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クンダリーニ覚醒コミュの正しいクンダリーニ覚醒の方法

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 クンダリーニ覚醒の近道はないとも言われています。しかし、ノウハウのようなものはあるように思います。ただ、身体技法にばかり偏っての修行では覚醒には至らないし、むしろ、逆行する事になるのではと私は思っています。

 1日1日、一瞬一瞬を実感し、あるがままに実存させる事、自分の事ばかりでなく、人にどう奉仕するか、自分が何のために何をするために生まれてきたのか? 自分の使命とは何なのか? 内観し真我(ハイアーセルフ)を身近に感じ、一体となり、自分のカルマをあぶりだして修正し乗り越えていく、そうした霊的な成長を高める事が覚醒へのステップに繋がるものと信じています。

 身体技法は何のためにあるのか? 日頃、そうした事を熟考せずに行なっている方もいるようにも思われますし、勢いハマりすぎて体調を崩すような苦行にも似たような事をしている方もいるようです。やはり、何ごともブッダの教えの「中道」や身体や精神の健康を見逃してはいけないと思います。

 私としては、覚醒に一番必要なのは自らのエネルギー体、次元のバランスを整え、キチンと浄化させる事ではないか?と考えます。

 エネルギー体、次元と言う捉え方は神智学や人智学などが提唱しているものです。肉体を3次元、気などを4次元との間(エーテル体)、感情などを4次元(アストラル体)、理性、真我などを5次元(メンタル体)、魂、カルマ、原因などを6次元(コーザル体)と言うもので分け、そうしたものが霊やオーラのように身体を覆い、次元を超えた世界に存在していると捉えるものです。

 目に見えない次元が肉体や感情に影響を与えている。そして、そうした次元に偏りがなく、バランスのとれたものを本来は健康と呼ぶものであり、全ての次元が浄化され空洞のように通じたものを覚醒や悟りと言われるものと考える訳です。

 例えば、3次元の肉体を浄化させ整えるには断食や野菜食などをする事によって促されます。エーテル体の気などを浄化させ整えるには呼吸法、気功法などをする事によって促されます。4次元の悪感情、想念などを浄化させ整えるには瞑想法、内観法などによって促される。5次元の理性、真我などには犠牲精神、奉仕などの善行、カルマの乗り越え、霊的成長の行為、使命を果たすなどによって促される。

 そうした、浄化とバランスによって6次元の魂やカルマ、原因の世界に通じる事になる。クンダリーニエネルギーはコーザル体のものであり、それを活性、覚醒させるには肉体までの次元へ通じさせなければならないのではないかと考える訳です。前世や過去世、霊界での魂を磨き、霊的な成長の度合いも勿論、考慮される筈です。前世や過去世で霊的な成長が高い場合は、それだけ浄化の加速や通じるのも早いように思います。

 ですから、正しく覚醒させる為には、修行や身体技法だけにこだわっても駄目であり、むしろ、エネルギー体や次元の偏りを起こし霊的な成長の低下を招く。カルマ浄化、使命を果たす、犠牲精神や奉仕、慈悲を純粋な気持ちと行動で示す事なども重要なのだと思います。否、修行や身体技法だけと言うものは安易で楽しようとする姿勢の塊であり、自分だけ良ければと言うエゴイズムの極みであり、霊的低下を招く要因であるとも言えるのではと考えます。

 この体系的な考え方を少しでも参考にして頂ければと思っています。知り合いからは、この考え方を直ぐに公表するのは勿体無いとの指摘がありましたが、私としては、あえてオープンにしようと考えました。自分のものだけにしようとか、儲けようとか考えるのも神の法に背くものと考えますし、私自身の霊的な成長を下げる事にもなると思います。まだまだ、これから色々と取りまとめて行きたいと考えております。少しでもお役にたてればと考えます。

 「魂の質をある高さにまで発達させることが出来たとき、はじめて、最高の霊的な宝が与えられる」

 「われわれが意識の中の世界と人生についての思考内容を讃美、敬意、尊敬で充たすような場合、われわれは特に急速に進歩を遂げる。このような瞬間に今までまどろみ続けてきた諸力が目覚める」

 ルドルフ・シュタイナー著「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」

コメント(4)

 私自身がクンダリーニ覚醒したから、言う訳ではないのですが、自らの半生を色々と振り返って考えると、今まで実に葛藤や試練が多ったように思います。

 そうした葛藤やカルマの試練を切り抜け、乗り越え、土壇場を何度も味わい、辛酸を舐めさせられたような人生は、普通は味わいたくない。苦痛に満ちているかも知れません。また、近道をして楽な人生を送って来た方が現世では羨ましいと思いがちです。

 わざわざ、人生に試練を作る必要はないかも知れませんが、私は、人生自体が修行であり、それをどう乗り越えるかで魂を磨き、霊的成長が促されるように思うのです。

 葛藤や試練に対して、心痛や悲哀を味わいながらも、屈折したり歪んだりせずに何とか必死に乗り越える。逃避行動や暴力行為、自傷行為、悪感情的な行為をせずに、そうしたカルマに対峙して、どう気づき、捉え、修正し、昇華するかで違って来る。

 心を浄化し、魂を磨くのは、身体技法の修行や苦行によってではなく、日頃、自分が、どう言った姿勢で生きているか?の方が問われるのです。

 人生に疲れ、人間嫌いから人里離れた山に籠もって修行をしたからって決して霊的な成長は果たせられない。日頃、キチンと自分と決着をつけ、現実の世界と折り合いをつけ、強く生きようとする姿勢があってこそ、修行は役に立つものだと思います。ただ、単に自分を失い妄信して修行に明け暮れるのでは逆行する行為でしかない。

 葛藤、試練の多い人生は不幸のように感じている方が多い。むしろ、私は逆に捉えています。ある力によって試練を与えられている。それには意味があると言う事です。それだけ、多くの試練を与えられる事によって、それだけ余計に魂を磨き、霊的に成長させて貰っている。そう考える事にしています。むしろ、楽な人生でなくて良かったとすら思える。そして、何ごともポジティブに考えて生きる。生き抜く。

 昨日は「自殺予防デー」だったとか。年間、3万人もの人が自殺していると言う。現世を唯物的だけに生きるのではなく、霊的なものも加味するだけで「自分は何のために生きているのか?」と言う疑問も決着するように思いますし、試練の有り難味も分かってくるように思うのですが。自分が人生を必要としているのではなく、人生や運命が自分を必要としている事を忘れてはいけないように思います。そして、決して自分だけで生きているのではなく、色々なものに影響を与えながら、影響を受けながら生かされていると言う事です。
 「覚醒や悟りの向こう側」

 近頃、覚醒したい、悟りを開きたいと言う方が増えて来たように感じられます。
 しかし、覚醒すれば、それで終わりと言う事はありません。悟りも同様です。そこにも、必ず、向こう側がある筈なんです。ただ、単に覚醒すれば、それで言い訳がありません。自分だけ、覚醒すれば悟れば、それで良いとなれば、それも利己主義、エゴでしかない。唯物的な指向を、単に精神的に形を変えただけと言われても仕方がないものなのです。宗教などの覚醒者や悟りを開いた者は、その後に教え導くなどの行動に出る。それは慈悲とも言われている。それは使命とも言われるものとされています。

 そもそも覚醒したい悟りたいと思っても、そんなに簡単にならない。自分の意向だけでなく、あの世の意向や使命を達成する為に選ばれるなんて事もある。実際は、そうした目的を加味された場合が多いようです。そうした使命を達成させる為に、覚醒を促されたり、悟りを促されたりする訳です。私の場合が、そうだとは言い切れませんが。

 あの仏陀でさえも悟りを開いてから、その辺の所を迷いに迷っていた。自分が悟り、全ての真実の姿をあるがままに見詰め捉えた法(ダンマ)や苦の消滅、因縁の理法などを伝えようとしても伝わる訳がないし、受け入れて貰えまいと自信喪失になっていた。そればかりか、仏陀は断食ではなく、不食を行って死のうとも考えていたようだ。輪廻の輪から外れ、もう生まれ変わる事もない。現世には戻らずに、あの世で楽して暮らせると言う少し安易に考えていた節があったようだ。

 しかし、それをブラフマン(創造主)の押し止められ、勧奨されて教えを広める決心をしたのだ。あの仏陀でさえ、最初から使命に燃えていた訳ではなかった。あの世からの霊からの応援や導きによって少しずつ仏陀としての使命に燃えていったのだ。人間仏陀は決して強いばかりではなかった。妻や生まれたばかりの子供を捨て、王子の位を捨てて修行に励んだ。当時や現在でも、仏陀にまつわる冷徹さは批判を浴びている。決して、完全な人間ではなかったが、教えを広めると言う大きな使命を果たすために犠牲にしなければならなかったとして救われている面があるのかも知れません。もし、使命を果たさず死んだとしたら悪人呼ばわりされていたかも知れないのだ。

 これは私にとっても戒めにしなければならない事なのかも知れません。クンダリーニ覚醒をさせて頂いたと言う事は、それなりの意味がある事なのかも知れないと言う事です。有頂天になったり、いい気になったりしていては駄目。きちんとやるべき仕事や使命が少しずつ与えられる事にもなるかも知れない。そうした時に逃げ腰になったりしてはいけない。例え、試練が待ち構えていたとしても対峙しないといけない時が来るかも知れません。抵抗せずに、導かれるままに行こうと思います。

 そして、これから覚醒や悟りを求める方も、そうした「向こう側」がある事を肝に銘じて頂きたいと思います。やはり、覚醒は偶然では起こらない。あの世や現世、過去世や前世との因縁や、やるべき仕事があると言う事です。また、そうした意に沿った生き方をすると覚醒を促される事になるようにも思えます。
「自殺と言うカルマ?」

 私達の住む、この戦渦もなく、何不自由のない満たされていると思える日本で毎年、年間に3万人もの人達が自殺をしている。これは異常な数字である。もし、戦争で一国が年間に3万人もの被害にあって亡くなっているとしたら、大騒ぎになっている事だろう。しかし、自殺だから大騒ぎにならない。最近、やっと、国も腰を上げたと言った所のようだ。

 特に、近年、自殺と言う手段で命を落とす事の影に、唯物主義的、享楽的、ニヒリズム的な生命観との関連が指摘されている。
 「死ねば何もかも終わり、ただの物と化す。何も残りやしない。こんなに辛くて苦しいなら。どうせ、楽しく生きられなけりゃ、生きていても仕方がない。ゲームオーバーしようぜ」
 自殺者の霊から、そんな声が聞こえてきそうな気もします。

 しかし、霊的な視点で「自殺」を捉えると、そこには試練やカルマと言うものであり、むしろ、自殺を思い止まり乗り越える事の中に魂を進化させ、霊的に成長させる為の道程があると思われるのです。自殺をするかしないか、生きるのが辛く苦悩する問題が持ち上がった時に自分の内面を見詰めて乗り越えられた時に初めて、そのカルマを乗り越え、浄化される事になる。カルマは前世や過去世でも乗り越えられなかった苦悩や試練がアストラル体に感情や想念として残っているものであり、それが再生されて再び、試練として、カルマとして形を現したものなのです。
 
 魂の成長の過程としてのカルマであり、試練なのだ。そして、こうした試練は乗り越えない限り何度でも繰り返される事になると言う。また、霊界でも試練は待っているようだ。本来、生きた筈の寿命の時まで、死後、何十年もアストラル体の暗黒の自分の想念の世界にポツンと一人で苦悩し続けなければならない。何故なら、魂はグループで現世に送られている。一人が自殺したことでグループにも悪い影響を与え、出会える筈の魂が抜けてしまう事になるから。結局、グループが寿命を向かえ、霊界に戻って来るまでお仕置きと言う事にならざるおえない。更に、試練は続く。次の再生で生まれて来た時にもカルマは発動される。自殺する者は一度だけではなく、結局、自殺と言うカルマを背負って何度も生まれ変わりを繰り返す。自殺と言うカルマを乗り越え、浄化させるまで続くのである。

 現世では、魂としての過去の意識は断絶される。だから、一からやり直しとなる。霊界から生まれて来る前に、今度こそは乗り越えてみせると意気込んで産み落とされてくるのだが、試練は時代や国の状況によって影響を受ける。現代の日本では、確かに飢えなどの生活には事欠かないかも知れない。それなりに生活水準など条件は良いと思う。しかし、それは上辺だけ。唯物指向主義、金銭至上主義、競争主義など‥‥人と自分を比較し、敏感に劣等感やイジメ、ストレスを感じさせる影の条件が揃い過ぎている。

 特に日本人は集団から外れると言う事に非常に敏感で嫌う傾向にある。仲間外れを上手く克服する事が至上命題だったりする。そして、常識や固定観念に影響されやすく自我が低い。低年齢だけでなく、高年齢の者まで、成功者と言われる頂点を極めた者までが自殺の対象となるのだ。サラリーマンや管理職、取締役の関係なく、自己と言うものを喪失した人が多いのも気になります。仕事人間は上辺の仮面(ペルソナ)を自己と勘違いしてしまう。社長、経営者と言う顔と本来の自己と言う影(シャドー)との間が乖離している人も多い。キャリア組と言うエリートが実はマザコンと言う低自我的人間だったりして、実家では一人で何も出来ない。しかし、会社では偉く見せないといけない。まさに、学力偏差値一辺倒教育の落とし子と言えるのかも知れません。最近では、一流企業の経営者も不始末などから自殺する。バレなきゃ良いと売り上げを上げるために不始末になるような事に手を染める。バレたら、マスコミから叩かれ、仲間外れにされ、倒産に追い込まれる。だから、自殺。

 
 「自殺と言うカルマ?」
 
 霊的な捉え方からすると、年齢や職業、地位には関係なくカルマは発動される。あたかも、シナリオが組まれているように、予定調和されているかのように、そうしたシーンはいつか訪れるのだ。後は、死ぬか、それを乗り越えられるか、その人間の魂が成長出来るかなのだ。初めから、自殺は試練だと言う意識があれば、プラス的な要素があると思えれば、多少、気持ちにゆとりが持てるのかも知れない。しかし、カルマとは無意識や潜在意識から作り出されている。だから、なかなか本人は気づけない。気づきたくないように出来ている。醜悪で弱弱しい本当の自分のシャドーに対峙出来ない。見たくないと反発するか、逃避してしまうのか落ちのようなのである。

 また、悟りの見地からすると苦悩と言うものは意識の条件付けから出来ている。想念や固定観念、過去の条件付けなどが意識に付着し、重なり合って自分自身で作り上げているシロモノ(想念)である事を悟る事が出来れば、否、気づくことが出来れば、自殺の苦悩は、一瞬にしてなくなる。苦悩は自らの手かせ足かせを自分の腕や足に吊るしはめて、果ては、自分の手によって自分の首を締め付けていると言う事と同じである事に気づければ良いのだ。目の前にある全身を映す鏡で観ようとすれば分かる筈なのだが、フィルターや霧、もやがかかって見えない。観ることさえ避けている場合もあるのだ。どうして観えないのか?それは、利己主義、エゴがそうさせるのである。

 本来、人間は自分ひとりで生まれ、生きている訳ではない。しかし、自殺しようとする殆どの人は自分だけで勝手に生きていると思っている。私達は、空気や地面、重力、食べ物、両親、家、地球、宇宙などに頼り、縁があって生きている。否、生かされている。空気の酸素の量から重力など数々の考えられないくらいの均整が取れ、絶妙な微妙さと調和の中で生きている。これを神の業としないのはおかしいとさえ思えるほどに完璧な環境で生きています。そして、そろそろ、神、神法、死後の再生、霊界、魂、次元と言うものが現存する事を、宗教や科学を超えたものとして、あるがままのものとして実感しないといけないような時代に来ているように思えます。見えないから信じない。自然科学では捉えられないから分析できない。では済まない時代の転換点が、もう、そこに来ている。これだけ、自然の環境、生物や動物、私達人間の姿として表現させ、存在するものを、歪んだフィルターなしに、クリアに、あるがままに観れば分かるだろう!?‥‥これだけ示しているのに、まだ、分からない?‥‥と言われているように思えてなりません。

 私達は何故生まれてきたのか?男女の性行為の結果だけで産まれて来た訳ではないのです。そこには、考えられないほどに精妙に愛と調和が一体となり、神性の力が込められたとしか思えない完璧な意図や仕組みがあるのです。私達は何故生きているのか?悠久の古代から生まれ変わりを繰り返し、霊的な成長を遂げる為に生きている。使命は、まだまだ沢山あります。やるべき事は数え切れない程に幾つも残されているのです。自殺などしている暇はないのです。

 決して、もう、世俗の体裁や自慢、金銭欲、物欲、執着に囚われ、振り回される生き方は御手本にはなりません。本来の真実の生き方に、そろそろ目覚め、覚醒しなければならないのです。

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