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学校を創ろうRコミュのどんな学校がいい?

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とりあえず話さねばならないのはここからでしょう。
創るという観点から、
どんなものが創りたいか、
どうだったら「良い」学校か、
どんな理想か、
そういうものがあったら、書いて欲しいなと。

このトピックでは採算度外視です。

コメント(7)

ちょっと範囲が広すぎる印象を受けます。
ちっとばかり目的だとか手段だとかがかぶってしまいそうです。
そうですね、、、

1,役割、理想、理念
2,学校の種類、形態
3,その他

あたりで如何か?

例えば、私の場合は、、、、、

1,勉強不足からあえて具体的なものをえらびませんが、
 私自身が考える役割としては
「将来幸福を得るために必要な知識及び技術の提供」であり、
 結果的に
「その地域の広義での発展に対して貢献しうる人材の育成」でしょうか。
 なお、その地域とは明確に自由の欠如が存在する地域です。
 また、何処で行うか、何の自由が欠如しているのか、
 あるいは何が求められているのか、等の状況によって、
 この文章にある抽象的な表現に具体性をあたえます。
2,誤解を恐れずに書くならば、
 私自身が望む特定の形態はありません。
 しかしながら、「その地域の欠如を取り除きうる
 影響力を持つような学校」であれば良いと思っています。
 もし、その地域において
 単に初等教育のための施設のみが欠如しているのであれば、
 私は小学校を作ることを望みます。
 しかしながら多くの場合において、
 その欠如のみではありません。
 カンボジアにおける教育者の欠如が好例でしょう。
 ポル・ポト政権下におけるインテリ層の虐殺が
 現在における教育者の欠如を招いていることは
 多くの人々が知っている事実です。
 そして現状において学校という施設のみではなく、
 教育者の育成が急務であることは明白です。
 その限りにおいて、
 例えばもしカンボジアという地域で、学校をつくることを望んだとすれば
 私は単なる学校建設ではなく、
 むしろ教育者の育成機関をつくるべきだと考えます。
 誤解を恐れず書くとすれば、
 恵まれない子どものための学校とは極めて寄付されやすいものであり、
 また、結果的に学校という施設は善意と寄付金によって建設されるでしょう。
 しかし、教育者育成機関はそうではありません。
 多くの場合において国家の自力による設立が当然であるとされます。
 もしくは、寄付ではなく、国家間の援助によるものが多くなります。
 しかしその場合、一般の寄付は少ないものです。
 また、国家間の援助とは現実的には
 国家そのものの欠如を取り除きうるほど大量であることは少なく、
 持続的でないこともあります。
 東南アジアの場合援助する側の中心は日本であり中国でしょう。
 しかし、それらの国々はなぜか極めて援助が得意ではないようです。
 戦略が苦手といっても良いでしょうか。
 近年、日本の援助について見直しがなされているようですが、
 私は日本人としての根本的な考え方と戦略のとり方を変えない限り、
 援助は有効な手段となり得ないと考えます。
 しかし、我々のとる手段は援助でもなければ、支援でもありません。
 ましてや寄付なんて手段はとることはないでしょう。
 我々はより企業に近く、より私立の学校に近く、
 運営を行っていくでしょう。
 そして、同時に我々は持続可能性の重要さについて理解しています。
 戦略についてもです。
 その限りにおいて我々は我々は子どものための学校であっても、
 教育者育成機関であっても運営が可能であると思っています。
 そしてそうであるならば、
 また我々が本気で欠如を取り除くために学校をつくるのであれば、
 我々は「より困難であり、
 より欠如を取り除くための影響力がある
 教育者の育成機関をつくる」べきであり、
 つくることを私自身望みます。
3,前述のとおり、
 私は「組織とは持続的でなければならない」と考えます。
 そして、寄付と善意は有効であり、大きな力を持ちますが、
 決して持続的ではないと信じています。
 我々がこの計画に持続可能性を与えるには、
 金銭的余裕、コストに対応する収入が必要であると考えます。
 全ての勤めている有能な人が十分な給料も得ずに
 満足し続けることは困難です。
 また、欠如を取り除きたいと考える組織が、
 そのようなことをするべきではありません。
 であるならば、我々は確かな収入を得るための戦略を考えていくべきであり、
 結果的に持続可能性をもつ組織となるべきだと考えます。


……うわっ馬鹿みたいにナゲェ!
ごめんね。
むかついたら消してくださいなw
具体性にかけてますね。すいません。ちょっと勉強します。
トピックの立て方がよくなかったのは、申し訳ない。
このトピックの意図は、上記の1〜3のうちであれば、1について意見を聞かせてほしいということです。
種類、形態、規模といったところは、理想の実現のための手段にすぎないのであり、
持続的であることは考えねばならぬことはでありますが、
それは考えずに理想は何かということを聞きたいがために、
採算については考えないという、但し書きを付け加えた訳です。

上のコメントにあるような、
何処にどのような自由の欠如があると思うか、
(ただ、上のコメント内の自由という言葉の意味が理解できていません。もう少し説明をしていただきたい。)
そのためには何を提供しなくてはならないか、
という点についてならば考えやすいかと思いますので、
主にそのあたりについて意見を聞かせて欲しいと思います。
自由について、説明が不足していたようで申し訳ありません。
私の使用する自由の欠如とはアマルティア・センの用いる
「不自由」あるいは「自由の欠如」という言葉に
近い意味を持っているようにおもいます。
彼自身が言うところはおそらく、、、


貧困において問題となるのことは
何が欠如しているかではなく、どのような状況下で欠如しているかです。
また、モノの欠如ではなく、「モノを人が利用する際の自由の欠如」です。

それは「機会・決定・行動の自由の欠如」と
言い換えることができると思います。
(当然のことながら物的欠如についても重要ですが、
 それ以上にそれを生み出している可能性を持つ、社会制度的障害について、
 また、欠如の発生する仕組みについて理解することも重要なのです)


ということでしょう。
私自身は細かい定義は気にしない駄目人間なので、
よりテキトウな意味で用いています。
てか、まぁ言葉自体は正直どうでもよかですが、
意図としてはアマルティアセンに近いでしょう。
私は彼の影響を受けてますので。

で、例えば、
アフリカの場合は教育のための施設がもちろん欠如しています。
が同時に生活が極めて貧しいために、
また、国民に安定的な生活をおくってもらうための
社会的制度上の生活の自由の欠如のために、
教育を受けさせる自由が欠如しています。
こうみたときには私たちがやるべきことは、
子どもたちのための学校をつくることも重要ではありますが、
むしろ貧しい人々が極めて近い時間(五年以内)で、
生活の改善がなされるような教育機関の設置です。
それは例えば貧困層向けの起業家育成機関でもかまいませんし、
あるいは農業改善のための農業技術者養成機関でもかまいません。
ただし、これらは少し長期になるように思います。
また、よりよい影響力を持つ機関も考えられるでしょう。
そのため、まだ改善は必要ですが、
「欠如」についてみたときに我々は、
そのような判断をすることができます。

ちょっと横道にそれすぎました。
すいません。
で、何処にどのようなということですが、
それは極めて多くの国に欠如が存在しているというのが私の見解です。
なので、これとは言いがたいです。
しかし、私自身のいう欠如とはモノの欠如だけではない
と言うことだけ強調します。
物をおけば良いということではないということです。

ただ、開発論に走りすぎましたが、
絶対に直接的に貧困に対応しなければならないとは思っていません。
富裕層のインテリ層を相手にした起業家育成のための機関でもかまいません。
これには幾つかの点で問題がありますが、そこはまぁいいでしょう。
ただし、これらの根底には「幸福のための知識を与えることができる教育機関」である、
という考えがあってほしいです。
また、欲を言えば、我々が愉しまなければなりません。
私は楽しくなければ、やってられない、という駄目人間です。
したがって、変わった内容の試験を、平気で行うことで、
極めて優秀な人材を選別し、
彼らに偏った知識を与え、
彼らに「国の全てに利益を与えるだけの影響力を持たせる」ことができるような、
頭の悪く、私個人にとって極めて楽しい、学校であればなお良いです。
無論一例です。
あー駄目だ反省した。
こういう文章だから「お前のの文章教科書みたい」って教授に言われるんだ……。
ごめんなさいねぇ、みなさん。
ということで、意見を。言っておこうかと。

私が考える、補うべき「欠如」は、
「学べる人間が十分に学べる環境」であり

そのために学校が提供すべきものは、
「学びに制約の無い環境と、学びたい内容を学ぶ手段」と、考えています。

学べる人間というのは、学ぶ能力を有すると判断される人間です。
(生まれた人間はすべて学ぶ能力を有すると思っていますが、
実現に伴う制約のため、能力の判断のための入試は正当化されうると考えます)
学ぶ内容に関しては、いわゆる「学問」に限りません。
生きていくうえで必要なものは学校は教えるべきと考えていますが、
一般にどんなに不要と思われるものでも、生徒が望むならば、
それがどうして不要であると思われているかを示した上で
そのものの情報またはその情報を得る手段、機会を与えるような学校がよい学校だと考えています。
(私の個人的意見であり、同意は得られにくいとは思いますが、
知識はどんなものであれ、ないより有るほうがいいと考えています。)

「制約のない」というのは、現在の学校には制約があると感じているためにわざわざ加えています。
意味は固定観念を取り除くというのに近いものです。
例えば、人にあまり聞いたことは無いので、狭い意見ですが、
自分のところでは小中学校のときの自由研究や総合的な学習が
黙示的(または明示的)に分野が限定されていたわけです。
大人になって、なにか好きなこと調べて、
それで評価されるなら、何か調べたいことって皆何かしらあるんじゃないかと思うのに、
小中学生では、その制約によって、
調べることや知ることの楽しさ自体を理解させることが出来ていない、
というのが現在の学校に思うことなので、付けたわけです。

完全な自由を目指すわけではありません。
規則に従うことは、私の中では知識に含まれるので、学ばせる内容に含まれると考えてください。


という訳で、最初に書いた目的(欠如を補うということ)が達せられるような学校が
いい学校だと思ってます。

何処で、ということは書いてませんが、
ただ、今の国内の教育制度が(自分が過ごした限り)気に入らないというのが、
学校を創りたいという欲求のもとなので、国内の学校という想定で考えてください。
学ぶ機会が保障されていない地域では、望まれるのはもっと基本的なことでしょうが、
潜在的にこのような能力を有した学校であって欲しいと思います。

実現には、多々制約があると思いますが、自分の思う学校の理想はこんな感じです。

長くなるな。
ああ、そうか、そんな話を言っていたね。
なるほどね。
他の方はどんなイメージを持ってるんでしょう。
あるいはどんなんだったら良いんでしょう。
虚夢っち、魔女っちはどうでしょう?

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