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小説家版 アートマンコミュのラスト・フューチャー・メモリー 1

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 クリスは水平線に消えて行く船を静かに眺めていた。自分の視野からは消えてしまったが、船がこの世から消滅してしまたという訳ではない。人の命はどうだろう。死んでしまうと魂は消滅してしまうのだろうか? それとも、水平線に消えた船のように見えなくなるだけなのか? 宗教家でも哲学者でもないクリスに答えを導き出せるはずもなかった。視界から完全に消えて行く小さな船を見ながら、数時間前の出来事を思い出していた。
 シアトルの名所、パイクプレース・マーケットの程近くクリスの勤めている会社がある。飛行機やロケットに搭載さる部品や荷物の軽量化を目的にしたある実験研究を行なっている会社だ。そこでクリスは研究員として働いている。空を飛ぶ物や宇宙に打ち上げる物にとって、「重さ」というのはとてもやっかいな存在である。どんなに馬力のあるエンジンを作っても、その馬力でもびくともしない重量では空に打ち上げる事は出来ない。また、軽くする為に必要以上に部品や材料を取ってしまうと、飛行機やロケットの強度や機能に障害がでてしまう。性能の良い軽い素材という上空に打ち上げるのにふさわしい物を開発しているのだ。SF小説などで出て来る「反重力」なんて仕組みは絵空事。重力に反発して浮き上がる素材開発よりも、確実に実用化される軽量化を地道に行なっている。
 いつものように会社のデスクで新しいシステムの設計をしているクリスへ電話があった。警察からだった。警察からの電話が誰かに幸運をもたらすなんて事はあるはずもない。クリスに告げられたのは、4年前に行方不明になった妻ナオミらしい遺体が見つかったという連絡だった。事情を隣のデスクにいるトムに話し、急いで警察署に向かった。連れて行かれたのは霊安室。黒いビニール袋に入れられた遺体は4年も立つのに白骨化していなかった。
「見つかった場所がレイニア山にある小さな洞窟内でしてね。その奥の水の中に眠るように横たわっていたそうです。死蝋化という現象らしいです。冷たい水底に長く遺体を放置すると、身体が持っている脂肪酸と水の中に含まれるマグネシウムやカルシウムなどが結合して石鹸化状態になるという事です」
 担当の警察官がクリスに疑問が浮ぶ前に答えてくれた。クリスはまだ妻の死を全く実感できなかった。目の前に出されている遺体が妻をかたどった作り物にしか見えなかった。
「お辛いとは思いますが、この御遺体は奥様で間違いないですよね」
 クリスが答えずにいると、警察官は遺体の腕の部分を指差した。
「たしか、身体的な特徴の一つが腕の赤い痣でしたよね」
 クリスが遺体の左腕に目を移すと燃えるような赤い痣があった。日本人だったナオミが面白い話を聞かせてくれた事を思い出した。日本には妊婦が火事を見ると子供に赤い痣ができるという言い伝えがあるそうだ。この痣はナオミの母が自分を身籠っている時に火事を見たせいだと笑いながら言っていた。そんなリアルな記憶のせいで目の前の遺体から現実逃避せずに向き合えるようになってきた。クリスは小さく「ナオミに間違いありません」と答えた。

 クリスの視界から船は完全に消え去っていた。白い波が穏やかに上下しているだけだった。四年の間探しつづけていたナオミに会えた。最悪の結果だったが、クリスにとって予期していた結果でもあった。だから、警察署で取り乱すような事はしなかった。粛々と手続きを済ませて、一人で海を見ていた。
「あの時、モニターで見た姿はやっぱりナオミだったんだ……ナオミだったんだな」
 クリスは誰に話すでもなく、うつろな目で呟いた。
「残念だったな」
 その声にクリスが振り向くと、スターバックスを両手に持ったトムが立っていた。トムが差し出したコーヒーを受け取るとクリスは小さく頷いた。トムはクリスの隣に腰をおろして、コーヒーを一口すすった。小さくついたため息がコーヒーの香がした。
「何か実感がないんだよ。ナオミが死んじゃったって実感が。遺体だって蝋で作った偽物のようだったしさぁ、何かひょっこり戻って来るんじゃないかなってさ」
「気持ちはわかるよ」
 トムはそう言うとクリスの肩の上に手をおいた。
「ナオミは絶対に別の世界で生きているんだよ」
「また、あのモニターの話しか。そんなオカルトめいた話を口にしてはダメだよ。お前は科学者なんだろう。会社でもあの時の事は口外するなと言われているだろう。今はナオミの死で気が動転しちゃっているし、どこか別の世界で生きていて欲しいと願う気持ちは分る。冷たい言い方かもしれないが、覆水盆に戻らずだ。死者は蘇ったりはしないんだよ」
 トムはクリスが黙ってうつむいている姿をみて、「ゴメン、言い過ぎた」と謝った。二人は暫く口を開く事なく海を眺めていた。その沈黙を破ったのは携帯電話の着信音だった。相手は葬儀屋だった。トムの言う通りだ。ナオミは死者なのだ。死者として弔ってあげなければならない。ナオミの遺体は事件性があるという事で警察が一時あずかる事になっていた。検死が終わり、遺体が我が家に戻って来る事が決まった。ナオミを運んでくれる業者がクリスの携帯に電話をかけてきたのだった。通話の内容で事情を察したトムが電話を代わってくれた。どうやら、自分の話す内容が支離滅裂だったようだ。自分は現実と夢の狭間に立たされているようだ。でも確かな事は、ナオミが失踪した日、彼女の姿をクリスが見ていたという事だ。



 ミッシェルは煙を見つめていた。目の前にいる霊能者が呼び寄せてくれた息子ジェイソンの魂がこの煙りだ。霊能者はミッシェルの為に霊魂の口寄せをしてくれる。
「苦しいよぉ。痛いよぉ」
 霊能者がお腹を押さえて悶える姿を見て、ミッシェルは号泣しながら謝った。
「ゴメンね。お母さんが目を放したばかりに痛い思いをさせちゃって」
 煙が消えてしまうまで、思い付くかぎりの謝罪の言葉を息子に投げかけた。

 半年前、3才の息子ジェイソンと大型ショッピングセンターに買い物へ出かけた時に悲劇が起きた。ミッシェルに落ち度があるとすれば、ほんの一瞬息子の存在を忘れただけだ。時間にして一分か二分。行き着けの洋品店で店員と話が弾んでしまった。息子の手を握るかわりに、色違いの二着のジャケットを手にした。試着室に向かう途中でジェイソンがいない事に気がついた。慌てて探したが、どこにも見つからない。そして、ミッシェルが想像する以上に最悪な姿のジェイソンと再会したのは翌日だった。ジェイソンはグリーンレイクのほとりに投げ捨てられていた。そして腹部を鋭利な物で切り裂かれていて、臓器が全く無かった。警察は小児臓器売買の闇ブローカーが絡んでいると捜査しているが、半年たった今も捜査は難航している。手がかりはショッピングセンターの防犯カメラにジェイソンと歩く大柄の男の映像だけ。シアトルマリナーズの野球帽で顔は全く確認ができない映像だ。

 ミッシェルにとってやり場のない怒りの鉾先は自分自身に向いてしまった。この半年間自分を許した日はない。ミッシェルの夫は彼女を責めなかった。ミッシェルの回りの人間は誰も彼女を責めなかった。しかし、毎日塞ぎ込み、自分自身を恨み、泣き続けるミッシェルからどんどん人が遠ざかって行った。彼女の夫もまた陰気なミッシェルの姿が嫌でたまらなくなってしまった。時間は常に進んでいる。夫にとっての決断はジェイソンの事件を忘れ去る事だった。決してジェイソンを忘れるつもりはない。生きて行く者は時間と共に前に進まなければいけないのだ。会社員として仕事をしているミッシェルの夫には立ち止まっていてはいけなかったのだ。そんな考えは専業主婦だったミッシェルには理解できなかった。大きく違わない毎日を過ごしてきたミッシェルにとって一日は繰り替えしの作業だった。ジェイソンの事件を忘れ去ろうとする夫がとても冷酷に思えた。前に進もうとする夫。留まろうとするミッシェル。次第に陽気になって行く夫。陰気なままのミッシェル。二人は歩みよれず半年が過ぎ去ってしまった。そして、二人は別々の道を歩む事になってしまった。ミッシェルにとって唯一頼れるのは目の前にいる霊能者だけになってしまった。

 「息子さんは随分とあちらの世界で苦しんでいるようだね」
 口寄せが終わった霊能者が乱れた長い髪の毛を両手で後ろにまとめていた。髪の毛の所々を三つ編みにしているのは、自分の占いスタイルがネイティブアメリカン風だからだ。この霊能者は決してインディアンと呼ばれた民族の末裔なんかではなかった。霊能者としての商売上、少しでも有能だと見せる為のコスチュームにすぎなかった。正しく見極める冷静な目を潰されてしまったミッシェルにはコスチュームの下の薄汚い心を見透かせる力を持ち合わせてはいなかった。その霊能者の言葉に涙するだけだった。
「この子を救ってあげるのには、それなりの物がいるよ」
 ミッシェルは何も言わず机の上に封筒を置いた。
「今日はこれだけしかありません。足りなければ次回持ってきます」
 霊能者が封筒の中身を確認して一瞬ニコリと笑ったが、直ぐに顔の筋肉を引き締めた。封筒の中身だけでも十分だったが、吸い取るだけ吸い取らなければ勿体無い気がしたのだ。
「これじゃぁ足りないね。息子さんを救いたいのに出し惜しみしちゃダメだね。あんたが精一杯できるだけの事をやるから、息子さんが救われるんだ。分るだろう」
 その言葉にミッシェルはこくりと小さく頷いた。その姿に霊能者の頬が再び弛んだ。ミッシェルの嘆きも憂いも霊能者には金の生る樹にしか思えなかった。



 ダニエルは教会の最前列の椅子に座り、救いの目でキリスト像を見上げた。しかし、キリストは何も答えてはくれない。人生において苦しみや悩み、壁にぶちあたったりするのは、我々人間に対する神の試しなのだ。悩みも神が自分に与えてくれた愛のはずだが、聖書には答えを見つかられなかった。そもそも、今回の事を認めてしまったら、キリスト教自体を否定してしまいかねない。復活するのはキリスト一人でなくてはならない。キリストと同等の力を持った人間など存在してはいけないのだ。
 だが、彼女の話を聞けば聞く程、疑う余地がなくなってくる。彼女はキリストの復活者なのか? それとも神は自分の信仰をためてしているのか? ダニエルは答えが出せないまま、最前列で頭を抱えるしかなかった。
 神を取るのか、人を取るのか、自分で答えを導き出すしか方法がなかった。キリスト教の神髄は愛、そして信じる心。愛する彼女を信じる事で神がお怒りになる事はないはずだ。たとえ、それが人間の暴挙だとしても。
 ダニエルはポケットから電話とメモを取り出した。メモにはクリスという名と連絡先が書かれていた。ためらいながらもダイアルを押し、ゆっくりと耳元に電話をもっていった。十回のコール後、留守を伝えるメッセージが流れた。ダニエルは伝言をのこさず通話を終了した。現状をクリスという男にどう適格に伝えれば良いのか、まだダニエルには出来なかった。きっと、自分を気狂いだと相手にはしてくれないだろうと考えていた。ダニエルは大きなため息をついた。静まり返った教会内にその音が響き渡った。



 クリスの自宅は自宅のソファーに座って遠くに見えるスペースニードルを眺めていた。シアトルの中心地に突き刺さった塔はライトアップされていた。クリスの後ろで棺の中で横たわるナオミにも見せてあげたかった。彼女が海から眺めるスペースニードルの景色が気に入って決めた家だったからだ。綺麗だと思った景色が物悲しく見えた。
 ナオミと出会ったのは六年前。アフリカのとある小さな村で人が小さくなって死んでしまうという奇病が発生したという知らせを聞き、クリスは現地調査に向かった。人体を縮小化させるメカニズムが解明できれば、部品の軽量化につながると会社が判断したからだ。
 運が良い事にクリスが到着した頃にはその奇病は沈静化していた。村人の中に奇病に対する抗体を持った人物がいたのだ。直ぐにワクチンを作り出す事に成功していた。現場にクリスが着くと、ワクチンが投与された。そのワクチンをクリスの腕に注射したのが、医療ボランティアとして派遣されていたナオミだった。
 ナオミは医療ボランティアの仕事をする傍らクリスの助手もこなしてくれた。機械設計が主な仕事だったクリスにはウイルスの扱いなどした事もなく、ナオミの存在は大いに助かった。
 クリスが帰国する日、ナオミが空港まで送ってくれた。白衣姿のナオミしか見た事のなかったクリスはオレンジ色のワンピース姿のナオミに見とれてしまった。ナオミの右腕にはワンピースと同じ柄の布がまかれていた。ナオミと離れる日にクリスは彼女を女性として意識したのだった。
「日本だとシフトが反対だから手と足が合わないのよね」
 ナオミがギアを変える度に車は大きく揺れた。シフトチェンジの振動で腕にまいていていた布がずれて落ちた。そこには真っ赤な痣があった。
「これね。産まれた時からある痣なの。日本の言い伝えにあるんだけどね。妊婦が火事を見ると産まれた子に赤い痣ができるんだって。お母さんに聞いたら火事を見に行ったって。だから、私の腕に赤い痣ができちゃったみたい」
 クリスの視線に気付いたナオミが恥ずかしそうに言い訳をした。悪路の為ハンドルから手を放せないナオミに代わってクリスがずり落ちた布を元の位置に戻してあげた。布で隠していたのだから、きっと自分には見せたくなかったのだろう、クリスはそう感じたのだ。その行為にナオミは一瞬驚いた顔をしたが、素直に「ありがとう」とにっこり微笑んだ。クリスには二人の距離が小さくなったように思えた。
 空港に行くまでの道中、限られた時間を有効に使おうと二人はいろいろと会話をした。ナオミの医療ボランティアとしての契約がもうすぐ切れる事を知ったクリスは自分の会社に来ないかと誘った。ウイルスの扱いができるスタッフがいないからだと最もらしい理由を言ったが、本心はナオミと一緒に居たかったのだ。人間にとって最終的に必要なのは言葉ではなく、きっとテレパシーみたいな目で見えない力なのだろう。以心伝心。一年後、ナオミはシアトルにやってきた。

 人間を縮小させた奇病のウイルスの解析を完了させるのに一年を費やした。通常の研究施設だとウイルスが人体におよぼす因子を排除して農作物や動物に応用しようとするだろうが、クリスの勤める研究施設はあくまでも機械部品や荷物の縮小化を目的としている。そのウイルスが目的の為に役立たなくてはいけない。ウイルスが人体を縮小化させる仕組みが解明できても、次ぎの問題があった。ウイルスを生命体以外に感染させる事は不可能だった。クリスが目をつけたのが物質のデジタル化だった。物質をデジタル分解して一度コンピューターの中を通しウイルス感染させてから、再度物質化させるという手段だった。将来的にはこの技術が物質の転送へ応用できるはずだ。物質の輸送がさらなる進化を遂げる事になるはずだ。
 早速、大掛かりのプロジェクトチームが作られた。その時集められたのがナオミや同僚のトムだった。
 翌年、単一素材でできた物質の縮小が成功した。逆の原理で単一素材でできた物質の拡大にも成功した。拡大させた物質の強度が弱くなる為、実用化には至らなかったが、プロジェクトチームには大きな自信になった。
 しかし、その後は大きな収穫がえられないまま時間だけが過ぎて行った。素材が複雑になればなるほど分解から再構築が安定しなくなり素材が崩壊してしまうのだった。会社の方針も縮小可能な単一素材での部品開発へ方向展開しはじめきた。一時は数十人いたプロジェクトメンバーもクリスを含めて5人となってしまった。
 そんなある日、壁にぶちあたっていたクリスはナオミと二人で単一素材でできた物質がどこまで縮小可能か実験してみた。驚く事に物質を0、00025倍すると存在が消滅する事をつきとめた。実験素材の大きさを変えてみたが同じ倍率で物質は消滅してしまう。二人の前にパラドックスが現れた。有限の物をどんな大きな数字で割算しても、0に近づいて行くが決して0にはならない。有限の物が無になる事はありえないのだ。物質を縮小していくとある決まった地点で、どこか別の未知なる空間に移動しているしか有り得ない。その地点が0、00025倍なのだ。塵より小さい存在しか通さないフィルターが空気の中に存在しているかもしれない。二人は物質が消え去った先がどうしても気になった。物質が小さくなるとどこに続くのだろう。場所次第ではデジタル転送の実用化が開けて来たのだ。
 会社内で主流のプロジェクトである単一素材での商品開発チームに縮小可能な映像器の製造を依頼する事にした。ようするに単一素材で組み合わせたビデオカメラの製造だ。映像を受信するケーブルも同じ素材で製造してもらった。
 数カ月後、単一素材で出来上がったビデオカメラをパソコンと接続させた状態で縮小化させてみた。どんどん縮小させていくとある地点でビデオが見えなくなってしまった。つながれたパソコンのモニターには初夏のアルプス山脈の麓のように青々とした風景が写し出された。クリスはモニターの中に燃えるような赤色が揺れえいる事に気がついた。それは空中を炎が舞っているようだった。しかし、それは炎ではなかった。クリスに見覚えがある物、入籍したばかりの妻、ナオミの腕の赤い痣だった。ナオミは山の方へ向かってゆっくりと歩き出した。ナオミが向かう山は単独でそびえ立つ大きな山だった。
 その後クリスは四年間ナオミを見る事はなかった。

 クリスはモニターの中でナオミが姿を消した場所を捜しまわったが、結局見つけられなかった。一番イメージに近かったのは日本にある富士山。しかし、青々とした色合いは富士山にはなかった。
 そして、いつしかクリスは一つの事を真剣に考えるようになった。自分の身体を縮小化できれば、ナオミに会える。いや、それ以外にナオミに会える手段はないと。クリスは独自である研究を始める事にした。それが人体を縮小化させる実験だった。
 本日、ナオミの遺体が発見され、この世界では二度と会えない事を悟ったクリスは自分の身体を使って人体実験をやる事を決断した。



 トムは研究室の最高責任者のロバートに呼ばれてフィフスアベニューにある寿司バーにやってきた。ここはシアトルでも一、二の高級レストランとして有名だ。入口には三メートルはあろうかという巨大な扉。その巨大な扉を開閉させる為だけに相撲レスラーのような巨漢の男が二人立っていた。その男に用件を告げると、個室に案内された。トムは初めてこの店を訪れた。高級だからというよりも、火を通さない物を食べる事に抵抗があったのだ。
「遅かったな」
 ロバートは寿司を口に運びながら、トムを手招きした。トムは案内してくれた店員の指示をあおぎながら靴を脱ぎ、畳と呼ばれる床の上に腰を降ろした。「日本人は高級な物を食べる時は椅子を使わないのだよ」
 トムが居心地悪そうに座っているのを見兼ねてロバートが笑っていた。
「床に座るのは、何か刑罰を受けているみたいですね」
「まぁ、じきに慣れて来る。慣れてくると低い視線から見る景色が新鮮に思えてくるぞ」
 ロバートは脂肪で垂れ下がった顎を触りながら、自慢気に微笑んだ。
「お前も何か食べるか?」
「食事はすませてきました。飲み物だけで結構です」
「そうか。このツナのトロは最高だぞ」
 ロバートが指差した寿司はトムには生肉にしか見えなかった。トムはロバートが飲んでいた日本酒を少しもらった。
「ところでクリスの事なのだがね。奥さんの遺体がやっと発見されたそうじゃないか」
 ロバートはそう言い終わるとトロを口に運んだ。
「はい」
 トムはその後に何と続けて良いのか分らなかった。
「まぁ、いつまでも遺体が見つからないと、気持ちが定まらない。クリスにとっては良かったのだろうな。これであいつも本腰を入れて研究に打ち込めるだろうしな」
 ロバートは勝手に納得しているのか、首を小さく前後になんども動かしていた。トムも誤魔化すように頷いていた。
「ところでだが、そのクリスだが、最近は変な研究はしていないだろうな」
「変なとおっしゃいますと?」
「死後の世界みたいな場所の解明だよ。最先端の科学研究所がオカルト的な事をやっていると世間が知ったらイメージが悪い。出資者も気味悪がって研究所を閉鎖って事にだってなりかねない。単一素材を縮小化させる事に成功した。次ぎやるべき事は複雑な物質の縮小化だ。オカルト事に構っている時間があったらそちらを優先させるべきだろう。君が上手にクリスをコントロールするんだぞ。天才は扱い方を間違えると災害になるからな」
「分かっております。私も仕事は失いたくはありませんからね」
 ロバートはトムの目を黙って見つめた。トムの真意を探っているようだった。そして満面の笑みを見せた。
「それを聞いて安心した。お前が側に居れば安心だ」
 そう言うと皿の上の寿司を一気に三貫平らげた。
「ところでだな。死後の世界では神による裁きがあるそうだが、動物を食べる事は罪になるのか?」
 突然のロバートの質問にトムは面喰らった。
「質問の意味がよくわかりませんが」
「例えば、生き物を殺す事は悪い事だ。私が食している寿司のネタは誰かが殺したから、私の口に入る。私は殺してはいないが、それを食べている。これは罪になるのか」
「私は神父様ではないので、正確な答えを言えませんが、生命活動を維持する為に食する事は罪にはならないと思います」
「生命を維持する為に食すれば罪にはならないか。確かに真理だ。ありがとう。これで罪悪感なく何でも食べられる」
 ロバートは店員を呼び、寿司を追加した。数分後更に並べられたのは脂がしたたりおちそうなトロばかりだった。それを頬張るロバートの口から脂ともよだれともわからない物がもれ出していた。

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