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暗黒聖骸血盟コミュの文学について語り合いましょう

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こんにちは、暗黒聖骸血盟でギターとかをしているものです。

音楽もいいですが、文学について話し合いませんか。

私はいま現在柄谷行人の『日本近代文学の起源』という本を読んでいます。

その主張の内容もさることながら、当時の雰囲気みたいなものが良いなあと思いました。

というのは、最近岸田秀の本も読んだのですが、柄谷行人の上に挙げた本と同じような感じを抱かされて、少し気付いたことがあったからです。どういうことかというと、1980年前後のニューアカブームの中で書かれた本は、独特の、どれだけ既成の概念を打ち砕けるかを競い合っているというような雰囲気が、読むものに爽快感をもたらしているのではないかと思ったのです。

実際、ニューアカブームの時に活躍した人たちの好んで使う文体というものがあるような気がしているのです。細かく調べたわけでは全然ないので、あまり確かなことは言えないのですが、例えば「○○は□□に過ぎない」「○○は△△に他ならない」等という言葉遣いです。○○というのは常日頃人々が普通に使っている既成の概念が入ることが多く、□□とか△△には、○○が否定しているところの前近代的な迷信であるとか、より素朴な概念が入ることが多いような気がします。そして、「〜〜ではないだろうか」みたいな提案型の言葉を使わず、ほとんど断定型で文が終わります。言い換えれば、攻撃的で切り捨てるような文体が、ニューアカブームを支えていたに「過ぎない」のではないでしょうか。

思えば本田透は、ニューアカを全否定する割には岸田秀を持ち上げたりしているし、文体は攻撃的だし、言ってることもまるで実証的でないし、実はニューアカの申し子に「他ならない」ということもできます。

ニューアカが実際、その後の若者達にいい影響を与えたのか、それとも悪い影響を与えたのかについてはわかりませんが、私としては若者が哲学書をこぞって読む、という時代は実は非常に恵まれた時代なんじゃないかと思うのです。何故か。

おそらくでかい本屋の学術書のコーナーの半分くらいは人文関係の本で埋まり、古本屋にも哲学の本が充実し(これは今も同じか)、大学の友達(もしくは大学時代の友達)もみなそれなりに現代思想なんかを読みかじって哲学の話や文学の話にふけるのです。で、当然需要が高まるのだからみすず書房の本の値段も下がっていく。他の出版社も最新の学術書を翻訳しまくり出版しまくる。偉い人が『マゾッホとサド』みたいな本を書くから、それまで全然注目されなかった作家の本も飛ぶように売れる。サドの著作集なんか、二回くらい出る(読むかどうかは別として)。

そんな社会にあってもっとも得をするのは、本当に哲学や文学が好きで、昔から高い本を買わされ続けて泣きを見てきた人たちなのであります。ですから、哲学や文学が復興するためには、当時の柄谷行人や浅田彰みたいなスターが必要なんじゃないでしょうか。しかし、現在の日本の論壇文壇ではそういう人を生み出せていません。ゆえに東浩紀はゼロアカをはじめるし、芥川賞が若いオネーチャンのところにいけば過剰に宣伝されまくるわけです。だが、そうした意図的な動きから生み出されるのはどういうスターなのか。それはアイドルなんじゃないでしょうか。アイドルとスターはどう違うのか。スターがしばしば人々のロールモデル、つまり真似っこの対象であるのに対し、アイドルは動物化したポスト・モダンにおける大衆の消費の対象でしかないのじゃないかと思います。ですから、これからどんなに色んな人がスター作りに躍起になったとしても、「川上未映子の本は買ったけど、著者近影で抜いただけだった。でも十回くらい抜けたからよかったよ」という人が増えるのみで、哲学も文学もろくすっぽ流行はしないのではないかと、私は予想しています。それに比べたら、ニューアカの時代なんてまるで理想郷のようですよね(学問そのものがポストモダンの流れに食い殺された事件だったと解することもできるのですが)。

さて、そのような世の中に生きながら、今時まだ本なんか読む奇特な青年達として、われわれは文学を語ってみるのもいいんじゃないかと思うのです。

必ずしも文学に限らず、読んだ本の感想を書き込んでオススメしあう、という形式を中心としながらも、現代なおも本を読む意義などの様々なテーマについても、思弁的に語り合えたらなあと思っています。よろしくお願いします。

コメント(3)

まず私から読んだ本を書かせていただこうかと思います。というか、誰も書き込む人がいなくても自分ひとりでも細々とやっていこうかと思います。そしてころあいをみはからってやめようかと思います。

最近読んだのは、大江健三郎の『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』です。これは短篇と中篇からなるのですが、彼の複数の性質のようなものが見えて面白い小説集だと思いました。

私は、初期の大江健三郎はいかにもな文学をやっていたと思います。これは単なる感触であり、何か批評めいたことを言おうというわけではありません。私が始めて大江健三郎の初期の短篇集を読んだとき、一人称の印象的な日本の純文学小説だという感じをうけました。とはいえはじめから気違いじみた人物たちが登場していたとも思いますが。

しかし障害を抱えた子供を持ったあとの彼は、だんだんファンタジー的な色を濃くしてゆくように思われます。自分の先祖や子供を通じてつながっているものを、彼は重要視しはじめたように思います。ここから長編小説においてはほとんど彼自身と思しき人間が主人公となり、彼の家族と思しき人物達が登場しはじめます。

それからさらに時代を下ったあとの小説は、私が読んだものは『宙返り』くらいですが、これはほとんどSFみたいなものではないかと思います。大江が頭の中で実験を行っているというような感じの小説でした。どの辺が区切りとなっているのかわかりませんが、例えば有名な『万延元年のフットボール』と、『宙返り』では大分作者の問題意識も変化しているように思います。前者は過去へ向かっていましたが、後者は明らかに未来に向かっていました。

さて、この本には、大げさに言って上の三つの大江健三郎の小説の様態が、全て含まれていたように思います。特に「走れ、走りつづけよ」「生け贄男は必要か」という二つの短篇には、「セブンティーン」などと同じく、後の阿部和重に大きく影響を与えた(と私には読めます)青年像が描かれていて面白いと思いました。三つ目のSF期(と便宜的に名付けます)を予感させるのは、「核時代の森の隠遁者」という短篇です。

そしてこの本の中でもっとも面白かったのは、大江がこだわり続けてきた家族のつながりのようなものを、最終的に否定して自分を自由な存在だとしたところです。それは小説の方法として、家族のつながりから開放された人間がいかに不安なのかを表現しただけかもしれません。しかし、私としてはそのような自由を肯定的にとらえないわけではありません。自分の生まれた土地や自分の家族に特別な意味を与え、言わば共同体的な制約を受け入れて、自分の人生を意味づけるという生き方を描く方法は、○○サーガ、みたいな感じで無批判に肯定的に受け入れられがちのような気がしますが、中上健次よりもはやくその方法を(インテリとしてやや図式的に)取り入れていた大江健三郎は、その良い面悪い面の両方を認識していたのだろうか、と考えました。もちろん中上健次もその両面を認識していたように思いますが、最近のサーガものは、サーガという形式自体が軽薄に流用されている感がぬぐえません。例えば阿部和重の小説には、大江や中上がこだわってきたのと同じような情念の深さを感じられません。阿部和重にとっては、サーガも一つの実験みたいなものなんだろうな、などと考えました。

とはいえ大江健三郎の小説を全部読んだわけでもなければ、フォークナーや中上健次の小説はほとんど読んだこともないし、確かなことは全くいえません。一個人の勝手な感想という感じで読んでいただけるとよいかと思います。
今更『動物化するポストモダン』を読みました。

昨今の『東方』一本やりのオタク情勢というものが、
東的ポストモダンの極地を体現している気がします。
東方ってだけでいいのかよ!・・・ああ、いいのかあ。ですよねー、みたいな。

反面、暗黒聖骸血盟の音楽たるや、
あまりにも前時代的な大きな物語を求めすぎているのかも・・・しれない。
だがこれでいいのだ、と言い切れる何かは持ち続けたいものです。
>まつなみさん

書き込みありがとうございます。といってもまつなみさんは周知のとおり暗黒聖骸血盟のメンバーなので、それ以外のかたから見ればわれわれが内輪で盛り上がっているだけ、という印象を抱かれてしまうかもしれませんが、今のところそれを否定できる積極的な証拠を提出することは私には不可能です。

「『東方』一本やりのオタク情勢」とのことですが、同人界に関しては私もこの表現があてはまらないということはないと思います。

実際にはオタクといえど今日では多種多様な好みを持っていて細かなクラスターを形成しているので、必ずしも東方一本やりと言い切ることはできないような状況にあるのではないかと私は考えています。

ではなぜ同人界がオタクの趣味趣向を忠実に物象化していないのか、という問題になるのですが、それは金儲け主義が同人誌即売会においては自明のことのように持ち込まれたという背景が存在しているからであるように私には見て取れます。同人誌即売会においては、お金を儲けることが当然に悪いことだとは捉えられていません。それどころか、売れ行きは基本的には同人作家の実力を示す指標だと捉えられています。同人誌即売会に完全には表現されない、オタクの趣味趣向の実情と推定されるものすら、消費文化的な金儲け主義に影響されているのは明らかなのですが、同人即売界とは違って未だにオタクは商業(=プロによる)漫画や商業(=プロによる)アニメに、昔の人であったら純文学にそれを求めたような哲学的あるいは実存的な問いを求めていて、その問いを発しているような作品である、ということ自体がオタクに金を使わせるための重要な一要因ともなりえます。逆に言えば、同人誌即売会においてはほとんど誰もそのような問いを求めていないように思います。アーティスティックな作品であれ、売るための十八禁パロディ本であれ、「生きることに関わる問い」ではお金を動かすに足りないのです。これがなぜなのか、いろいろと考えることはできそうですがここでは立ち入らないことにします。

以上のように考えれば、東方ブームというものは、消費文化の極北と捉えることもできます。行き着くところまでいってしまい、もはや東方とは何なのか定義することすらできない人間が東方のイメージを消費するわけです。意味論的な「生きることに関わる問い」あるいは作品のメッセージ性といったものが徹底的に忘却された地点においては、体験の強度が全てを決定します。強度のアンプリファイアとしてニコニコ動画を捉えるならば、ニコニコ動画と東方ブームの親和性が高いのは、なかなか象徴的なことではないかと思うのですが、どうでしょう。

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