを読んだ記憶があるのですが、
内容ともに失念してしまい、書名が思い出せません。
ご存知の方は、いらっしゃいますか?

同様に、井上成美が海軍で最も尊敬する人物として、
山梨勝之進と堀悌吉をあげていた本があったのですが、
その書名もわかる方は、
いらっしゃるでしょうか?
ソムソムナー様

涼月様も仰っておられますが、佐藤市郎中将は条約派にカテゴライズして問題ないと僕も思います。

早期に予備役編入された背景ですが、条約派である事もさることながら、秀才にありがちな「自分の才を鼻にかける」部分があり、そこを伏見宮に嫌われたという説があったように記憶しています。

井上大将の尊敬する人物の件ですが、お読みになられた本に、井上大将が尊敬する人物を山梨・掘両提督と答えた後、質問者に「米内さんではないのですか」と問われ、井上大将が「米内さんは…」と言葉を濁す、そんなくだりがありませんでしたでしょうか?

だとしたら宮野澄氏が書かれた「最後の海軍大将 井上成美」か、阿川弘之氏の「井上成美」のどちらかだったような気がします。
>takeutiさま

レス、ありがとうございます。
やはり、条約派という色分けなんですね。
確かに、山本五十六には傾倒していたようです。
http://blog.goo.ne.jp/oceandou/c/24a07131d7ad688f8ebd70d8da681bb4
↑ご存知かも知れませんが、なかなかおもしろい内容です。

>伏見宮に嫌われたという説があったように記憶しています。

文献等はわからないでしょうか?
経歴を見る限りでは、
伏見宮との接点はないようですが...
ただ、この話からすると、
豊貞と同じパターンですね。ww

阿川の「井上成美」は、持っておりますので、
違うようです。
となると、宮野本のほうですか。

どうもありがとうございました。
もし、思い出しましたことがありましたら、
書き込みをお願いします。ww

ps
失礼ながら、プロフ、読ませていただきました。
特に、「話し合えば人は必ずわかりあえると思う」
このあたりには、感服しました。ww
ソムナムナー様

まず、HNを間違えて書いてしまった事をお詫びいたします。

佐藤中将が山本元帥傾倒されておられたことが存じておりましたが、日記は初見で、ここまで「ベタ惚れ」(笑)だった事は存じませんでした。それにしても山本元帥、「秀才」にモテますね(笑)

伏見宮に「嫌われていた」理由ですが、佐藤中将の場合、「豊貞」(笑)的な要素に加え、経歴に「堀悌」(笑)的な要素が多かったのも、その一因なのかなと、僕は勝手に推測しています。

ソースはたしか、大井篤大佐か高木惣吉少将がされた人物評だったと思いますが、どこで見たのかは申し訳ありませんが失念してしまいました。もし思い出したらまた書き込ませていただきます。

僕も失礼ながらプロフを拝見させていただきました。

タイのクーデターには、僕も前から興味を持っております。

特に国王陛下の存在が、あたかもギリシャ演劇の「エクス・デウス・マキナ」のようであるところに、「そそられるもの」(笑)がありますね。

僕も「おじゃる丸贔屓」でございます。一つ今後ともよしなに。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

戦史研究室 更新情報

戦史研究室のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。