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エキュメニズム茶話会コミュの宗教改革の今日的意義

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宗教改革は当時のカトリックの一点支配の打破、そして「(カトリック)教会の外に救いなし」とした救いの幅に異議を唱えるものだったと思われますがカトリックも殊に第二バチカン公会議に顕著なように改革に改革を重ね当時非難されたことはなくなりつつあります。

一方プロテスタントではかつてのカトリック化ともいうような教会に来て受洗しないと絶対に救われないとする信仰が顕著に見られます。

このように宗教改革当時と現在と引き比べて宗教改革の意義、或いはプロテスタントの存在意義の問い直しが必要と思われますがご意見をお願いします。

コメント(23)

僕は20年来「対カトリックという意味での宗教改革の使命は終わった」と言い続けてきました。もはやカトリックはプロテストする対象ではなくなったのです。カトリックもルーテルなどとの話し合いで宗教改革を評価するようになっています。その理念も理解されています。

しかしその一方で原理主義や体験神秘主義の反エキュメニズム、反自然科学の体質が非常に気がかりになっています。今一度キリスト者の信仰はどうあるべきか
問いかける必要性を感じています。
いまのプロテスタントは行きすぎた社会派と教会またはイエスの名を使った政治運動、行きすぎた信仰主義(教会の外には絶対救いなし)福音よりしるしを重んじ日曜日の礼拝でなくてはならない聖餐の形骸化、礼拝自体の形骸化(キリストの復活を祝ってるということすら知らないクリスチャンが増えました)そして罪悪感の行き過ぎはよくないと反動から罪悪感をまるで感じないどころかクリスチャンは罪を犯さないしすべて十字架にあがなわれるから罪の悔い改めしない(懺悔はカトリックしかしないと思ってる若い信徒にやたらに会います)そして宗教対話の時代に知りもしないでカトリック批判…といまはプロテスタントにプロテスト(抗議)が必要です。


なんてけんか売るようなことばっか書いてたからはじめぼくを怖がってクリスチャンたちはぼくに近寄りませんでした。

しかしこれは愛の故の行動です。
プロテスタントに長らくいたので現状がもどかしいのです。
プロテスタントはプロテスタントという立場に安住しすぎたような感じがしますね。
ただ、いまの教皇は保守派で第二バチカン公会議の否定のような言動ですね。
エキュメニュカル運動自体に変化はない…わけもないです。
†∴エレミア∴†さん
多少の影響はあるでしょうね。
でもエキュメニズムの流れは教皇が変わったからといって逆転することはないと思います。流れの速度が弱まることはあってもね。
はじめまして。
> いまの教皇は保守派で第二バチカン公会議の否定のような言動

教皇様 第二バチカン公会議はじまった時からの公会議の顧問で
ご存命の方のうちで公会議を一番知ってられる方の一人ですよね。

当時 プロテスタントの人達の間でもとても人気の高い神父様です。
我々の方が信心深くなくなってしまったのかも。

神父様の頃(40年くらい前でしょうか)に
今日の教会を予言した書籍を著しておられますが
言い得て妙です。

因みに、エキュメニズム とは古来 公会議のことだったりします。
> XOPさん

友人によると保守派の意見を無視出来ずに第二バチカン否定のようなことになっているとのことですね。
7> 保守派の意見を無視出来ずに第二バチカン否定のようなことになっている

公会議のあと、典礼が大きく変わりました。
宗教って どこでも 今までと同じが心地良い って感覚が強いですから
折角新しい典礼を決めても 暫くは従来と同じ様にやり続けたがります。

そういう対策もあって、40年程前に、

新しい典礼を決めたんだから、原則として新しいので おやんなさい。
前のでやりたかったら司教区の許可をとること

って御触れを出したんですが、
40年も前のことで、そろそろ定着した事も有り、
昔の事を知っている人が死に絶える前に

昔の典礼は(多分) 少なくとも当分は)不滅だから
やりたかったら自由にやって宜しい

と再度 教皇様が お触れを出しました。
「特に 信者が望むんだったら葬儀とかはなるべく応じておあげなさい」 と。

昔の祭式って、今より時間と手間がかかるので、
神父様には不評です。 仕事が増えますし。
XOPさん

カトリック教会も最近は信徒による福音宣教と言うことをかなり全面的に出してきていたと言うことを聞いていました。それが教皇が変わってどうなったのでしょうか。典礼等も本質的でない部分に関しては多様性を認めるようになっていく気もしますが・・・・
> XOPさん

でもそういう長く続いた伝統的なことも守るというのも大事だと思います。
もちろん不必要なことなら廃止もやむ無しですが。
> 信徒による福音宣教

そうですね。キリスト信者は福音宣教の最前線ですね。
キリスト信者が 教会 だ とも言います。

多様性 それは とても良いことです。
他方、世界中 どこでも同じ日に同じ典礼に与れるのは便利です。

旅行先でも、外国に行っても、ご当地の聖堂で御ミサや聖務日課
に与れるのは 大変助かります。

ラテン語だったりすると、コトバも同じですから、尚 ありがたいですね。
XOPさん

カトリック信徒の方はみんなラテン語が理解できるのですか?すごいですね。
あっちゃん さん。
殆どの人はラテン語わかりません。
その故にラテン語「だけ」の典礼から各国語になり、
今は殆ど各国語の典礼ですので ラテン語を勉強する
必然性もとても薄くなりました。

しかしですね、
「キリエ エレイソン」(は、ギリシャ語ですが) で 主よ 憐み給え
「グローリア イン エクシェルシス デオ」 で
 (特に 今 待降節でクリスマスを意識しますので) 天のいと高きところには神に栄光

って結びつきますでしょう。
それもなくても、何か神様を讃える歌 くらいは。

そんな感じで、ミサを感じることは出来ます。
世界中 どこででも。
XOPさん

僕の属するルーテル教会でも礼拝で「キリエ・エレイソン」や「グロリア」賛美しています。但し歌詞は日本語です。意味も分からず歌ってもどうかと思いますけどね
> あっちゃんさん

聖公会だとキリエはギリシャ語と日本語両方歌いますし新聖歌集には日本語訳つきラテン語の聖歌もあります(^ω^)
14> 意味も分からず歌ってもどうかと思います

なるほど。他方で、
分かる のと 信じる のではどちらが大切か。

また、例えばですが
「栄光は父と子と聖霊に。始めのように 今も いつも 世々に。 アーメン」

この意味 わかりますか?
特に 世々に というあたり。
XOPさん

「分かる」から「信じる」ことができるのではないでしょうか。もちろん個人によって「分かる」の意味合いは異なります。しかし自分が「何をどのように信じているのか」、その理解がなければ「信じる」ことはできないのではないでしょうか。歌ならば対訳もあるだろうしラテン語で歌っていても内容を理解することはできるでしょう。しかし毎週の説教もラテン語ということであれば説教の内容をその場で理解できる信徒は限られてしまいます。礼拝を現地語で行うと言うことの意味は大きいと思いますよ。

世々ですか・・・僕は単純に全世界と受け止めていますが
あっちゃん さん
> 毎週の説教もラテン語

きっと、格調高いでしょうね。
教皇ベネディクト16世が
システィナ礼拝堂での被選後
はじめての御ミサで、美しい
ラテン語で説教しておられま
した が、

ラテン語で説教 は滅多に
与りませんね。

ホメリア ですから、ラテン語で
聖書を朗読するとすれば、それを
聞いてわかるコトバで語る という
のが 説教 だったり。

> 「分かる」から「信じる」ことができる

如来あるがゆえに信じるにあらず、信じるがゆえに 如来あるなり
不条理なるがゆえに我信ず

とも あります。
ラテン語だけのミサもそれぞれの国のミサもプロテスタントの礼拝もある多様性が宗教改革の今日的意義でしょうね。
つまり選択肢が多様ということです。
「エキュメニズム」のよくある誤解は「エキュメニズムは神学や礼拝形式を統一しようとしている」というものですが全くそんな事はないと思います。各教派の
多様性を損ねまいとするから対話がうまく行かないのです。でもその多様性の保持は曲げてはいけないと思うのです。
> 16XOPさん

聖公会訳だとわかりやすいかもです。

「栄光は父と子と聖霊にはじめのように今も世々に限りなく」

…変わらないかたらーっ(汗)
> 17あっちゃんさん
「世々」は場所ではなく時制です。
直前の「今も」と並列の関係にあり「代々」と同意です。
つまり栄光ははじめのようにいまもいつもいつの時代も時という概念を超えて永遠に父と子と聖霊にありますということです。

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