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小説家版 アートマンコミュの黒いアルマジロと金色のヤマアラシ 第18話〜第20話

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一八

真理、立派だった。
運命と立ち向かう姿に感動した。
真理ならこれからの未来もきっと自分の力で立ち向かっていけるよ。

俺は真理に隠し事をしてきた。
俺の身体は進行性の病に犯されている。
もう後一年もすれば身体の自由がなくなるだろう。
二年もすれば言葉を失うだろう。
その後の年月は俺にはきっとない。

これが真理の側に一生いてあげられない理由だ。

俺は真理の事が本当に好きだった。
人をこんなに愛した事はなかった。
側にいてあげられない事が正直悔しい。
暖かい家庭を真理となら築けると思った。

俺の身体では真理を不幸にしてしまう。

真理、会えなくなるのは悲しいかもしれない。
でも予定が少し早まっただけだ。
神様が俺の命だけ人より短く設定しただけだ。

世界で一番幸せになれよ!
心から願っています。

鈴木 武

 柄にもなく真理への手紙を書きながら泣いてしまった。涙が手紙の上に落ちて滲んでしまったが、書直している時間はない。真理が帰ってくる前に出て行かなければ。
 二人揃って不幸になる事はない。自分の介護がどれだけ負担をかけるか親父の時に体験している。
 俺は手紙をテーブルの上に置いた。荷物はカバン一つだけ。チャップリンのDVDはカバンにしまった。二人の思い出の詰まった部屋を眺めた。丈の短いカーテンは俺が適当に買って来た。真理は怒る事もなく、それを取り付けてくれた。テレビは二人で近所のリサイクルショップに買いに行った。食器は真理が買った。ガラス製の物が多かった。テレビの横の水槽の中で仲良く金魚が泳いでいる。もう戻ってくる事はないだろう。俺は手紙の横に部屋の鍵をおいて飛び出すように出て行った。
 近所の寺の本堂付近から俺達の住んでいた部屋の入口が見える。そこで眺めていると両手一杯に食料品を入れた袋を持った真理が現われた。二度と見る事の出来ない真理の姿を、世界で一番愛した女の姿を目に焼きつけるた。涙でぼやけてしまうまで必死に見続けた。

十九

 武クンが姿を消して三ヶ月が過ぎていた。
 私は必死に捜しまわった。
 元々知り合いの少ない彼の居所を知っている人がいる筈がなかった。
 要するに私以上に仲の良い人がいないのだ。

 私ができる事といえば武クンの気が変わって、ふらっと戻って来られるように環境を変えない事だった。
 住む場所も職場も変えなかった。
 悲しいけど待つしか手立てがなかった。

 一つだけ新しく始めた事がある。
 それは絵画教室に通い出した事。
 武クンに絵の才能があると褒めてもらった。武クンの言う事には間違いない。きっと私には絵の才能があるんだ。そう信じて教室に通う事にした。
 残念ながら絵の才能は私に備わってはいなかったようだけど、少し夢を見れるようになってきた。
 それは将来、絵本作家になる事だ。成れないかもしれない。
 でもいい。将来に夢を感じるようになれただけでも昔の私とは大違いだ。
 人と接するのは相変わらず苦手だけど、絵画教室の生徒さんとは普通に会話が出来ている。
 全て武クンが私に与えてくれた物だ。
 父が私から奪い取った物は徐々に戻りつつある気がする。

 絵画教室から帰って来ると見知らぬ若い男性、学生っぽい人がアパートの部屋の前に立っていた。
「何かご用ですか?」
 私が勇気を出して声をかけると、相手は一瞬逃げ出そうとした。
 数歩歩き出して思いとどまったようだ。私の方に向き直った。
「山下真理さんですか? 鈴木武さんの事で」
「武クンの居場所を知っているの?」
 私の質問に彼は小さく頷いた。
 私の目から涙があふれた。
 武クンに会える。
 口元に手を押さえてその場に座り込み泣き崩れてしまった。
 嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
 目の前の彼が困っているのに気付き、部屋に招き入れた。

 部屋に入り冷静さを取り戻した私は彼をリビングに案内した。お茶を用意する間も胸の高鳴りを押さえるの必死だった。
「ところで彼方は?」
 お茶を出しながら相手の素性を知らない事に気がついた。
「武さんが働いていた自動車工場の経営者の息子です」
「登校拒否かなにか……ごめんなさい」
「気にしないでください。武さんの説教に助けられたんですから」
「そうでしたか」
 武クンが入社試験の代わりに難題を社長に突き付けられた話は聞いた事がある。登校拒否の息子を学校に通わす事だ。
 その子が武クンの居場所を知っているなんて不思議な事だ。
「武さんには堅く口止めされていたんですけど、武さんのやっている事って何か間違っていると思うんです。真理さんから逃げていると思うんです。それって武さんらしくないって思って」
「どう言う事? 武クンが私から逃げているって?」
「武さんのお母さんの話を聞いた事がありますか?」
 私が首を振ると小さい声で『そうですか』って呟いた。
「武さんが何故高校を中退してお父さんの介護をする事になったのか疑問に思いませんでした?」
 そう言えば不思議だ。母親の存在を気にした事がなかった。
「逃げたんです。自分の旦那さんの介護をするのが嫌で離婚したそうです」
 私は言葉を失った。
 武クンも親に自分の人生をねじ曲げられていたのだ。
 親を介護しなければいけない義務と逃げ出した母親への怒りを心に飲み込んで生きて来たのだろう。
 可哀想な人生だ。
「親が憎い訳じゃないが、何か理不尽な物を感じるって言っていました。僕なんか登校拒否になった理由がちっぽけに思えて来た。親に反抗する事が情けなく思えて来た。武さんの歩んだ人生に比べれば僕は恵まれ過ぎているって気がついたんです」
「そうだったの。全然知らなかった」
 一緒に暮らしていたのに武クンの事を全く知らなかった。
 心に大きな傷をおっていたなんて知らなかった。
「そんな武さんが逃げているのっておかしいです。真理さんとしっかりと向き合うべきです」
「私から逃げているって?」
「真理さんをお母さんに照らし合わせているんです。武さんのお父さんみたいに捨てられてしまうのが恐いんです。真理さんに介護拒否されて傷付きたくないって思っているんです。らしくないんです。口では真理さんに自分と同じ苦労をさせたくないって言っていますけど、本音は恐いんですよ。真理さんに逃げられる事が」
 それだけ言うと彼は何も言わなくなった。部屋が静寂に包まれた。

 なぜ私が武クンから逃げるの?
 それが私の為なの?
 ううん、それは違う。
 だって、私が幸せになる方法は一つ。
 それは私が武クンの近くにいる事。
 武クンは勘違いしている。
 伝えたい。
 私の気持ちを……。
 私は覚悟を決めた。

「君も武クンの事が好きなんだね」
 私の言葉が恥ずかしいのかお茶をすすって彼は誤魔化した。
「尊敬しているんです。真理さん、お願いします。武さんを幸せにしてやってください」
「うん。任せて、私の唯一の才能は武クンを幸せにする事だから」
 私が恥ずかし気もなく言ったので、何故か彼の方が顔を赤くしていた。
 彼が教えてくれた。
 武クンがいるは私の故郷。そうあの街だ。

二〇

「うわぁ」
 足下にいる小さな蛇に驚いた。飛んで避けたつもりだったが、ほんの数cmしか動いていなかった。それでも着地の振動に驚いた蛇は草むらに逃げていった。リハビリ、いや進行を少しでも遅らせようとなるべく散歩している。正直、身体を動かしていないと恐い。自分の部屋で横になっているとこのまま動けなくなってしまうのではないかと恐怖に感じるのだ。
 俺のいる保養所は親父の亡くなった病院の敷地内にある。海は近い。散歩には好都合なのだ。自然にかこまれた環境は保養にはいいのだろうけど、虫や蛇がよくでる。俺は苦手だ。特に蛇はダメだ。あの動き、あの質感が気持ちが悪い。それにあんなに小さいくせに王者のように堂々としている。人間様に媚びる姿勢など見せない。牙を見せて威嚇だってしてくる。気持ち悪いくせに生意気だ。蛇なら蛇らしくクネクネした生き方をしろって思う。
 海風が俺の金髪をやさしく撫でていった。ヤマアラシの刺はもうない。ツンツンに髪をたてる気力も体力もなくなってきた。それにしても夏の海は気持ちが良い。南からの空気を運んで来てくれる。きっと、マンゴーやパパイヤの樹が吐き出した酸素なんかも含んでいるんだろう。風に運ばれる空気が常夏って感じをさせる。海を見下ろす事のできる高台のベンチに座って深呼吸をする。空気の美味しさに癒される。
 歩いて来た道を振り返る。数キロは歩いたかと思うくらい身体は疲れているが、保養所の敷地内をまだ出ていない。せいぜい、数十メートルの距離を歩いただけだ。自分の体力の低下を感じずにはいられない。無性に悲しくなってきた。病気だから仕方ない。でも、俺は病気を受け入れる事は出来ていない。しかも弱音をはける相手もいない。弱音をはくって事は他人に自分をさらけださなきゃいけない。自分の気持ちや考えを理解して欲しいと思う反面、心や考えを読まれたくない。心を開いて良い事があった例がない。弱みをみせて良かった事はない。俺は王者の風格を持った蛇でありつづけなければいけない。自分で蛇にケチをつけた後だが、俺はクネクネした生き方は出来ない。

 海からの風はいろいろな物を運んできてくれる。俺の脳に親父を思い出させた。親父が死んだ日、俺は今井先生とこのベンチに座っていた。病院のロビーのベンチで泣いている俺をこの場所に連れてきてくれた。

 親父は東京、世田谷で医者を開業していた。親父の爺さんから代々続く医者の一家だった。俺も親父の後を継ぐ予定だった。
 親父は内科を担当していた。親父の先代、爺さんは生きていたが、すでに一線から退いていたので病院経営も行っていた。たぶん、医療業務よりも経営の方がメインの仕事だったと思う。当時、親父の弟も同じ内科医として勤務していたからだ。傍目にはうまくいっていたように見えた。大体、兄弟で同じ仕事をしている所はそう見える。それは先代、二人の父親が生きて目を光らせている間だけだった。
 俺は爺さんの生き方が好きだった。正直に言うと好きになったのはヤマアラシの頭になってからだけど。
爺さんは患者に対して本当に親身になっていた。診療というよりも人生相談。口癖が「心の病気も体の病気も同じ病気」だった。心療内科なんてのがない時代から、ストレスが病気の原因になると知っていたようだ。患者の悩みを解決させる事が、しいては病気を治す事になると考えていた。俺はそんな爺さんのような医者になりたいと思ったものだ。
 だが、親父は爺さんの経営を完全否定した。金のない患者からは金を取らなくても良いというのが爺さんの考えだった。医者は商店街の八百屋じゃないって爺さんのやり方を徹底的に批判した。高度成長、世の中の皆が金持ちになる時代だった。親父はそんな中で生まれ育ってきたのだから仕方ないのかもしれない。東京の地価もあがり、医院の支出が増えたのも一つの原因だろう。だから、爺さんは五十代という異例の若さで病院から退いた。古いタイプの人間は時代という流れに追い出されてしまうのだが、多くの人間はそこにしがみつこうとする。だが、爺さんは立派な引き際をみせた。辞める時はこうでなければならないと思った。
 当時の俺も親父の意見に賛同していた。親父の教育に洗脳されていたのだと思う。俺の親父は厳格だった。飯を食べる時には私語は厳禁。姿勢が悪いだけで怒られた。会話の中心は学業の事。休み時間に友達と遊んだ話をしたもんなら、怒鳴られた。休み時間でも教科書を開いていろというのが、親父の意見だった。その頃、俺は何もおかしいとは思わなかった。だから、勉強が出来なかったら爺さんみたいになると言われた。爺さんは頭が悪いと言っているようだった。だから、俺は爺さんの事を馬鹿だと思っていた。
 そんな爺さんも死んでしまった。爺さんが行きていれば俺の人生も変わっていたかもしれない。俺の都合で世の中が回るはずはない。
 爺さんは旅先で死んだ。交通事故だった。高速道路の多重事故に巻き込まれたのだ。助手席にいた婆さんも一緒にあの世に行ってしまった。爺さんの遺体を引き取りに行く親父は「面倒だ」って口にしていた。それの言葉を聞いて、初めて爺さんを可哀相だと思った。
 親父は罰を与えられたのかもしれない。自分の親を大切にしなかった罰が。爺さんの3回忌を済ませた頃に発病した。
 運が良いのか、悪いのか、親父の弟が病院を継いだ。元々、気の会わなかった兄弟。親父の発病は弟にとって幸運だったに違いない。病気を理由に兄は病院から追われてしまった。病院の敷地内にあった実家も親父の弟家族の物になった。きっと、親父が死ぬ事を先に見越していたのだと思う。名義を移しておけば死んだ後、面倒な事にならないと考えたのだ。面倒な事とは俺が跡継ぎになるって事。親父の弟の所には俺と同年代の息子が三人いた。その息子の親としては当然の事をしただけだろう。だが、住み慣れた家を追い出されるのは俺達家族には耐えられない屈辱だった。俺の人生が崩れだした時だ。
 親父の病気が進行するにつれて、母が外出しがちになった。「学校に行っている昼間は私が見ているのだから、夜はあなたが見るのが当然でしょ」それが母の言い分だった。真面目だった俺は不承不承、親の介護をしていた。その頃は医者になる夢を諦めていなかった。だから、介護をしながらも必死に勉強した。しかし、親父の病気の進行は思ったより早かった。日に日に家に帰ると勉強する時間が無くなってきた。そして、ある日、母は家を出て行った。引き止める俺に母は「私とあの人は血がつながっていないの。でもあなたは血がつながっているでしょ」と言った。まるで母には介護する義務がないように言った。あの時、自分の家庭が置かれていた状況を初めて知った。親父と母に愛なんてものは無かった。病気で動けない親父は母にとってお荷物でしかない。俺も母にとっては親父と大差なかったのだ。俺達は捨てられた。でも、俺は親父を捨てる事は出来なかった。
 お金には困らなかった。爺さんが死んだ時に入った保険金が五千万、親父の病院から退職金として五千万、合わせて一億という現金が通帳に入っていた。もちろん、父自身も保険に加入していたので、その心配がないのは助かった。しかし、全てを金では解決できなかった。もしかして、解決できたのかもしれないが、子供だった俺には知恵がなかった。父の世話をする人がどうしても見つからなかった。親父を病院に閉じ込めておく事も考えないでもなかった。でも、出来なかった。母にも捨てられて、俺にも捨てられる。きっと病院に入れていたら親父はそう考えたに違いない。全てに否定された親父が哀れに思えた。だから、俺は高校を中退する事を決意した。将来復学すればいいと思っていたのだ。それは叶わなかったが……。
 親父が息を引き取った時、正直、ほっとした。開放されたと思った。でも、その時ある事に気がついた。俺は孤独になってしまった。それが無性に悲しく思えた。俺も親父と同じで世の中に否定されているような気がした。自分の惨めさに涙が止まらなかった。
 葬儀はいたって質素だった。仕事をしなくなると人は来なくなるのだ。人間とは肩書きで生きている動物だと感じた。肩書きがはずされると急に魅力の無い人間に変わってしまうのだ。だから、親父の葬儀に参列する人はほとんどいなかった。
 親父の弟が俺を引き取って育てると申し出てくれた。本気にとった俺は馬鹿だった。それは形式的な言葉だった。他の親族の手前、そう言わないといけないという義務で口にしただけだった。申し出ると言った言葉で弟夫婦が廊下でもめていた。俺の耳にも届く程大きな声でね。別の親族も俺の引き取りに名乗りをあげた。俺が持つ通帳に魅力を感じただけだ。
 俺は人の汚さを知った。親父の死が教えてくれたのは、誰も信じるなと言う事だ。
人を近づけてはいけない!
 それを俺は本能的に学んだ。そして俺の頭はヤマアラシになった。そして、数年後、自殺しようとする真理と俺は出会った。

 真理と別れた事は後悔してはいない。俺が居なくなった後に、一人で生きていける道を作ってやった。真理が幸せになれば、俺も幸せ……って思い込もうとしている。真理が居なけりゃ、俺は幸せじゃない。そんな事は分かっているけど、俺の介護に真理を巻き込めやしない。仮にだが、真理が俺の介護をして看取ってくれたとしよう。きっと、「解放された」とか「死んでくれて良かった」と思われる。それじゃあ、惨めだ。情けない。こうやって、悩んでいる事だって情けない。受け入れるしかない。俺はポンコツだって事を。
「隣、座って良い?」
 俺が振り向くと、見覚えのある中年の女性が立っていた。警察署の受付にいた女性だ。何故、俺がここの保養所にいる事を知っているんだろう? 俺が問いかけようとした瞬間、彼女は勝手に俺の横に座って話しだした。
「あの子が私の所に来たわよ」
「あの子って?」
「君の彼女。真理ちゃんって名前だったかな? 君が自分の為に何をやってくれたか知りたいってね。素直で良い子ね。何で別れちゃったの?」
「うるせぇな。小言を言いに来たのかよぉ。だったら帰れよ」
「ごめん、ごめん。歳をとると一言言いたくなるのよ。彼女には話しておいたわよ。君が私の姉に土下座して許しを請うたって。彼女、泣いていたわ。きっと、君に申し訳ないと思う気持ちと感謝の気持ちが交わったのかな」
「話したのか、そうか」
 何故か満足した気がした。真理が喜ぶ顔が目に浮かんだ。
「彼女の為に君がとった行動は素晴らしいと思うわ。誰でも出来る事じゃない。でも満足なの? 自分が犠牲になって彼女の幸せを勝ち取るって事が」
「あんた、チャップリンの『街の灯』って映画知らねぇかな?」
 彼女は首を振った。
「なんだよ。名作だぜ。話はこんな感じだ。貧乏な男が罪を犯してしまうんだ。それは盲目の少女の治療の為にね。盲目の少女は自分の目を直してくれた人の顔は知らない。そりゃあ、目が見えないからね。治療のかいがあって視力を取り戻した少女は偶然、その貧乏な男と出会う。その男がとった行為は何も言わずに立ち去ろうとするんだ。自分の身なりと少女の身なりを比べてね」
「へぇ、良い映画ね。今度見てみるわ」
「そうしろよ。まぁ、俺もそんな貧乏な男と一緒なんだ。身体が動かねぇ俺は乞食みたいな者だ。俺と一緒にいても不幸になるだけだ。本当に相手の事を愛しているんだったら身を引くのが当然だろう。俺はそう思う」
 俺は長い白い線のような波を見ていた。何か空しい気持ちになっていった。
「君は悲劇のヒーローに憧れているんだね」
 その言葉に現実に呼び戻されたような気がした。俺は睨み付けるように彼女の顔を見た。
「俺が悲劇のヒーローだって?」
「そうでしょ。映画やドラマだったら綺麗な終わりで済むかもしれないけど、実際はそんな事はありえない。君だって、本心は違うんじゃないの。彼女が幸せで、自分が不幸でも満足って言えるの?」
 俺は言い返せなかった。
「なんか君がやっている行為って自己満足な気がする。人生に筋書きを決めて、それを演じようとしている。誰に観せたいのよ。あなたの人生に観客なんていないんだよ」
「うるせぇな。いいんだよ。これが俺の人生だ。あんたにとやかく言われる筋合いなんてねぇんだよ」
 俺は立ち上がり、この場から逃げ去るしかなかった。たぶん、彼女の言っている事の方が正しいんだろう。俺は貧乏クジを引いたような人生しかおくれないんだ。
「本当に頑固だねぇ」
 彼女は俺の右側で身体を支えてくれた。俺はそれを拒否しようと突き飛ばそうとしたが、逆に俺が弾き飛ばされそうになった。
「人の親切は『ありがとう』って言って受けるのが礼儀だよ。覚えておきな」
 体勢を崩した俺を片手で引き寄せた。そして再び俺の身体を支えて歩き出した。悔しいが正直、助かった。

 保養所のロビーには大型のテレビが設置してある。そのモニターに写し出されているのはチャップリンの『街の灯』だった。丁度、最後の場面。盲目の少女が貧乏な男と出会う場面だった。
「なんとなく、急に観たくなってね。武君の部屋にあったDVDを借りて来ちゃったんだ」
 声の主は今井先生だった。親父の担当医で、今は俺の担当医だ。テレビに目を戻すと、場面は貧乏な男の正体に気付いた所だった。
「なぁ、先生。何故チャップリンは最後笑ったんだろう?」
「たぶん、満足したんじゃないかな。自分がとった行為の真意が伝わった事に満足したんだと思う。だって、彼女の愛を勝ち取る為に罪まで犯したんだろう」
「だったら、何故、姿を見られた時に逃げ出そうとしたんだ?」
「きっと、自分の姿がみすぼらしかったからだよ。どうせ、再会するんだったら、紳士のような姿の時に会いたいだろう。誰だって、少しは背伸びしたいんだよ。特に愛する女性の前ではね」
 映画はチャップリンの照れたような笑顔のアップで終わった。
「久しぶりにヤマアラシのような髪型にしないか?」
 笑いながら今井先生が言った。
「そうね。特に今日はね」
 婦警のおばちゃんまで今井先生の意見に賛同した。
「別にいいよ。どうせ、部屋に帰って横になるだけだし、崩れちゃうだけだから」
「そんな事言うなよ。僕が髪型をセットしてあげるから、ここに座りなよ」
 俺の意見なんか最初から聞く気はなかったようだ。強引にロビーの椅子に座らされた。介護士の女の子がムースとヘアスプレーを手に持ってやってきた。何か仕組まれているように段取りが良い。何も放映していない真っ黒なモニターを鏡がわりにした。先生は俺の頭に上にムースでソフトクリーム状にすると、適当に広げていった。
「どうせやるなら、ちゃんとやってくれよ。ただ髪の毛を立たせるだけじゃダメだぞ。指でねじるようにしてくれよ」
 俺もその気になって先生に指示していた。何か健康だった頃に戻ったみたいな気がして来た。悪い気はしなかった。
「こんな感じでいいかな?」
 俺は後ろ側の髪の毛を左手で確認した。まずまずの出来映えだ。俺が合格だと告げると、先生は全体的にスプレーをかけてヤマアラシが完成した。
「やっぱり、この髪型が一番武君らしね」
 今井先生の言葉に俺も頷いた。真っ黒なモニターに写っている俺こそ、鈴木武だ。横に真理がいればまるであの頃と同じだ。俺の人生で一番楽しかった頃。
 戻りたい……そう思った時、黒いモニターに見覚えのあるシルエットが現われた。
 どんどん俺の方に近づいてくる。
 俺は身動き出来ずにそのシルエットを見つづけた。

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