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小説家版 アートマンコミュの666(ミロク)dD 1月19日?

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一月一九日(木)

 太陽の光りがこんなに憎いと感じた事はない。大地も空気も人の心さえもカラカラにしてしまう。前方に見える太陽を睨み付けながら必死に走り続けた。神に祈る気持ちは随分昔に消え去った。生き延びるのには自分の力で切り開らかなくてはいけない。俺は坂道を下っている。石段だ。そして俺の目の前に広がっているのは荒野のようになった田んぼだった。稲穂が頭を垂れているのは実がなっているわけではない。俺が田の中に足を踏み入れると稲穂の擦れる乾いた音がする。その音をさせて走っているのは俺だけではなかった。振り向くと六人の男女が俺を追っている。男の雄叫びが聞こえた。俺の右肩に激痛が走る。何かが突き刺さったのだ。足に力の入らなくなった俺は稲穂に足を取られて転倒してしまった。転倒の衝撃で手に持っていた袋が俺の目の前に転がった。血で真っ赤になっている右手を伸ばして拾おうとするが、誰かが俺の手を踏み付ける。見上げるとその男は金田紫苑だった。袋を拾い上げる者がいた。横井ハジメだ。ハジメは俺を罵る言葉を仲間に訴えかけるように演説した。彼は俺の背中に突き刺さった物を抜き取り、右手の甲に突き立てた。それは鎌だった。誰かが俺の脇腹を蹴り飛ばした。何度も何度も蹴り飛ばす。息が吸えない。ハジメが鎌を抜き取った。手の甲から心臓の鼓動に合わせて血が吹き出るのがわかった。また誰かに蹴飛ばされて仰向きになった。オレンジ色の空が俺の目に飛込んできた。俺の顔を覗き込む男がいた。その顔は俺が馴染みにしていた店の店主、そうだマスターの顔だった。誰かが俺の足を引っ張っている。男女二人の後ろ姿が確認できた。その二人にマスターが命令しているようだ。「グロノイシナエ……」俺を連れていく場所のようだ。抵抗する力もない。死ぬ事すらどうでもいいと思えてきた。引きずられながら自分の右側に視線が移った。男女が話をしていた。一人はハジメ、もう一人は背を向けていて確認できない。ハジメが俺の血のついた鎌を女に渡していた。ハジメが女に呟くように語る言葉が聞こえてきた「スイトッタノニ……」もう一度同じ言葉が聞こえてきた。何故か俺はその言葉を聞いて笑いが込み上げてきた。

 電話が鳴っていた。一瞬夢と現実の区別がつかなかった。夢とは何なのだろう。夢で見ている事は全て空想で現実味のない事なのか。普通の人の睡眠時間は一日の半分以下だろう。しかし、一日に三時間程度しか目覚めない人にとって現実とはどちらの事を意味するのだろう。夢と現実の境界線など最初からないのではないか。夢で見た内容も昨日起きた出来事も時が立てばあやふやな記憶になっていく。いつかは混じりあって俺の頭の中の片隅で小さな出来事として片付けられてしまうのだろう。夢も現実もその程度の違いだ。それじゃあ、俺が何度も見る夢は実際に体験した事なのか。いつ? 俺を殺そうとする男達の姿を思い出した。昔の農民の姿だ。それも髷があった。江戸時代。その頃に俺は殺されてしまったというSF的な考えが頭に浮んだ。
(昔、本で読んだ事がある。前世の記憶を持った少年の話。俺にも前世の記憶が残っていたのか?)
 俺の夢に出て来る者が謎の自殺をとげている現実があるだけに、笑い飛ばす愚かな考えだとは言い切れなくしていた。仮説が正しいとするならば、夢は何を伝えようとしているのだろう。夢の中の登場人物が全て死ぬのならば、残りの三人の命が危ないと言う事になる。
(手がかりは……言葉だ。『グロノイシナエ』、『スイトッタノニ』確かにそう言っていた。『グロノイシナエ』は会話の前後から推測すると場所のようだった。調べれば土地が分るかもしれない。『スイトッタノニ』何かを吸い取ったのか。俺が殺されるようになった理由と関係しているのかもしれない)
 俺は二つの言葉をヒントに夢が現実に起きた事なのかを調べてみようと決心した。
 再び電話がなった。枕元においてある電話の子機を手にとった。
「もしもし、光二郎君?」
 声を聞いて俺はすぐに相手が分かった。母だ。
「なんだい?」
 つい素っ気無い返事をしてしまう。
「さっきも電話したのよ。家におるのなら電話に出てよね」
「寝てたんだよ。ところで何か用件があって電話してきたんだろう」
「まだ寝てたの? もう一〇時近くになるよ」
 俺は慌てて目覚し時計に目をやった。九時五〇分を少し過ぎたところだった。マスターの葬儀は十一時からだったので、もう少し時間はある。
「実は私の在所の隣の家で通夜があるの。時間があったら光二郎君と会えんかなって思って」
「そういえば母さんの実家は愛知県だったね」
「せっかく岡崎に行くもんで、ちょっとくらい顔が見れんかなぁと思って電話したんだわ」
 俺が子供の頃に母になつけなかったのも、このおかしなイントネーションのせいだったのかもしれない。今では気にならなくなっている。
「知り合いでも亡くなったのかい?」
「光二郎君は知らんかな? 東京で警察から鉄砲を奪った事件。そん時に亡くなった子がおるでしょう」
 母が話しているのはハジメの事だった。俺はベッドから起き上がり落ち着き無く部屋をうろうろと歩き回った。
「俺も参列しちゃまずいかな?」
「へ、光二郎君も一緒に行ってくれるの。そりゃあ助かるわぁ」
「それじゃあJR岡崎駅で待ち合わせよう。通夜に出るんだったら四時頃でいいかい?」
「大丈夫。それじゃあ、四時に駅でね」
 俺は電話を元の場所に置いた。温風ヒーターのスイッチを入れ、部屋が暖まるまで布団の中にもぐり込んだ。何かが動きだしている気がした。動き出しているのは、逃げずに向き合わなくてはいけない運命なのだと感じていた。

 礼服の上からコートを羽織って俺は部屋を後にした。黒ネクタイははずしてポケットに突っ込んである。朝食を何処かでとる予定をしていたから、わざとつけなかったのだ。グレー・フィールドが営業していない事は頭では分かっている。しかし、何故か足が向いてしまう。日頃身についた習性、いや違う、現実を確認したいのだ。店の前まで来た。もちろん営業してない。俺の口から小さなため息がこぼれた。俺は数秒立ち止まっただけで再び歩き始めた。
 朝食はチェーン展開している喫茶店でとる事にした。木のフレームのガラス戸を開けて店内に入った。女性店員が俺の来店を待ちかねていたかのように立っていた。一人だけだと彼女に告げると店の中央にある横に長い相席用のテーブルに案内された。この店にはカウンターがなかった。特定の常連だけに優しくするような精神はチェーン店には必要無い。全ての客に差別のない接客を心掛けているのだろう。店と客との居心地のよい距離感が多店鋪展開を可能にした要因だったのかもしれない。それを証明するかのように店は満席に近い状態だった。俺はレジの横の棚から朝刊をとり案内されたテーブルに座った。ホットコーヒーを頼むと新聞を広げた。ハジメの事件が気になっていたのだ。記事は社会面にハジメの顔写真付きで掲載されていた。間違い無く池袋で会った少年であり、俺の夢に出て来た男の顔だった。背筋に寒いものを感じた。女性店員がコーヒーとモーニングセットを持ってきた。モーニングは厚切りのバタートーストとゆで卵だけのシンプルな物だった。
「こんなのでいいんだよな。こんなので」
 俺はつぶやきながらトーストを口に運んだ。しかし、何かが物足りなかった。足りない物は会話だ。新聞を読みながら人と話す事も無くとる朝食は何を食べても味気のない物になってしまう事に気がついた。次からはカウンターのある喫茶店を選ぼうと決めていた。時計を見ると十時四〇分になろうとしていた。葬儀開始まで後二〇分しかない。いそいで平らげる事にした。

 斎場には五分前についた。ネクタイを結ぶのに手間取ってしまい、葬儀を行う『兜率天の間』についたのは葬儀開始ギリギリだった。記帳をすませてから葬儀に参列した。祭壇の前には例の卵型の棺桶がオブジェのように置かれていた。マジックミラーのような原理なのだろう。棺桶は銀色に光っていた。俺は昨日と同じ位置にいる英さんを見つけた。昨日の酒が抜け切っていないのだろう、どことなく顔が腫れぼったかった。俺は挨拶をかわして英さんの隣に立った。司会者が葬儀開始の宣言をすると、僧侶が赤い衣を身に纏い入場してきて、読経を始めた。太くてよく通る声が腹に響いてきた。二〇分程読経が続き、焼香が始まった。ここまではお通夜の時と同じだった。特に変った事も無く葬儀は終了した。司会者のアナウンスに合わせて合掌礼拝を参列者が全員行った。
「つづきまして『溶葬の儀』をとりおこないたいと思います。参列者の皆様は一階の『慈母神の間』へお進みください」
 『溶葬の儀』聞きなれない言葉だった。親族には説明があったのだろう。ざわつく事も無く席を立ち上がり、親族専用の通路に消えていった。俺と英さんはのろのろと動き出した参列者の波に身を任せるように式場を後にした。先程の会場の丁度真下に『慈母神の間』はあった。部屋の内部は擂鉢状になっていた。まるで大学の講堂のようだった。一番奥の壁に安置されていた金色に輝く大きな仏像に俺は目を奪われた。須弥座と呼ばれる角張った台座の上に三面六臂の女神の座像が白熱灯の明かりに照らし出されていた。明王像のような異形の仏の姿だったが、三つの顔に忿怒の表情は全く無かった。慈母神という名の通り如来像のように半眼にした瞳は何とも言えない優しい目をしていた。あれは阿修羅を宿した観音の目のよう、いや孔雀明王の目だ。六本ある腕の一組は正面で合掌し、もう一組は槍と旗をそれぞれの手に持っていた。残りの一組だけは手首から先が無くなっていた。手の無い理由は直ぐに分かった。女神像の手が天井から降りてきたのだ。例の卵型の棺桶をのせたまま。棺桶の台座だと思った手は女神像の手だったのだ。手があるべきとろに納まると銀色だった棺桶の中身がクリアーになった。マスターと娘さんが女神の掌の中にいた。慈母神の母親のような慈悲深い眼差しは二人に向けられていた。
 暫くすると僧侶が親族を従えて入場してきた。卵型のガラス製の壷を全員が大切そうに抱えるように持っていた。そして台座の正面にある手摺で囲まれた座席に腰をかけた。一般の参列者は今から始まる儀式に興味津々の様子で前方の座席から順番に席についていった。俺と英さんは右側の奥にある後側座席に二人並んで腰を降ろした。慈母神像の横側の顔が俺を見下ろしていた。僧侶が唱える読経の声が聞こえてきた。
「機械仕掛けの神って知ってるか?」
 仏像を眺めながら英さんが口にした。俺は首を横に振った。
「ラテン語でデウス・エクス・マキナって言うんだがな、演劇やっている者なら知っている言葉だ」
 英さんに昔小さな劇団の芝居の切符を買わされた事を思い出した。若い頃に所属していたと言っていた。
「劇の内容が錯綜して解決困難な場面に陥った時に、絶対的な力を持つ神様が現れて強引に物語を解決させる手法なんだ。何か目の前の仏だか神だかわからない物が俺には機械仕掛けの神に見えるんだ」
「え、どういう意味なんですか?」
「マスターは娘を殺して自殺した。その事件に俺達は振り回された。何故、マスターが無理心中をしてしまったのか? まさに解決困難な事件だ。もしかしたら事件に巻き込まれて犯人にしたてあげられたのかもしれない。昨日までは、いやつい先程まで俺はマスターも被害者だと信じていた」
「心が変ったんですか?」
「ああ、この大仏を見ていたら、無実を証明するなんて小さな事に思えてきた。陳腐な言葉だが、マスターの冥福を祈る事の方が大切じゃねぇかなって思えてきたんだ。まるで機械仕掛けの神の登場だ。マスターへ、薄情な世の中への怒りが急速に解決していってしまった」
 英さんは慈母神の目を見ていた。昨晩見せた尖った顔つきではなかった。人智を超えた存在を目の前の神に感じているのかもしれない。一般参列者に目をやった。通夜の席で肩を振わせていた茶髪の青年の姿を見つけた。彼も慈母神の目を見つめていた。表情は穏やかだった。会場内の怨念が薄れていっているような気がした。読経が終わると静寂が会場を包み込んだ。突然、慈母像をライトアップさせている照明以外が消えた。会場内の者の視線が一点に集中した。
「灰原利雄とその娘桃子の生命活動は停止しました。残念ながら再び動き出す事はありません。素敵な微笑みで私達を和ませたり、悲しみや怒りで私達を苦しめたりする事はもうありません。しかし、それは生命活動が停止してしまっているからです。間違えないで下さい。二人の生命は滅びさったのではないのです停止中なのです」
 司会者のアナウンスが会場に響いくと手摺で囲まれた親族席が上昇した。彼らの座席の下から大型のスクリーンが登場した。側面にもモニターが確認できたので三方向に備え付けられているはずだ。そこには卵型の棺桶が慈母神側から写し出されていた。親族席はその棺桶の高さで上昇を止めた。モニターに写し出されたのは僧侶の姿だった。
「親族の皆さん、参列者の皆さん。死という現象からは誰もさける事ができません。肉体を持って生まれてきた生物には必ず訪れる悲しい運命です。デンマークの哲学者、キルケゴールの著書『死に至る病』において絶望こそが人を死に至らしめると解いております。二人の死において皆さんの心にはこの絶望が溢れて、こぼれ落ちる程溢れてしまっている事でしょう。絶望は人間の魂を滅ぼしてしまう病なのです。
 しかし、皆さんは生きていかなくてはなりません。ドイツの哲学者、ハイデッガーは人間を『現存在』と呼びました。あらゆる存在は人間とかかわる事で意味が明らかになる。現存在である我々人間も事物とかかわる事でしか生きられないのです。遠い国で戦争が起きて何万人死んでしまっても涙はでません。かかわりがないからです。しかし、たった二人の死が皆さんを絶望の縁に立たせている。特定の人物とのかかわりが無くなるという事が絶望を生み出しているのです。
 死は全てを終わらせてしまうとは限りません。その考え方が絶望を生み出しているのです。古代インドの経典『倶舎論』には人が死ぬと『死体と死体でないものに分かれる』と書かれている。死体ではない方の事を『細身』と言う。その『細身』はもう一度生まれようとする可能性をはらんでいる。これを転生という。そうなのです。人間は生を続けられる可能性があるのです。皆さんと再会できる可能性があるのです。絶望の縁に立つのはやめましょう。絶望は信じるという心を奪い取ります。二人の転生を信じましょう。そして目の前にいる二人に再会を誓うのです。二人の存在が皆さんに再び必要ならば新しい姿に転生させてくれるでしょう。一緒に願いましょう」
 僧侶が手を合わせる姿がモニターに映っていた。その姿を真似るように参列者一同合掌をした。僧侶の言葉は参列する全ての者に向けられていた。この世に残されてしまった者への励ましの言葉だった。転生……、今の俺には受け入れやすかった。
「二人とは暫くのお別れです。何か語りかけてあげて下さい」
 喪主をつとめた妻がマスターの前に立ち止まった。彼女の姿は大型スクリーンに写し出された。手に握りしめているハンカチが小さく揺れていた。
「あなたを一生許さない……つもりでした。あなたの心の闇に気付いてあげられなかった……」
 彼女の怒りのベクトルは自分に向いているのだろう。自分を責める言葉で声をつまらせた。頬を一筋の涙がゆっくりと伝った。マスターに一礼して娘の前に立った。
「桃子。子供残念だったね。父さんを恨まないであげてよ。昔から寂しがり屋だったから、一人で……逝けなかった……、ゴメンね」
 彼女は手摺から落ちそうになるまで自分の娘が入った棺桶に近づき、手を伸ばした。そして頭を撫でるように優しく娘の棺桶は摩った。当たり前だが、娘が顔を上げて彼女に答える事はなかった。他の親族に引き離されるまで泣き顔でさわりつづけた。
「それではこれから『溶葬』に移ります。この儀式と共に二人の肉体を生まれた時へ戻していきます」
 僧侶と共にマスターの妻が立ち上がった。司会者が僧侶に長い桐箱を渡した。ゆっくりと紫色の紐をほどき、僧侶は長い棒のような物をとり彼女に渡した。それは慈母神が手にしている槍と同じ形をしていた。少し違うのは柄の部分がスコップの持ち手のようにT字型になっていた事くらいだ。彼女はゆっくりと中央まで歩み寄った。彼女の足元には銀色の大きなシリンダーがあった。そのカギ穴部分に槍の先端を差し込んだ。彼女は棺桶の中の二人の顔を交互に見た。そして目を瞑り、T字型になった柄を右回りに回転させた。その瞬間彼女は崩れるように床に座り込んでしまった。何が起こったのかと目を卵型の棺桶に向けると、中に入っていた液体が気泡を上げていた。まるで液体が沸騰し始めているようだった。そして液体は白濁していき中に入っていた二人の遺体は見えなくなってしまった。まるで本物の卵のようだった。
「ドイツの哲学者ニーチェはこう言います『私は私の上に、私自身があるよりももっと高い、もっと人間的なものを見る。それに到達するようにみんな私を助けてくれ。私も同じものを認識し、同じものに悩むあらゆる人を助けてあげたい』彼はそのような人を『超人』と呼びました。超人には一人の努力ではなれないのです。人とのかかわりの中で助け合う事で超人になりえるのです。二人の姿は見えない物へと変貌していきます。周りを見て下さい。皆さんにはこれ程多くの人とのかかわりが残っているのです」
 僧侶の説法が終わり間もなくすると、白濁した液体は元の透明な状態に戻っていった。しかし、そこには二人の姿は無かった。イリュージョンを見るような光景に会場内はざわつき出した。
『御遺体は特殊な薬品を使用して液体に変貌いたしました』
 スクリーンに黄色い背景で黒い文字が写し出されていた。それを見て若干ざわつきは納まった。溶葬とは遺体を溶かしてしまう方法だった。それも骨まで残さずに。二液性の溶解液なのだろう。気泡があがり白濁したのは別の薬品を混ぜ合わせた結果の科学反応だろう。
『液体の中和作業を行います』
 スクリーンの文字が変ると共に卵型の棺桶が銀色に変った。数分後、棺桶は透明に変った。スクリーンは卵型の棺桶を写し出した。良く見ると棺桶の中には数枚の赤い花弁が入っていた。それは弥勒さんがよく飲んでいるハーブティーに似ていると思った。
「それでは最期になりましたが、分水の儀を執り行います」
 司会者の言葉を合図に慈母神の両手の指先から水が出て来た。水は陶器製の大きな瓶に注がれた。暫くして指先から出る水の量が少なくなった。棺桶の中の水は三分の一程減っていた。
 僧侶は懐から袋を取り出した。袋の中身を親族が持っている卵型のガラス壷に入れていった。それは緑色をした豆だった。
「魂は肉体の様に浄化してきます。聖水の養分を吸い取り、この豆から芽が出た時に転生を完了するはずです。それではそれぞれの聖水を取り分けて下さい」
 柄杓で瓶の中に水をすくい自分の持つガラス壷に入れていった。火葬場で遺骨を拾う代わりの儀式なのだろう。親族達は二人の聖水を別々の壷に入れていた。ガラス壷の中で緑色の豆が毬藻のように転がっていた。

 近代的といえば近代的な葬儀だった。俺は帰り道でネクタイを緩めながらそう感じていた。火葬場にもいかないし、骨を見る事もない。散骨したい時には液体になっていれば、骨を粉状にすりつぶす手間も無い。何よりも良いのは、遺族のメンタルケアに重きをおいた葬儀だという事だ。参列した者が思っているはずだ。マスターの妻を助けてあげたいと。人とのつながり程、不思議な事はない。俺が占師になって名古屋に住まいを移さなければ、マスターとも出会っていない。それにたまたま行った東京で出会ったハジメという青年と母親とのつながり。そして彼の通夜に出席する事になった俺。人とのつながりこそ運命なのだろう。
「先生」
 その声に振り向くと紺色のダッフルコートにバーバリーのマフラーを身につけた静香が微笑んでいた。
「どうしたんだよ」
「どうしてって? 学校がえりに先生の所へ寄ろうと思ったのよ。私、先生の助手でしょ。昨日約束したじゃない」
「ちゃんと覚えてるよ。今日マスターの葬儀だっただろ。連絡出来なかったんだ」
 正直な所、すっかり忘れていたのだ。生まれてこの方これ程忙しかった日はなかったのだから。
「今日は占いの仕事をやるんでしょ?」
「実は四時までに岡崎に行かなくちゃならないんだよ」
「岡崎に何しに行くのよ」
 まるで遊びに行くのを決めつけているような言い方だった。
「別のお通夜に出席する事になったんだよ。母親と一緒にね」
「ふぅん、そうなんだ。それじゃあ、アシスタントのバイトは明日からだね」
 母親と一緒という事がよかったのだろう。やっと信用してもらえた様子だった。
「明日は占いの仕事をやるよ。常連さんを失ったら大変だからね」
「ところで、お母さんと一緒に行くって事は親戚の人なの?」
「違うよ。ハジメって男……、いや、何でも無い。母の知り合いだよ」
 途中まで口にして思い出した。ハジメは静香の友達をレイプしたのだった。
「ハジメって言ったよね。ハジメってあのハジメの事?」
 みどりから話を聞き出していたのだろう。勘の鋭い静香をごまかせなかった。俺が返答に困っているだけで、彼女は見抜いてしまっていた。
「大体、何であんなヤツの通夜に先生が出るのよ。それもわざわざ岡崎まで。信じられない。先生が呪い殺そうとしたから、負い目を感じてるの?」
 かなりの剣幕でまくしたてた。こんな静香を見るのは初めてだった。
「そう言う訳じゃないんだ。少し気になる事があるんだよ。話しが長くなるんだが……」
 俺の言い訳を聞くつもりはないのか、静香はくるりと背を向けて歩き出した。俺は急いで追掛けた。
「俺の話を聞いてくれよ」
「どうせ先生の長い言い訳を聞いてもお通夜に出席する事は変らないんでしょ。だったら聞いても聞かなくても一緒じゃない?」
 図星の事を言われると会話がそこで途切れてしまう。タイミングの悪い事に俺の携帯の着信を知らせる音が鳴った。相手は母親だった。
「ちょっと待てよ」
 俺が静香の肩を持って振り向かせると彼女は泣いていた。何故泣いているのか俺には分らなかった。通夜に出る俺が情けないのか、それとも、友達をひどい目に合わせたハジメが憎いのかは分らない。兎に角静香は涙を流していた。
「私の事はほっといてよ」
 そう言って静香は走り出してしまった。しかし、俺は追掛けなかった。例え追い付いたとしても彼女に言うべきセリフが見つからなかったからだ。それでも追い掛けるべきだとは頭では理解していた。責められても彼女の近くにいるべきなのだろう。しかし、勇気のない俺は足を動かせなかった。走り去っていく静香の後ろ姿を見ながら母からの電話に出た。浜松から電話に乗ったという連絡だった。電話を切った。まだ俺の視界に静香は入っていた。だが、俺は動かなかった。見えない誰かが足にしがみついているようだった。情けなさが俺の心に込み上げてきた。

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