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道元禅師コミュの道元禅師の坐禅とは

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道元禅師の坐禅について参求してみませんか。
出典をあげて、自分の意見を展開してください。
それに対してのコメント等がありましたらお願いいたします。

また、坐禅をこれからして行こうと思われる方、また、疑問のあるかたは、どんな小さなことでも質問をしてください。

コメント(99)

48 〔道元禅師の坐禅の形?〕について、参求してみます。tenjin95さんのご意見を掲載さしていただきます。
…………………

・数息法の否定

さて、さらに呼吸について別の説示を確認していきたいのですが、道元禅師は『永平広録』「巻5−390上堂」(1250年9月頃?)で以下のような説示をされます。

【原文】

上堂。衲子坐禅、直須端身正坐為先。然後調息致心。若是小乗、元有二門。所謂数息不浄也。小乗人以数息為調息。然而仏祖弁道永異小乗。〈中略〉其二乗者、如今流布于世四分律宗・倶舎宗等宗是也。大乗亦有調息之法。所謂、知是息長、是息短、乃大乗調息之法也。息至丹田還従丹田出。出入雖異、倶依丹田而入出。無常易暁、調心易得也。先師天童云、息入来至丹田。雖然無従来処。所以不長不短。息出丹田去。雖然無得去処。所以不短不長。先師既恁麼道。永平或有人問、和尚如何調息。只向他道。雖非大乗異小乗。雖非小乗異大乗。他亦有問畢竟如何。向他道。出息入息、非長非短。〈以下略〉

【訳文】

 上堂。衲子の坐禅とは、まさに端身に正坐することを先とする。その後に、息を調え心をきわめるのである。これが小乗(仏教)であれば、元から二つの方法がある。いわゆる、数息(観)と不浄(観)である。小乗の人は、数息をもって調息している。しかし、仏祖の修行法は、永く小乗(或いは二乗ともいう)とは異なっている。〈中略〉その二乗とは、今の世に流布している四分律宗・倶舎宗などの宗がこれである。
 大乗(仏教)には、また調息の方法がある。いわゆる、この息は長く、この息は短いと知るのが、つまりは大乗の調息の方法である。息は、丹田に至って、また丹田から出てくる。出るのと入るのと異なってはいるが、ともに丹田に依って入ったり出たりしているのである。無常は明らかにしやすく、調心も得やすい。
 亡くなられた師匠である天童(如浄禅師)が言うには「息は入り来たって丹田に至る、そのようであっても、従来のところはなく、だからこそ長くもなく短くもない。息は、丹田から出て去るのだが、そのようであっても、去る場所を得ることはなく、だからこそ短くもなく長くもない」と。亡くなられた師匠は、すでにこのように言われた。
 永平(=私)がもし、人に問われたとしよう「和尚は、どのようにして調息されるのか」と。ただ彼に向かって言うべきだ「大乗ではないけれども、小乗とも異なっている。小乗でもないが、大乗とも異なっている」と。彼がまた「つまりはどういうことなのだ」と問うたとしよう。彼に向かって言うべきだ「息が出ること息が入ることは、長くもなく短くもない」と。〈以下略〉
    拙僧ヘタレ訳

道元禅師は小乗の調息法だとして伝えられた数息法を否定し、また大乗の調息法である長短を知ることをも否定されます。そうではなく、調息を脱落することが重要であり、如浄禅師から伝えられた方法である「長くもなく短くもない呼吸」こそ必要なのです。なるほど、ここまで確認すると、先の『辨道法』に通じていくことが明らかになります。そもそも、我々の呼吸とは半ば自動に行われていますが、一方で我々の意思で行うことも可能な「半随意的作動」を行っています。おそらく、道元禅師はこの「半随意」をまずは欠気で随意的な作動をしておき、その後「非随意」的な作動にしておくことを目指しているのだと思われます。ただ、丹田だけは意識する必要があるでしょう。なお、丹田について考えていくと、これもまた広い領域をもっておりますので、以下略します。

おせんべい さま

上気全部、勉強になります。

>●口と眼と鼻について
>眼は常に開くのである。
>「大きく開くのも薄く開くのもダメ」

座禅の時に良く「半眼」という状況を聞くのですが、
どうなのでしょう。

良く仏像を見ると半眼のものと、虚空を凝視するもの等が
あるように思います。

また視線についても気になります。

是非ご教授いただきたく思います。
>kingfisher さん
「半眼」45度ぐらいの角度で、眼を落として居る感じです。要は意識を使わない事が大切で見えるに任せるということです。
見える能力は仏(尽十方界の真実)がしてくれているわけです。眼根は仏がしています。
眼境に従って意識を使うと人間の行になってしまいます。

只管打坐は、五根(眼耳鼻舌身)は使いますが、意識は使いません。その時仏(尽十方界真実)になってい、坐佛という仏になっているということです。
あらゆる形は、みなそこのところに徹しているということです。
視線が気になったらほっとくということです。

「ほっとく」というのがキーポイントです。
ようは、慣れることだと思います。坐禅は、体で体得するものです。坐禅の体にしてください。繰り返すしかありません。
49 道元禅師の坐禅の形?について。tenjin95さんのごいけんを掲載さしていただきます。
…………………

道元禅師の坐禅の形?

●開始時の左右揺振について

坐禅に入る前に左右揺振をするといわれておりますが、それは欠気の後なのです。なお、「天福本」「坐禅儀」巻には左右揺振はありません。

・左右揺振して…(流布本)
・左右揺振すること七〜八箇(『辨道法』)

以前、【左右揺振について】でも示しましたが、数まで指示していることから大仏寺以降にいたって確立されたと見て良いでしょう。

●終了時について

坐禅を終えるとき、坐から立つにも方法があります。それを示しておきましょう。そこで、「坐禅儀」巻は、坐禅に入るところで終わっていますので、この辺の説示はありません。結局、「坐禅の状態」を示すものと、あくまでも叢林の儀則として示した著作との違いでしょう。

・もし坐から立つのであれば、徐々に身体を動かして、安らかに起つべきであり、急ぎ乱暴にしてはならない。(天福本・流布本)
・もじ坐から起つのであれば、徐々に起つのである。(『辨道法』)

終了時の「左右揺振」は、瑩山禅師の『坐禅用心記』に至って確立されていきますが、道元禅師はただ徐々に安らか(原文は「安詳」)に立てとだけ指示します。

【結論に代えて】

以上のように、道元禅師の坐禅法を概観してみました。以前【反・無宗教論ver13.1】で指摘しましたが、道元禅師は自らの坐禅法を、チューニングするかのように変えていきます。元々は、中国で成立した『禅苑清規』に収録されている「坐禅儀」を原型にしながら、その後も外形的には大きく変わったことが無いように思えますが、坐禅の入り方や眼の開き方、そして特に「呼吸法」については、かなり大きな変化があったとも思えます。そして、欠気(一種の深呼吸)によって身体の緊張を解き、文字通り我々自身の存在を身体に任せたとき、意識は道元禅師が藥山惟儼禅師の言葉を使って表現された「非思量」という状態に入ります。逆に言えば、欠気は非思量に入るのにどうしても必要なことだったように思われます。

そういった意識的状況については、特に「天福本」から「流布本」以降ではずいぶん違っており、この違いを考究した鈴木格禅先生や、上田閑照氏の論文もありますので、それらを元に、また別の機会に論じるとして、今回は外見的な坐禅法を紹介して終えたいと思います。身心一等とは言うものの、それを知るには身体を使わなければ得ることは出来ません。まずは出家・在家問わず坐るべきでしょう。





我々の人生の一歩一歩が解脱の姿なのであるからその一歩のほかに殊更に修行へと向かう必要がないということでありこのことはつまり「あに修行の脚頭を用ふる者ならんや」という句の意味あいとなる。いかにも物欲しげに坐禅をしたいという者がもしいるとすればそれはとんでもない誤りである。という事を『普勧坐禅義』で示されている。
 道元禅師はまず坐禅とは自然の摂理のままに生き自然と渾然一体になった姿が坐禅のあるべき姿である。という事をはっきりと示している。
道元禅師の「坐禅とは坐仏である」を参求します。
tenjin95師のご教授です。

http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/7abe506023c63c9407cbf8e2b087f143
「坐禅をするなら坐禅箴を読め。」坐禅箴を参求しましょう。
tenjin95師にご講義いただきます。
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/f61efbb034b31e7dd56aea05c99fceca






「道元禅師の坐禅と天台小止観?」の関係を参求しましょう。
tenjin95師のご講義です。
 
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/386d2c570ebd4667bdba29aac11fc4a6
「道元禅師の坐禅と天台小止観」-懺悔-の関係を参求します。
tenjin95師のご講義です。

http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/acc547b7e11d3f035691a094498a09ee
普勧坐禅儀の参求

「坐禅は究尽菩提の修証なり。」本証上の坐禅です。
「菩提を究尽するの修証なり」とすると、坐禅は、さとり(菩提)を得る為の手段となり、本証上の坐禅になりません。

 tenjin95師のご高説です。
 http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/7ec7140f6577e70d4c1e59c07796fb52
晩年の道元禅師の坐禅観
            東洋大学教授 竹村 牧男 師

  道元禅師の晩年の坐禅観を、永平広録より参求されておられます。
   http://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/research/35/07.pdf
只管打坐
    吉田道興 師
 http://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/word/familiarity/10.html
只管打坐 (露堂堂)
     矢口隆博 師
 http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/sikantaza.htm
《‥座定して、個の不思量底を思量せよ。
不思量底如何が思量せん。
非思量、これ即ち座禅の要術なり。》
(永平道元・普勘座禅義より)

《座禅して、存在自体を絶対に思考することはできないという事をとことん考え尽くさざるを得ません。絶対に思考できない事をどうして思考し尽くす事ができましょうか。
思考は落ちます。 これが、座禅の最重要点です。》
(雨宮第慈老師による現代語訳)
道元禅師の漢字用法

座禅→坐禅
座定→坐定
普勘坐禅義→普勧坐禅儀
坐禅とは、面壁すべきか?せざるべきか?
    tenjin95師
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/b271524a10fa99172106345501a79f43
坐禅とは、面壁すべきか?せざるべきか?(2)
   tenjin95師
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/1141e3f530ee18faccedb2995c349e0f
本証妙修論
tenjin95師
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/dcff5695620ae1bad5b2531d2d04156c
坐禅とは、一言に無所得の坐禅だと思います。

が、最近では報恩の坐禅でもあると思います。

ただ、黙って壁に向かい坐る。

そう、師匠からは教えられています。
81>ノリノリさん

お世話になります。

道元禅師のお師匠であられる、如浄禅師の坐禅のおことばに「衆生を忘れず、衆生を捨てず・・・」とあります。
救生禅といいます。

大乗仏教としての坐禅は、利他行としての行でなければなりません。それを、「報恩」の坐禅とおっしゃられておられるものと存じます。

坐仏としての坐禅は、「報恩であり、救生」あると思います。
一つ、疑問があります。

道元禅師じゃなく、沢木坐禅の件なのですが、経行の際、私達沢木門下は叉手を組んで手の甲を上にして、経行します。

普通、曹洞宗は叉手のままですよね。

そうなった経緯、御存知ではないでしょうか?

お願いします。
83>ノリノリさん

私も長年「枯木会」という澤木系統の会で行じてきましたが、叉手を組んでというのは、知りません。

手の甲を上にしての経行は、ありますし、永平寺でも最初の叉手は、そうです。
貴殿も甲の返すときと、返さない時をされれば、体の響きが違うことがわかると思います。それを参求されては如何ですか。

ただ、微妙なところは、其の時の師家(後堂老師)の家風で変わることがあります。

面山様の書かれた「経行軌」を読むことをお勧めします。いろいろな学びが出来ると思います。
81>ノリノリさん

お世話になります。

>「坐禅とは、一言に無所得の坐禅だと思います。」

言葉としては、宜しいのですが、貴殿の体解したことですか。

1自分の坐禅は、本当に無所得になっているのだろうか?
2只管というが、それと無所得の関係は?
3自調の行をしてはいけないと無所得の関係は?
. 

.
等、道元禅師、澤木老師のお言葉にであったら、自分の体に地道に返し体解しながら進めてください。
「直下承当」を積み上げていってください。「分別」で解ったつもりにならないでください。

仏道は、「自灯明、法灯明」の世界です。
釈尊、道元禅師は、導師であります。

老婆心ながら、いらんことを言いました。

> おせんべいさん

ご返答ありがとうございます。

確かに、沢木、内山両老師の御言葉でございます。

私自身、体得した事ではないことは事実です。

この言葉は、安泰寺で修行している際、現在の安泰寺堂頭から、口酸っぱく言われていた教えです。

この言葉に、何度も疑問を持った時期もありましたが、尊敬する内山老師の言葉故に、その言葉を信じて坐るのみだと信じ、今日に至っております。

信仰心が薄い己ですが、これだけは、真実だと思い、生きていく所存であります。
86>ノリノリさん

ご返事ありがとうございます。

「無所得、無所悟」は、大乗仏教の根幹であり、両老師は、とくにそれを強調されました。

このお言葉を我がこととして「直下承当」していくのは、一生どころか、生生世世の問題です。両老師は、一生をかけられた凄みがあります。

正式に仏門に入られて、まだ、間もないようにお見受けいたしますが、ご尽力を期待いたします。
我々は『霊的存在』であることを体得し、身心を構成する肉体の束縛から自ら解放させる努力の積み重ねを高祖様はお示しになっています。どなたでも坐禅をすれば、我々が『霊的存在』であること更に『霊的存在』として生きることの大切を自覚するに到ると思います。
88>龍谷山人 さん

ご意見ありがとうございます。

>『霊的存在』であることを・・・

『霊的存在』の意味をお聞かせ願えませんでしょうか。それを、高祖様は、どのようなお言葉で、遺されておられるのでしょうか。宜しく、お願い致します。
『霊的存在』とは『佛性』なりと高祖様はお示しされています。
90>龍谷山人 さん

お世話になります。

>『霊的存在』とは『佛性』なりと高祖様はお示しされています。

出典を、示していただければ、ありがたいのですが。
『証して知るべし、体して覚(おぼ)ゆべし』
92>龍谷山人 さん
お世話になります。
>『証して知るべし、体して覚(おぼ)ゆべし』

「『霊的存在』とは『佛性』なりと高祖様はお示しされています。」 と88で、貴殿がおっしゃられておられますので、それを高祖道元禅師様は、どこでもうされておられるのでしょうか。

『霊的存在』というもしかすると、先尼外道的言葉は、正法眼蔵「仏性」の巻き等で、気おつけるべくおっしゃられていますとおもうのですが、ご意見を伺えればと思います。

『年毎に咲くや吉野の桜花木を斬りてみよ花のあるかは』
95>龍谷山人さん
お世話になります。

>『年毎に咲くや吉野の桜花木を斬りてみよ花のあるかは』

昔からの有名な古歌ですね。

道元禅師様が「「『霊的存在』とは『佛性』なりと高祖様はお示しされています」と貴殿が申されましたのでお聞きしただけです。

出典がお答えにくければ、よろしゅうございます。

いろいろと、ご面倒をおかけいたしました。
今後とも宜しくお願いいたします。

「山河大地・日月星辰にても修行せしむるに、
山河大地・日月星辰かへりてわれらを修行せしむるなり。
一時の眼睛にあらず、諸時の活眼なり。
眼睛の活眼にてある諸時なるがゆえに、諸仏諸祖をして修行せしむ、聞教せしむ、証果せしむ。」
(道元禅師著『正法眼蔵』より)


山河大地・日月星辰までもともに修行させるのだ。
そしてまた、山河大地・日月星辰がひるがえってわれらを修行させる。
一時に眼が晴れるわけではない。
あらゆる時間の活眼が実現する。
眼の晴れわたる活眼があらゆる時にわたるがゆえに、諸仏諸祖をも修行せしむるのだ。聞教せしむるのだ。証果せしむるのだ。
(78910現代語訳)
「近年、愚かな禅僧たちが言うことには、
『坐禅修行は心に何物も無くなる状態に至ったならば、それこそすなわち寂静なる悟りの境地だ』と。
このような見解は小乗の修行僧にもおよばないし、仏教外の人天の教えよりも劣るものだ。
どうして仏法の修行者と言えようか。
現在の大宗国にはこのような修行者が多くなってしまっている。
祖師方の道の荒廃や、悲しむべきである。」

(『眼蔵』「坐禅箴」の巻より)
「南嶽禅師はおっしゃった。
『お前がもし坐っている仏だとしたら、それはすなわち仏を殺すものである』と。
ここで言う坐仏というものを参究するなら、それには殺仏の功徳があるということだ。
坐仏のまさにその時、概念化して把握されているような仏など殺されてしまうのだ。
概念化された仏を殺すことのできるその者は誰かとたずねてみれば、それは坐仏に他ならない。
『殺す』という言葉が凡夫の使う言葉と同じものだからといって、その意味も凡夫の考えるものと同じだと思ってはならない。
また、坐仏が仏を殺すのはいかなる行動によってかということも参究しなくてはならない。
このように仏の坐禅の功徳が殺仏であることを理解した上で私たちは、私が人を殺すとはどういうことか、いまだ殺していないとはどういうことかということもよくよく学ぶべきである。」

(『眼蔵』「坐禅箴」の巻より)

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