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不定期連載小説。コミュの「鍵。」 池田慧

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コメント(9)

 ふと、指先の感覚が鈍くなったかなと思った時には、既に体は冷え切っていた。
 この秋口に窓を開けたまま、思いがけず集中してしまったらしい。だがお陰で来週の部内コンペに出展する予定の作品は、8割方完成を見ている。
 時計を見ると丑三つ時をいくらか回ったところだった。
「コーヒーでも淹れるかな」
 軽く伸びをしながら立ち上がり、俺は台所へ向かうことにした。この時間なら、多少物音を立てても母さんや杏子を起こす心配はないだろう。
 月明かりは充分に廊下から階下に掛けてを照らしていたが、電灯を点けずに階段を下りることは避けた。まだこの新しい家に完全に慣れたとは言えないのだ。
(それでももう3ヶ月か…)
 感情を麻痺させることによって、時間感覚もまた狂うのだろうか。或ることについて考えないように過ごす時間というものは、長いようでいてまた短い気もする。
 そろそろ傷は癒えているのだろうか。あまり自信はない。
 それでも今夜は、封印が解けたかのように思い出そうとしている。夏の初めの、あの出来事を。
「兄貴、今日も密会?」
 マンションの狭い玄関で新しいシューズと格闘していると、杏子が人聞きの悪い質問を浴びせ掛けてきた。
「まあな」
 わざわざ訂正するのも面倒で、おざなりに返事をする。
「ふーん。まあ、精々楽しんでよね」
 杏子は意地の悪い表情を浮かべ、含むようなことを言い放つと踵を返してダイニングへと向かっていってしまう。その後ろ姿を、憮然として見送る。
 確かに杏子の“大好きな先輩”を独占している形になっているのは事実で、その件に関しては悪いと思う気持ちがない訳でもない。しかし、腹いせなのかどうかは知らないが、変な勘繰りをされる謂れはないと思うのだ。
「……行ってくる。夕飯いらないって伝えといて」
 ひらひらと手を振るだけの返事を背に、スケッチブックを抱え直す。将来に繋がるきっかけになるかもしれないことを、密会だなんて不純な言い方で冷やかしてほしくなかった。
 建物の外に一歩出ると、焼けるような日差しが肌を焦がす。しかし今日は風が出ているので、木陰であれば幾分過ごしやすい筈だ。
 手のひらを庇代わりに、鮮やかな空を仰ぎ見る。今まで陳腐と決め付けていたが、一面の蒼をキャンバスに写し取るのも悪くないのかもしれない。次のテーマに提案してみようか。
 ずっと嫌いだった夏の太陽も、ここ最近は妙にいとおしい気がしている。ささやかな自分の変化を嬉しく思う。彼女の影響だ。まるで何かに取り憑かれたかのように、目に映る全てに惹かれていた。
 約束の場所に着くと、彼女は既にそこにいた。
 声を掛けようとして、思いとどまる。彼女の視線が一点に集中しているのに気が付いたからだ。自分も荷物を下ろすと、愛用の鉛筆を取り出す。
 暫く二人は無言のまま、鉛筆を走らせる擦過音だけを響かせていた。
「そろそろ休憩にしよっか」
 唐突に彼女がこちらを振り返った。不意を衝かれる。いつからこちらの存在を認識していたのだろう。
 提案に依存はなかった。やや戸惑いながらも、持参した保冷水筒を取り出す。彼女も色違いの同型の水筒を手にしている。2人がよく利用する画材屋で求めたものだった。時々思いもよらない物を扱う店だ。
「今日も暑いね」
 彼女が言う。
「そうだね」
 何の芸もない相槌を打つ。
 無口な印象のある彼女だが、それが錯覚だということは知り合ってからの一月で理解していた。理解してはいたが、彼女が口を開く度に驚いている自分がいることも事実だった。
 違和感がある。いつだって、日常と彼女の間には何らかの齟齬があるように感じられた。それはひどく不思議なことのように思えた。彼女の作品はあんなにも世界に肉薄しているというのに。
「あれ?」
 こちらのスケッチを覗き込んで、彼女が意外そうな声を上げた。
「風景画専門の看板は、降ろしたんだ?」
 そんな看板を掲げたことはないのだが、言われてみればこれまでの俺は風景ばかりを描いていたかもしれない。
「悪いことじゃないだろ?」
 そんな風に俺は言ってみた。
 彼女はいつもの読めない表情で、ゆっくり瞬きをする。
「そうね」
 そう言って水筒の栓を勢い良く開けると、彼女は直接口をつけてよく冷えた中身をひとくち飲み下した。
 綺麗だと思った。
 次の瞬間、俺はスケッチブックのページを捲り、鉛筆を取り上げていた。網膜に焼きついた光景が消えてしまわないうちに、描き止めておかなければいけない。そう、思った。
「そうね」
 独り言のように、彼女は繰り返し呟いていた。
「悪いことじゃないと、思うわ」
 このところ俺が描き続けているモチーフは、彼女そのものなのだった。
 ふと目を上げると既に日が翳り始めていた。
 こんな風に過ぎていく時間に、喩えようのない充足感を覚える。
 彼女の方に視線を遣ると、暫く前に一段落を着けていたようだった。
「繰り出しますか」
 そう声を掛けると、笑顔の肯首が返ってくる。焦る必要はないのだが、幾分乱暴に俺は片付けを始めた。
 彼女に出会って開けた世界というものは、考えてみれば多岐に渡る。このところ日参している店もその一つだった。
 アトリエを改装したというその店は、敢えて分類するとしたらサロン…だろうか。
 入店時に発生するテーブルチャージ料の他、アルコール類を含むドリンクとフード少々を揃えてはいるが、これはオーダーしなくても構わないというスタイルだ。
 常連の殆どは同胞との会話を楽しむ為に来店する。
 会員制という訳ではないが、裏道にある上に入り口の判り辛い造りになっているせいで一見の客というのは稀のようだった。
 彼女に初めて連れてきてもらったのは半月程前のことだった。以来日を空けず通い詰めているお陰で、マスターや常連達ともそろそろ顔馴染みになっている。
 年齢層は幅広い。いずれもアートを生業としている、或いは志している人間だ。
 語っても語り尽くせない思いを、気負わず語らえる喜びを味わえる。素晴らしい刺激だった。
 カウンターの、店の入り口から見て最奥には、いつものように吾妻さんがどっしりとしたその腰を落ち着けていた。
「こんばんは」
 俺が声を掛けると、吾妻さんは首だけを振り向かせて、傾けたグラスはそのままに会釈を返してくれる。
 受容されているという安堵を得て、俺は滑るようにして隣の席に座る。吾妻さんの席の前には1本のボトルが置かれていた。瓶の首には黒猫をファンシーにデフォルメしたキープタグが、可愛らしい印象を振り撒いている。意外性の演出。吾妻さんの大きな掌に包まれているロックグラスには、けれど淡い飴色の液体はストレートで注がれている。この半月ですっかり見慣れた構図だ。
 描きたい、という刹那の衝動に軽い眩暈を覚えながら俺は吾妻さんを覗き込む。
「アレ、また見せてくれませんか」
「君も好きだね」
 ぴくり、と。呆れたとばかりに左右非対称に上がる眉。吾妻さんの言動には芝居がかっているところがあった。決して嫌味ではないそれは、吾妻さんという存在の輪郭を際立たせている。
「ええ。好きなんです」
 臆面もなく催促する俺に肩を竦めてみせ、吾妻さんはカウンターの下から鞄を摘み上げ、中から小さなケースを取り出した。
「今日はあまり用意が良くないから、簡単にね」
 ケースから引き抜かれた一枚の黄色の紙が、瞬く間に立体感を増していく。息を詰めて見守る俺の目の前に、魔法のように薔薇の花が現れた。
「花言葉は、友情」
 吾妻さんはそう言うと、そのまま紙の薔薇を俺の手に握らせて、微かに笑った。
 つい先程まで繊細な調べを奏でていたとは思えない無造作な仕草でボトルを掴む吾妻さんにお礼を述べ、俺はカウンターを離れる。早くこの宝物を彼女に見せびらかしたくて堪らなかった。
 俺がテーブルに近寄る気配を察したのか、彼女は肩越しに振り返った。誇らしげに捧げ持ったそれに気付くと、目を細めて羨ましい、と呟く。
 彼女の前のソファには、榎田氏が優雅に脚を組んで座っていた。
「それの魅力をより引き出す方法を教えてあげようか」
 気障な仕草で胸ポケットから出されたものに、俺はその意図を悟る。手渡した紙の薔薇は榎田氏によって細工を施され、彼女の髪を飾った。
 彼女はくるりと瞳を回してから、小首を傾げる。
「似合うかな」
「花言葉は、友情だって」
 頷いてそう伝えると、彼女は少し不思議そうな表情をした。
「吾妻さんがそう言ったの?」
「そうだけど、違うの?」
「ううん。そうなんだ、って思っただけ」
 俺はその様子が少し気に懸かったが、榎田氏の大袈裟な賛辞から始まる怒涛の口舌に有耶無耶になってしまった。

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