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【東北限定】あなたの町の郷土史コミュの後三年の役【清原氏内紛と源氏介入・源義家】

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皆さん、こんにちは。
管理人のけいちゃんです。
このトピックのテーマは、「後三年の役【清原氏内紛と源氏介入・源義家】」です。
あなたが知っているあるいは調べた「後三年の役【清原氏内紛と源氏介入・源義家】」に関わる歴史上の人物、事件、政、宗教、伝統、芸能、美術、生活などについて、写真や図案を交えながら、自由に記述してください。

コメント(8)

〜後三年合戦(ごさんねんかっせん)〜
 母が、清原家(武貞(たけさだ))の後妻として入ったことにより清衡(きよひら)は、複雑な家庭環境の中で育つことになります。武貞と先妻の間には、すでに真衡(さねひら)という長男がいました。後に武貞と清衡の母の間にも、三男として家衡(いえひら)が生まれます。真衡、清衡、家衡は、兄弟でありながら父や母が異なる微妙な間柄だったのです。
 武貞の死後、清原氏を継いだのは真衡です。しかし清原氏の長老吉彦秀武(きみこひでたけ)は、真衡を心良く思っていませんでした。二人の間のわだかまりは次第に強くなり、ついに争いに発展してしまうのです。
 秀武は、清衡と家衡に応援を呼びかけました。すると真衡側には、陸奥守として赴任してきた源義家が味方します。戦いは長期化の様相を見せはじめましたが、そのさなかに真衡が病死したため沈静化しました。
 その後、今度は清衡と家衡が不仲になります。家衡は、清衡の屋敷を襲撃し、清衡の妻子一族を皆殺しにしてしまいました。そこで清衡は、敵であった義家に助けを求めます。義家はこれに応じ、家衡を倒しました。のちに、清衡は平泉に屋敷を移したのです。ここから約100年にわたる藤原氏の時代が始まります。
はじめまして。
最近、秋田県仙北郡美郷町六郷の家を相続しまして、隣の横手にある「後三年合戦金沢資料館」に行ってきました。後三年の駅に着くなり鳥が群れを成して降りて来まして、「雁行乱知伏兵」か、と戦慄しました。
六郷と金沢柵との距離感を知りたかったんです。
下のように言われていますが、六郷の奇祭「竹打ち」と後三年の役とのつながりについて、妄想しています。

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『六郷町史』では、カマクラという語源に関する先学の諸説を引きながら、結論として「鎌倉は吉書焼きの遺風であることは勿論であろうと思うが、雪城を襲撃することや打合戦のあることから見て模擬戦であることから想像して相州高時没落のことを諷したもので、自然に誰いうとなく鎌倉と叫ばれ」と記され、カマクラとは、鎌倉幕府最後の執権であった北条高時の落城に由来した語であるとしている(『六郷町史』文化編(六郷町、1991年))。しかし、果たして本当に「カマクラ」は鎌倉幕府のカマクラなのだろうか。
 筆者は、そもそもカマクラとは“神”の“座”…すなわち、“カミクラ”が語源ではないかと思う。そこへ後三年の役の伝説上の人物で、後に怨霊信仰として知られるようになる「鎌倉権五郎」の伝承が被さって、やがて行事そのものを“カマクラ”と称するようになったのではないかと考えている。このことを裏付ける事例として、柳田新田村(現秋田市)で作られる鳥追小屋の奥正面に、「権五郎さん」と称される弊束を祀り、お神酒や餅を供えるという伝承がある(宮崎進「かまくらの語源と歴史」(『出羽路』第14号、1961年))。「権五郎さん」とは鎌倉権五郎のことであろう。
とすれば、六郷の鳥追小屋で祀られる「鎌倉大明神」も、鎌倉権五郎を指していると考えるのが妥当なのではないだろうか。
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(秋田仙北の小正月行事 ─六郷町のカマクラを中心に─ 八木 透)
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SB/0008/SB00080L025.pdf
僕を身籠っていた母は六郷の「宝門清水」(写真左)で洗濯中に破水したんですが、この「生家」、最寄り駅は「飯詰」です。
僕もやられた「いづめっこ」(後頭部に段差が残りますw)を岡本太郎先生の写真集(写真中)で見付けたので調べてみたら、山形県庄内地方には「飯詰籠」という人形があり(写真右)、さらにはなんと、「飯詰という地名の由来は、八幡太郎義家が後三年の役の際に兵糧を集めた地だから」という説があるようですね。
この一帯で後三年の役が戦われ、兵糧が集められ、奇祭「竹打ち」が残ったと、これでほぼつながった感じですねわーい(嬉しい顔)

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後三年の役の古戦場跡地として知られ、「飯詰」の名も、この戦で攻城側の源義家(1041年-1108年)が兵糧を蓄えたことに由来するという説がある。 ただし、扇状地扇端部の湧水帯にあたるので「イズミ」の転訛とする見解もある。 古代の遺跡としては県指定史跡飯詰竪穴群が山本の地にあるが、詳細な性格は不明な点が多い。
飯詰村 (秋田県) - Wikipediahttps://ja.wikipedia.org › wiki › 飯詰村_(秋田県)
金沢柵は横手市、飯詰と六郷は美郷町という風に行政区画が分断されてるので、住んででも居ないと、なかなか想到できないですよねw
大曲市や水沢市という地名も消されたし。。

あと、六郷→飯詰→後三年のラインとは反対方向なので、あまり関係ないかもですが、相続した六郷の亡母の実家の雪かきを頼むタイミングを見計らうために、角館武家屋敷シダレザクラ通りのライブカメラを調べ、実家と直線で結んでみて初めて、史料に出てこない(よって、高橋克彦の『火怨』にも『炎立つ』にも出てこない)払田柵の存在を知りました。
http://218.224.118.141/viewer/live/index.html?lang=ja
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%95%E7%94%B0%E6%9F%B5%E8%B7%A1
写真右は横手と水沢を結ぶ仙北街道。坂上田村麻呂が開いていたそうです。
311後に出た『東北知の鉱脈 3 (東北の声叢書) 』の巻末の高橋克彦氏との対談で、著者で東北学の赤坂憲雄氏が東北は「負け組の地」だというようなことを言ってますが、東北のカルマとは、『東日流外三郡誌』に書かれている古代東北王朝時代に負ったものでしょうね。与那国島海底遺跡みたいなピラミッドの上で奴隷を爬虫類人(高橋克彦氏の『竜の柩』の龍)への生贄に捧げた罪によるカルマ。そして、この古代東北王朝というのは、レムリアかムーの地方王朝だったんでしょうね。
https://writening.net/page?WwG3ZL 

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