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飛騨*美濃*尾張∞火と水の調和コミュの中将姫の美濃逃亡譚 〜願成寺の誓願桜と當麻曼荼羅

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中将姫といえば、奈良県葛城市の二上山東麓にある當麻寺(当麻寺・たいまでら)。
當麻寺といえば、中将姫伝説と姫が織り上げた當麻曼荼羅。
しかし、美濃には中将姫の逃亡譚とそのとき植えられた誓願桜があり、そこで織り上げた曼荼羅が今は尾張にあることを、この地元ですらほとんど知られていません。


◆中将姫とその時代背景

奈良時代(天平時代)・・・710年 平城京遷都 712年 古事記 720年 日本書紀 741年 東大寺・大仏建立の詔

中将姫は、藤原鎌足の子、不比等から分かれた藤原四家の筆頭である南家の出身で、大納言(中将)豊成を父とし、母は品沢親王の息女、紫の前。
二人は子宝に恵まれず、初瀬の観音さまに祈願された。
観音さまは、天眼を以って三千大世界を見渡して、夫婦いずれかの命と引き換えに一姫を授けられた。

747年 中将姫誕生
   父ー右大臣藤原豊成 祖父ー藤原武智麻呂 曽祖父ー藤原鎌足
   母ー紫の前(品沢親王の息女)

751年 5歳のとき、母ー紫の前が病に伏し死別する

763年 17歳のとき、帝の后となる話を断り、当麻寺へ剃髪し仏門に入る
   蓮糸の當麻曼荼羅を織り上げる

775年 29歳のとき、波乱に満ちた生涯を閉じる
   この年の五月十四日、阿弥陀如来を始めとする二十五菩薩が来迎され、西方極楽浄土へ向かわれた


◆中将姫伝説と美濃逃亡譚

天平の昔、藤原豊成の貴人の姫に中将姫というとても美しく賢いお姫様がおりましたが、継母に大変憎まれて殺されそうになりました…。
亡き母を想い嘆く中将姫の前に年老いた尼が現れ、蓮の華を手にするすると糸を紡ぎだし、もう一人の尼がその糸を使い一夜の内に一丈五尺(約4m四方)もある大きな曼荼羅を織り上げると、
「これが浄土です。こちらにあなたの母君がおわしますよ。」
そこには忘れもしない愛しい母の姿が織り込まれていたのでした…。

こうした中将姫伝説は、室町時代ころより尾ひれがつき、かなり脚色された物語であるため、これくらいにして割愛します。

天平宝字八年(756年)、中将姫は継母の迫害を逃れて流浪の末、美濃の国へたどり着きました。

ここからが、美濃に伝わる逃亡譚です。

危うく難を逃れた姫は追手を避けて諸国を流浪し、やがて美濃の国大洞の里の願成寺へ辿り着かれました。
ところが慣れぬ長旅で婦人病に患り、困り果ててこの寺の観音様に祈られましたところ、病気は忽ち治ってしまいました。
姫は喜びのあまり境内に一本の桜を植え、願いを込めていのられました。
「桜よ、いつまでも私に代わって、ここの観音様をお守りしておくれ、又菩薩様、この桜の花や葉を大切に持つ婦人があれば、女の身にしか分らない心身の悩みから解放してやってください。」
姫はこうして九十日の長い祈りを終えると、大和の当麻寺で織ったのと同じ曼荼羅を蓮の糸で織り、記念に当寺へ納められました。
この曼荼羅は後に故あって、愛知県の江南市にある飛保の曼荼羅寺へ伝わっていったと云われています。



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画像1枚目:中将姫誓願桜
画像2枚目:中将姫像(願成寺蔵)
画像3枚目:中将姫の當麻曼荼羅

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中将姫誓願桜
http://ganjouji.web.fc2.com/chujou/
曼陀羅寺・曼陀羅寺公園
http://www.geocities.jp/suzunet88/areainfo/mandaraji/




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コメント(11)

この嵐でかなり散ってしまいましたが、自然の恩恵にただただ感謝。

画像1枚目:4月7日に訪れた、中将姫の誓願桜
画像2枚目:誓願桜のある、十一面観音の願成寺
画像3枚目:そして、こちらもヒメのおはします白山神社
姫は風の便りに、美濃の国大洞の里の願成寺の噂を耳にした。東大寺大仏建立の折りに、いろいろ霊験があったという話で、特にそのご本尊は、日頃尊信する長谷観音と同じ十一面観世音菩薩であると聞き、姫はその参詣を思い立って、はるばるこの地を訪れたのである。ところが、長い旅の疲れと折からの冷え込みのために婦人病にかかって苦しみ、なかなか治らないので困り果てた姫は、この寺の観音様に救いを求め、一心に祈った。すると不思議なことに、病気はたちまち快癒してしまった。姫は大層喜び、境内に一本の桜を植えて、真心を込めて祈った。『桜よ、お前は私に代わって、いつまでもこの観音様をお守りしておくれ。そしてそのご威徳を美しい花で末永く飾っておくれ。』そして観音様に向かい、『観世音菩薩様、私は今度の病気で、女の身には女しか分からない様々な苦しみがあることを知りました。どうか菩薩のお力で、この桜の花や枝葉を大切に保持する婦人には、あらゆる女性特有の災厄から守り、安産に、育児に、良縁に、夫婦の生活に、女の幸せをいっぱい与えてやって下さい。』

このようにして姫は、90日もの長い間、一心に祈り続けた。長い祈りを終えると、姫は大和の当麻寺で織ったのと同じ蓮糸の曼陀羅を一幅織り上げ、それを当山に納めた。この曼陀羅はその後長く寺の宝物として大切にされていたが、どういう訳があったのか、寛正三年に、尾張国飛保(愛知県江南市)の円福寺に飛んでいった。円福寺の方では、東の空から日輪が出ると同時に曼陀羅が飛んできたというので、日輪山曼陀羅寺と称号を改めた…

中将姫誓願桜
http://ganjouji.web.fc2.com/chujou/
曼荼羅寺(愛知県江南市飛保)は、江南の藤まつりで有名なところですが…

当山の由緒を物語る宝物として、中将姫が蓮糸で織り現されたと伝える曼陀羅がある。姫は、16歳にして仏門に入り尼となり、かつて姫を救わんが為に犠牲となった人々と、自分の菩薩の為に恒に称讃浄土教を読んでいられた。姫はお経に説かれている極楽浄土の姿をこの眼で拝する事が出来たら我が身は勿論、後の世の人々も如何ばかり幸福であろうかと思い、一心にその願望の成就を念じられた。天平宝字7年姫が17歳の折、阿弥陀如来と観音菩薩が織女となって現われ、姫を助けて織り現されたのが、この曼陀羅と言われている。この尊像を拝する人は幸福を得ると言われ、25年目毎に大開帳が催されて幾万人の善男善女の信仰の念がこの尊像にこめられている。

suzunet 「曼陀羅寺・曼陀羅寺公園 」
http://www.geocities.jp/suzunet88/areainfo/mandaraji/
曼荼羅寺では、平成十八年(2006年4月)に二十八年目の御開帳だったようで、次はまだまだ先ですね…
http://www.zenkoji.com/2006/02/post_34.php
中将姫は、逃亡中の疲労と冷え込みのため、重い婦人病にかかります。
病に効くとうわさを聞き、中将姫は、美濃の願成寺を訪れます。
観音菩薩に病気平癒を祈り、果たして回復します。
中将姫は、お礼に観音菩薩の守護を祈願し、桜を植えます…

バスクリンなど薬用入浴剤や婦人病薬で有名な津村順天堂(現・ツムラライフサイエンス)。
創始者の津村重舎の母方の実家・藤村家は、逃亡中の中将姫をかくまったお礼に、婦人病の薬の製法を教わったと伝えられています。
それが、この中将湯でした。

女性の味方 血の道の人 中将姫 〜算命学と奈良歴史 (再掲載)|奈良ふしぎ歴史徹底攻略! 学校・教科書では教えてくれない奈良を親子でも100倍楽しめる観光ガイドブックブログ
http://ameblo.jp/fflapper/entry-10419671516.html?frm_src=thumb_module
◆願成寺伝◆

欽明天皇(540年即位)の時代に、朝鮮の高句麗からインドの毘首羯魔という彫刻の神様が作ったという十―面観音の小像が、仏舎利とともに朝廷にもたらされる。

壬申の乱(672年)で大海人皇子が勝利を収め、天武天皇として即位。この時美濃の豪族、村国男依が勝利に直接かかわる大功を立てたため、天皇は男依に数々の恩賞を賜りましたが、その中にこの毘首羯摩作の観音小像と仏舎利も含まれていた。男依はこの二品を、芥見の里に堂宇を建てて安置し、山間堂と呼んだ。

養老五年(721年)、越前の国から泰澄という坊さんがやって来て、山間堂を現在の願成寺のある場所に移して寺を建て、大洞山清水寺とした。

聖武天皇の御代(743年)に大仏の鋳造が計画され、天皇は鋳造の技術を持った専門家を捜し出すよう家臣に命じた。全国を巡り歩いた末、大洞山清水寺(願成寺)を訪れ祈りを捧げると、夢に観世音菩薩が現れて「明日、西に向かって行け。そこで変わった姿の童子(子供)に会うだろう。それが大仏を造るのに必要な人材だ」と告げられた。翌朝お告げのとおり童子に会い、一見童子のような小男が、日野金丸という仏像鋳造の専門家だった。天皇は大層お喜びになって、改めて勅使を大洞山清水寺へ差し遣わされた。やがて無事大仏が完成し、天皇は大洞山清水寺に改めて「如意山願成寺」という勅号を下さり、大僧正行基に伽藍の造営を命じた。そこで行基はまず1メートルほどの十一面観音橡を造って、今まで祀っていた観音小像と仏舎利をその胎内に収め、これを本尊として七堂伽藍を造営。さらにその付近には願成寺の下寺として12の寺を建てた。

天平宝字八年(756年)に、中将姫が継母の迫害を逃れて流浪の末、美濃の国へたどり着いた。

弘仁五年(814年)、弘法大師が関東の方へ行かれる途中に願成寺に立ち寄られた。

承平七年(937年)、後に朝廷に背いた藤原純友の兵隊が来て狼籍を働き、そのために本堂などを焼かれましたが、幸い仏像などは無事だった。

鎌倉時代、執権北条泰時の頃、時の将軍藤原頼俊は小島太郎重俊に命じ、七堂伽藍と下寺12坊をすべて再建し、寺領を付けて元どおりの姿に復興するも、幕府の滅亡と共に寺もまた次第に衰微。しかし室町時代になると、幸いに土岐美濃守の祈願所となって、願成寺は再び日の目を見ることになった。

永禄十年(1567年)、織田信長が稲葉山城を攻めた時、戦に負けた斎藤竜興の兵隊の一部が願成寺に逃げ込んだため、それを取り囲んだ信長の軍隊に焼かれて、寺は本堂一つを残して七堂伽藍も下寺の12坊も全部が灰になってしまった。

信長の焼き討ち後、しばらく住む僧も無く、寺は荒れるに任せていましたが、承応年中(1653年頃)下有知(現在は関市の中にある)の神光寺という寺の僧で、宥遍上人という人が来て寺を再興。この宥遍上人が願成寺の中興の祖で、現願成寺の初代の住職とされています…


願成寺
http://ganjouji.web.fc2.com/ganjouji/
今日はお彼岸すぎのシーミー(清明祭)がてら、母方の墓地のある願成寺のお花見に。
ヤマザクラの変種である誓願桜の見頃は4月中旬ですが、今年はもう満開をすぎて散りはじめていました。
明日の日曜が「観桜会」となり、さらににぎわうことでしょう。
[musublog] ブログ更新

願成寺の中将姫誓願桜
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=33339
美濃尾張の中将姫伝説
“この曼陀羅は美濃国大洞の願成寺の宝物として大切にされていたが、どういう訳があったのか、寛正三年に尾張国飛保の円福寺に飛んでいった。円福寺の方では、東の空から日輪が出ると同時に曼陀羅が飛んできたというので、日輪山曼陀羅寺と称号を改めた”
http://ganjouji.wixsite.com/chujouhime/legend
曼陀羅寺では “天平宝字7年姫が17歳の折、阿弥陀如来と観音菩薩が織女となって現われ、姫を助けて織り現されたのが、この曼陀羅と言われている。この尊像を拝する人は幸福を得ると言われ、25年目毎に大開帳が催されて幾万人の善男善女の信仰の念がこの尊像にこめられている…”
http://www.geocities.jp/suzunet88/areainfo/mandaraji/
曼陀羅寺(愛知県江南市飛保)では、中将姫のこの曼荼羅を25年毎(参拝のしおりによると)に開帳しているという。
前回が2006年(このときは28年目と表記している)だったので、つぎは2031年ということか。
http://www.zenkoji.com/%E9%A3%9B%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%9B%BC%E9%99%80%E7%BE%85%E5%AF%BA%E3%81%95%E3%82%93%E5%A4%A7%E9%96%8B%E5%B8%B3/

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