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心の中の樹を抱く、花を愛ずるコミュの初冬 孤独について、許せないことについて

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初冬、すべての葉が落ちる寂しい季節、どうしても抜けられないさびしさを
お互いに語り合いませんか?

同時にどうしても許せない相手について「自分を解き放つ」ことを
考えてみませんか?

コメント(30)

マザー・テレサのお言葉から


人は不合理、非論理、利己的です
気にすることなく、人を愛しなさい

あなたが善を行うと、
利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう
気にすることなく、善を行いなさい

目的を達しようとするとき、
邪魔立てする人に出会うでしょう
気にすることなく、やり遂げなさい

善い行いをしても、
おそらく次の日には忘れられるでしょう
気にすることなく、し続けなさい

あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう
気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい

あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう
気にすることなく、作り続けなさい

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう
気にすることなく、助け続けなさい

あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい
たとえそれが十分でなくても
気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい

最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。
あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです
五木寛之さんがエッセイで
正義をおもなうことも、報復することも、許すことも、すべて
人間の仕事ではないと・・
許すということはどこか傲慢な感じがするということを
書かれてました。

許せとか許すことは人間の仕事でないかもしれないって。

忘れるか、それができなければ笑う、それができなければ悲しむ・・・

許すことも許さないこともどちらにしても人生のすべてを
「自分で取り仕切る」ことではないのではって・・

そのくらい難しく、安易でなく、そして許せとか人にいうことの難しさを感じるのです。

私は人に「許せ」と安易にいえなくなってるのです。あまりにも傲慢な気がするから。


そういう神様でもいいし運命といってもいい。自分の意思とか心でなくてもっと大きなものに
「許す、許せない」をゆだねてみようと思っています。


1、許そうとかそんなこと思っちゃ苦しい。

自分が一番楽な道を取ったらいい。許せない自分を許して、
許せない自分を抱っこしてあげて、「あいつとは文化がちがーう!!」と割り切り、


2、せめてぎりぎり「他人に悪口を言わない、その人に復讐しようとしない、だけど内心うらんでもいい」
ぎりぎり外に出す行動さえしなきゃいい。と割り切る。


相手をじかに包丁で刺す、傷つけるとか犯罪行為をぎりぎりでも「しない」ことですよね。いっくら
許せなくてもいいけど。それと

3、許そうとして苦しまないでくださいね!

一番いいのは忘れるとか風化する。許そうなどとはとてつもない大きなこと。許すとか忘れるとかは神様にぽんっと預けて
あなたは「許せない人」は許せない。だけどあなた自身の
トラウマは・・自分で優しく包帯を巻いてくださいね。
あなたは「自分はそれでいいんだ。許せないっていう傷をもっててもその傷をもって生きててもいいんだ」って・・・




許すことができない自分を優しくすること。 許せない自分でも優しく攻めないこと・・
精神的外傷を受けた人はそんなに簡単に許せません。 許そうとしたらこちらが苦しい。

5、許せる自信なんかない

そういう弱い自分も、います。 努力しても弱い自分もいます。

その「まだ自信を語れるほどではない」という心をもって そこでとどまらないことでしょうか。


5、運命もあるんだ

運命は受け入れる、でも許せない相手は許せない(相手は
法ぎりぎりのことまでしてきた)、でもそういう犬に
噛まれ、いまだフラッシュバック的に悪夢を見たり
あるいは合ったときに手足が動かない・・そういう場合は
運命やん、もう一生ゆるせんでかまわんやん!

6、神仏も頼めるんだ

かみさま、あんたに頼むでえ!でつぶやこうと思いたい。
でも自分が楽になるのが一番です!!許す許さないをアキラメましょ
 結構新約聖書とかキリスト教などには

「まあ、なんて・・・」という言葉があるんですよね。曽野綾子さんの本に。
冷酷に・・いわく、
「自分で復讐せず、紙の怒りに任せなさい」
にくい敵は神さんがなんとかしてくれるからって。
許せともなんとも書いてない。

自分で復讐することは、ある意味で人知を超えるし。また警察沙汰にもなる。
それで自分のエネルギーもとられるからということかしら?

また許すなどということすら「私にはできる場合とできない場合もある」ならこれも神様にお預け。大体あるケースなどは
「許す許す」と思って数年がんばったけど「あかんわ」 ってこともある。


7、でも無駄ではない

私がさらに追い討ちをかけてひねくり回した3ヶ月は「私には無駄じゃなかった」

それはいえる。

8、結局自分を受け入れる


もっと豊かな人間になろうと思えばなれる。


相手を陥れようとか思わない、相手に惑わされない(・・ってことは一生無理だとしても)ように努力するだけの女になるわさ!

神さん、後、あいつのことは、あなたにまかせたよ!っていわざるを得ない。


「あたしの及ぶとこじゃない」
「許せないなら神さんにまかせよ」

かみさまがどう処置してくれるかは私は知らない。こっちがこうしてくれといえることでもないしね。もう
私の及ぶとことじゃない。それより私は自分の精神衛生に 気をつけておこうって。

9、結局は・・・「永遠の片思い?」

コクることはできるよ。あんたが許せんって・・
でもたいていコクれないから。それが1

その2、自分のこころに片思いがいる。
片思いの相手は「許せる広い心」
たいてい「許せん心のほうが片思いする」

「許せないだろう相手をもつ自分」を「許したいくらい広くなりたい自分の心(理想)」に恋してることじゃないかなあ?
うまく成就することはあるけど片思いに終わること多し。

あこがれるけど「あかんわ・・」という奴だと悟る。
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私が「許せない心をもった私」。
片思いの相手が「許せる広いこころの私」
達成するために努力する。だけど、あかへんということも悟る。いっぱいいっぱいアプローチしてみる・
許そうとしてみるけどでけん。到底達せない。

だけど一応一生懸命あの手この手でアプローチ。でもできん。それでも自分を磨いたり、自分の努力をしてみたり
一生懸命してる、「その許すという心。片思いの相手に届く」かはわからない。ことじゃなくて「なんとかそこまでもっていこう」努力。
で、振られる。「やはり許せる私じゃない」と絶望する。その後に起こる自分をなだめて「あかんかったなあ」・・
その場で忘れてもええやん、となるし、また許せない相手ができたらそっちに精力つぎやす。

辺和子先生の本をずっと読んでいます。かれこれ25年にわたり。

 ずっといろいろな和子先生の本を読んできて、とっても心に残ったことがあります。
先生はピーマンが受け付けず、どうしても食べられないということです。
でもピーマンは「好きになれない」けど、ピーマンの人格(???野菜格??)を否定してるわけでない。ピーマンの栄養価とか
ピーマンを好きな人も多いことを知っている。

 でも嫌いなもの、好きでないピーマン。

 でもそれでもピーマンの価値は先生の好き嫌いとは別のところに存在するわけですね。
ピーマンが大好きな人もいるわけです。私も大好き。
ピーマンを愛するということはそのような客観的価値に敬意を払うという心を持ち、すくなくともその価値を否定しないこと・・
という言葉にあ、わかる気がすると思いました。

 ピーマン的存在の人はいますね。生理的に受けがたい人、その人のにおいをかぐだけでいやな人はいるわけです。先生も
います。あの人は「私にとってピーマン的存在だった。アメリカにいってくれたのでほっとした」・・・

でもその人にはその人の価値がある。

好きイコール愛するでないこと

 愛するということ、とは
自分が(たとえば和子先生のピーマン人間)好きでない、そういう人でも無関係に、その人にはその人の価値があるのだということを
認めるということだということなんです。

 その人がいることに敬意を払うこと、それがその人を大切にすること、嫌い、好きでない人でも「愛する」ということ。

 好きな人は愛しやすいです。でも嫌いな人の価値を求めることは時に英雄的な努力を必要とすることですね。闘いです。葛藤ですね。

 和子先生はいまだ「ごめんね」といって酢豚からピーマンを除いているでしょうが、それでも酢豚をメニューにいれることを
絶対だめとはいわないでしょうね。学校とか職場からピーマン料理を絶対入れるな、八百屋さんからピーマン排除!!とはいわない。
それが愛するということに
つながるんでしょうね。

和 子先生にとってのピーマン的人はアメリカに転勤になったそうですが、確かにありがたい、と書かれています(好きでない、うまが合わない人
が身近にいなくなったのはありがたいと・・うんうん、なかなか可愛いじゃないですか・・先生って)

 でも自分のふがいなさを申し訳なく思って、せめてもの罪滅ぼしに精一杯その人の幸せを願う、それが愛したいということに
つながると書かれています。
「きらいなものは嫌い」
といいつつ、それでも「嫌いなものはあっても、好きになろうと思わなくても」すくなくともぎりぎりでとどまるという闘い。

 ピーマンさんが来たときでも挨拶まではもごもご・・でも
「それでも最小限少なくともあの人の悪口はいわないでおこう、あの人をいじめないでおこう、あの人を陥れる意地悪は
しないでおこう」

これでも立派な愛になるのではないでしょうか?


 私もピーマンさんがいるんです。

 なかなか難しい。嫌い以上の感情すら持つ人。
今は・・・好きじゃないです!!でも「それでも最小限少なくともあの人の悪口はいわないでおこう、あの人をいじめないでおこう、
あの人を陥れる意地悪は しないでおこう」


 私も人間が狭い。でもそういう狭い心の人でも「セーブしてるじゃん。ちょっとましになったのね。そんなあんたでもあんたは愛すべき人なんだ」
って神様が言ってくれるんだろうなあ・・

 自分の中のピーマン的部分、比較するためにも必要なピーマン的部分、受け流せるピーマン的部分。 愛イコール好きでないと
「いけない」というけど好きになれず苦しむピーマン部分。

 でも結局「嫌いな、好きになれない」けど「その存在を認めようかとは努力して」いるんです。「好きでなくてもいい」んです。
 しかもそういうピーマン氏をもってる、ピーマン部分をもってる自分でもいとおしいと思う。
しょーがねえんだと思う、付き合ってやろうと思うことかも。

1、愛は闘いということ。
大変な努力と葛藤がいる。愛は「好きでなく闘いである」という先生の話がここに出ています。

 好き嫌いを乗り越えるというのは愛としても、時間もかかるし葛藤もある、頭でわかってても・・もある。 今は努力できない弱い自分もいる。
 
 いくら先生でも、ピーマン氏を生理的に受け付けない場合だってあるんですね。

 今はできない「やはり心の中で憎んでいる」自分でもせめて「相手を傷つけたりしない、悪口をいったりしない、陥れようとしない、ぎりぎりの線で踏ん張る」
そのぎりぎりの線を守ることすら「愛」につながるということでしょうか。
その加害者の年老いた遺族の方のご健康をせめて祈ってる。


2、好き嫌いは変わらないかもしれない、でも「愛」することを少しでも努力していくこと。ぎりぎりで踏ん張る努力をすること。

好き嫌いを乗り越えるのは愛である、そこまで努力してみること。相手の存在を認めるまでは。


 それでも「好き嫌いがあるし今は愛せないけど」人は変わる「かもしれない」。 無理に変える必要はない。
無理に嫌いを好きにすることが 出来るはずもないように。

 「相手の存在を認めるように努力する」こと、それが愛だということでしょう。

 その努力が今はできない自分でもせめて「相手を傷つけたりしない、悪口をいったりしない、陥れようとしない、ぎりぎりの線で踏ん張る」
そのぎりぎりの線を守ることすら「愛」につながるということでしょうか。

 好き嫌いを乗り越えるというのは愛としても、時間もかかるし葛藤もある、
頭でわかってても・・もある。

3、受け付けない弱い自分もあるということ。それでもその自分をいとおしいと思うこと。

(受け入れられない自分、愛せない自分も自分の心の中のピーマン的部分なんだから)

 好き嫌いを乗り越えるというのは愛としても、時間もかかるし葛藤もある、
頭でわかってても・・もある。 大変な努力と葛藤がいる。愛は「好きでなく闘いである」という先生の話がここに出ています。

「相手の存在を認めるように努力する」こと、それが愛だということでしょうか。 でも本当に一生かかる場合もある、できないこともある。

 その努力が今はできない自分でもせめて「相手を傷つけたりしない、悪口をいったりしない、陥れようとしない、ぎりぎりの線で踏ん張る」


「私、ピーマンが苦手なのよお。」と笑える自分。それでもいいと受け止めてくれる他人がいたら?
またもっと強くなれたら・・そのピーマン苦手な自分でも「しかたないねえ」と
苦笑いできる自分がいたら?

 そして今は踏ん張るまではいくけど「愛する」まではとてもいかないなあと嘆く自分、弱い自分すらいとおしいと思う、暖かい目でそういう
弱い自分を認めてやることが自分に対する「愛」ということでしょうか 。弱い自分、愛せないピーマン的性格の自分すら愛してやろうと言う
それが「自分への愛」でしょうか。

愛するということは好きと同一ではない。それはエーリッヒ・フロムの言葉を借りれば「決意であり、判断であり、約束」なのだ。
相手を好ましく思う要素が消滅した後でさえ、守り抜いていかなければならない人格的責任を要求するものである。
ps 私はピーマンが大好きです。野菜のピーマンなら。


4、相手の成長を願う、嫌いな相手でも成長を願うことも愛。

私はこれが解りませんでしたが、先生のピーマンへの愛でふと今日朝野菜に水をやってた時に感じたことがあります。

ここからは想像ですが・・
渡辺先生の家庭菜園があれば、知人から、大きくなりますよって、先生のピーマン嫌いを知らないで、知人が好意でピーマンの苗が届けれたとしますね、
和子先生は「うーん、受け付けないんだけどねえ」といいつつ、熱い夏一生懸命、一生懸命水をおやりになってるんじゃないかなって?
そしてピーマンの苗がどんどん大きくなってきて「ごめんね、私食べられないのよ。ピーマン嫌いなのよね」といいつつ
また水をやって一生懸命ピーマンが大きく育ってるのを 待つ。
「ごめんね、誰かが食べてくれるだろうからね」と内心困りながら「ピーマンがすくすく育つのをまってる」


それでもできないから人間って難しい・・・

まだ出来ない許せない人は2人います。



 ある事例を許せない自分がいても、許したつもりでもどうしても足がすくむ自分がいても、それはそれで「今は自分を許してあげて
ください」

 でもそれはそこで終わっていいということではないのです。
 
 一旦休みつつ、いつか「自分もその許せない自分も許せる日が来るだろう」と歩みだし、葛藤や苦しみを乗り越えようとする自分、大きな山を
乗り越えようと努力し続ける自分。おそらく一生の闘いになるだろう自分に愛を与えてあげてください。ご自分で。



 また一歩踏み出そうとするご自分。けしてたやすいことではないのです。人によっては「許す許さない」ことを一生の贖罪として
生きなければいけない場合すらあります。

 具体的にいうと、戦争がありましたね。1年前のNHK朝の連続テレビ小説の純情きらりで、主人公の夫が戦争から帰ってきて
目の前で戦友が死んでいった、しかし自分は生きて帰った、それが許せないと自分で自分を責め、数年も苦しむことがありました。
主人公(妻)がその傷口を一緒に包み込むことから、しだいに心を開き、そして「戦友が死んで自分が生き残った罪悪感」から
しだいに解放された。一人ひとりに謝りにいく、そしてその葛藤を乗り越えていく感動的な話がありました。

 そのくらい辛いことを経験している人々に何故第三者が簡単に
「自分を許しなさい。戦争も許しなさい。」といえるでしょうか?

 幸いこの夫には妻がいました。一緒に傷を癒してくれる存在が。
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 私にもいないことはないのです。しかしながらもう私のような年齢になれば自分の傷を自分で切り開き、自分で包帯を
巻いていくことをしようと思っています。傷がどんなに汚くても。自分の汚い部分を出しても。

 許せない存在がいる自分、そういう存在を許してないことを恥じる自分、そういう醜い自分でも「汚いけど一緒に治そうね」と
私の傷付いた心を癒しながら、そして許す、いつかは許せる、と信じて一生の闘いに向かおう、それでも「ああ、まだ駄目だ」
という挫折感を何度も味わうことでしょうね。それでも横に第二のお友達がいると思って、生きましょうね。

 キリスト教でいうなら「神様」なのです。あなたの心の中に「そんな挫折と駄目な自分でも見守ってくれる神様」

第二のお友達を心の中に作れた人は、ほかの第三者、ほかならぬ傷を受けた別のお友達にとっても、きっと優しい人になれます。
あなたの傷が何故受けたかは聞かないけど、私の力で一生懸命(渡辺和子先生のお言葉を借りれば)包帯を巻いてあげましょうね。
と。


 それでも許せない場合はどうしてらいいのか。
 それでもそのことを根に持つ場合はどうしたらいいのか。
それでもいいんです。神様と違い私たちは「許せない弱さ」を持つ人間だから。
そういう弱さをもっても、でも神様は許してくれます。

疲れてはだめ・・


 無理に許そうとか、あるいは無理にその方に声をかけようとすると、こっちの精神衛生上よくありません。

時間と距離を置いて、しばらく「あの人とは文化が違うから」と割り切ってすっぱり断ち切るということも許されるのですね。

時間で許してもらうという手もあるんですね。

ツカレテハダメを合言葉にしては?

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 人をゆるさない人は、また、他人の支配下にあります。ともいわれています。

もうあの人、私との約束を破って遅刻したのにあやまらない、と一日ぷりぷり怒る場合などはそうでしょうね。
怒る時間ももったいないのに、またそれを友達に電話する・・とまたそれで怒り増幅と時間の無駄。
こだわりに縛られ、許してない相手の支配下にあるということです。

 そのくらいの衝動的な怒りはさておいて・・・

 よくある「私の彼が私を捨てた」
しばらく怒りの衝動が走ったあげく、また泣いて泣いたあげく、
「もういいわ、あんなやつ許せないけど、もうきっぱりと諦め、これは相手の問題だわ」

自分の心を一時乱されて悔しいのに、それを深追いし手、これ以上自分のかけがえのない一生の時間を無駄にしたくない
というプライド。

 嫌いな「あなたに」しばらくは憎しみの感情を持つだろう。しかし時には自らの感情をすっぱりと断ち切ることも大切です。
そして嫌いな相手に会わないといけないときは最低「あんたは○○だわ!!」とか言わずに「あんたは文化の違う人間だわ」と
精神的に距離をおく、あるいは会わなくてすむ場合なら時間が案外一番いい薬なんです。
会わなければいい。

 いい女になってやる、でもいい。「あんなことで私の心を騒がせるのは、筋合いでない。私のプライドも許さない」

思い切ってそういうと案外楽なんです。汝の敵はそんなに簡単に愛せないけど、敵から気持ちの上で解放できるということは
すばらしいことなんですね。そんなに「それこそ神様じゃないんだから」すべての人を心から愛せるわけじゃないし
そういう弱い人間でも神様は許してくれる。
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 ではもうひとつ。


 切ったつもりでも「あ、まだ忘れてないわ」なら、時間が一番いい薬です。

人と人とのあいだを
うつくしくみよう
わたしと人とのあいだを
うつくしくみよう

つかれはならない(八木重吉)

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 いずれにしろあせらない、疲れてはならない、自分の気持ちにうそ言って「許します」「愛します」「ありがとう」
・・・まだ本当に許しになってないのに、そんなに言って治るもんじゃない傷をもってるのにいう。疲れませんか?

 「文化が違うから」(結構きついことを先生は平気で書かれてるわ!!)「あの人の問題だから」とすぱっと言う。「相手の悪口を言わない」。そこで切る。
それが一番でしょうね。

五木寛之さんがエッセイで
正義をおもなうことも、報復することも、許すことも、すべて
人間の仕事ではないと・・
許すということはどこか傲慢な感じがするということを
書かれてました。

許せとか許すことは人間の仕事でないかもしれないって。

忘れるか、それができなければ笑う、それができなければ悲しむ・・・

許すことも許さないこともどちらにしても人生のすべてを
「自分で取り仕切る」ことではないのではって・・

そのくらい難しく、安易でなく、そして許せとか人にいうことの難しさを感じるのです。

私は人に「許せ」と安易にいえなくなってるのです。あまりにも傲慢な気がするから。


そういう神様でもいいし運命といってもいい。自分の意思とか心でなくてもっと大きなものに
「許す、許せない」をゆだねてみようと思っています。
制限なしに○○できたらいいなあと言う人もいる。

樹は動けないという制限がある。

なんで試験があるんだという人もいる。

でもお互いを守る、それが制限ということでしょうか。

たとえばマナーを守ることも制限、こうしたら他人とか公共のためにならないからという制限が与えられてる。

同時に自分の心も、切れそうなとき、相手から罵倒されたり怒りをぶつけられたとき、とっさに心に「ちょっと待て。」と一瞬の制限、
言い返さず、一瞬待つ、 心の制限です。
いままでの私のエッセイや文を書きました、これからはフリートークで書いてくださいね! 特に過去に辛い、許せないことがあったことについて、愚痴も一杯ね!! 自分の気持ちを整理できないこととかも・・
自分の悩みを書くのもよし、自分の考えについて書くのもよし、少々トピと
はみ出しててもいいですから・・ね!!
まだ憎しみが消えない、あるいはどうしてもこだわる方はいますか?

どうぞ自分を責めずに正直にお書きくださいね。これもお題とします。
頭で許していても、心ではなかなか許せない時があるのだ。
そして私は、人間は神様と同じように許さなくてもいいと思ってる。
つまり心底から許せない苦しみ、もどかしさがあってもよい。
いやむしろ、そういう自分の弱さを受け入れること自体が「許し」の一部分を構成してるように
思えるのだ。
こういうこだわりと私たちは一生の間、ともに過ごしていかねばならないのではないか。

(渡辺和子 心に愛がなければ より PHP文庫)
孤独になったり、自分が自分を責めるときもある。進んで孤独になったわけでない、進んで人に悪く言われたわけでないのに・・・

つらい冬のとき、ふと思う。

「せめて何もない日であっても、つらい日であっても、そのつらさに今日一日耐えれた自分を褒めてあげなくてはかわいそうだ」


つらさに耐えれた1日を越えれた自分を褒める、せめてそういう自分を愛し受け入れる、時間はかかるけど・・・そうでないと「自分がかわいそう」だから。

秋の雨はブルーになります
つらいときの道はもっと辛い・・
紅葉は美しいけど、もうすぐ散ってしまうだろう。

今クリスマスシーズン。ぴかぴかのイルミネーションや、ツリー。
何かわかるけど、何か物足りない。

そういうとき、ちょっと朝周りを見てみませんか。ふっと
そんなにぴかぴかではないけど、毎日毎日おはようって顔が増えてくる。

山茶花。このごろは毎朝「きのうよりもっと咲く、昨日よりもっと咲いてる」
のです。
時々思う・・・私って必要な人間なんだろうか?
私っていてもいなくてもいいんじゃないかって・・・


自分すら疑うこともある。

静かに野菊を見ることもある。

あなたたちは「人に見られないでも平気なの?」

野菊は答えず、一生懸命咲いてるようだ。
華さんも・・辛いこともあったのでしょうね。
この雨の冬至の中、自分の心について考えるより、そっと「何かの」幸せを考えようと
思います。
大雪のなか、みんな一度は孤独や悲しみを覚えただろう・・

それを言える相手がいたら・・。理由もなくさびしいといえることがみんな
いえたら、暖かい孤独になるのだろうか?

春になったとき、みんなのこころに何かが残るだろうか?

同じ寂しさを共有できる人たちなら、その寂しさが終わっても
個々の寂しさが消えても、振り返ってくれるだろうか?
孤独を感じちゃいけないのかな?

考えようによっては孤独もいいものなんだよ。

神様からいただいた瞑想の時間なんだよ。

自分の成長のための孤独もあるんだよ。

今日もまたみぞれが降る。今日もまた日が照らない。さびしいけど・・

その寂しさを味わい尽くすことも人生には必要なのかもしれない。


いつも誰かがいないとだめだろうか?いつも「自分は一人ではない」と
思わないとだめだろうか。

時々は

誰かがいないところ、自分が一人であると自覚することも必要な気がする。

そうすればまた自分の気がつかないうちに成長してるんだ。

この木のように。
(私はまだ、人生最大の孤独をむかえていないはずです、いつくるのかわかりません、でもまだ来ていないのはわかります。だから、もしかすると、孤独ってわたしが思う以上に重くて苦しいものかもしれない…。わからない…一生わからないかもしれない。今のことしかわからないです。私自身の孤独を理解するように人の孤独を同じように完璧に理解できるとも思っていません。みんな差こそあれ、似たり寄ったりでしょうか??)


孤独を感じるのは、私の中では当たり前の感情です。当たり前に孤独を実感しますし、当たり前に、一人になる時間を求めます。
そうですね、瞑想ですね…私は瞑想状態が大好きです。

孤独が重くて、重くて仕方がないときもありますけど、そういうときこそ私は、孤独が当たり前だと、痛感したいんです…そして静かに、整理がつくまで待ちます。孤独は当たり前だという整理です。完全な整理は求めません。でも、少しでも整理がつけば、より敏感に感覚器官から幸せを感じれます…。


私の存在の一部は孤独です、そしてそれが寂しいときもありますけど・・・
孤独をさけるより、私の感情に包括してあげるほうが、自分にも人にもやさしくなれるような気がして好きです。愛せるものが増えるような気持ちもしますし。


でも…最後に…孤独は好きだし、嫌いです。こんな矛盾も私の中では当たり前です・・・(笑)それでいいんです。そういう矛盾なら大好きです。

そうですね。矛盾があるんですね。私もそうです。

同じ条件でも孤独を愛せる時と愛せない時と。

ただ「孤独」と「孤立」は違うのですよね。

また他のかたが孤独に浸りたいときは親友といえ侵入禁止のこともある。

孤独にさせてあげたいときもある。

いえることは「孤立」させてはいけない。自分も人も。

そして孤独と悩む人がいたら「孤立」までいかせてはならない・・って
ことでしょうか。





そうですね。。。孤独と孤立は違いますね・・・

孤立は、しても、させても、良くないですね。。。。

でも・・・孤立したとしても、どこか別に居場所があれば、救いがありますね。

それぞれに、孤立を経験してしまった場所ってどこかしらあるきがしますね。みんな一度は孤立してしまった経験ってないもんですかね・・・??
もしそれがないなら、もともと賢い人間か、ハッピーな人間か、知恵のついた人間か・・・。


わからない。
昔からいっぱいありました。でも・・・なんとか生きています。

今の子どもたちよりも「いじめは」あったけど孤立してても「救いが」どこかにありました。

「孤独は楽しめるが、孤立は楽しめない」。
 福祉に関するセミナーでそんな言葉を聞きました。
 想いが繋がっていれば孤独ではないということも知っていますが、それで独りの宵を幾夜も越えてゆくのには慣れが必要です。

 写真を季節外れと思われる向きもあるかもしれませんが、私のところでは今、満開に咲いております。
 こんな冬もある。
 皆それぞれの空の下。

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