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ひとりで呟きたい時コミュのlose balance

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『今の状態は、水がギリギリまで入ったバケツのようなもの』



『自覚症状がない事が、逆に怖い』



『いつ、なにかしらの症状として出てもおかしくない』




普通にご飯が食べれなくなってもうすぐ一か月。


とはいえ、食べれるっちゃ食べれるので そこまで悲観的になるものでもないのですが。




身体のバランスがメタメタになっていて、その原因がストレスらしいのだけれど


自分に感じる色々なものに えらく鈍くなってしまってるので よくわかりません。




これが他の家族でなくてよかった と素直に思えた事が嬉しいので


悪い事ばかりなわけでもないかな。




まぁ、つまりはなにかしらを溜め込んでいる となると


4年前の事から出していけばいいのかなと 安易に思いついて


そこからの事柄も 1年経ったので、ぽろぽろ書いてみようかな と至りました。



ある程度、症状緩和しとかないと 年末に友達とはしゃぐのもままならないので



これで多少なり ましになったらいいな と 思っています。



えーと、はじまりは そうだな





父から笑いながら 「がんだった」 と言われたところから かな

コメント(25)




その当時、私と妹、私の兄と妹の仲がとても悪くて。



私は、妹とは10数年、会話の一つもなく。



とある出来事をきっかけに兄と妹は完全に仲たがいになり、ある意味で、家族がバラバラの状態で。



結果、二人は家を出ていきました。





兄から 「全部押し付けて悪いな」 と謝られた時。


もっと、自分がうまく立ち回れば、なんとかなったんじゃないかと。


自分のふがいなさに、嫌気がさしていました。






それからほどなくして、父が、『食べ物が飲み込みづらい』と訴えはじめました。


最初は風邪か何かで、喉が腫れているのだろうと思っていましたが。


時間が経っても、治らず。


定年退職して時間もあるから という事で、嫌々ながら病院へ。






そして、何度目かの検査の結果、食道がんと診断されました。






両親と、私と、診察室ではっきりと、医者にそう言われた時。


理解ができても、実感がまったく湧かず。


ただただ、診断結果を聞かされ続けました。






父と母は、自分の長男の夫婦と初孫、そして娘が家を出て行った上に。


がん という、テレビの中の出来事みたいな、病気が降りかかってきて。


どんな思いだったのか、私には計り知れません。


自分で、自分自身、どれだけショックを受けているのか、わからない程度でしたから。







たたみかけるように なんで うちが こんなふうに なったのか、わけもわからず。


心も追い付かず。


それでも回る頭は、自分に、やるべきことを、叩き付けました。





これ以上、父に、母に、つらい思いを、させ続けるわけには いかない。






そこからは食道がんの事、治療の事、手術の事、調べられるだけ、調べました。



調べては、学んでは、がんという病の重さを、目の当たりにして。






だからこそ、父の状態を知っておかなくてはならなりませんでした。






だけどそれを、そのまま、父と母と一緒に、聞いていくなんて事はしたくなくて。


医者にお願いをしました。





「きつい内容は。 俺だけに話してほしい」





それからは診察を受ける毎に、


これからはこうして、こういう治療をするから という、方針や、回復への道しるべを、両親と一緒に聞いて。


私は一人残って、現在の進行状況、そして、治療の効果の程、これからの可能性を。


受け止めていく事にしました。


知らせない事こそ残酷でひどい、裏切りだと、思う人もいるかもしれませんが。



それ以外に、少しでも、父と母につらい思いをさせないようにする方法を、思いつかなかったのです。








何の話をしていたの? と聞かれる度に。


こうしたらもっと身体にいい。 こういう事をしてもいいのかな?


そんなことを話していた と。


両親に、ワラッテ、ごまかして。




心がみしみしと、きしんで、悲鳴を上げては、そんな自分を無視し続けました。







元々、私は精神的に強くなく。 威勢よく、生きていくタイプではなく。


結果、気づいたら私は、相棒のロードスターをはけ口にしてしまっていました。




壊しては、直して、そんな事の繰り返しで。


そんなだから友達に、何かあった というのがバレバレで。


だからと言って、全てをぶちまけるほど、強くなくて。


痛みを、重みを、押し付けたくなくて。



色々な思いを、溜め込み続けました









精神的に強くもない私が、こういう事を続けていけたのは



何も聞かず、ただ一緒に遊んで、ストレスの発散させてくれていた友達の存在と。










私の人生において初めてした、本当の意味での 恋というもののおかげでした。









まぁ、本当の――っていうのは、自分にとって、ということなので



あまり深読みして欲しくはないのだけれど。



中学生時代という、思い出したくもない(今は思い出そうとしても思い出せないが)嫌な時期から


『友人・知人・知らない人で、異性を異性として見ることは悪い事』


と、なぜか思い込んできた私にとってそれは


昔からの価値観がゆらぐような事で。


はじめて人に対して、言い方は悪いかもしれないけれど、独占欲というものが生まれた。


自分にとって衝撃的な事でした。


それはダメだと、葛藤して、そんな新鮮な刺激もあったから。



おかげで、家族の事、がんの事だけに思いつめすぎて、自滅する事がなかったのだと、今では思います。





色んな人に支えてもらいながら。


時は過ぎて。




いくつもの検査、事前準備は進んでゆき。





手術は、決まり。




家族・兄弟・親族、揃う中、それは行われました。











『右開胸開腹 食道亜全摘』




手術時間は6時間を超えて


術式内容をおおまかに聞いていた私は、時間が進むごとに


切り刻まれていく父の姿を、勝手に想像して


…今でも、その時の自分の感情はどういうものだったのか わかりません。



ただ、そんな自分が家族にバレて、心配されないか が気になって



くだらないような事をしていたと 思います。





無事に、手術は成功して



兄や、妹や、母が、麻酔で眠りながらも、声に反応する父に近づいて


手術は成功した、生きていてよかった、無事でよかった。


そんな、兄や、妹や、母の声こそ、聴かせてあげたいと。



一つ二つ、声をかけてから、少し下がって、それを見ていました。






それから少しして、主治医が姿を見せました。


切除、摘出したがんがどういうものであったか、そういう説明をするために。


私は一人で聞くつもりでしたが、兄もついてきてくれました。





袋に入れられた、もともと父の身体の中にあった一部を見せながら。


先生は話を続けていきました。





事前に想定されていた事、先生が前から話していた、可能性の話


多少なり詰め込んでいた知識が、私に理解させました。。








がん細胞は、固有筋層を抜けて、外膜にまで浸潤。








父のがんは、想定していた中で、そうあってくれなければいいのに、と


願い続けていたところにまで、進行していて。


そしてそれが何を意味しているのか





5年生存率は







―― なんて事、家族の誰かが、知る必要なんてない



『これからする事は、変わらないのだから』と





自分で勝手に判断して、勝手に、自分の胸に収めました。


自分勝手で、本当に、申し訳ないけれど。


知りながら、安心させるために、笑う事がどういうものなのか。


わかっていたから。







そんな事、誰にもさせたくなくて。





一人勝手に、家族を裏切りました。




今でも、あの時した決断は、よかったのか、悪かったのか。



独りよがりであったのは、間違いないのだけれど。



答えは出ていません。




ただ、何か月か前、何かの拍子にこういう話になって。


私が色んな事を隠していた事もバレて。


隠していた事に感謝の言葉を聞いた時は、少しは救われたかな。







さて、手術、退院してからは、また別のものとの戦いがありました。


胃管になったことで変わる生活と


がん転移の可能性。




携帯でき、かつ素早く摂取できる糖分。


飲み込みやすい、栄養豊富なもの。


など。




調べては、片っ端から、やりすぎないように時間をかけて。


自分自身に試して、提案して。


漢方薬にも手を出したりして。





母の作ったごはんを、おいしそうに食べる父を見て。


時々でも、帰ってくるようになった兄や妹と、姪、甥と話をする父を見て。




少しずつ、元気になっていく父を見て。





そのまま、ずっと、続いていく と。


信じていて。



願い続けて。














片側の反回神経が麻痺して。











がんの転移が、見つかりました。



そこからは、段階的にしか覚えていません。



でも要所要所が、今でも、まるで昨日の事のように。



…どう表現したらいいのかな? 昨日の事のように。









一度、放射線治療を行った場合、もう、同じ個所を照射する事はできない。



抗がん剤では、進行を遅らせる事しかできない。



なす術もなく、できることはなく。


ただ、進んでいく事を、見ていくことしかできない。


死に向かっていく父を、ただ、見ているだけしかできない。





そしてある日、ある治療法を父に提案した日。


何月何日だとか、どういう日だったとか、そんなものはもう覚えていない。


その日。



父に、命を諦めさせてしまいました。








延命治療はしたくない。


ただ、痛いだけの後は過ごしたくない。


もう、治ったと思って、またがんが見つかるのは、つらい。



そして選択されたのは、ペインコントロールで。







色々、手を尽くしてくれたのに


がんばってくれたのに



ごめんねと 謝られました。
















俺は何もできなかったのに!!




それからは、ただいつものように日々を過ごしました。



時々、庭をいじる父。


ご飯を食べる父。




少しずつ、外へ出られなくなっていく父。


少しずつ、ご飯が食べれなくなっていく父。





会話が、少しずつなくなっていく父。


眠っている時間が多くなっていく父。





眠っている時と、起きている時の境目が、少しずつ、なくなっていく。


薬を、飲んでくれなくなっていく。


水分すら、受け付けなくなっていく。







家の中をさまよっては、倒れる父。


駆けつけると、意識もあまりないはずなのに かすれた声で ごめんね と、つぶやいて。


謝る必要なんてないよと、言って


抱きとめた時の、抱き上げた時の あの細さが あの軽さが




あの重みが。







あの頃を、今でも母は



『少しずつ、お姉ちゃんのところへ行っているみたい』 と。

















ペインコントロールを担当してくれていた病院の、看護婦さんの声で


兄、妹、親族が集まりました。



たんを飲み込む事も、吐き出す事もできないので、時折、チューブで吸い取り。


それでも荒い呼吸音。


兄と、妹と、母は、父の枕元に。




母が頭をなでる。


妹が手を握り、声をかける。


兄が、反対側の手を握る。



私はそこから少し離れて、最期の足裏マッサージ



母の、兄の、妹の声を、少しでも多く、聞かせてあげたかった。


父と、少しでも長く、一緒にいてあげてほしかった。





私は、マッサージが終わっても、そこから動かなかった。


その役割は、あの三人にこそ、ふさわしいと思った。











呼吸が止まる。



声をかける。



再び戻る呼吸。




「もうつらいだけですから、いかせてあげてください」 と看護婦。




荒く、浅く、呼吸は続く。




突然、兄とおばが、玄関に。



玄関の扉が開いた音がした と二人。



私も含めて、ほかの誰も聞いていない音だったけれど。



確かに聞こえたと言っていました。







それからほどなくして













父は姉さんのところへ逝きました。



母が、ほほを摺り寄せました。


兄が涙をこぼしたのをはじめて見ました。


妹が父に抱き着いて、泣いていました。



私は、涙も出ず、声を、あげることもなく。









少しして、今この場にいない身内に連絡をとることになりました。


そこには母方の親族がいないので、母の弟、私にとっておじに連絡をすることになり。


私が電話をすることにしました。



母にはまだできないと思ったからです。



一人、庭にでて、母の携帯をつかって。


朝早くにも関わらず、コールしてから少しで、おじは出ました。





『もしもし あの 少し前に 父さんが 息を引き取りました』
「もしもし あの 少し前に 父さんが―――」




声が出ませんでした。


それを口にしたら。 口にしてしまったら。


口をしてしまったら どうなる?


何も変わらない。 現実は変わらない。 のに。




『父さんが 死にました』
「父さんが――」




どうしてもその先が、言えなくて。



それで悟ったおじが すぐに行くと 電話を切りました。







そこからはとんとんと話は進んでいきました。


通夜、葬式。 私たちで決める部分は、せいぜい花くらいなものでした。



父は、自分で自分の死後の段取りをすでに決めていましたから。






そして、火葬場で。


私は、火を点けるスイッチの前に。



その前日、家族の誰かが、それを押すか、火葬場の人に押してもらうか


決めなくてはならないと 話が出ました。


それは予想していた事で、そして




これだけは私がしなくてはいけないと思っていました。




火葬場の人に押させたら、私はきっと、その人を憎んでしまうし。


母や兄妹になんて、それこそありえません。


それに、父の姿が、まるでただ、眠っているだけのようで。


今にも起きて、声をかけてくれるんじゃないかと 信じてしまいそうで。


起きて、声をかけてほしいと、願ってしまうくらいに、そのままで。







そんな父を焼くなんて事を、させられるわけがありませんでした。







だから私は、決めていました。


憎むのは、自分でいいし。 苦しむのも、自分だけで十分だから。



他の誰にも押させない。










母が、身体を揺らし、泣いているのが視界の端に見えました。



兄は、妹は、どうしていたのでしょうか。




涙は 出ませんでした。









私は父を焼き













私の半分が、消えてなくなりました。







終わって、色んなものが抜け落ちて。



読んだ後、燃やしてほしいと言われていた遺書の事をぼんやりと反芻していました。



感謝の言葉と。


家族の事。


私に、自分らしく、元気に生きてほしいと、残されていました。



どこに何があるので、こうこうしてくれたらいいよ とか。


後の家の事が細々と書いてあって。


父らしいな、と、思いました。







ロードスターは、友達の車屋に渡しました。


売る ではなく、渡したかったのですが、お店の人達がお金を出し合って、渡してくれました。



絶対後悔するぞ と兄に言われました。



そういう出会いをした、一台で。



私の望むものすべてを備えた、夢の車で。




でも、父が遺したものを少しでも、のこしたかったし。


二台を維持するお金があるなら、家族の為に使いたい。


それに、きっと、このまま乗り続けたら




私もロードスターも、死んでしまうという確信がありました。




なんとも、まぁ・・・自分勝手なものばかりです。






後悔は、ありませんでした。


ただ、とても、寂しくて。






でもこれで、死ぬ事は許されない自分というモノを、生かし続ける覚悟ができました。





さっさと消えてなくなりたい。


死んではいけない。


もう何もしたくない。


働かなくては家族を守っていけない。



相反する心と頭がギリギリと締め付けてくる。




めんどくさい という言葉を使わないように、嫌うようになった。




失わないように、やれる事ならやる そんな風に染みついていて。



どれだけ惑っても、迷っても、世界は進んでいく。





生きていかなくちゃいけない。




そうしないと、家族を守れない。


家族を失う痛みを、もう母に味わわせるわけにはいかない


3人目にはなってはいけない。


色んなものが麻痺していって。


外部からの刺激に、鈍くなっていって。




この時くらいからかな? もしかしたら、もっと前かもしれないけれど。




私はEDになっていました。





でも、正直、そうであろうがなかろうが、どうでもよくて。


だって、働いてお金かせいで、家族を守る分には、必要ないものだったから。




他の物にたいしても、鈍くなっていて。



笑っているのに、楽しんでいるのに、そんな自分を、一歩遠くから見ている自分がいる。



そんな状態で。





それが便利で。





父の言う、私らしく生きてほしい というものから離れていたのだろうけれど。





とても都合がよかった。









そんな日々を過ごしていく中で、








私に、はじめての 彼女 というものができました。






ただ、のこされたものを守るために、生きていければいい。


それをするだけでも、私にとっては、大仕事なのだから。


他のものに自分の心を奪われてはいけない。


私ができることなど、ただそれだけでも、手に余るのだから。





そう結論付けていたのに、どうしてかな。






文字と、声でのやり取りがほとんどで。


実際に会ったのは、一度だけで、それも、数分程度で。


遠く離れた女性だったのだけれど。



なぜかな。




寂しいから、にしては。


それは、父が亡くなる前からの感情で。


辛いから、にしては。


友達と遊ぶ事で、かなり救われていて、それくらい、いいやつばかりで。


彼女である必要はなく。


ただの性欲?


これに対しては、真正面から違うと言い切れました。


だってEDになっても、変わらなかったし。







文字と、声のやり取りの中で、自分の中でゆっくりと育っていったものだったから。





色んな積み重ねで生まれた、答えのない答えだったのだと思います。








それからは、充実?というのかな。




死んで欠けたものが、ちょっとずつちょっとずつでも、確かに、埋まっていくような。


そんな感じで。





まだ、父が姉さんのところへいって、1年も経っていないのに。


和歌山までくらいでも、まだ後ろ髪ひかれるような状態だったあの頃に。



母を一人家を残して、外へ出る、飛行機に乗って会いに行く


ただ、会いたい と思って、自分の心そのままに、動く。




そんな行動に出れたのは、本当に、自分で自分に驚くくらいで。








あの当時の私が一番、自分で自分がわからない時期であったと思います。





会って、幻滅されるかも。 という本当に、なんていうのかな。


人らしい悩み、を持ちつつ。


飛行機を自分で予約して、乗る というのも初めてで。


ちょっとした大冒険、な感じで。




そんなこんなで、会いに行ったのはいいものの。


会って何をして遊ぶ、とか、どこへ行く、とか何も考えてないという大失態をおかしてしまいました。





あぁ、モンハンしたいな と思って、PSPを持って行っていました。





もちろん、どこでするの?って話なわけですが。


緊張と、うれしさとで、あっぷあっぷしていました。



そういう感情が、ダイレクトに響いたのは、すごく久しぶりで。






久しぶりすぎて、まったく、もう少し落ち着いて楽しめたらもっとよかったのに ね。



今度来る時は、もう少しまともに、エスコートできたらいいな なんて。



思って。














携帯に、祖母が倒れたと、母からメールがきました。


旅行はすごく久しぶりだから



それに、気分転換にもなるから



母の気遣いで、メールで来たその内容に。





私は やってしまった と、自分に対して、激しい憤りを感じていました。





まだ1年もたっていないのに。


祖母が倒れた時、自分はそばにもいず。


母を一人、家に残してしまっているこの状態に。






こんな時にそばにいなくて、何が家族を守るだ。






なんてものに頭を埋め尽くされて。


もう少し冷静になればいいのに








現地の友達に空港まで送ってもらおうと思い連絡したものの、一度かけて繋がらなかったので、


いつでも母からの連絡を受け取れるように しておかなくては と


携帯の電池残量を気にしてやめて(その時の携帯は一日とバッテリーがもたなかった)。





そこから誰にも、心配をされたくない という思いが一気に加速して。


結局、予約していた飛行機まで、はやる気持ちをもてあましながら






ただただ、やきもきするだけで











思い返してみると、本当に冷静に動けていないなぁ。




彼女もほっぽりだして。



何をしているんだか。




と今では思うのだけれど。






この当時は、父の事がフラッシュバックして、本当に




めちゃくちゃだったのです。





当時の祖父と祖母は、私にとって




敵でした。




術後、家に帰ってきた父を、大したこともないのに病院へ送らせるために電話してくる祖父。


父のがん転移が見つかり、気落ちしている母に「人はいずれ死ぬ」などと口走った祖母。



それまでも幾度となく、くだらない事で救急車を呼ぶ、父や母を呼びつける。


とある理由で、さほど孫扱いも受けていなかった私は、思い出も特になく。





ただ、血縁上に存在する、敵だと認識していました。





それでも、、後に、なぜあそこまでしてくれたのかと、親戚に疑問に思われるような事をしたのか


それは 母のためで。




普通に、接する事ができたのは。



恨みや怒りに振り回されるほど、私は自分に敏感ではなくなっていたからでした。






最初に倒れた祖母を見つけたのは、祖父でした。


自分はちょっと痛いだけで、救急車を呼ぶくせに。


倒れた祖母を見つけて、最初にしたのは、母に電話をして「どうしよう」と尋ねる



本当に、ふざけた行動でした。






脱水症状から、播種性血管内凝固症候群となり。


ボケもはじまっていたので、まともな話もできない祖母。


治療は、まず、血液からはじまり。


年齢が年齢ですから、ほぼ、寝たきりの状態で。




その間、ずっと気にかかっていたのは、母の状態でした。





祖母の病気の事や、もしよくなって退院してから とか そんなものは二の次で。


一年もたたず、また、近くの人間がいなくなる。


どれだけの負担をかけるのか。




それだけが心配で。




また、私自身も、傷口をさらにえぐられるようで。


それを隠すのに必死でした。



祖母は父の治療をしていた病院に搬送されていたものですから。


何所へ行っても、何をしても、あのころを思い出してしまって。



きっと 母もそうだったのだと思います。




祖母の容体はよくなっていかず。




胃栓を施すために、病院を移動したり。


…乳がんらしきものが見つかったり。



母の事、自分の古傷。 仕事の内容が変わっていたので、それに対応もしなくてはいけなくて。


あの当時は、気分転換に遊びに行くのも、ろくにできず。




休みもなく、ただ、母の負担を減らす事に思考を傾けていて。


境目がないので、本当に、日時の間隔がすっ飛んでいて。


とにかく、しなくてはいけないことを、乗り越えるだけに精一杯で。




そんな時、彼女から別れを提案されました。







まぁ、声をかけることも、メールをせず。


ずーっと放っていたのですから、自業自得な、当然の結果で。


ここから、何かをしてあげられるか?と問われれば、今の自分にはそれができないだろう と。



それを受け入れました。






色あせる っていうのは、ああいうのを言うのかな。


目を瞑って、何かをイメージしても、全てが白黒になったのは はじめての経験で。




苦しくて叫びたくなる とか 悲しくて泣きたくなる とか そういうのじゃなくて。


また、心の中が抜け落ちて。




まだ死ぬ事を許されない自分には、人を好きになるっていうのは 本当に危険だと、理解しました。





たとえ何があっても、気落ちしているようなところを、母に見せるわけにはいかないので。



私はまた、麻痺していく自分を、利用する事にしました。








ただ、あの頃の自分に戻ればいい。











お別れをしたことで、それはさほど難しい事ではなくなっていました。


いや、もしかしたら


そうする事で、あの頃に戻れたのかもしれません。









それはとても、その時の事柄にたいして、都合がよかったのでした。






胃栓をほどこすために行った病院で、祖母は亡くなりました。



血液の状態はよくはならず。



結局、胃栓はできませんでした。



亡くなる前。 母と叔父がいない時に、祖母の最後の言葉。





私と一緒に聞いていた親戚の人と、誰にも言わないよう、約束しました。





母や叔父に、言えるわけがない。 そんな 言葉でした。







追うように、今度は祖父でした。




老人ホームに入り、間もなく。


肺がんが見つかりました。


肺に水が溜まり、片方が固く、動かなくなり。


交代で、病院へ泊まり込み。


そして――






あっさりと書いてしまっていますが、本当に、なんというか。



私の中で、時間が要所要所まで、飛んでしまっていて。



怒りもあったからなのかな? お見舞いをしていた時は、そういうこともわからなくなっていたけれど。



それでも、ひどく、疲れた かな?





あの1年少しで 5人。 亡くなって。



私自身、お墓にもっていかなくちゃいけない話もいくつかできてしまったりして。





本当に、あっさりと、周りは変わってしまって。




あれから一年。



乗り切って。











決して、母より先に死なない。


家族を守れるように、うまくやっていけるように


がんばるから。




だから、父の約束を、終えたら。












もう











向こうにいかせてください。





――と、色々書いたけれども。


症状はよくなんねーなぁ(−w−;)悪化シテンジャネーノコレ


しいたけの菌植えつけた木とか、地植えしたブルーベリーとか。


こんなん書いてるより、そっち見てるほうがよっぽどいいんじゃねぇかなこれ(・▽・)庭に設置済み!





年末には妹も帰ってくるし。


年明け後の連休には兄夫婦と、姪と甥も来る予定だし。




お財布暖めとかないとな( ^w^)







こんな風に、時々帰ってきて、お話して( ・w・)うん


父の死というきっかけがないとなかったかもしれない( −w)なんて皮肉。




私が死んでもこうなるのなら、私が死ねばよかったのに って考えは、今でも変わらない( ・w・)



( ・w・)みんなが笑ってる  父に見てほしかったなぁ。








これからどうなるかわからないけれど(・w・)私のやることは変わらない。




(−w−)父との約束を守って守って  そして  向こうへいく。







別に悲観的になってるわけじゃないんだ(・w・)ヽ これが俺の、役割で、目標で、かなえたい夢なのだ







(・w・;)向こうで姉さんを筆頭に、説教くらいそうだけど さ














バカだなぁって(^w^)笑って、許してほしいなぁ








おしまい。






最近、また痛みが出るようになってきた。



治療初期に戻ってしまったようです。



原因はわかっているが 取り除けるものではなく。



困りものだ。





反面、治療中の今まで感じていた痛みを感じなくなってきた。



慣れた、ではなく、あまり感じれないところまできている といったほうが正しい。





これはヤバいですよと念を押されたものの、如何ともしようがなく。



週、二度三度、うまく時間が空いた時に通っていたが。



今週、仕事がヘビーになっていく予定なので、それも厳しい。









これは ちょっと まいったかな






ちょー 悪循環だ(−w−;)






あれはいつの事だったか。



何かしらの事があって、腹部のレントゲンをとった時のこと。



レントゲン写真と一緒に、医者からの説明




「先天的なものなのか後天的なものなのかはわかりませんが、

 この箇所が異形です」


と指し示された、大腸の一か所。



「今はまだ若いのでそこまで問題になりませんが。


 年をとってから、この箇所に―――の可能性があります」




(/▽/)はずかしーから伏せる




まぁ、簡単にいうと




年齢を重ねるほどに




内臓破裂か




がんが発生する可能性が、普通の人より高くなっていく ってわけで。





「これは 治療をするとか そういう問題ではありません」





つまりは、治したりできるものではない ということで。





母より後で、兄妹よりも先に、死ぬ事が理想なのだけれど これはその伏線のような。





うまくできてるもんだ。




あぁ でもあれだな。





痛いのはやだなぁ。



だーからもう 人の生き死にに関わりたくないってのに


あ〜あ…





ちくしょう
悲観して立ち止まることも

絶望して死ぬことも

まだ許されないと 思えるのだから まだがんばれるってことだわな

最近、ダービーハットを買って


友達の中で定着しつつあるのだけれど


これいいな


切り替えができる 色々な意味合いをもって



( ̄ー ̄)さぁ がんばろう


おかしいな


おかしいなぁ



また一人 逝ってしまった



進行はゆっくりな病気で



会った時も、まだ元気なほうで




お酒飲みたい とか



早く結婚せなあかん とか



色々いってたのになぁ





…いい人だったんだけどなぁ






なんだか乗りたくなって買った


いまいち評価のよくない ドッペルギャンガーの ミラージェン


ことのほか おもしろくて すっごい 疲れる



旅行とかいって これに乗るのも ありかなぁ




今週月曜日、お休みをとった。



ミラージェンのサドルを変えた。



整骨院へいった。



防犯登録をした。



湖を二周した。









筋委縮性側索硬化症で亡くなったおじさんに 手をあわせにいった。






新舞踊の先生をしている人の旦那さんで。



新舞踊の先生は、明るい人で。



あの時の母と、よく似ていました。




もう一度、話をするのもいいな と思っていたおじさんは。




病院で会った時と、遺影の姿は思いのほか違っていて。


どこもそんなもんなんだな と、すこしおかしくて。


本当に亡くなったんだなとあらためて実感した。




色々話をしていて。


母は「あの時」 こうも思ってたんだなぁ とあらためて知ったり。


自分ではよくわからないのだけれど



私は随分と、変わってしまっているらしい。



どこが?と少し気にはなったけれど、知ったところでどうでもいいので。


適当にお茶を濁して、雑談してきました。




先生は、これからも元気でいてほしいなと しみじみと 思いました。







<余談>


おじさんは、お見舞いにいってから少しして、ちょっとの間、家に戻っていたのだけれど。


その時、先生と、私と会った事の話もしていたらしく。





私のお見合い相手を探そうと目論んでいたとか(;−△ー)ワーオ





結婚しろ とえらくお説教されたなぁとは思っていたけれど まさかそんな話まで家でしていたとは。


したくない とは思わないけれど、したいとも思わないって 説明したのになぁ。








どうやら わたしは 死にたくないらしい




もう 家族や友達に 永遠に会えないようになることが ひどく さびしい




こんな窮屈な身体の中にいることがつらくて 早く 終わらせてほしい




2つが交互に 同じくらいに 強く頭をよぎって



でも、家族に苦しんでいる姿に気づかれるのがイヤで 声をあげることもできない









どうやら わたしは 死にたくないらしい


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