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道元禅師コミュの学道用心集〔坐禅を学ぶ時の10の教え)

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道元禅師のお書きになられた坐禅を学ぶ10の指針です。
参求してみませんか。ご意見がありましたら宜しくおねがいいたします。

コメント(18)

tenjin95さんの意訳、ご意見を掲載致します。


…………
『学道用心集』−在家者の学道指針のために

最近、普通に社会で仕事を持ちながら、参禅し仏教を学ぼうとされる方が増えているように思います。さらに、ブログというシステムが流行しているためか、学びの状況が示されることも少なくないように思います。実際に、拙ブログにて交流を持つ方もおられます。そこで、拙僧つらつら鑑みるに、そういった在家者が仏教を学ぶ方法として、何か明確なものを示しておく必要があるのではないかと思いました。

まぁ、道元禅師の在家者に対する態度は複雑で、全般的には在家にあって学ぶ限界を示していると思います。しかも、それはどれだけ平等な社会になっても解消されないものだと思いますので、拙僧も在家者の学びが完全に出家者と同じ状況になれるかは別にしておきます。

しかし、学ぶ方法を体系的にまとめておく必要はあるでしょう。拙僧は、道元禅師の修行法でもっとも体系的に示されている著作は『学道用心集』であると考えています。この著作は在家者に対する内容ではないため、出家者こそ常にこの著作に還る必要があると思います。それはさておき、この内容をもとに道元禅師の教えに含まれる学道の精神を活かしながら在家者の学道の指針となる言葉を示すことも可能であろうと思いました。

つきましては、『学道用心集』の10則の方法を在家者用に読み替え、組み替えながら考えて見たいと思います。

第一則 菩提心を発すべき事

世間的な価値観などは、その時々に相対化されるものであることを自覚し、1つの価値観が絶対であるという思い込みをまず捨てるべきである。そして、仏の教えを学ぶときには、世俗的な価値観を補強するために行うのではなくて、むしろ世俗的な価値観を捨てるように行われるべきである。また、世俗的に「素晴らしい」などの賞賛を受けるように行ってはならない。仏の教えを学ぶとき、それを他人から褒められるのは害悪である。たからこそ、他人に褒められたいと願うのではなくて、むしろ、褒められたいと願う自分の心の欲望が、何故起きているのかを直観すべきである。

繰り返しになるが、もし仏の教えを学ぶとき、結果として何かを得ようと思うのであれば、むしろ害悪である。他人に褒められようと願うのは害悪である。我々自身の身も心も、たかだか父母の縁によって生まれた一時的なものに過ぎない。一時的な無常の存在であれば、他人に褒められている暇はないはずである。ただ、無常を観じて、学びに対して真摯であるとき、それこそ菩提心が起こったということである。

第二則 正法を見聞して必ず修習すべき事

素晴らしい友人が、素晴らしい忠告をしてくれることで、人生が良い方向に変化することがある。同じように、これまで伝えられてきた仏の教えは、我々の生き方を転換する契機となる。しかし、せっかくの忠告も容れなくては意味が無く、仏の言葉も信じなくては意味がない。まず、仏の教えを知ったのであれば、それを自ら実践してみるべきである。実践する前にその効果を疑ってはならない。

第三則 仏道は必ず行に依りて証入すべき事

仕事をしなくては、その成果や対価を得ることが出来ないように、修行をしなくては仏の教えを明らかにすることは出来ない。仏の教えを学ぶというときには、世俗的な価値観で、優秀であるとか愚かであるとか、そのような一切の区別は関係がない。ただ自ら実践することが必要である。そして、その結果はじめて仏の教えが本当に素晴らしいことを知ることが出来るのである。結果を先に求めようとすべきではない。学びを実践していれば、そこに必ず結果はついてくるのであり、これまでの迷いが必ず晴れるようになる。しかし、そこに意味があるのは、実践の継続のみである。実践をしないで得られる別の何かがあるわけではなく、自分の外に仏の教えがあるのでもない。自らの実践によってのみはじめて仏の教えに届くとすれば、仏の教えは自分の外にあるわけではないことを知る。

第四則 有所得心を用って仏法を修すべからざる事

仏の教えについての学びを実践するには、必ずこれまで同様に修行を行ってきた先輩の教えを用いるべきであり、自分で勝手に方法を決めてはならない。ましてや、仏の教えを学ぶことで、何かの利益が得られると思ってはならない。むしろ、何の利益も期待しないで行うべきであり、先ほど述べた、先輩の教えに自らの実践や心のありようが合致しているかどうかを、常に自ら確認しなくては、身も心も安らぐことはないだろう。身と心が安らぐことが無くては、悟りであると思ったことが、却って我々に牙を向いて襲ってくるだろう。自らの実践を、先輩が行ったことに合致させていくためには、ただ心に起こるさまざまな欲深さ、計算高さを捨て去るべきである。

そもそも、仏の教えを学ぶというときには、自らが救われようと願うものではない。それは、何かの利益を得ようとしていることと同じである。そうではなくて、世の迷える者を救い、一切の存在に対して憐れむ心を持つために仏の教えを学ぶのである。自分のためでもなく、他人のためでもない、ただ一切の存在に対して救いの手を差し伸べるようにすることこそ、はじめて仏の教えを学ぶといえるのである。仏の教えを学ぶということは、何か特別な力、超能力などや霊能力を得るために行うのではなく、ただ仏の教えを学ぶためだけに行うべきである。

第五則 参禅学道は正師を求むべき事

仏の教えを学ぶのに、その動機が正しくなくては、その後の一切の実践も無駄なものになってしまうだろう。同じように、仏の教えの学びを実践が、良い方向に進むか、悪い方向に進むかは、就いた師の気質に依るのである。素晴らしい樹があっても、良い職人を得なくては素晴らしい木材とならないように、或いは、曲がった樹であっても、良い職人の手にかかれば、素晴らしい木材になることもあるように、師匠が良くなくては、その後の結果も良いものとはならない。

もし、良い師匠を求めるのであれば、その人が発する言葉をよくよく聞いて見定めるべきである。物事のありようや自己の本質を明らかにしようとする言葉を発している者は素晴らしい師匠となる。ただ本に書いていることをなぞっているような者は、悪い師匠である。そして、良い師匠を探すには自分の近くに住んでいるかどうかを気にしてはならず、どこまでも探しに行くべきである。まともな師匠がいなくては、弟子となる者はいつまで経っても仏の教えへの目が開けることはない。

自分の周囲に素晴らしい師匠となるべき者がいないのであれば、とにかく労苦を惜しむことなく、その者がいるところまで行って、教えを請うべきである。もし、素晴らしい師匠を得ないのであれば、まだ学ばない方が良いほどである。素晴らしい師匠とは、文字になっているような知識を優先させることが無く、自ら見知ったことだけを優先的に考えることが無く、世俗的な常識を超えていくような力の持ち主である。余計な思考にとらわれず、自分の見解にもとらわれず、感情や認識にもとらわれることがない。まさに実践と、その理解とが相応した存在なのである。

第六則 参禅に知るべき事

まさに、仏の教えとは、一生をかけて行うべきライフワークである。だからこそ、成果を急いではならない。昔には、自分のヒジや指を切り、自分が治めている国を捨ててまで、仏の教えを学びたいと願った者がいる。

最近の者は、自分に理解しやすいことや、行いやすいことを選んでしまうが、そのようなことがあってはならない。もっとも愚かしい考え方であり、仏の教えに契うことはない。そもそも、何をもって自分に理解しやすいであるとか、行いやすいという基準を決めているのだろうか。釈尊は、自分の教えを単純だといっただろうか、複雑だといっただろうか。単純や複雑を超えて、ただ学びを実践したのである。定めて、自らを用いて実践すべきである。

古来は、身を粉にして修行する者が多かったが、それでも仏の教えの学び得る者は少なかったのだ。つまり、それだけ仏の教えを学ぶために、自らの心のありようを調整するのは難しいのである。仏の教えを学ぶには、賢さを先にすることはなく、理解することも先にすることはなく、分別する心を先にすることもなく、精神や意識も先にすることはない。

とにかく、「身と心」を調えて、仏の教えに入るのである。釈尊は、「観音とは心の関心(志向性)の向かう流れを変えて自らの内側に向かわせる」と言っているが、まさにこの意こそ肝心である。動くものとか動かないものとか、そのような分別を超えて、ただ心を調えていくのである。かつて、神秀上座という仏の教えを良く理解した賢い者がいたが、むしろ賢いとは思われていなかった慧能和尚こそ、良く仏の教えを伝えたように、賢いということが問題なのではない。

歳を取っているとか、若いからであるとか、そのような世俗的な価値観を捨てて、ただ学ぶ志を尊んだ趙州和尚のような生き方を知るべきである。趙州和尚は、たとえ7歳の女の子であっても、そこから学ぶべき仏の教えがあれば師とすべきだといったのだ。

これまで、他のことを学んできた者であっても良い。むしろ、自らの真実を知りたいのであれば、いつからでも遅くはない。とにかく仏の教えを学ぶ機会を得るべきである。そして、素晴らしい師匠に就いて学ぶときには、とにかく師の教えを、従来の自分が学んできたことと同じであるとしてはならない。ただ、身と心と、目と耳とを清らかにして、先入観を無くして、師の教えを「師の教えを学ぶように」学ぶべきである。

今時の愚か者は、たかだか世俗的な価値観であるに過ぎず、或いは仏の教えに契っていないことを知らず、とにかくこれまで自分が学んできた言葉に師の教えが契うかどうかだけを気にするが、そうであってはならない。或いは、これまでに学んできた経典の言葉をもって、正しい仏の教えだと誤解するから、どれだけ素晴らしい師匠に学ぶ機会があっても、経典や自分の見解を基準にしてしまうことで、全てが台無しになるのである。それでは、本来学んできた教えも無駄にしてしまっているし、今後新たな教えを学ぶ契機もなくなる。

文字をもって、正しい教えだとしてはならない。とにかく師匠の教えに従って、実践して正しい教えを学ぶべきである。余計なことを考えるべきではない。むしろ、その考えたいと願う欲求がどこからやってくるのかを知るのだ。

第七則 仏法を修行して出離を欣求する人は須く参禅すべき事

仏の教えとは、物事のありようや自己の本質について学ぶことであるから、全ての世俗的な教えよりも勝れている。また、釈尊が生きておられた頃には、並ぶような教えはなく、並ぶような師もいなかった。釈尊はこの上ない悟りをもって、迷える者を導いたのである。そして、それは摩訶迦葉尊者に伝えられ、インドでは28代伝えられ、中国では達磨を始めとして6代の者が伝え、そして道元禅師や瑩山禅師を経て、この現在にまで至っていることを知るべきである。

これらの仏、そして祖師方は、常に真実だけを求めて学びを続けてきた素晴らしい人脈である。余計な文字に書かれるような教えにとらわれることはなく、魚の目が光るのを見て、これは宝石だ、などというような誤解が全くなかった者ばかりである。これまで、仏の教えを聞いたことがなかった者は、何をもって大事なことかを知ることはなく、ただいたずらに仏の教えの偽物、まがい物を愛してきたに過ぎない。

仏の教えを学ぶときには、入門して、そして師匠の教えに従って自ら実践して知るのである。その時に、仏の教えが強ければ、自分の見解が弱くなり、自分の見解が強ければ、仏の教えが弱くなるということを知るだろう。仏の教えとは、常にこの両面を大切にすることで、徐々に進むものなのである。焦ってはならない。このことは、仏の教えの学びが進まなければ、正しいのか誤っているのかを知ることがない。ただ、良く受け伝えて誤ることがないようにせよ。仏の教えを学ぶことがなければ、知ることはないことである。仏の言葉を求めるときには、坐禅しなければ、まことの言葉を知ることがないと理解せよ。

第八則 禅僧行履の事

釈尊、摩訶迦葉以来ひとえに伝えてきたインドの28人の祖師、中国の6人の祖師は、仏の教えに余計なものは糸一本ほども足さなかったし、わずかの塵ほども削ることがなかった。衣は曹渓慧能に伝わったが、仏の教えは全ての世界に遍いているのである。したがって、仏の正しい教えは中国に来たが、その時の仏の教えとは、探しても得られず、求めても得られず、見ても見えず、得るときには心を超えてくるのである。

仏の教えとは、姿は黄梅山で失って、断ち切ったヒジを少林寺に置いてくるようにして、逆に正しい教えを得るのである。仏の教えとは、心にも身にも留まることが無い。かつて、或る僧が趙州に、「犬には仏の性質はあるのかどうか」と尋ねたが、趙州は「無い」といった。この「無い」という事実の上で全てを疑ってみるのである。そこで、何もつかむモノは無いと言えるだろうか。試しに手をかざし、そしてその手を看てみるのだ。或いは、身と心はどうか、実践はどうか、生き死にはどうか、仏法はどうか、世俗的な価値観はどうか、山河大地や人間や家畜や家屋はとどのつまりどうなのだ。

とにかく、「無い」という事実のありようを看てみれば、世界の一切が動くのでもなく静まるのでもないことを、自然と知るだろう。ただ、これを知るときは、ハッキリと理解できることではないから、明らかにする者はなく、迷う者は多い。だからこそ、仏の教えを学ぶ者よ、修行は途中まで来てようやくわずかばかり得るのであり、全てを知ったところでも実践を辞めてはならない。とにかく仏の教えを得られることを祈るのだ。

第九則 道に向かって修行すべき事

仏の教えを学ぶ、素晴らしき才能を持つ者よ。まずは、教えにも正しいものと正しからざるものがあることを知るのだ。かつて釈尊は、菩提樹の下で明星を観て、そしてこの上ない悟りを得ることが出来た。それはただ、他人の教えを聞いただけの者や、自分勝手に教えを探すような者の知るところではない。仏は自ら悟り、そして現代に至るまで、多くの祖師が断絶しないように伝えてこられたのだ。そして、その悟り得た祖師が、どうして仏でないことがあろうか。

仏の教えを自分の外に求める者は、仏の教えのほとりを彷徨くばかりであり、明らかに仏の教えを知るときには、仏の教えは自らの足元にあることを知るのである。仏の教えにしたがって実践しているときに教えを明らかにするのであり、その時に悟りによって実践する人が悟りの存在となるのである。

このように、我々は本来仏の存在であることを知るべきであるし、そうでなくては、どこまでも仏の教えから離れていってしまうことになる。仏の教えを学ぶ者は、まず仏の教えを信じるべきである。仏の教えを信じる者は、まず自分自身が仏の教えの中に生きていることを知るべきであり、そして迷わず、余計なことを考えることなく、余計な教えに転向することがなく、足すことも減らすこともないことが、誤りが無いことだと知るのである。

このように信じ、このように仏の教えを明らかにするべきだが、これらはともに実践することで明らかになるのである。つまり、実践とは、仏の教えを学ぶもっとも基本となることである。坐禅して、余計な意識や精神の動きを止めて、そして知ったり会得したりするという道に入ってはならない。知ったり会得しないことは、仏の教えに誘引された初心者の学びの入り口である。そして、その後に身心を脱落し迷いも悟りも捨てるべきだが、これが次の段階である。およそ、自らが仏の教えの中に生きることを信じる者こそ、もっとも得難いのである。

もし、自らが仏の教えの中に生きていることを正しく信じれば、自然と仏の大いなる教えに通じていくのであり、迷いや悟りがどのようにして現れるのかを知るだろう。学ぶ者よ、試みに坐禅をして、余計な意識や精神を止めてみよ、そうすれば十中八九は、たちまちに仏の教えを見るだろう。

第十則 直下承当の事

身と心のあり方を定める方法に、2種類あるのである。それは、師に仏の教えを聞き、坐禅修行することが必要である。教えを聞くことは、自らの意識や精神から自由になることであり、坐禅は実践し明らかにすることである。ここから仏の教えに入るのであり、そしてどちらも捨てることがなければ、仏の教えに契うのである。

人は誰しも、身と心をもっているのであり、この身と心をもって直接に仏の教えを明らかにすることこそ、仏の教えを正しく知るということなのである。つまり、従来の身と心を変えることなく、そのままにただかの教えにしたがって明らかにすることこそ重要なのである。したがって、従来の見解でもない、しかし、従来の教えにしたがって、何かを知ることであるから、新しいことでもない。

【結論に代えて】

以上、大雑把ではありますが、『学道用心集』を訳しながら、かつ拙僧の言葉に置き換えて、その精神を在家の方が学ぶべき方法に還元してみました。肝心なことは、これらは全て、どのようにして自己本来の姿に気付くかが問題になっているということであり、とにかく一度、この全てを納得されることが重要だということです。受け入れた上で、修行が進むときに何が重要で、何が重要ではないかが知られていくと思います。特に重要なのは、師を尋ね法を訪ね、また自らで修行をすること、この両面のどちらを欠いても修行にはなりませんし、仏の教えを知ることもありません。もし、仏の教えに興味があるというときには、まずは身近にいるお坊さんに尋ねてみてください。それからあらゆる縁は始まります。
第一則 菩提心を発すべき事 について、
このトピックのおかげで、学道用心集を読み直せたことを感謝します。
この第一章の原文の最初にある
「ただ世間の生滅無常を観ずる心も菩提心と名づく」という言葉がとても印象的です。
小生はこれまで菩提心について、
「利他を強調した求道心をいう」(岩波・仏教辞典)という
他という外へ向かう意識の方が主で、「世間の生滅無常を観ずる心」という
自己の内へ向かう意識の方が従でした。その認識が逆転しました。
それでは「観ずる心」とは何でしょう。心という言葉が示す、
「我」あるいは「自己」というものが、観るということではないとはどういうことでしょう。
「無常を観ずる時、我吾の心生ぜず、名利の念起らず」とあります。
意訳の文では欲望と訳されていますが。
欲望する心から欲望しない心が分離されるように読めてしまうのですが、
如何でしょう。
学道用心集は、禅の大きな柱である「不立文字」の教えとともに
文字のない行間から道元の使命感が伝わってきますね。
>ヨセフ さん
tenjin95さん よりのご回答です。
……………
ご質問を頂戴し、ありがとうございます。
取り急ぎではありますが、小生の見解を申し上げたいと思います。

> 小生はこれまで菩提心について、 「利他を強調した求道心をいう」(岩波・仏教辞典)という他という外へ向かう意識の方が主で、「世間の生滅無常を観ずる心」という自己の内へ向かう意識の方が従でした。その認識が逆転しました。

確かに、道元禅師も12巻本系統の『正法眼蔵』「発菩提心」巻にて、「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。」とされますので、この方の御指摘はその通りなのですが、ただ「菩提」を訳しますと、「悟り」であり、悟りを得た存在というので「仏」としても良いかと思います。その意味で、「菩提心」とは、「仏心」だとも解釈ができます。道元禅師は、無常を直観(悟った)した存在は、仏だとされます(『正法眼蔵』「仏性」巻参照)ので、まさに自も他もないという境涯に菩提心を見出していると考えられてもよろしいかと存じます。

> それでは「観ずる心」とは何でしょう。心という言葉が示す、 「我」あるいは「自己」というものが、観るということではないとはどういうことでしょう。 「無常を観ずる時、我吾の心生ぜず、名利の念起らず」とあります。 意訳の文では欲望と訳されていますが。 欲望する心から欲望しない心が分離されるように読めてしまうのですが、如何でしょう

このご質問なのですが、わたしの文章に関してのものでしょうか?ちょっと、意図されていることが理解できないので、何とも言えませんが、正しくなかったら、再度ご質問ください。

さて、無常を観じるという時には、ただ無常という真理として一切が存在していることを悟るのであり、そこには、「おれ」とか「お前」とか、あるいは、その「おれは凄い」とかいう欲望が起きないということを意味しています。ですので、心の中に欲望があるのであり、その欲望そのものが起きる働きもまた、一切の存在の一つとして、「無常」だと観じることで、欲望もまた、滅されていくということになります。欲望は心の全体なのではなくて、心の働きの一部です。

ただ、欲望が強い方は、全てをその「欲望の働き」を通してみようとしまうので、全てが欲望の対象に見えるというだけでございます。

とりあえず、わたしからの見解は以上のようです。

それでは失礼いたします。

      
おせんべいさま
tenjin95さま
ご回答ありがとうございます。
 tenjin95さまのご文章に触発され、原文の第一則を読み直し、原文の「ただ世間の生滅無常を観ずる心も菩提心と名づく」に注目して感想を書きました。
 原文と照らし合わせて、tenjin95さんの「褒められたいと願う自分の心の欲望が」とありましたので、原文にある「我吾の心」「名利の念」というものが、「自分の心の欲望」とか「結果として何かを得ようと思う」に対応するものと思われたわけです。
 「欲望」という言葉かから、心を分析的捉え、欲望をその一部とする心理学的な理解へと導かれてしまったようです。
 「世間の生滅無常を観ずる」の「観ずる」ことがないので、「我吾の心」「名利の念」が現実に存在するものと信じられているわけで、利他の心でも政治家のようにどこかに自分の利益を求めるならば、結局、「我吾の心」「名利の念」の中にいることになります。「観ずる」ことをまず強調された第一則に眼が開かれたという訳です。
>kingfisher さん
下記のように道元禅師が、これから、正伝の仏法をつたえようとの使命感に溢れておられる時だからもしれません。
       記
【撰述時期】

『学道用心集』の本文中に「天福二甲午三月九日書」と「天福甲午清明日」(「清明日」とは、春分の翌日から十五日後)という2ヵ所の記載があり、1234年(禅師三十五歳)の春、遅くとも3月中には書かれたものである。

【撰述意図】

本著に関しては特に撰述由来などの記述もなく、従って、内容や周囲の状況から推測するしかない。ちょうどこの頃は、京都深草に観音導利院(後の興聖寺)を開創した頃である。さらには、既に『弁道話』は撰述され、『正法眼蔵』「現成公案」巻を法語として俗弟子楊光秀に与えた天福元年(1233・禅師三十四歳)の翌年でもあり、おそらく自分の元に来た学人(修行者のこと)に、学道(仏道を学ぶこと)の用心を示したものであろうといわれている。
おせんべさん

ありがとうございます。
禅師三十五歳ですか。驚きです。
私は42才ですが、精神的未熟さに嘆くばかりです。
日本全体の傾向もおそらくそうなのでしょう。

しかし道元についていつも思うことは、
日本語はかくも美しく、無駄なく使えるのか、
という思いです。

まだまだよろしくお願いいたします。
>kingfisher さん
いろいろと、論点をひろげてください。

宜しく、お願い致します。
>おせんべい さん

上記了解しました。

>素晴らしい友人が、素晴らしい忠告をしてくれることで、
>人生が良い方向に変化することがある。

>そもそも、仏の教えを学ぶというときには、
>自らが救われようと願うものではない。
>それは、何かの利益を得ようとしていることと同じである。
>そうではなくて、世の迷える者を救い、一切の存在に対して
>憐れむ心を持つために仏の教えを学ぶのである。

この精神でやってみます。
更にこのコミュの人数が増えるべき。!!
道元禅師の学道について。

中祖一誠師の講演です。
http://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/report/lecture/no10/index.html
道元禅師「学道用心集」
http://blogs.yahoo.co.jp/saihoo1/47692318.html
>仏の教えを学ぶときには、世俗的な価値観を補強するために行うのではなくて、むしろ世俗的な価値観を捨てるように行われるべきである。また、世俗的に「素晴らしい」などの賞賛を受けるように行ってはならない。仏の教えを学ぶとき、それを他人から褒められるのは害悪である。たからこそ、他人に褒められたいと願うのではなくて、むしろ、褒められたいと願う自分の心の欲望が、何故起きているのかを直観すべきである。

本当に素晴らしいご指導だと思いました
>78910 さん
ありがとうございます。

>褒められたいと願う自分の心の欲望が、何故起きているのかを直観すべきである。

坐禅するとわかることなのですが、あらゆる思いや欲望は、お互いの生命体から勝手に沸いてくるのですね。それを、直感して触らないことが大切かと思います。坐禅(佛坐)を行じてください。

>>[2]

>この第一章の原文の最初にある「ただ世間の生滅無常を観ずる心も菩提心と名づく」という言葉がとても印象的です。小生はこれまで菩提心について、「利他を強調した求道心をいう」(岩波・仏教辞典)という他という外へ向かう意識の方が主で、「世間の生滅無常を観ずる心」という自己の内へ向かう意識の方が従でした。その認識が逆転しました。


浅学な僕も、冒頭のここの所には感ずるものがありました。
「右、菩提心とは多くの名を持つ一つの心である。
龍樹祖師はこう言う。『ただ、世間の生滅無常を観ずる心もまた、菩提心と言うのである』と。」
これに続けて道元禅師は詳しく説明されていますが、その語り口は本当に、読む者の胸に染み入るような味わいがありますね。
>>[2]

>それでは「観ずる心」とは何でしょう。心という言葉が示す、「我」あるいは「自己」というものが観るということではないとはどういうことでしょう。


無常を観ずる心とは、常住の吾我を構想しない心ですね。
身も心も刹那刹那に生滅していることを見据えて、常住不変の吾我など無いのだ、無我なのだとはっきりと了解する心ですね。
>>[7]

ほんと、道元禅師の文章は、美しく、無駄がなく、素晴らしいですね。日本人としてこのような自国の古典にじっくりと向き合わないとしたら、とても勿体ないことですね。
>>[13]

>褒められたいと願う自分の心の欲望が、何故起きているのかを直観すべきである。


自分、吾我というものをしっかりした常住のものとしてとらえてしまっている心が根深くあるから、これを根拠として、この自分に好ましいもの、利益に思えるものを貪(むさぼ)ろうとする心も派生してくるように観察されますね。
>有云、菩提心者無上正等覺心也、不可拘名聞利養、
有云、一念三千之觀觧也、
有云、一念不生法門也、
有云、入佛界心也。
如是之輩未知菩提心、畏謗菩提心。


ここのくだりは初めて読むと、ちょっとした驚きを誘う所ですね。
そして続く説明文も、今日の私たちにはなかなかに難しい。

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