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妖怪堂の京都魔界案内コミュの弁慶と牛若丸

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丸竹夷二押御池姉三六角蛸錦四綾仏高松万五條

何のことか、おわかりだろうか?
これは京都の通り名の唄である。
わたしには8歳の娘がいるが小学校でならったというのである。
京都の小学校では当たり前なのだ。

実はこの唄 少々疑問があった。
いわれてみればそうなのだけれど
通りの本数が微妙に違うのである。

一〜二条は間に 丸太町・竹屋町・夷川通の三本
二〜三条も三本 三〜四条も三本なのに
四〜五条は五本も通りがあるのだ。

これはもともと松原通が「松原五条通」だったわけだが
「松原通」と略され、五條通がなくなったのである。
平安京が造られる時には四〜五條の間も三本の通があったのだ。
後に 五條通がないのはオカシイということになって
六条坊門小路を改名して「五條通」が復活するのである。

しかしもともと五条通ではないところが五条通になったので矛盾が生じる。

現在の五条大橋に石像がある。
「弁慶と牛若丸」である。これは歌にもなっていたり
歌舞伎の演目「橋弁慶」がそれである。
日本人みんなが知っている「弁慶と牛若丸」の橋は ニセモノだったということだ!
観光客があそこへ行って写真を撮っているがそれでもいいのか?

では鴨川に掛かる松原の橋が本当の「弁慶と牛若丸」が戦った橋なのかというと
そうではないのだ。

松原通を烏丸を越え西へ行くと 西洞院通があり
松原西洞院に「五條天神社」がある。
以前 堀川の話をした際に 西洞院に川が流れていたというのを憶えておられるだろうか。

西洞院通は主要道路でもないのに道幅が結構広く クルマが対面通行できる幅があるが
これはもともと川と路があり 川が埋められて路になったので広いのである。

五條天神社は東向きになっているので この西洞院川を渡って社に入ることになり、
この川に掛けられた橋こそが 本来の「弁慶と牛若丸」が戦った橋である。

五條天神社には 鞍馬の由岐神社と同じ祭神が祀られているので
牛若丸は都にいるときは欠かさず毎日この神社に御参りしていたことになる。

ではどうして松原の橋に伝説がすげ替えられたのだろう。

これはまさしく平安時代の初期に観光ルートが設定されたことの証なのだ。

治水工事によって西洞院川がなくなり 橋もなくなった。
そこで同じ五條通の延長線上の鴨川の橋に 伝説が移行されたのである。
理由はそれだけではない。
「弁慶と牛若丸」が戦ったのは 二回だったのだ。

二回戦は何処かというと 清水の舞台なのだ。
清水寺へ行けば入り口に 弁慶が使った「鉄下駄や鉄の錫丈」がある。
これは 弁慶が牛若丸に敗れて家臣になることがここで決まったのである。

清水から一番近い橋が松原の橋なので ここに伝説が移行し
観光ルートが設定されたのだ。
これは松原通が 参道として商用目的として賑わってきた証なのでもある。

現在の五條に掛かる橋は 太閤秀吉が自らを奉る豊国神社に行くのに
回り道をして不便なので掛けられた橋なので 平安時代には存在しなかったことになる。

以上のことからもわかるように 「京都観光」は近年始まったものではなく
平安京ができあがった時点から始まったことになる。恐るべし京都。

牛若丸といえば 鞍馬天狗に武術を習ったことになるが、
この「天狗」については別項で独自の考えを解説することにしよう。


ちなみに 「BENNIE K」という女性2人のグループは 弁慶にちなんでネーミングされたらしい。







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