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クンダリーニ覚醒コミュの覚醒後の意識の変化

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 クンダリーニエネルギーが活性化され、熱い塊となってトグロが解かれるように上昇して脳天を突き抜けた瞬間は一種、恍惚感のようなものがありました。驚愕と恍惚感が入り混じったような感覚で、意識が混濁している状態でした。

 脳内麻薬が活性されてトリップしているとでも言える状態でした。その日は一日中、ボーっとしていて、足が宙に浮いているようで何も感じられない状態が続きました。

 そればかりか始終、羽音がうねるような、法螺笛が鳴り続けているような、機械のモーターが回転するような音が身体の芯から耳鳴りのように聞こえ続いていましたので、余計に、意識が一つのものに集中出来ない状態でした。ラビンドラ・クマール著の「クンダリーニ覚醒術」によると、この耳鳴りのような音を聖音(オーム)と言うと書かれています。

 そして、意識の変化は次の日の夜に、起こりました。
 その日はエネルギーの駆け巡りが翌朝まで続いていたので、ある程度、初日よりも冷静さを取り戻していました。周囲の状態や身体中の感覚に対しても客観的に見たり感じたりしようと仕向ける余裕さえありました。

 私は床についていましたが、全く眠る事が出来ませんでした。しばらく、目蓋を閉じて身体中の感触を確かめていました。

「足の先に移った。今度は腕から肩に掛けて動いている。口から鼻、目に移動して目蓋の裏が明るく感じる‥‥」胸辺りに動いていた熱い塊を触れてみました。すると、何と2センチくらい、そこだけ盛り上って動いていました。まるで、特殊メイクで盛り上げたようでした。

 面白い事に目を開けると身体の下からと言うか身体自体から青い蛍光灯が点灯しているように周囲が明るく見えました。普段、私は遮光カーテンを締め切り真っ暗にして就寝するので明らかに明る過ぎるのは確かでした。ロザリン・L・ブリエール著の「光の輪」によると古代ギリシャでは真っ暗な地下室に閉じ込め、暗闇でも秘密の出口が分かるかどうかで覚醒した者かどうかを判断したとも書かれていました。超能力を開発させ、予言などの能力に国の運命を委ねていたと言う話が出ていました。

 ふと、目の前の天井や周囲の家具や物を見ていた時に自己と言う意識が全くない状態である事に気づきました。
 過去や未来や感情の意識の条件付けられるものや囚われのない状態なのです。何かを考えようにも考えられず、意識をブロックでもされているかのようでした。

 まるで自己と言うものが喪失している。見るものと見られているものが一体になっている。自分が空虚な空間の中にぽっかりと浮いている。宇宙や万物と自分が一体になって、溶け合って存在している。全ての世界が自分自身であるような意識の拡大を起こしている。一口では表現しにくいものでした。まさに、例えるなら、仏教で言う空の世界の体験そのものでした。

 全てがあるがままに、クリアな状態で捉えている事は確かでした。いつも見慣れている景色が全く違ったクリアな状態に見えると言うか、景色自体が私自身であるような宇宙意識との一体感。仙道の練士である島田明徳 著の「気の意味」に大周天時の同様な体験談が書かれています。

 本やなんかで知識としては知っていたが実感していなかった世界。これを或る人はブラフマン(創造神)とアートマン(自己)の一体となった悟りと言うのかも知れません。私としては、実存主義の哲学者サルトルが描写する世界。究極の実存を果たしているような実感と感じられたのです。
 
 その後、意識は平常の状態に戻りましたが、何処となく満ち足りているような、現在の事以外はブロックされているような意識は依然と残っています。全然他の事や、過去、未来について考えられない訳ではありません。普通に欲望もあります。しかし、何処かが違う。仏陀の言う苦の消滅とでも言うような不幸と言う感情と言うものがなくなってしまったようです。何か昔よりも貪るようなガツガツするような気持ちが薄れてしまっています。あるがままに生きようと言う気持ちが強調されるようです。非常にシンプルになっている。一種、中国の道教の創始者、老子が唱えた道(タオ)の境地です。

コメント(34)

 すみません。
 ロザリン・L・ブリエール著の「光の輪」の文面で一部勘違いをして書いてしまいました。ギリシャでは神殿の地下の迷宮に志願者を9日間蛇と一緒に過ごす事を課していたと言う話でした。暗闇でも秘密の出口が分かるかどうかで覚醒した者かどうかを判断したと書いてましたと言うのは間違いです。
 古代エレウシス神殿の話とごっちゃになってしまったようです。エレウシスでの志望者は麦の種を七粒渡され、暗闇の地下で自らのエネルギーと光だけで芽を出させ、それが覚醒したかどうかの判断だったとの事です。どこで、どう読み間違いしたのか、失礼しました。

 ついでに、クンダリーニについて興味ある著述がありましたので載せます。

 ウイリアム・コリンジ著「見えないサトル・エネルギー」にインドの神秘主義者スワミ・ムクタナンダがクンダリーニについて述べた箇所がありました。

「自身の存在から宇宙をお創りになり、宇宙になられたのはクンダリニー自身だった。クンダリニーは宇宙のあらゆる要素となり‥‥宇宙の生気であるプラーナ(気)になられた‥‥ 」

 スワミ・ムクタナンダは絶対神、創造主の事をクンダリニーと呼んでいます。また、この思想は道教の老子の「道(タオ)」が天、地、人を創造し、全ては同じ気の集まりであると言うタオ思想と実に似通っています。大変興味深く感じました。道(タオ)=クンダリーニ=創造主。なかなか面白いですね。
 「ダンマとプネウマについての私的な分析」

 ダンマ(法・ダルマ)とはブッダが悟りを開いて導いた因縁の理法と言うものです。
 ブッダは菩提樹の下で悟りを開き、35日ほどして布教の活動を開始したと言われています。その35日間、ブッダは色々な樹木の下で瞑想をしたと言われており、その間に、教えの骨子を煮詰めていたと考えられています。

 解脱を一般に悟りを開くなどと言います。また、煩悩の束縛から解放されると言う意味でもある。

 そして、悟りの意識を全人格的思惟と言う。一般的な対照的思惟を通常の思惟とし、考える自分と考えられるものとが相対するものと捉える。
 全人格的思惟とは考える自分と考えられるものが一体になるものを言い、自分と世界、宇宙が一体化した意識を言うそうです。

 ブッダは悟りの直ぐ後にこんな事を言っていたと原始仏典に書かれています。
「ダンマがあらわになり、浸透し、通徹すると、あたかも、太陽が虚空を照らしぬくように、限りなき空間に向かって放散される」
「私によって証得されたダンマは甚深であり、理解しがたく、悟りがたく、静寂で、優れており、分別の領域を超えている」
 その後にダンマは如来とも喩えられ、言われるようになりました。
 玉城康四郎 著「悟りと解脱」に形なき永遠の命こそがダンマであると書かれています。そして、如来とは一体何か?大日如来であり、最高神、絶対神、創造主である。

 ブッダは悟りの瞬間、ダンマ・如来と言う創造主と一体となり、全人格的思惟をした事になったのではないか。
 スワミ・ムクタナンダがクンダリーニを創造主とし、老子が道(タオ)を創造主的なものと捉えたように、ブッダもダンマを創造主として一体感を実感した事になりますよね。
 
 こうした共通点は一体何なのか? それぞれが悟りの境地に至って一体し、実感した創造主である訳です。そして、玉城氏の考察とを合わせると創造主と生命の根源エネルギーは同じものとも言えます。

 実は創造主の正体とはクンダリーニと言う生命の根源エネルギーであり、私達を進化、突き動かす源であると導かれるのではと思うのです。

 更に面白いのは、キリストによるプネウマです。
 ヨハネ福音書によるとキリストが開眼したのはヨハネによってバプテスマを受け洗礼を受けた時と言われています。
「イエスはバプテスマを受けるとすぐ水から上がられた。すると見よ、天が開け、神のプネウマ(火)が、鳩のように降りて、自分の上に現われるのを見た」

 ここで言うプネウマ(火・火花とも言われる)はより根源的な超越したものであり、超越的な神の霊(創造主)を指すようです。キリストは、その後、サタンの試みに遭遇する。

 「わたしは父にお願いしよう。そうすれば父は、いつまでもあなた方と共に留まるように、別の助け主をあなた方に与えるであろう。それは真理のプネウマである。この世はそれを受け入れることができない。なぜなら、それを見ようともせず、知ろうともしないからである。しかしあなた方はそれを知っている。なぜならそれは、あなた方と共に留まり、あなた方のうちにいるからである」

 まさに、このプネウマもダンマや道(タオ)、クンダリーニと同じものと言えないだろうか?
 私には、全てが同じものに感じるのです。そうです。生命の根源エネルギーこそが創造主と言われ喩えられており、クンダリーニそのものであると言う事です。

「なぜならそれは、あなた方と共に留まり、あなた方のうちにいるからである‥‥」  
  
 これは私的な分析です。私は真実だと思っています。そして、これから、色々な意味で研究されるべき対象のように思います。
はじめまして、ニキーダといいます。

興味深いコミュだと思いまして、思うところは違うかもしれませんが、みなさんからまなばせていただきます。

よろしくお願いいたします。

PS

厳しい修行なしでのクンダリーニの覚醒に及んだ話は、レアなものとして私もインドにて話を聞きました。ただ、クンダリーニにおけるチャクラの開放において、気をつけないとチャクラは、エネルギーを吸収する状態に陥ると念をおされました。話からすると、いわゆるブラックホールと同じようなイメージを
もちました。

エネルギーの上昇にともない、意識が無意識の次元に上昇して行く段階でREALTYの開放に、意識がどのレベルまで耐えられるかというところに、凄まじい危険があるようですね。

あるイスラエル人がヒマラヤ山中のシバ神を崇める、サドゥに口伝系のヨガ、瞑想法を習い、儀式、おそらくイニシエーションを受け、マントラを口伝されて、深い瞑想状態に入ったのですが、精神がついてゆけず、無意識の世界に住することになったのです。つまりこっちの世界に戻れず、私達から見ると気がいってしまった状態になってしまった。

どのヨガのマスターもどうしようもない、瞑想をやめさせなさい、としか言えなかった。

なぜなら呪術的瞑想法においては、特に秘められた法もまたそこに存在し、その宇宙の法の下に、たとえ間違えでも法を犯せば、その果は被る。マスターと言えども、それを救うことは法に反し、反せば、罰せられるというものでした。

気がいってしまった彼を見て、私は驚愕してしまった。

充分に気をつけてください。


今後ともよろしくお願いいたします。
 ニキーダさん、はじめまして

 貴重な情報、有難う御座います。
 私にとって、クンダリーニ覚醒は、まだまだ未知の世界である事は確かですね。現在覚醒後4ヶ月近く経ちますが、気の抜けない状態です。これから、どのような異変が起こるか予想できません。

 日々、一瞬、一瞬、感覚を実感しながら、生活しています。現在も24時間全身のチャクラが開いて、そこから、クンダリーニエネルギーと思われる波動が渦を巻いて、円錐形に立ち上っています。私の場合はブラックホールのように吸い込むと言う状態は一度もありません。始終、エネルギーを出しっ放しの状態が続いています。現在、ヒーリングを仕事にしており、そのエネルギーを癒しのエネルギーとして使っています。

 私は、どちらかと言うとクンダリーニ覚醒を余りスピリチュアルなものとしては捉えていません。たまたま潜在意識が活性化したものだと捉えています。確かに、最初の熱いエネルギーの塊が螺旋状に脊椎を昇って来た時は驚きましたけど‥‥。

 意識の拡大や全人格的思惟と言われる自分と世界、宇宙が一体化した時からのしばらくの意識の混濁が続いていた時やエネルギーの塊が身体中を這うようにうごめいていた時は自分を失いそうになった時もありましたが、現在は精神的にも肉体的にも安定していています。

 むしろ、以前よりも元気で明晰になったようです。逆に、昔よりも、より現実主義的で、より意識もクリアな状態になりつつあります。私としては究極の実存を果たした人は宗教や神秘から遠ざかる事になるのではとも思えるのです。私自身の日記(ブッダとクリシュナムルティ2)にも書いたのですが、本来は、そうなるもののように感じています。

 現在も、全身が光の柱のような状態になったようにエネルギーが強く発する時や不思議な体験もありますが、そうした事に対して流される事は一切、ありません。聖音と呼ばれる身体の芯から発するグオングオンと言う回転する音やシャーと言う高音の耳鳴りのような音にも慣れましたね。やはり、現実にシッカリと実存しているような強い意識を持っていないと流されると思っています。

 瞑想中には変性意識状態なので意識と無意識の間にいる状態になります。耽溺してしまうと無意識の世界の幻想的なビジョンや光、音が聞こえてくるのは結構ある事です。クンダリーニ覚醒していなくても瞑想中に自己喪失される方もいるようです。そうしたものに囚われ、流されるのは自己の弱さの反映だと思っています。振り払うくらいでないと駄目だと思っています。

 ゴーピ・クリシュナ著「クンダリニー」の訳をされている中島さんにアドバイスして頂いたのですが、やはり、瞑想には注意が必要と言ってましたね。クリシュナ自身も瞑想を控えていたようです。

 お気遣い有難う御座います。

 こちらこそ、宜しくです。今後も、面白い情報がありましたらお願いします。

 
初めまして、。
なんかやっと探していたモノが見つかった気分です。

私もひょんな事からクンダリーニ体験者です(2週間前か?)
気が向いた時に瞑想をしてました(3ヵ月前くらい前から)

いつものように軽い気持ちで瞑想していたら
青い光が出てきて、どんどん大きく近づいてきたんですね
その中心がトルネードのようなトンネルになってて
一瞬(恐い)が頭を過りはしましたが
取って食われる事もないか?えーい!ままじゃ!!
と中に吸い込まれるように入っていきました
瞬間、咽と頭に何かが通る?感覚があり、しばらくの間
気持ちの良い至福感に酔いしれてました

ところが、夜中にトイレに起きると酔っ払い状態でフラフラ・・
次の日は頭痛がひどく使い物にならずげっそり
でも、その頭痛が治まってからの私は
今までの私とは違ってました冷や汗
吹っ切れたと言うか・・ドーン!と構えていると言うか
何もかもが些細な出来事として捉えていると言うか・・

それっからは、目を瞑ると曼荼羅が映像として広がるように
また目を開けていても、チカチカ青く光るモノが見えたりと
なるほど!これが覚醒といわれるモノexclamation & questionの恩恵と言うのか!
と気が付きました(後から危険だよ)と教わりましたが
なんせ終わった後あせあせ

ところで、私が知りたいのは、この先は?ですあせあせ(飛び散る汗)
この覚醒の後に来るものは?これでおしまいなのでしょうか?
新たなる覚醒と言うものがあるのでしょうか?
ならば、それは何!?なのです。
 タマさん、はじめまして。

 タマさんの文章を読んだ限りは、クンダリーニ覚醒かどうかは判断しかねます。 人によって、クンダリーニ覚醒の仕方も違う場合もあります。果たしてチャクラが全て覚醒されているのか? 

 一部が覚醒されていると言う場合もあります。脳天のチャクラからクンダリーニエネルギーがほとばしり出る事はあったのでしょうか?最近、知り合いになった方なんかも途中までのチャクラが覚醒されたが、最後までは行かなかったと言ってました。それは、単なるチャクラの活性であって、違うようです。

 また、クンダリーニ覚醒で共通するのは、覚醒は一回きりではありません。一度、覚醒すると暫くは、ほとんど毎日のようにエネルギーが身体中を駆け巡ります。それが人によっては数ヶ月も続くのです。ある程度、落ち着くと間隔が広がりますが、それでも結構あります。また、肉体の浄化やアストラル体の浄化などが起こると、違った形で能力などが出て来たり、エネルギーが強まったりするようです。

 それと、クンダリーニ覚醒者に共通なのは、チャクラが24時間開放されている状態になります。身体中のチャクラから時計回りのエネルギーの渦が始終出っぱなしになります。それから、丹田辺りの体内にモーターが常時回転するように動いている感覚があります。その動きに合わせてエネルギーがチャクラから出るようです。そして、その動きと同調するようなグオングオンと言う音が耳鳴りのように始終、聞こえる。特に、手の平や足の裏、脳天、コメカミ辺りは円錐形の波動の渦が立ち昇っているように感じる筈なのです。そうした状態になる事が、まず、クンダリーニ覚醒の証明と思われます。その辺はどうなのでしょうか?

 また、能力的な覚醒は霊的な成長や、その人の使命、役割などによっても違うようです。手の平からクンダリーニエネルギーが出る事からヒーリング能力が身につく事になります。その他、意識の変化として、始終、想念の止滅されているようなブロックされているようになり、悪感情や怒り、煩悩などがなくなり苦と言うものが感じられないような感覚。そして、客観的な高みから自分をみつめているような真我と言うものが形成されます。

 私が見受ける所、チャクラがどれか活性されても手の平から気が出る事もあるようですが、それは、クンダリーニエネルギーではなく、エーテル体の気のようです。結構、クンダリーニ覚醒と勘違いされる場合もあります。まず、冷静に客観的に自分自身を見詰める事が大切なように思います。

 それから、クンダリーニ覚醒は悟りのスタートだと私は思っています。もし、本当に覚醒が起こっている場合は、先ほど書いたようなエネルギーの渦や音やモーターの回転する感覚や高熱のように身体が火照ったり、食欲がなくなったり、性格や人格が変わったり、運命的な共時性(意味のある偶然)も訪れるかも知れません。それは、ある意味で使命と言うものを与えられる機会が訪れる事になるでしょう。 
 追加によるコメント。

 瞑想時には白昼夢やトリップはよくある事です。それによる、意識の拡大する状態も起こりえます。そうした状態とクンダリーニ覚醒とを勘違いされる方が多いように見受けられます。

 すべてのチャクラの開放や音(オームと言われます)、エネルギーの波動は一生続くものとなるものです。エネルギーの立ち昇りが後光と呼ばれるものであり、それによってオーラの色調が変わり大きさが拡大されます。オーラが見えると言う能力者が見るとオーラが大きく光り輝いているように見えるようです。
 追加によるコメント2.
 
 そもそも、クンダリーニ覚醒のスタートは尾骨や丹田辺りが焼けるように熱くなり、クンダリーニエネルギーの塊が螺旋状に脊椎に沿って上がって来ます。そして、チャクラに点燈させるように火をつけるように熱くさせながら上昇するのは共通のスタートのようです。そして、脳天を突き抜ける。幻覚、幻聴のようなものもあるかも知れませんが、かなりリアルで肉体的な体験のように感じられるようです。そして、そうした身体中に這うエネルギーの熱い塊の蠢きをその後、数ヶ月ほぼ毎日体験しました。現在は、間隔が少し開きましたが、それでも1週間に1回はエネルギーが夜中に高まり、腕や足、頭、御尻からエネルギーが噴射されたようになり、脊椎はあたかも光のトーテンポールのように太いエネルギーの流れを体験しています。また、朝方は丹田辺りが熱くなり、波動のうねりも強くなります。

 また、覚醒者はヒーラーとしての能力は皆さんあるようです。クンダリーニエネルギーはコーザル体と言う6次元のものとも言われており、病気の原因、カルマ、魂に訴えかけ、浄化させる能力があるとされています。

 ただ、単に痛みを取るとか病気を治すばかりでなく、ガンや難病を根底から癒すエネルギーです。私は偶然にも覚醒間近に突然、親戚が肺ガンを発症する事態を経験し、1度のヒーリングによって1ヵ月半後の検査では完治するに至りました。それによって、そうした能力があると気づかされたような運命的な共時性としか思えないように感じられた程です。(ヒーリングは抗がん剤と放射線療法では免疫力の低下を招いて逆に腫瘍が倍に膨れてしまった後に行なったものです)現在は、そうした経験から少しずつガンや難病の方をヒーリングしております。

 
 よく瞑想によるトリップや白昼夢に耽溺し、夢中になったり有頂天になられる方がいるようですが、私は注意が必要に思います。
 それによって、普段の時にも幻聴が聞こえたり幻覚が見えるのは、決して、悟りに近づいたものではありません。むしろ、逆行でさえある。仏教の禅では、そうしたものを戒めてさえいます。

 きちんと、自分自身を冷静に客観的に観えるようにする視点を養わないと魔が入る(悪霊に憑かれる)場合もあります。魔が入るようになると病気になったり、感情に溺れたり、欲望に執着したりと突然、本能が抑えられないような状態になったりするようです。それは、自我がアストラル体(4次元)の中に漂い、抜けられなくなり感情と一体化したり、欲望と一体化したりするようになるから起こるようです。

 自我は本来、もっと上の次元にあるもの。だからこそ、冷静に自分自身を見詰める事が出来る。時々、街で見かける、やたらに怒鳴り散らして自己喪失している人やブツブツと独り言を言って周囲にお構いなしな人はアストラル体に迷い込んでいると思われます。精神分裂病などの方は4次元と3次元のバリヤが崩れてしまっている。その為に、現実と夢や霊界との境目がなくなってしまっているのではとシュタイナー医学の中でも指摘しています。

 だからこそ、瞑想には注意が必要なのだと思います。天外伺朗さんの著作にも書かれていましたが、初心者に陥りやすい罠であるとも言ってました。普段の生活の中で幻覚や幻聴が見えるようになり魔が入る所まで言ってしまうと、そう言う方は聞く耳を持たなくなってしまう。一種、宗教に妄信したような感じで自己喪失状態になり、殻に閉じこもってしまう。その頃になると家族や周囲の方も怪訝に思い心配します。そして、遂には病院送りなんて事になってしまうかも知れません。

 とにかく、自分を強く持つ事です。自己を失ってはいけないと思います。クンダリーニを覚醒者された何人かの方も例外ではないようです。毎日のように身体中を駆け巡るクンダリーニエネルギーの衝撃や頭の中をエネルギーが掻き回しているように感じたり、コメカミ辺りが盛り上がってくるように感じたり、下半身の火照りや始終、耳鳴りのように聞こえる羽音のようなモーターが動くような音など悩まされ生活に支障になる事もあります。そうした事から家族や友人の理解が得られずに精神病ではないかと勘違いされ、実際に病院に入院されている方もいるようです。

 そうならない為にも、真我を形成して、客観的に自己を見詰められるようにならなくてはいけない。真我が形成されれば無意識の自分の行動も理解し、自分や他人のカルマに対しても冷静に対処出来るようになります。自分の意識の囚われを理解し想念の止滅をする事にもなり苦の消滅となるのです。主観や客観の世界の真実のありのままの姿も理解出来るようになる。それは、更なる現実主義者となり究極の実存を果たす事にもなるのです。それが本来のクンダリーニ覚醒であり、悟りへのスタートを切る事になる。

 私は、覚醒したばかりの時にはクンダリーニ覚醒は一種の肉体的なもので、潜在意識との繋がりがあると言うもののように感じていましたが、近頃では、霊的な成長や使命などとの関わり、悟りとの関連があると言うのが実感されてきています。
奥が深いのですね・・泣き顔

瞑想を続ける事により誰しも必ず出てくる映像に
イチイチ立ち止まってはいけませんよ。
と、気功師の方から以前に聞いていたので
映像については流していました。

煩いほどの幾何学模様も落ち着いてきました
まだまだ私はバッド(下向き矢印)のようですふらふら

以前より自分の事を客観的にみてる自分が居るだけでも
良しとするのが妥当なのでしょうね〜。

あれからの瞑想では(あ〜、気持ち良いぃ・・漂ってる)
で終わってますもんね〜あせあせ

そう・・ヒーリング出来るだけじゃ納得できないんです!
結果、症状が和らいだといえども治ってるわけじゃない!
反対に、痛みが治まったせいでズルズルと病院に行くのが
遅れて症状が悪化する事もありますから・・。

肝に命じます。
 「唯識についての考察」

 唯識と言う言葉を御存知でしょうか?
 唯識とは仏教僧侶の教義であり、教科書のようなもので、難解な仏教理論であると言うのは聞いた事がある方もいらっしゃるかも知れません。実際、唯識を完全に理解されている僧侶も少ないのではとも言われる難しい理論づくめに作られた思想で、昔から唯識3年倶舎8年と言われ、唯識をマスターするのには3年ではなく、倶舎8年やった後に3年、合計で11年、12年かかると言うものらしい。

 何故、そんなにややっこしく難解なのか? それは悟りを開いた側から見た意識や深層心理であり、仏陀の悟りの意識の側から書かれたものだからなのだ。一般人(凡夫)から観ればチンプンカンプンなのは当然で、悟りを開こう、開いた人にとっては結構シンプルとも思えるものなのです。
 唯識を一言で簡単に説明すると「本来の全ての実相はただ意識のみである」と言えるかも知れません。

 唯識は4世紀のインドの瑜伽(ヨガ)行派の実践の中に唯識の体験を得て教理にまとめたものと言われています。面白いのは弥勒菩薩(マイトレーヤ)から伝授されたものともされており、それを無着(アサンガ)・世親(ヴァスバンドゥ)が教学を集大成したとされています。弥勒菩薩と言うのは天界の菩薩です。無着が幽体離脱をして天界で弥勒菩薩に御会いして聞いたものを著したとか、果ては弥勒菩薩が地上に現れて無着に話して聞かせたとか不思議な云われがあるものなのです。

 仏教教義であり、教科書ともされているものが天界の弥勒菩薩伝授とされている為に、学会や仏教界では何とか修復に余念がなかったそうで、弥勒と言う菩薩ではなく僧侶が存在していたとか、架空の伝説であったとか話を作ったりしているが、現在では一応、弥勒伝授と言う事は定説とされています。人間業でないような悟った側の視点で書かれたものだけに、これはこれで仕方のない事なのかも知れません。しかし、仏教教義の根底では不思議な事があるんですよね。

 仏陀や弥勒菩薩が悟った際の意識の状態とは主観と客観が一体となり、主観は純粋な意識のみで想念が止滅した状態であり、客観は空(無自性)となる。そして、マナ識(無意識)には煩悩などが消滅し平等性智となり、アラヤ識(集合無意識)にあるカルマが浄化され大円鏡智に転ずるとされている。それが解脱と言うものであり、転識得智と言われるものなのです。

 4世紀と言う時代に、既に深層心理学が存在していた。無意識の解明がされたのは西洋では100年少し前にフロイトなどによって行なわれ、集合無意識はユングによって50年にも満たない。既に、その1500年近く前に存在していた事になるのです。これは、やはり、弥勒菩薩伝授と言うのも頷ける不思議さではあります。

 今、唯識が密かに広まりつつあると言う。私としては、これから、やっと、唯識と言うものが身近なものとされる時が近づきつつあると感じています。そうした時代が来た。意識の時代の変化であり、転換点は、もう直ぐのように感じています。

 これから悟りを目指す人達が増えて行く。否、もう増加しているのかも知れません。クンダリーニ覚醒の際の意識と唯識の意識は全く同じものであり、共通するものばかりです。そうなるとクンダリーニ覚醒を促される人達も増加するように思えてなりません。唯識の意識の投影の世界、悟りの意識の投影の世界は、あるがままでクリアで平和な世界です。一人一人の意識の投影された世界がクリアに平和になる時、それは地球の平和を意味するのかも知れません。
 こんなトピックがあたのは知りませんでした。

遠隔村長さん勉強されていますね。 よかったです。

このまま、皆を呪術的方向に導かれる意図があるのか、ないのかは分かりませんが、トランスパーソナルやインテグラル理論において、唯識瑜伽行派の視点は、最初から視野に入っていて、インテグラル理論の発案者であるケン・ウイルバーは、シャン・カギュー派の師匠に学び、カルマ・カギュ派のチュギャム・トゥルンパ・リンポチェのナロパ学院の理事をしていました。 

ウイルバーは宗教や心理学・哲学などの特定の文脈(宗派や学派)や文化に属さずに、全てを包括する視点を提供していますが、作られた一般常識や社会のニーズとも一線を隔しています。

一般的な常識や、信仰を拒絶し、自我への無反省の信頼は、幼少期に、自分の力を夢想し何でも出来ると信じて疑わない成長前の意識と同じで、ウイルバーの理論は、細かく分化された認識の上で、何かを否定するのではなく、包括する視点で物事を見極めるのですが、変性意識=クンダリーニの経験は、高原体験(クンダリーニの本覚醒)にならなければ、単なる体験に過ぎません。

 トランンスパーソナル心理学の研究者は、単なる研究者ですし、意識の深い深層において、結果を研究するしかないので、体験者は重要です。  


統合心理学の中では、唯識(瑜伽行派)の視点やアーユルヴェーダの理論や、神智学協会のアストラルやコーザル、メンタル体のことは知ってますし、ウイルバーの相棒でもあるスタニスラフ・グロフは、クンダリーニなどの研究においては、夫婦で変性意識の研究はかなりされています。

  グロフの研究は統合心理学の中では、発達心理の中や、クンダリーニの障害においては、思想の基盤になりました。

 クンダリーニの研究は以外に進んでいるんですよ。

余談ですが、唯識瑜伽行派の視点を理解するには、中観派の勉強も必要です。

何故、必要かというと、唯識だけでは偏ってしまうし、中観を理解しないと、唯識の前身であるテーラワーダとの違いが何のためなのか? どこが違うのかが判らないのです。

ユング心理学の研究者(日本ユングクラブの元会長)の談に拠ると、ユングの心理研究においても、唯識の勉強は隠されてはいますが、必読にされているそうです。

宗教だから隠す動悸は分かりますけどねウインク
☆笑顔生活☆さん、はじめまして。
僕も斉藤一人さん好きです。

クンダリニーの覚醒とは、そのような心情や情動、意識の状態まで含めて覚醒と、僕は定義しています。

単に、エネルギーが背骨を動いたとか、光の体験をした程度では、覚醒とは言えません
笑顔生活さんの状態が恒常的(常にその状態)になることを、本覚醒というのです。
インテグラル心理学では、発達心理学の言葉を借用して、高原体験といっています。


いい体験しましたね。あっかんべー

☆笑顔生活☆さん
殆どの既成宗教はこの高原体験を定着させ、安定させるために、修行や教義理解に多くの時間を割きます。

貴方の体験した、内面的・外面的プロセスは、僕も20年位前に、仏教(密教)の修行で経験しました。

高原体験の殆どは、宝くじの高額当選の様に、稀です。
 それを意図的にその状態に至ることを狙うのが、修行です。

僕は宗教家ではありませんが、クンダリニーは霊的体験の一つのステップですから、誤った情報公開すると、多くの人を混沌に先導してしまうのです。

☆笑顔生活☆さん

 クンダリニーは、人により様々な覚醒の仕方があります。
 笑顔生活さんのような修行者が本覚醒に向かう道筋の様な体験は、少ないと思います。

 修行者が通る階梯ですね。


 基本的にはクンダリニニーは進化の過程で起こる体験ですので、本当に様々です。


 笑顔生活さんのように、宿明通(過去世や来世を見る力)のような体験も、意識の進化として体験します。

 そういう体験が増えると、人間として生まれるのが非常に稀であって、一瞬一瞬を大切に生きないと、勿体無いという自覚が出てきます。 エゴの考察にいたったのは、前世からの熏習でしょうか、すばらしいことです。


 菩薩の修行をしているなら、人と共にあって、修行になります。

 隠遁生活で、自分がすばらしい境地にあるだけなら、役には立ちません。

 有名な、ダライラマやカルマパも、意図的に、他の人の苦しみを無くす為に生まれてきています。



 笑顔生活さんも慈悲の化身のようになってくださいませ。


☆笑顔生活☆さん

 歓喜や平穏な意識状態がずうっと続くことが、高原状態といい、それが本覚醒です。
菩薩の修行は、三世どころか、無数の転生の覚悟が必要です。

あの状態をキープするようにしたら、駄目なんです(笑)
 捨て去るようにしてください。 そうすると、更に上の意識状態に進化するのです。
 それは、部派仏教とよばれる時代から、発見されていたのです。

 斉藤一人さんんがいっているように、楽しくことをいつも考えるように、常に喜ばしい意識を求めていたら、案外簡単に見つかるものです。

 楽しんでくださいませ。


☆笑顔生活☆さん

高原体験の喜ばしさを思えば、苦難の輪廻に留まることの苦悩も進んで出来る・・・
そう実感しませんか?

ある意味、肥溜めの中を漁る様な嫌悪があっても、あの至福の状態は、それさえも苦にならない状態にもなりえます、但し悲哀や慈愛の相当の決意がなくては、やはり嫌なことです。

☆笑顔生活☆さん

>しかし、その状態から離れると、悪想念渦巻くこの生活に身を置く事に嫌悪感を抱きます。

これは、覚醒体験はしたけど、高原状態ではない、ということを表しています。
その場合、自分の居る場所や、状況を把握し、より速やかな安定状態を、エゴとの関係性を軸に成熟させる必要があります。
 もしくは、多くの修行者達が通った、聖なる道を突き進んで、高原状態で安住する方法もあります。

前者がトランスパーソナルな全体を包括する視点を会得する道です。
これは一見、入り口は容易に思えますが、笑顔生活さんの場合は、宗教的視点も受け入れる懐の深い所もおありのようですので、仏教やヨーガの教えを受け入れる、ということも有用なのです。


クンダリ−ニとチャクラに対する誤解と用途、対応と障害について多くの誤解と現実的な対応について明らかにしていく為に、既存のクンダリーニのコミュがあるのは存じていますが、改めてここに総合的なクンダリーニとチャクラのコミュを立ち上げます。

『クンダリーニとチャクラの真実』
http://mixi.jp/view_community.pl?id=6019358


クンダリーニの覚醒は、霊的進化の一側面で、最終的には全ての魂が、悟りに向かう方向性を持っています。  悟りとは何か?という問いに対する答えは、存在の完成とも言えるでしょう。

また違う角度から見れば、完全なる調和、最高の至福の状態とも言えます。


それは最高の意識状態なのですが、その状態に至るには、人間は余りに複雑に出来ていて、その至福の状態に至には余りに困難なのです。 西欧の哲学や神学で神に通じる道に立ったとしても、東洋の聖者たちの至った境地も、永きに渡る修行の成果として至ることの出来るものです。


地球規模で考えれば、アメーバが細胞分裂を繰り返し、進化して他の生命体を形成し、サルや人間が生まれる進化の方向性の中で、脳細胞や脊柱の構造も進化して知覚や感覚がダイナミックに変化していく
指針を示せればと思っています。

 尾骶骨に眠る進化力(クンダリーニ)が覚醒し、変容していくプロセスの解説や、相談の窓口を作って行きたいと考えています。  立場上、多くの覚醒を見て来ましたが、一歩間違えば、迷子になってしまうほど、人間の精神は複雑怪奇です。  心理学では、全く対応出来ない領域ですが、ケン・ウイルバーがトランスパーソナルやインテグラル理論として、グロフ夫妻の研究を土台に一般人の覚醒の混乱や統合を指向していく手掛かりになれればと思います。





様々な覚醒の症例があって、進化ではなく障害だと感じている人もいるのも事実です。
言葉通り、進化の流れで覚醒する場合は、障害ではなくプロセスとして起こるのですが、超人的な側面として現れてきます、修行を経ずして、感性の発達として覚醒してしまった場合は、スピリチュアル・エマージェンスという「魂の成熟」が、エマージェンシー「危機」として自覚されます。

スピリチュアルな覚醒の典型ではありながら、覚醒は魂の危機とされるのは、人が成熟し、より大きな広がりを持った存在に進化する時、進化自体は自然な動きなのですが、それが急速に、劇的に起こると、主観の要因だけでなく、他の認識がその変化に追いつかない時に、スピリチュアル・エマージェンシーになるのです。






こういった「スピリチュアル・エマージェンシー」の問題やクンダリーニの覚醒後に起こる進化のプロセスや内的体験の絶妙なバランス感覚、意識が個を超えてトランスパーソナルな領域へと広がって行く部分にも注目していきます。


今は未だコミュを作っている最中ですが、ニーズに合わせて展開できたらいいなと思っています。

覚醒は織物のタペストリーの縦糸であったり、横糸であるという話をしたいと思います。


クンダリーニの覚醒は、激しく精神や肉体を破壊する現象であると思ってしまう人もいるのも事実ですが、意識や感覚が超人的進化をもたらすものであると、感じる人もいます。

実感でクンダリーニの感覚を自覚する人はあまり多いとは言えず、そういう体験をしたとか、気の感覚はいつもあるけど、クンダリーニの自覚は無いというのは多い様です。


クンダリーニの覚醒を願う人は多く、世界的に見れば、何万・何十万もの人々の憧れになっています。

どうやったら覚醒するのか、どういうプロセスでそれは起こるのか、制御不能に陥ったらどうするのか?

様々な不安や憂慮があって、希望と臆測が溢れていて、インドの行者でも、一生涯それに費やしていても、覚醒出来ない人も沢山いるのも現実です。


実はクンダリーニの覚醒自体は難しい事ではありません。




願っている人が多いのに何故覚醒出来ないのか?
それは、単純です。
エネルギーが漏れるから、進化力が有効に機能しないだけです。

意識を内側に向け、行為において戒を保ち、散動した意識を統御して、無駄話を止めれば、驚くほど簡単に覚醒は起こります。

取り組んでいる人には信じられないかも知れませんが、単純なのです。

例えば、身・口・意 をこの様に統御してみます。
身体の行為として、人の助けになる行為をして、(労働や人をサポートする)、口は制御して意識が無駄な活動をしないように無言に徹する。
意識は利他の為の心の行為に撤する。 それはいつもつねに人の利益を考える。

これに徹していると、必ず覚醒は起きます。 驚く程簡単なのです。


それから考えると、日頃私達は、どれ程それと反対の行為をしているかです。 

仏教やヨーガ、キリスト教もイスラム教でもユダヤ教や儒教や道教も同じです。 何を信じていても意識の進化は同じです。

進化に対するアプローチが合理的であれば無駄が少ないし、無駄が多いと言うことは、呪術的な思考や思い込みが大きいと言うことです。もしくは、リビドーの欲求に支配されて、余計なことをついついしてしまうことです。

余計なことをしてしまうのは、心理的な抑圧された感情や思考が世の中に投影されて、活きづらい世の中に感じるのは、自らの抑圧によって作りだされるのです。

そういった思考や感情の歪みが世界を歪めるのです。
そう言った思考や感情に取り組む為に、止観があって、その為の技術も発達しています。


この後に覚醒の進み方や脈管と心の関係、アプローチの多様性のことなんかを書きたいと思っています。
先程の覚醒自体は簡単、に続きまして、何が障害になるのかを説明したいと思います。

心と身体、脈管とチャクラは、それぞれがホロン(存在を構成する単位)を作るのに関係しあっています。

特に余り慣れ親しんでいる人は少ないと思いますが、「脈管」というのは、ナディ、つまり気の流れる路です。 これは血管のように管状になっているので、脈管と言い、特にここではクンダリーニの通る管を脈管と呼んでいます。

そしてチャクラは最近は、結構浸透していて、食物鞘(食べ物で構成された身体)とその内っ側にあるエネルギーで構成された生気鞘のターミナルになっている7つのセンターが7つのチャクラと言っています。

クンダリーニは尾てい骨にあるムーラダーラ・チャクラから、登頂にあるサハスラーラ・チャクラまでを貫きます。 クンダリーニが各チャクラを貫いて行くのですが、そうすることで、各チャクラが持っている能力が開放されていくのです。

なぜ、生まれた時からクンダリーニやチャクラは活性化していないのか? という疑問は誰でも生起するでしょうが、それを「穢れ(けがれ)」や「囚われ」と呼んでいるのです。

生まれた時から能力が顕現している人や能力が埋もれている人もいます。

それは前生における身体・口・心の行為の結果、チャクラや脈管に汚れが着いて、動脈硬化のように、管が詰まったり、チャクラは機能しなくなるのです。

こういったことは、心理的な事柄として自覚しやすいのですが、多くは、拒絶や嫌悪として現れます。
 何らかの出来事があって、それに対して何らかの反応が起こります。
その反応が親に駄目だよって抑制されたり、自分自身でも恥ずかしいと抑制をかけるのです。それを「抑圧」と言うのですが、抑圧をかけてもどうしても抑圧出来ない部分は、自分から分離させてしまい、いつの間にか自分にはそんな感情はないと自分の中から閉め出すのです。
本来は自分の感情なのに、それを閉め出すのだから、精神のバランスとしてはおかしな事になってしまいます。 

そう言ったことも管、またはチャクラの穢れとなって現れます。

そう言った穢れが懺悔や修行によって徐々に浄化されていくと、その人の元々持っている輝きが前面に出るようになるのです。

そのアプローチは全人格的であって、本当に総合した全知覚、全思考、全リビドー、全習慣などが対称になるので、作業としては大変な事となります。



以前にシネペリという、「止」の修習図の話を、2012年12月30日に、『クンダリーニとチャクラの真実』のコミュニティーの中のヨーガチャーラのトピックと、日記にアップしましたが、



 全ての仏道では「止・観」が最も大事です。 止観の大切さは、仏教だけでなく、人生の全てに通じていて、世界のあらゆる宗教、哲学、心理学にも繋がっています。

日常を振り返っても、人生上の重要な選択、そして失敗や後悔なども意識の動揺や抑圧された怒りによって判断を誤ることが多くあります。

なんであの時にあのような判断をしてしまったのか?

そんな事は沢山ありますが、それをさせているのが抑圧された感情や人に悪く思われたくないという無知の意識による欲求や、性的なリビドーが大きな原動力となって余計な事をしてしまうのです。

この様に日頃、私達を突き動かす衝動は沢山あるのですが、自分自身が抑圧された感情が沢山有るほど、自分が意図しないのに、状況にさせられることになって、流される人生になってしまいます。

これも、自分自身が解らなくて起こる事象です。

覚醒というのは、目覚めた状態であって、神秘体験をすることが目的ではありません。 自分自身と向き合うことで、自分自身の抑圧し、歪めてしまった感情や知覚の歪みを正しく知ることなんです。

自分では視たくない、受け入れたくないことが沢山あります。

このように、自分に取り組むことが重要な「修行」であって、有難いとされている教えを受けるとか、秘技を伝授されることが一番大事であると勘違いする人がいますが、一番大事なのは、自分自身と向き合うことです。

心と取り組む為に、心をリアルに感じ知る必要があります。
観念的に把握しても意味ないんです。 今の心を知覚して、取り組む為にも心を止める必要が出てきます。

心を静寂の状態にすると、止める事に近づくので、それに向い努力するのです。 ただし、気絶やボーっとした状態は止まっているのとは違うのです。 例えば眠っている時は、空無に対して集中している状態で、止まっている訳ではないのです。 無意識(潜在意識)の活発な活動下にあるので、止まっては居ないのです。 ボーっとした状態も曖昧で混沌とした意識状態で、明晰で安らかな心が止まる状態とは全く違って、不鮮明でどんよりとした、欲求に支配されやすい状態です。



救済、奇跡、解放などの状況の変更を約束する精神的アプローチに従う限り、精神的詐欺に引っ掛かり易く騙されやすいという、残念な事に陥り易いのです。

日本に於ける「スピリチュアル」にはそう言う傾向があり、ケン・ウィルバーが使う「スピリチュアル」とは違いがあります。

関係者には厳しい言動になるこの指摘は、世界の精神的アプローチには多く見られる傾向なのです。

これは、人間が持つ救われたいという欲求は誰もが、どんな立場の人でも生きている限り尽きない欲求なのです。

よく聴いて下さい。
甘い言葉や救済、奇跡、解放を約束する精神的アプローチは、黄金や宝石を散りばめた鎖なのです。

煌びやかに彩り装飾された鎖だと、自分を縛り付けるクサリなのにドレスの様に自分を飾り付けてくれるものだと錯覚するのです。
精神的アプローチがエゴを肥えらせる事にある限り、それは自分を欺くもので、それを「精神の物資主義」と呼ぶのです。

そう言うアプローチは、精神を物資の様に捉えているので、修行や精神的アプローチに対して保証を求める様になります。 まるで、保証書を書いて下さいと言わんばかりに、保証の約束を欲しがるのです。

このマントラを唱えると、問題が解決するとか、この修行をすると様々な問題が解決するといった奇跡を起こすと言ったマテリアリズムが横行するのが、現代日本の精神性です。
これは個人が意識の段階(レベル)が、未だ「呪術的段階」に留まっている証拠なのですが、この意識の段階はどんどん高めて行かなくてはなりません。
⑴ 呪術的段階
⑵ 利己的段階
⑶ 神話的合理性段階
⑷ 合理性段階
⑸ 相対主義的段階
⑹ 統合的段階

という六つの意識の段階があるのですが、この上の六つのことを知るだけでも、意識の段階は上に上がり易くなるので、スピリチュアル関係者は、良く知っておくべきです。



話しは元に戻りますが、精神的アプローチはエゴを太らせることにある限り、精神の物資主義であり、創造的プロセスではなく、むしろ自滅的プロセスになってしまうのです。

教えや秘儀が自分の問題を片付けてくれるという約束は、単なる誘惑で、自分の憂鬱や攻撃性や性的悩みを全て解決してくれる魔法を教わったのではなく、そんなことは決して起こらないということに気付き、自分の問題は自分で取り組んで行かなくてはならないという失望を受け入れることが大切なのです。

ガッカリする様な失望を積極的に受け止め、自我の満足ではなく、自我を放棄するアプローチは、本当の平安、究極の幸せを得る手段ではありますが、エゴという点から見たら、「悟り」は究極的な「死」を意味する。 自己の死、私と私の物の死を意味するので、この失望につぐ失望を経て行くことは、退屈につぐ退屈を受け入れることは、「苦」を正知出来ない限り難しい。

野心を捨てることで、健全な喜びに気が付く。
下に下に堕ちて行くことで落ち切ると大地に触れることが出来て、そこで大地の根源的な健全さに触れる事で、健全さの躍動、広がり、シンプルな知覚の喜びを感じて卑の卑、下の下まで堕ちて、何の期待も持たない一粒の砂になった時、下の下だった筈の
感覚はピュアな喜びを見出せるシンプルな歓喜の中に居ることに気付くのです。
突然、滝の様な轟と共に、眩いばかりの光の流れが私の脊髄を通って頭の中に入って来るのを感じた。
その光は益々明るくなり、その轟も大きくなっていった。 言葉ではとても形容出来ぬような、高揚した至福の感覚に包まれた広い大きな意識の輪となっていた。
こう言った体験は、クンダリーニ体験者の共通の体験です。

こうした体験の後に、彼の意識は完全に変革してしまい意識の状態(ステート)は変わって行きます。

修行者でもこうした体験をせずに、知らず知らず意識が変革して行くことは良くあります。
人生上の気付きや奮起、心掛けや思い遣りで心が成熟して意識の段階を登って行くことで、意識の段階は上がります。 経験が一番の原動力になるのですが、否定や逃避の意識があると、自分と向き合わないので、自然な経験を通じたレベルアップは起きないのですが、輪廻思想を否定したい人もいらっしゃるでしょうが、本人が望まないのに、進化力が勝手に働き出し、強制的にクンダリーニが動き出し内的なエネルギーに翻弄される人が居ます。
意識の段階を強引に引き上げるので、本人は普段の日常とは違う状態に引っ張られるので、大変です。
本人が行きたく無い、成熟出来無い意識ですから、呪術的な意識や神話性段階の意識なので、そこから出るのは嫌なのです。
そのしがみつきを手放す為に、光と水の洗礼は起こるのです。 ムーラダーラからサハスラーラまでは7つチャクラがありますが、チャクラというのは、神経叢であり、火と水の脈管の交差点なのです。
浄化の状態によって、交互に来る熱と寒さの浄化は、違います。 心理的に引っかかりやすいチャクラは人の経験によって違いがあります。

今、クンダリーニがもうすぐ本覚醒に入るかも知れ無いという段階の人がいます。 『リトリートの洞窟』という月謝制のコミュニティーでやっています、最初はチャンドラ・チャクラが活性化している危険な人かと思ったのですが、カウンセリングで会ってみたら好青年で、実直な人です、このまま本覚醒に至れば良いなと思っています。

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