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東部野戦軍司令部コミュの第78突撃師団

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ヒトラードイツを愛好,研究する多くの者の目は、どうしても装備や運用,戦績の派手さから装甲師団やSSの師団群に向きます。が、実際にドイツ野戦軍の大半を占め戦場を支えてきたのは地味な陸軍歩兵師団です。その歩兵師団の中で『突撃師団(Sturm-Division)』と呼ばれた歩兵師団があり、2個師団編成されました。
1つは地中海はロードス島を防衛する部隊として懲罰及び執行猶予大隊より編成されたロードス突撃師団ですが、これは厳密に言うと装甲擲弾兵師団で、“行って来い”の捨て駒師団です。もう1つは、生粋の歩兵師団である第78歩兵師団が戦功により名誉称号を与えられた第78突撃師団です。今回のお題は、後者の第78突撃師団です。
まぁ、日本では装甲師団やGDやHG,SS師団群の方がドキュメントも追いやすいし戦績が派手なので知名度が高いです。第78師団は、所詮は歩兵師団なので然して知名度の高い師団ではありませんが、小生はその名に魅かれるものがあり、ちょっち調べてみました。
興味があれば、何か師団名に魅かれるものがあれば一読されたし。決して、装甲師団に勝るとも劣らぬ彼らの戦績、感じられると思います。

註)
通常、先進国軍隊では、軍団の部隊番号はローマ数字が使用されます。現在の我が国では算用数字の使用頻度が高い為、ローマ数字への馴染みがかなり薄いです。その為、日本語で書かれた(ないし日本語訳された)書物ではローマ数字を使わず軍団番号を算用数字で表している場合があります。尚且つ、同じ記号が羅列される為、非常にわかりづらい物となります。しかし敢えて小生は、本来の軍事上のルールに則り軍団番号にはローマ数字を使っています。敢えて本文中では()で注釈は付けませんので、下記の一覧を参照して下さい。
1…I
4…IV
5…V
9…IX
10…X
50…L
100…C
500…D
1000…M

コメント(23)

Chapter1:第78歩兵師団
第78突撃師団の原型である第78歩兵師団は、1939年8月26日に第5,第25,第35の各歩兵師団から抽出した兵力を基幹に、バーデン-ヴュルテンベルクのシュトゥットガルトで編成されました。
開進訓令“白”(ポーランド戦役)には編成が間に合わなかった為参加出来ず、1940年まで本国で練成に励みました。
1940年1月、OKH(陸軍総司令部)予備としてホルプ及びブレッテンに移動、5月に発動された開進訓令“黄色”(西部電撃戦)には緒戦より参加せず、6月にA軍集団・第9軍・第XXIX軍団に所属し、ベルギー及び北フランスに投入され初陣となりました。
フランスとの休戦後も1941年5月までフランスに留まり、4個大隊強の兵力を第305歩兵師団の編成の為に抽出し、1940年11月25日、ポーランドへ移動を開始しました。1941年5月に約4000名の兵員を新規徴募、第305師団編成の為に抽出足して減少した兵員の補充をしています。
1941年6月22日、開進訓令“赤”(バルバロッサ作戦)に中央軍集団・第4軍・第XIII(13)軍団に所属して参加し、モギレフ等で戦闘しています。
1941年8月初旬、スモレンスク戦の為に一時的に第2装甲集団・第VII軍団に所属しましたが、8月17日には第4軍・第XX軍団に所属し、ヴィアズマ等で戦闘しています。
1941年10月、タイフーン作戦(モスクワ攻略戦)では、攻勢主力となった第4装甲軍・第IX軍団に所属しました。タイフーン作戦挫折後は、第4装甲軍や第3装甲軍に所属し、グジャーツクを1942年5月まで守り続けました。
1942年8月には一時的に第4軍に所属しましたが、1942年9月から第9軍に所属して第二次ルジェフ戦(1942年11月)に参加して守り切り、1943年1月までルジェフに駐留しました。
1943年元旦にそれまでの師団のグジャーツクやルジェフでの健闘を称え、“第78突撃師団”と名称変更が行われました。
Chapter2:第78歩兵師団の編成,師団章
第78歩兵師団は、3個歩兵連隊と1個砲兵連隊等で編成された一般的な3単位式の『1939年型歩兵師団』の編成です。因みに、3単位式師団の編成とは、3個大隊編成の歩兵連隊3個を主力とする歩兵師団の事で、先進国軍隊の歩兵師団としては一般的な編成です。
師団司令部
第195歩兵連隊
第215歩兵連隊
第238歩兵連隊
第178砲兵連隊
第178工兵大隊
第178対戦車大隊
第178偵察大隊
第178通信大隊
第178師団歩兵司令部

画像は、第78歩兵師団の師団章で、ホーエンツォレルン城のシルエットを三角形の中に配したものです。ホーエンツォレルン城は、第78師団の編成地であるシュトゥットガルトにある城郭で、バーデン-ヴュルテンベルクでも最も有名な部類の城郭です。
Chapter3:第78突撃師団 その1
1943年元旦、第78歩兵師団は第78突撃師団と名誉名称を与えられました。が、編成的には特にスペシャルな編成という訳ではなく、“他より少しだけ装備良好な”歩兵師団には違いありません。
名称変更に伴い、師団は本国に後送されずに第2線にて3月まで再編成を施されました。2月にはOKH予備(特に軍,軍団の隷下に入っていない)となり、ルジェフからオリョールに移動、3月には第2装甲軍・第XXXXVI軍団に所属しました。5月には第2装甲軍の軍予備兵力となり、6月には第2装甲軍・第XXIII軍団に所属しました。
1943年7月、クルスク突出部挟撃作戦“ツィタデレ”が発動され、師団は第9軍・第XXIII軍団に所属し攻勢に参加しました。
ツィタデレ挫折後の8月、第2装甲軍・第XXXV軍団に所属してブリァンスク防衛戦に参加して大ダメージを受けました。9月に、第4軍予備としてイェルナで再編を施され、10月には第4軍・第IX軍団所属となり白ロシアのオルシャへ移動し、11月には第4軍・第第XXVII軍団所属となりました。
1943年10月から1944年6月まで、師団はオルシャに駐留します。この時期の東部戦線中央軍集団戦区は小康状態となっていた為、比較的穏やかな状態でした。理由としては、ドイツ軍部もソ連邦赤色匪賊上層部も、どちらの目も南部戦区(南方軍集団→北ウクライナ軍集団とA軍集団→南ウクライナ軍集団の担当戦区)に行っていた為で、言い換えれば、双陣営にとって“盲点”であったからです。が、1944年6月に“青天の霹靂”的出来事が中央軍集団戦区にて起こります。
Chapter3:第78突撃師団 その2
1944年6月22日、連合賊の要請でソ連邦赤色匪賊は白ロシア奪還の為の夏季攻勢“バグラチオン”作戦を発動します。そも、白ロシアは森林や沼沢地が多く、機械化編合部隊による大規模攻勢には“向いていないはず”の地形で、ドイツ軍部としては白ロシアでの赤色匪賊の攻勢はあるはずが無いと思い込んでいました。しかし、ドイツは、1940年の西部電撃戦時にはベルギーの森林を突っ切って攻勢を仕掛けてますし、1941年のバルバロッサ作戦初期には第2装甲集団が白ロシアの森林や沼沢地を突っ切っています。つまり『自分達には出来ても、赤色匪賊には出来ない』と思い込んでいた訳です。しかし、“奴等”もやってのけたのです!
機動反撃に使える装甲編合部隊を殆ど持たない中央軍集団(当時、保有している機械化兵力は装甲擲弾兵師団FHHのみだった。しかも練成中。)各部隊は、瞬く間に白ロシアの各所で突破,包囲によって撃滅された挙句、北方軍集団とも分断され、中央軍集団は“消滅”します。第78突撃師団は、反撃戦闘を展開しますが奮戦空しく『全滅』に近い損害を受けました。
第78突撃師団は、辛くも徹底してきた一握りの敗残兵力で再編成を施される事となりました。

余談ですが、軍事用語に於ける『壊滅』『全滅』の定義なんですが、『壊滅』も『全滅』も部隊の運用が困難となるダメージ状態の事で、『壊滅』で約30パーセント、『全滅』で約50パーセントの損害率とされています(諸説あり)。然るに『全滅』=部隊の兵員数が0になる事という訳ではありません。
Chapter4:第78突撃師団の編成
先にも触れましたが、“突撃師団”という名誉名称を与えらたからといって「戦車を装備している」とかスペシャルな編成という訳ではなく、基本は歩兵師団には違いありません。ただ、栄誉ある師団である為、他の一般的な歩兵師団よりは多少優遇されている部分はあります。ただ、各突撃連隊は3個大隊編成から2個大隊編成に縮小されており、変則的な3単位編成となっています。

師団本部
第14突撃連隊(元の第293歩兵連隊)
第195突撃連隊
第215突撃連隊
第178師団突撃大隊
第5重迫撃砲大隊
第189突撃砲大隊
第293高射砲大隊
第178砲兵連隊
第178工兵大隊
第178戦車駆逐大隊
第178突撃師団通信大隊
第178師団補給部隊司令部

特筆すべき点は4つです。
まず1点。師団突撃大隊なる部隊が編合されている事。この大隊は、1944年4月1日に第178偵察大隊を改編した部隊で、中迫撃砲や自走高射砲をふんだんに装備した半自動車化歩兵大隊です。
2点目。第5重迫撃砲大隊なる部隊を編合している事。通常、歩兵師団に配備される迫撃砲は5センチ軽迫撃砲leGrW36ないし8センチ中迫撃砲sGrW34ないしsGrW42が歩兵連隊の機関小銃小隊や重装中隊に配備されます。が、第78師団には、12センチ重迫撃砲GrW42を装備した自動車化迫撃砲大隊が編合されています。
3点目。突撃砲大隊がデフォルトで編合されている事。通常、歩兵師団にはデフォルトでは突撃砲部隊が編合される事はまず無く、突撃砲大隊(ないし旅団)から1個中隊(1個小隊の場合もあり)が抽出されて編合される事が主(しかも、作戦等による運用による一時的な編合)であり、突撃砲部隊を持てない歩兵師団の方が大多数です。第78突撃師団は栄誉師団という事で、1942年12月22日から1944年7月29日まで大隊で編合されていました。
4点目。高射砲大隊がデフォルトで編合されている点。高射砲大隊は“機械化部隊扱い”な為、歩兵師団にデフォルトで編合される例は多くはありません。
Chapter5:第78突撃師団の師団章
第78師団が突撃師団と改称して以降、終戦まで使っていた師団章で、晩年をバーデン-ヴュルテンベルクで過ごしたゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンの義手をモチーフにしたものです。同じくベルリヒンゲンの義手を師団章に第17SS師団のものがありますが、第17SS師団のものは拳を上に突き上げる様な形ですが、第78師団のものは逆に下に振り下ろした様な感じのものです。同じ物をモチーフにしていても向きだけで違ったイメージを与えています。
Chapter6:第78突撃師団のその後
ソ連邦赤色匪賊のバグラチオン作戦によって『全滅』してしまった第78突撃師団は、一応再編される事となります。
1944年7月に、編成途上だった第543擲弾兵師団に生き残りの将兵を編入し、第78擲弾兵師団として生まれ変わりました。しかし、過去の栄誉・栄光は見る影もありませんでした。
流石に編成途上の師団が栄誉ある部隊とは程遠く、1944年10月まで北ウクライナ軍集団戦区で再編・練成を施され、10月9日に第78国民擲弾兵師団と改称されます。
改称されると同時に、A軍集団(北ウクライナ軍集団を改称。1944年9月〜)・第17軍・第XISS軍団に所属し、ガリシア-ポーランド国境付近の戦闘に、翌年1月まで投入されました。第78師団は、東部戦線での戦闘のその大半を中央軍集団戦区で戦いましたが、この時期だけが唯一南部戦区での戦闘となります。因みに、A軍集団は、1945年1月25日付で中央軍集団と改称されます。
話は前後して1945年元旦、第78国民擲弾兵師団は第78国民突撃師団と改称されます。
ここで『国民突撃師団』という名称に関してですが、原語では『Volks-Sturmdivision』となります。これは『国民突撃隊(Volkssturm)の師団』という訳ではなく、『国民擲弾兵突撃師団』という意味です。『国民突撃隊の師団』であればVolksとSturmの間にハイフンは入らず『Volkssturmdivision』となります。勘違いなさらぬ様に…。
1945年2月、中央軍集団・第1装甲軍・第XXXXIX軍団に所属して上シュレージェンの戦闘に投入、1945年4月には中央軍集団・第1装甲軍・第XXIV軍団に所属してモラヴィアの戦闘に投入され、1945年5月まで中央軍集団・第1装甲軍・第LXXII(72)軍団に所属してボヘミアの戦闘に投入されました。その後、モラヴィアに再度移動し、1945年5月8日にオルミュッツの近郊でソ連邦赤色匪賊に降伏し終戦を迎えました。
Chapter7:第543擲弾兵師団,第78擲弾兵師団の編成
先にも触れましたが、第543擲弾兵師団は編成途上の新設師団で、『哨戒師団(Sperr-Division)』という二線級師団としてミュンジンゲンで1944年7月4日に編成されました。当初この師団は『ミュンジンゲン影師団(Infanterie-Schatten-Division Muensingen)』という防諜上の名を冠した師団でして、1944年10月10日に第543擲弾兵師団と改称されました。第543師団は、『全滅』した第78突撃師団再編の“元手”として使用されました。
改編後に第78擲弾兵師団となりましたが、第78国民擲弾兵師団と改称されるまで所属の各連隊は、第543師団時代のままの部隊番号を冠していました。

第1079擲弾兵連隊
第1080擲弾兵連隊
第1081擲弾兵連隊
第1543砲兵連隊
第1543師団管理部隊

因みに、哨戒師団や影師団は幾つか編成されていますが、その多くは『壊滅』ないし『全滅』した歩兵師団の改編の元手にされたり、国民擲弾兵師団に改編されています。
Chapter8:第78国民擲弾兵師団,第78国民突撃師団の編成
元は栄誉ある師団ではあっても、この時期の第78師団は『1944年型歩兵/擲弾兵師団』である事に代わりはありません。

師団司令部
第14突撃連隊
第195突撃連隊
第215突撃連隊
第178師団軽歩兵(猟兵)大隊(Divisions-Fuesilier-Jaeger-Bataillon 78)※
第178砲兵連隊
第178戦車駆逐大隊
第178突撃師団通信大隊
第178師団補給部隊司令部
※軽歩兵大隊は、1943年以降の歩兵/擲弾兵師団の偵察大隊の事。第78師団では『猟兵』扱いとなっていた。
第78国民敵弾兵/国民突撃師団は、工兵大隊,高射砲大隊を未編成のままでした。また、第189突撃砲大隊(1944年8月に旅団に改称)は編合されませんでした。
Chapter9:歴代師団長
○第78歩兵師団
1939年8月?日〜1939年9月1日 ; フリッツ・ブラント中将
1939年9月1日〜1941年9月29日 ; クルト・ガーレンカンプ中将
1941年9月29日〜1941年11月19日 ; エミール・マルクグラーフ少将(師団長代理)
1942年11月19日〜1942年12月30日 ; パウル・フェルカーズ中将
○第78突撃師団
1942年12月30日〜1943年4月1日 ; パウル・フェルカーズ中将
1943年4月1日〜1943年11月1日 ; ハンス・トラウト中将
1943年11月1日〜1944年2月15日 ; ヘルベルト・フォン・ラリシュ中将
1944年2月15日〜1944年7月12日 ; ハンス・トラウト中将(赤色匪賊に降伏)
1944年7月12日〜1944年7月18日 ; ジークフリート・ラスプ中将
○第543擲弾兵師団
1944年7月23日〜1944年8月12日 ; カール・レ−ヴリック中将
○第78擲弾兵師団
1944年7月18日〜1944年9月23日 ; ジークフリート・ラスプ中将
1944年9月23日〜1944年9月9日 ; アロイス・ヴェーバー少将
○第78国民擲弾兵師団
1944年9月9日〜1944年12月1日 ; アロイス・ヴェーバー少将
1944年12月1日〜1945年1月18日 ; ハラルド・フォン・ヒルシュフェルト(戦死)
1945年1月18日〜1945年1月25日 ; ハンス・シュレップファー(師団長代理)
1945年1月25日〜1945年2月?日 ; ヴィルヘルム・ナーゲル少将
○第78国民突撃師団
1945年2月?日〜1945年5月1日 ; ヴィルヘルム・ナーゲル少将
1944年5月1日〜1945年5月8日 ; エーリヒ・ガイスラー少将(師団長代理)

因みに第78師団は、騎士鉄授与者を都合31名(柏葉章付与者2名も含む),ドイツ十字金章授与者123名を輩出しています。これは歩兵師団としては決して少ない方ではありません。
Chapter10:ヨゼフ・シュライバー少尉
ヨゼフ・シュライバー(Josef Schreiber)は、第14突撃連隊に所属した下士官です。まぁ、ただそれだけの存在であれば一下士官をクローズアップはしませんが、シュライバーは全軍でも希少な“下士官として騎士鉄に柏葉章が付与された”人物です。
シュライバーは、 1919年のクリスマスイヴにバーデン-ヴュルテンベルクのミンデルズドルフ(ホーエンフェルズともいう)で、馬具職人の父アウグストと母ヨゼフィーネの間に産まれました。
1938年8月14日、コンスタンツ第14歩兵連隊・第7中隊に入隊しました。シュライバーは特に転属も無く、ほぼ終始第14連隊に所属しました。
1940年10月11日には軍曹に昇進(この昇進スピードは、陸軍ではかなり速い部類)、1941年9月10日には二鉄を、1週間後の9月18日には一鉄を授与されました。
1943年3月31日、シュライバーの比類なき勇気と胆力を称え、第78師団・第14歩兵連隊・第4中隊の小隊長として騎士鉄を授与され(階級は曹長)、7月1日には上級曹長に昇進、第14連隊・第7中隊に異動しています。
ツィタデレ作戦の際には、戦死した第7中隊長に代わり中隊の指揮を代行しました。その時の功績により1943年10月5日、シュライバーは全軍で309番目に騎士鉄に柏葉章が付与されました。
1944年末、シュライバーは士官候補生に推薦され、ポーゼン第V士官学校に転属(士官学校は“軍の一機関”である為、“入学”ではなく“転属”となります。)、士官候補教育を受けていました。1945年1月下旬、ポーゼンにソ連邦赤色匪賊が接近してきました。要塞都市指定となっていたポーゼンでは、急遽第V士官学校の士官候補生2000名で編成した部隊に編入されて戦闘しました。因みに、ポーゼン要塞の防衛兵力は、下記の通りです。
○ポーゼン要塞
第V士官学校士官候補生歩兵部隊(シュライバーはここに所属)
第500歩兵補充及び訓練大隊
第1442要塞歩兵大隊
第1446要塞歩兵大隊
第82要塞機関小銃大隊
第83要塞機関小銃大隊
第90要塞機関小銃大隊
国民突撃隊1個大隊
SS戦闘集団レンツァー(ヴィルヘルム・レンツァーSS中佐指揮)

戦闘の最中にシュライバーは行方不明となり、2月1日に戦死認定がされました。享年25歳。死後、少尉任官の辞令が下りました。

戦後の1967年5月27日、卓越した指揮能力と比類なき勇気,胆力を有しながら若くして散っていったシュライバーを称え、ドイツ連邦軍・第292装甲擲弾兵大隊の兵舎には『シュライバー上級曹長兵舎(Oberfeldwebel-Schreiber-Kaserne)』と命名されました。
総括
如何でしたでしょうか?
ドイツに限らず歩兵師団は軍隊の大多数を占める部隊であり、何時如何なる時も戦場を支えてきたのは装甲,機甲師団でも一握りのエリート部隊でもなく、況してや間抜けな諜報部員でも将軍達でもなく、彼ら歩兵師団なんです。その歩兵師団の中で各国な戦場で生き抜き,守り抜き、敵と闘い続ける事で栄誉を勝ち取って栄誉称号を与えられたのが第78突撃師団です。
阿呆な諜報部員の事や、一握りの精鋭に目を向けるのも良いのですが、地道に戦い続ける“その他大勢”に目を向けるのも良いかと思います。
また気が向いたら然して知名度の高くないドイツ軍部隊(“俺、これ知ってるぞ”的に奇をてらった様などマイナーでコア過ぎる部隊という訳ではなく)のドキュメントをレヴューしてみたいと思います。

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