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水流と水神コミュの[その場所特有の祭神]

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その場所の水脈にだけ由来する神仏が
その場所1ヶ所にだけ祀られる場合が存在する。
そんな神仏を紹介する場所です。

●浅井比売命(滋賀県 都久夫須麻神社 本殿)=書き込み50/51
●御水(岡山県 福田海本部 弥勒殿)=書き込み35
●鮫祠(東京都 鮫洲八幡神社)=書き込み12/13
●稲荷大神(東京都 波除稲荷神社)=書き込み15/16
●土師真中知命/檜前浜成/檜前竹成(東京都 浅草神社)=書き込み21/22
●亀石(奈良県 葛城一言主神社)=書き込み23/24
●亀神(東京都 隅田川神社)=書き込み19/20
●辰子姫神(秋田県 御座石神社)=書き込み1/2
●滝大明神(京都府 多吉神社)=書き込み52
●地蔵菩薩(埼玉県 竹寺)=書き込み7
●白猿(岐阜県 平湯神社) =書き込み39/40
●佃波除稲荷神社(東京都 於咲波除稲荷神社)=書き込み18
●白雲龍神社(愛知県 白雲龍神馬頭観世音堂)=書き込み37/38
●白水大神(和歌山県 浜宮)=書き込み39
●走水神社(兵庫県)=書き込み27〜31
●初龍姫大神(和歌山県 浜宮)=書き込み39

↓MAP
http://www.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&msa=0&ll=39.751702,140.650376&spn=0.001371,0.001819&z=19&om=1&msid=113844027188609943916.00043b7fc7492757ba636

コメント(52)

●鮫祠(品川区 鮫洲八幡神社)水脈環境
東京都品川区東大井1-20-10

江戸期には鮫洲八幡神社の東にまで大森海岸が広がっていた。
日本の考古学発祥のきっかけになった大森貝塚が
この海岸で発掘されているから、
縄文期からここは海岸だったことになる。

東京湾が埋め立てられた時、
陸続きにしないで、勝島という島にして、大森と勝島の間に
勝島運河が残された。
その後、勝島の外側にさらに埋め立て地が設けられ、
役割の終わった勝島運河は大部分が埋め立てられたが、
鮫洲から立会川に沿う部分だけが、
小型船舶係留地として、袋小路の水路として残された。
係留された船舶の中には釣り船も混じっている。
その係留地は
漁呉玉神社(なごたま)神社から250mほど南東に位置する。
15年ほど前にここに来た時には堤防は自然の土手だったが、
久しぶりにきたらすっかり護岸工事がされていて、
9月の末だったので、花壇をかねた堤防には
黄花コスモスが咲き乱れていた。
●稲荷大神(波除稲荷神社) 水脈環境
東京都中央区築地6-20-37

晩秋の夕刻、日没までまだ時間があったので、
築地市場の入り口にある浪除稲荷を覗きに行った。
築地場外市場は夕方なのでみんな閉まってひっそりしている。
築地市場はもちろん関係者以外は入ることはできない。
晴美通りから場外市場をまっすぐ抜けると、
世界最大の水産物市場である
中央卸売り市場(築地市場)の入り口に至るが、
その入り口前に海幸橋があり、渡ると市場無いに入れるのだが、
すでに市場は閉まっているので、関係者以外は入れない。
浪除稲荷は海幸橋の袂にある。
浪除稲荷は歩道に面して石製伊勢鳥居があり、
その両側は石垣に沿って2列に提灯が並んでいて、
江戸下町の雰囲気がある(写真左)。
拝殿はその鳥居のすぐ正面にあり、
境内は背の高い樹木の葉が茂っている。
拝殿は神明造で切妻屋根の向拝との組み合わせ。
屋根には堅魚木が並び千木が置かれている。
拝殿も各3基の提灯が両側に掲げられ、
その下にこもかぶりの酒樽が壁になっている。
その前には狐に変わって、
鉄製天水鉢の上に消火桶がピラミッド状に積まれ、
それに簡易屋根が乗せられている。
境内にいるうちに提灯が点灯されて、
人気の少ない市場が少し華やかになった。
祭神である稲荷神が祀られた由来は
万治年間(1658~61)に築地一帯の埋め立が行われたとき、
堤防がたびたび浪に崩されて工事が難航した。
ある日、海中に漂う稲荷神の像を見つけ、
これを祀ったところ、風も波もおさまり、
工事が無事に完了したというものだ。
『波除』という尊称はこの伝説に由来するものだ。
稲荷神の像がどんなものだったのかという説明は
公式サイトにも無い。
姿があるとしたら仏教の神になるが、
荼枳尼天(だきにてん)のことだろうか?

http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~pon-chan/images/statue.jpg

帰ろうと思って鳥居前に立つと、
西の空、朝日新聞社の上空に狐火のような茜雲が燃えていた。
(写真右)
●稲荷大神(波除稲荷神社) 水脈環境
東京都中央区築地6-20-37

波除稲荷神社境内の南側に沿って、
築地川の東支流が流れていたらしい。
現在は暗渠になっているようだ。
波除稲荷神社沿いの部分は珊瑚樹の並木になっている。
(写真左)の左側が波除稲荷神社、右側が中央卸売り市場(築地市場)。
上流側(銀座側)は雑草の生えた空き地になっている(写真中)。
正面に見えるのが国立ガンセンター中央病院だ。
昭和2年、関東大震災復興事業の一環として築地川東支流に
築地場外市場と中央卸売り市場にまたがって
架けられたのが海幸橋だ。
(写真右)の左側が中央卸売り市場で、右が現在の場外市場。
●佃波除稲荷神社(於咲波除稲荷神社)
東京都中央区佃1-8-4

12月も押しせまった週末。快晴。
東京に20年以上も住んでいながら、隅田川といえば
花火大会の行われる浅草の東側部分しか認識していなかったし、
築地から勝どきに渡る勝鬨橋(かちどきばし)の下を流れているのが
隅田川とは認識していなかった。
東京の東側は川が多く、埋め立て地が泥縄式に追加されてきているため、
人口の水路が多く、道路が東西南北に整理されていないため、
車で通過しているだけでは、
どの川を渡っているのかまったくわからない。

東京湾から隅田川の西岸をたどって北上することにして、
用事のあった明治神宮から勝どきに向かった。
銀座中央通りを通過し、
勝鬨橋を渡る右手前の築地場外市場に波除稲荷神社はある。
勝鬨橋を渡ると、隅田川河口に広がる、中島、勝どきだが、
その北側にやはり中島である月島が広がる。
月島といえば、もんじゃ焼きだが、
初めてここにやってきたのはやはり、
同級生で漫画家の武田秀雄に連れられて

http://takeda.cooh3.com/

30年ほど前にもんじゃ焼きを食べにやってきてのことだった。
現在の月島商店街はもんじゃ焼き屋が軒を連ねるが、
当時、月島の商店街にはもんじゃ焼き屋は数件しか無く、
店頭で大きな味噌樽を並べ、量り売りをする酒屋などが残っており、
震災、戦災を免れた昭和初期の商店街の雰囲気が残っていた。
その月島の北部に佃はある。
月島はもともと自然に出来た寄洲を基礎にして埋め立てられた佃島が
拡張された結果できた、中島だ。
佃島の東側に石川島という
人足寄場(江戸の犯罪者更正施設)が設けられた時に
佃島と石川島の間に佃堀とよばれる船溜りが残された。
その佃堀に面して石川島側に
於咲波除稲荷神社はある。
築地の波除稲荷神社からは1400mほどしか離れていない。

月島=築島

でもあるから、佃波除稲荷神社は
築地波除稲荷神社から勧請されたものである可能性が高い。
於咲波除稲荷神社には佃波除稲荷神社と於咲稲荷神社が合祀されている。
隅田川沿いは稲荷社が多いのが特徴だ。

月島に渡り、佃にバイクで北上するが、1方通行の路地が多くて、
思ったように於咲波除稲荷神社に向かえない。
迂回しているうちに迷って、
住宅の前で立ち話をしていたふたりの老年の女性に
波除稲荷神社の所在をたずねると、
それは築地だよと、築地の波除稲荷神社の方が先に頭に浮かんだらしい。
この近所にもあることを言うと、
人が住んでいない稲荷社ならこのすぐ先にあるとのこと。
お礼を言って、言われた一方通行の道を進むと、
路地に面して石製明神鳥居があり、
石垣、石柵で囲われた於咲波除稲荷神社があった(写真左)。
石垣、石柵のすべてに大きな朱書きの奉納者名が入っている。
文字が大きいので、非常に目立つが、
子孫に名前を残したければ、
こういう奉納をするのは良い方法だなと思った。
境内は広くはないが、清掃が行き届いていた。
大切にされている神社だ。
鳥居は東南方向を向いており、くぐると正面が佃波除稲荷神社。
敷石の並べてある短い参道を右の脇に入ると、於咲稲荷神社。
ほぼ同じ大きさの社だが、若干佃波除稲荷神社の方が屋根が高いし、
参道正面にあることから、
佃波除稲荷神社に於咲稲荷神社が合祀されたものと思われる。
社殿の正面の扉は上半分が格子の板戸で、引き戸になっていて、
両側が開けてあった。
風を通していたのだろう。
境内に入ると、中年の男性が現れて、境内の戸締まりを始めた。

境内の全容を眺めようと、境内の外に出ると、隣りは
佃堀沿いの公園になっており、境内に面して、
東京の下町らしく、近所の住人が並べた、鉢植えがごっちゃに並んでいた。
(写真中)
佃堀は境内の裏手で袋小路になっていて、
その行き止まりに中型のモーターボートが渓流されていた。
佃堀のドン詰まりから北を眺めると、
下町の向こう側に東京の住宅の1番人気、
ウォーターフロントの高層マンション群が立ち並んでいる(写真右)。
佃堀には佃島と石川島を結ぶ朱の佃小橋が架かっている。
左側が旧佃島。
佃堀の右側のボートの向こう側に見えるのが於咲波除稲荷神社。
●亀神(隅田川神社)
東京都墨田区堤通2-17-1

2007年3月初旬、ドン曇りの夕刻。
隅田川神社境内は背の高い常緑樹が無いため、実に殺風景だった。
拝殿の背後に首都高速6号向島線の高架が通っているため、
よけいに寒々しい感じがする。
(写真左)は二ノ鳥居のある内陣境内の入口。
拝殿の右奥には隅田川を向いた鳥居があるが、
首都高速道路の鉄板の塀があって、堤防には出られない。
拝殿には

・速秋津比売神(ハヤアキツヒメノカミ)と
・速秋津日子神(ハヤアキツヒコノカミ)
・ 鳥之石楠船神(トリノイワクスフネノカミ)
・速秋津日子神(オオカジキドヒメノカミ)

が祀られており、
拝殿前左右には神使の亀像がある。
その拝殿の右脇には祠や石碑が並び、
その中の壁の無い祠の一つに亀神の石像(写真右)が祀られている。
頭から尾まで、1.2mくらいだろうか。
自然石だというが、尾は人為的に造形されており、
全体も、最低限の作為が見られる。
頭部は赤ベコみたいで、耳があるように見える。
隅田川神社の神使が「亀」であることから、
持ち込まれたものだろうが、
説明板などの情報が無いので、それ以外のことは不明だ。
●亀神(隅田川神社) 水脈環境
東京都墨田区堤通2-17-1

享保8年(1733)5月28日、
水神宮(現隅田川神社)に於ける水神祭で花火が打ち上げられ、
この花火が両国川開き、花火大会の始まりとなった。
その隅田川神社は西側が隅田川堤防に面しているが、
堤防に沿って首都高速6号向島線の高架が通っているため、
鉄のパネルが並んでいて、
堤防には150mほど南に迂回しないと出られない。
隅田川神社前の一方通行の車道を南下して、
堤防入り口に行ってみると、柵の切れ目があり、
入れるようになっているのだが、
入り口から両側にはホームレスの人たちの手作り小屋が並び、
入り口付近には犬まで繋いであって、
よそ者(?)は入りにくい雰囲気になっている。
それでもかまわず、入ってゆくが、
犬は吠えるわけでもなく、人気も無い。
昼間だから、みんな出かけているようだ。
小屋は板やダンボールを組み合わせて、うまく作ってあり、
おもしろいのはどの小屋も屋根の押さえに、
廃棄されたバッテリーが並んでいる。
バッテリーは重いが方形で転がりにくく、
万一落ちても、表面が塩化ビニールなので、
ブロックほど危険が無いということなのだろう。
高速道路高架下に並ぶ小屋は
雨があたらないだろうから快適だろう。
小屋の間を抜けて堤防にゆるやかに登ってゆく道を進むと、
じょじょに視界が開け、対岸の航空工業高専のビルが見える。
(写真左)
このあたりの川幅は100m以上ある。
さらに進んで、完全に堤防上に出ると、
景色は完全に開け、
行く手に美しい水色でアーチ型の橋梁を持った水神大橋が見える。
12月の半ば、風はなく、雲もまったく無く、青空が広がっているが、
何故か寂しい風景だ(写真右)。
●土師真中知命/檜前浜成/檜前竹成(浅草神社)境内
東京都台東区浅草2-3-1

日本人なら誰でも知っている浅草寺(せんそうじ)本堂の東隣に浅草神社はある。
その芦有は、浅草寺の本尊聖観世音像を推古天皇36年(628)に
宮戸川(現隅田川)で漁をしていた時に水中から見つけた
檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟と、
その主人で出家して聖観世音像を祀った土師真中知(はじのまなかち)が
祭神とされているからだ。
この三神を祀ることから三社樣とも呼ばれ、 三社祭が行われるようになった。
12月初旬、浅草神社の石製靖国鳥居前に着いた時には
すでに夕刻が迫っていた(写真左)。
拝殿は熨斗瓦付きの瓦屋根で、寺院風だが、柱などの木部は朱塗りだ(写真中)。
拝殿前の狛犬とは別に大きな狛犬が石畳の参道両側にある。
本殿右手の神輿蔵には大きな三網の神紋が金箔押しされていた(写真右)。
網は聖観世音像の掛かった網を意味し、それが三つあるのは、
祀られた三神を意味している。
●土師真中知命/檜前浜成/檜前竹成(浅草神社)水脈環境
東京都台東区浅草2-3-1

現在は浅草神社境内から東400mあたりを南北に
檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟が漁をしていた
隅田川が流れている。
このあたりの隅田川は現在は整備されており、見晴らしの良い堤防の上も、
堤防の下の川沿いも遊歩道になっている。
すでに陽の落ちた堤防の上に出て、上流の言問橋(ことといばし)を眺めるが、
川面にはわずかに向こう岸を走る向島高速道路の照明灯が揺らめいている。
(写真左)
一方、下流には落ちてしまったばかりの夕陽の残照が
まだ川面と空を染めていた。
東武鉄道鉄橋のたもとにあるアサヒビールタワーの西側だけが
わずかに金色を止めていた。
名物のアサヒビールタワー屋上の金色の人魂は、ここからは、
ライトアップされている頭の部分がチラっと見えるのみだ。
葛城一言主神社 参道脇 亀石(水神)
奈良県御所市大字森脇432

葛城一言主神社については、事代主命のトピックスに書いたので、ご参照ください。

さて葛城一言主神社の境内社として、水神系の神々が数柱祀られている。
その中でも、独特で、一種異様なのが、この亀石だ。
その昔、この葛城の地に、災いをもたらす黒蛇がいた。
この黒蛇を、役行者が調伏し、その上に亀の形をした石を置いて封じ込めた。
それが、この亀石だ。
封じられた蛇神は、今は「さち石」・「清め石」として崇められ、この石から流れ落ちる水で身を清める参詣する者を守っている。

ここでも、役行者と葛城、役行者と一言主がいる。
問題は、ここで封じ込められなければならなかった、黒蛇は何者かだ。
社伝にはそれより詳しくは書かれていない。
土地の古老や古刹などの聞き取り調査しかないだろう。

もしかしたら、役行者により呪縛された一言主は、蛇神だったのか。
そんな想像も、ふと頭をよぎった。
>役行者により呪縛された一言主は、蛇神だったのか。

一言主=事代主(大物主の子)説はこのあたりにもあるのかもしれないですね。
呉越は同じ舟に乗りながら、
確執もあったということですね。
古代の神々を回れば、必ず蛇神に当たりますね。
これは、日本だけではなく、他国の宗教にも言える。
生命(力)=蛇という、メタファーだけで片付けて良いものかどうか。
●お釜、お釜神事
●神魂神社(かもすじんじゃ)内
島根県松江市大庭町563

出雲国造の租神である天穂日命(あめのほひのみこと、天照の第二子)が、葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされた。
その際、高天原から乗ってきたと伝えられるのが、このお釜。
何故か岩船ではなくて、お釜。
このお釜で、どんぶらこどんぶらこと降臨されたらしい。

毎年12月13日に、新嘗祭と同時にお釜神事が執り行われる。
湯を沸かし、吉凶を占う。
このお釜神事は、どうやら稲作の収穫祭で、おそらく稲荷だと思う。

天穂日命の子孫は出雲国造で、現在の出雲大社の宮司家として、血脈は続いている。
●水脈環境(宇治川) 走水神社(はしうどじんじゃ)
兵庫県神戸市中央区元町通5丁目

前から気になっていた神社だった。
月に1〜2度は車で通る。
名前からして、水神系に違いないと思っていたのだが。
とうとう、意を決して先日車を止めた。
神社の読み方は、「はしうどじんじゃ」だった。
ここからは、神社の方のお話しを直接うかがうことが出来たので、そのお話しを元に書いていく。
ネット上の検索結果と違う話もあると思うが、ただお聞きしたお話を伝えることにする。


神戸という街の地形は独特だ。
海岸線から、一気に1000m近い山、六甲山がそびえる。
山は急で、海までの距離が短い。
今年の水難事故のニュースを覚えておられる方もいるだろう。
大雨が降ると、一気水(鉄砲水のこと)が起きる。
昔から水害の多い街で、それは自然の地形から来るものだ。
さて、この地を水が渦を巻き暴れる川の村、走水村と言った。
ここに流れる川を、宇治川という。
昭和13年の阪神大水害をきっかけに河川の改修工事が行われ、現在の宇治川は地下の水路を流れている。
川の流れを見ることは出来ない。
水脈環境の紹介なのだが、水脈環境が無いという水脈環境だ。
さて、走水神社の側を流れていた宇治川だが、鳥居や社殿を持つ以前から祭祀は行われていた。(※鳥居・社殿を持たない祭祀遺跡の写真は後で紹介する)
この川では、禊ぎの神事が行われていたのだ。
その時の祭祀形式や祭祀遺跡などは一切残っていない。
水害、戦争、震災など、度重なってきたこの地には、それらは残っていない。
神社の方のみが記憶しているだけだった。


写真左:この看板を見るまで読み方が分からなかった。
写真中:鳥居と本殿。
写真右:御神紋
●水脈環境(宇治川) 走水神社(はしうどじんじゃ)
兵庫県神戸市中央区元町通5丁目

さて、鳥居・社殿を持つ以前の祭祀形式の例として、和歌山県田辺市の阪田山遺跡を紹介する。

写真左は御神体。
注連縄は後世のもので、本来は無かったはずだ。
昔はこのような御神体に対して、祭祀の度毎に祭壇を造って祀っていたらしい。
ここの御神体は陰陽石だが、宇治川の禊ぎには、どのような祭壇が組まれていたのだろうか。

写真右が由緒書。
●水脈環境(宇治川) 走水神社(はしうどじんじゃ)
兵庫県神戸市中央区元町通5丁目

話を戻そう。
現在の元町通は、西国街道だった。
海岸線は、現在の国道2号線あたりだったというから、海岸まで100m位だったろうか。
その西国街道を、太宰府に流される途中の菅原道真公が通りがかった。
今、走水神社が鎮座する地で、道真公は、お休みになられたという。
もしかしたら道真公も、ここで禊ぎをされたのではないかと思う。
その後、ここに天神が祀られ、社殿が建てられた。
本来は天神のみだったが、明治になって、ここから北にある花隈城趾に有った八幡宮と天照大神が合祀され現在に至る。
祭神は、この三柱である。

神戸の地を、大きな災厄が襲った。
太平洋戦争。
空襲の炎は、遠く六甲山の裏側、20km向こうでも、夜空を焦がすのが見えたという。
阪神淡路大震災。
倒壊し焼けていった街。
走水神社も例外ではなかった。
幾たびの災厄を唯一逃れて生き抜いたのが、写真の狛牛さんである。
八幡宮の狛犬は跡形もなかったという。
写真を見てもらうと分かるが、角は無くなり、頭も割れたものを修復してある。
さすが天神さんの狛牛さんである。
道真公と牛の関係は諸説有るが、ここでは道真公が午年産まれだからということだった。
御霊だった道真公は、その後学問の神、子どもの神へと変わっていく。
狛牛さんの角も何度も修復したそうだが、近所の子ども達が、狛牛さんにまたがって遊ぶものだから、くっつけても取れてしまう。
修復するのを諦めて、今では子ども達に、狛牛さんにまたがって遊ぶことを許可しているという。

写真左:本殿
写真中:狛牛
写真右:狛牛の頭部
●水脈環境(宇治川) 走水神社(はしうどじんじゃ)
兵庫県神戸市中央区元町通5丁目

簡単に境内社を紹介して終わりにする。

写真左は筆塚。
もちろん天神さんだからであるが、宮司さん御夫婦は書道教室もやっておられた。

写真中と右は、走水稲荷大明神。
一気水を押さえるのは、天神ではなく、宇賀神だろうと思うのだが、いかがだろうか。
●水脈環境(宇治川) 走水神社(はしうどじんじゃ)
兵庫県神戸市中央区元町通5丁目

写真左は、三宝荒神。
ここの三宝荒神は、兵庫県宝塚市の清荒神さんの、御魂分けであるとのことだった。
摂津の國の三宝荒神は、清荒神さんであることが多い。
ちなみに当家で祀っている三宝荒神も、清荒神さんである。
※清荒神については、役行者コミュ・兵庫県の項を参照。

写真右、お百度石。
>さとちゃんさん

走水神社の祭神名は特に無いんでしょうか?

地下の水路を暗渠(あんきょ)と言います。
川があったところはたいていは遊歩道にされることが多いのですが、
ここは珍しく、車道になっていますね。
GoogleMapでは倍率によって、水流が表示されていますので、見ててみてください。

狛牛があるところを見ると、菅原道真とか祀ってないんでしょうか?
>AYIさま

祭神は、天神、天照、八幡です。

川は完全に市の方針で、地下に埋もれていて、地上からは分かりません。
水害対策最優先で、工事をした結果です。
荒ぶる川の神を祀ってきた走水神社にとっては、不本意でしょうね。
ところで、市の大きな過ちが、そこに有りました。
阪神淡路大震災の時、暗渠にした結果、消火用の水が川から取れなかった。
初期消火・人命救助に携わった人間にとっては複雑ですね。
燃えていく街を見て立ちすくむしかなかった。

もちろん走水神社の主祭神は、天神です。
神社の成立からしても、他は付録ですね。

※29で。丑年を誤って、午年と書いてしまいました。
 訂正いたします。
>さとちゃんさん

東京都でも、大水の水量を予測して暗渠を造ってきて、
都内の地下には巨大なトンネルがいっぱいありますが、
近年の大雨は計算以上で、
しょっちゅう新宿、渋谷で水害が起きています。
雨量なんて人間が予測できるもんじゃないということですね。
●御水(福田海本部 弥勒殿)
岡山県岡山市吉備津795

「福田海(ふくでんかい)」にやってきたん目的は鼻ぐり塚の横にあるという
役行者像を見るためだった。
「福田海」は『宗教年鑑』では「仏教」のカテゴリーの中の
「その他」に分類されている法団らしいが、
ここの設備や祀られたものを見る限りでは、
真言密教色の強い修験道の流れの中にある施設に思えた。
「福田海」という名称やここの特殊性は
この組織を立ち上げた中山通幽(つうゆう)にすべてが起因しているようだ。
通幽は江戸末期から昭和期まで在世した人物で、
先祖に対する報恩を基本にした特有な信仰を説き、
教典を読むことよりも、陰徳善行を主体とし、
超宗派者として生きた人物のようだ。

福田=善行(行動、フィールドワーク)
海=すべての流れが集まり、統合される場所

陰徳善行とは陰で善行をして徳を積むことだが、
通幽が行ったことは散乱埋没していた古石塔・古石仏の整理と供養、
破損した大塔の修復、災害者追福のための大塔造立などだ。

福田海本部は吉備中山と呼ばれる古墳の密集した丘陵の麓にある。
入り口には「福田海本部」という石柱と、
その参道方向への、岡山市が制作した 「吉備の中山」の案内板が立っていた。

参道の入り口には高床に柱と瓦屋根だけの吹きっぱなしの広い建物がある。
屋根は一重の入母屋造で、いわゆる中堂と呼ばれるものだ。
その参道入り口脇にバイクを停めて中に向かった。
門柱を抜けて境内に入ると、寺務所があったが、時間が早いせいか、閉まっている。
寺務所の窓口に見学料と護摩木料100円を入れる小箱があったので、納め、
鼻ぐり塚らしいものが見当たらないので、
直感に従い、向かい側にあった垣根を勝手に開けて中に通った。

鼻ぐり塚周辺に役行者像は見当たらず、探すのをあきらめて、
戻る途中で、さっき前を通り過ぎた中殿が、
周囲を多数の三重ノ石塔で囲んだ、やはり柱と瓦屋根だけの
奇妙な建物(写真左)であることに気付いたので、覗いてゆくことにした。
ここも屋根は一重で、入母屋造。「弥勒殿」という名称だ。
弥勒殿を囲むように配置された、その石塔は都卒四十九ケ院と
行基の説く弥勒四十九ヶ院浄土説法にもとづくものだという。
弥勒殿の床は石畳で、土足で中に入ることができ、地面よりは1段高くなっている。
その中堂には中央に井戸が切ってあった(写真中)。

石の井桁に銅製の黒い井桁が乗せてあり、
井戸に向かって大きな青銅の龍口がある。
その真上天井にも黒い八卦方位盤のケースが設置してあり、
その中には龍の木像が収められている(写真右)。
なぜ、寺院の中殿に八卦方位盤があるのか?
この井戸に落ちる水が弥勒殿の本尊だというが、
その時は龍口から水は落ちていなかった。
その井戸から南にある大岩を見ると、なんと!その岩の上に役行者の石像が。
行者像の隣には巨大な錨が置いてあり、
それを役行者と挟んでいるのはどうも聖宝(しょうぼう)理源大師像のようだ。
ここを真言密教系の場所と感じたのはその理源大師像があるのと、
その大岩の下正面に護摩壇があったからだ。
この大岩を中心とした場所は「易塚」と名付けられている。

ここに「八卦方位盤」や「易塚」などの易教があるのは、
中山通幽が近代墓相学の祖とされていることと関係があるようだ。
>35

>『宗教年鑑』では「仏教」のカテゴリーの中の「その他」に分類されている法団らしい

宗教法人法では、修験道というカテゴリーが無いんです。
未だに政府は、神仏習合を認めていません。
なので修験道は、「仏教」か「神道」、どちらかに登録することになってるんです。
●白雲龍神社(白雲龍神馬頭観世音堂)
愛知県名古屋市中川区五女子2-11

2009年元旦午後 風はないが気温は低かった。
中型スクーターで名古屋市内の中川区を走っていたら、八劔社があったので、
覗こうとして、道の向かい側にある白雲龍神馬頭観世音堂を見つけた(写真左)。
歩道脇に玉垣があって、その中に銅板葺き屋根に鬼瓦を乗せた妻入りの祠のような
白雲龍神馬頭観世音堂があった(写真右)。
道路に沿った狭く、細長い境内で、幼稚園の敷地内にあるようで、
石段の入り口が幼稚園とは別に設けてあり、独立した境内になっている。
堂の前に行ってみると、堂の左隣にトタン屋根平入の祠があった。
紫色の神前幕には「白雲龍神社」と白く抜かれている。
白雲龍神馬頭観世音堂の仏前幕には「白雲龍神馬頭観世音堂」と
白く抜かれているから、堂の方にも白雲龍神は合祀されているのだろうか。
白雲龍神とはどんな神なのだろうか。
白龍社は名古屋市内でよく見られるが、白雲龍神社は初めて聞く。
白龍はこの地方では家守の神として住宅敷地内に名つられることが多いが、
白雲龍は「雲」が付くから、雨乞いの役割があるのかもしれない。
白雲龍神社祠は荒い丸石を組み合わせた基壇の上に設けられており、
それを沢などで見られそうな丸石が取り巻いており、
河原に祀られていたものではないかと思わせるところがあった。
●白雲龍神社(白雲龍神馬頭観世音堂) 水脈環境
愛知県名古屋市中川区五女子2-11

白雲龍神馬頭観世音堂に沿った道はこのあたりの碁盤の目の区画を無視して、
1本だけ八幡本通から八熊通りに向かい、
その先300mあたりを南北に流れる中川運河に向かっているように見え、
道幅もまったく統一がとれていない(MAP水色部)。
こうした道路は元が水路であったりすることが多い。
白雲龍神馬頭観世音堂を含めた幼稚園の敷地は向かい側にある八劔社の敷地と同様、
道路から上げてあり(写真中)、
白雲龍神馬頭観世音堂の玉垣と車道の間には歩道があるが(写真右)、
その2/3はアスファルト舗装になっていて、
元は用水路があったのではないかと思わせるところがある。
もし、そうであれば、消火栓はあるものの、
歩道にはマンホールの蓋は見えないから、埋め立てられたのだろう。
はじめまして。
主に和歌山の古代史を調べています。

元伊勢伝承が残る、和歌山市内「浜宮」背後の小山に、
以下のご祭神があります。

「白水大神 初龍姫大神」

水源はわかりませんが、
おそらく、かつて山から湧き水が出たのではと思います。

「初龍姫大神」という名はあまり聞かないように思います。
他に、同じ名の神様はいるのでしょうか?

●白猿(平湯神社)
●岐阜県高山市奥飛騨温泉郷平湯

戦国時代、武田信玄の家臣の山県昌景が飛騨攻めの最中、峠超えの疲労と硫黄岳の毒ガスによって、平湯大滝あたりで動けなくなってしまった。
その時、一匹の白猿が現れ、一行が教えられた温泉に浸かると、体力が回復した。
この温泉が奥飛騨温泉郷・平湯温泉である。
平湯神社には、天照大神と、白猿を合祀している。
温泉(湯治場)の鎮守だから、薬師堂も境内に残っている。

写真左:本殿
写真右:薬師堂
●白猿(平湯神社)  水脈環境
●岐阜県高山市奥飛騨温泉郷平湯

平湯大滝。
まだ半分凍ってます。
●白猿(平湯神社)
●岐阜県高山市奥飛騨温泉郷平湯

どうも、奥飛騨温泉や高山あたりを開いたのは、修験者臭い。
周りの山々は修験の霊山だし。
薬草も鉱山も有るし。
山を越えれば、薬売りの富山だし。
>maiさん

白水大神、初龍姫大神の紹介に今、気づいたところですが、
その書き込みがあった時には和歌山に行くことになるとは思っていませんでした。
白水大神、初龍姫大神ともに、初耳の神ですね。
「浜宮」背後の小山とは「船尾山」のことですかね。
ちょうど、「船尾山」のことも日記に書いたところです。
>さとちゃんさん

平湯大滝は現在この状況ですか!
> AYUさん

失礼しました。
4月5日現在です。
スキーの人も見かけました。
多分まだ雪は残っているかと。
AYUさま

コメントしてくださったのに、気がつかなくて済みませんでした。

>その書き込みがあった時には和歌山に行くことになるとは思っていませんでした。
奇遇ですね。

>白水大神、初龍姫大神ともに、初耳の神ですね。
やはり、和歌山特有なのでしょうか?

>「浜宮」背後の小山とは「船尾山」のことですかね。
違うと思います。
浜の宮の回りは、たぶん埋め立て地です。
おそらく昔は島だったのでしょう。
>maiさん

龍神は場所によって、特有の名称になっていることがあるようです。
和歌山市の藤白神社末社で、白竜社(巳神社)というのを見かけましたが、
表札には「家・水・医薬・呪術の神様」と説明がありました。
愛知県では白竜は家の守り神となっています。
AYUさま

藤白の白竜社は、わたしも以前、行きました。

>表札には「家・水・医薬・呪術の神様」と説明がありました。
白竜社には、白い狐の像が奉納されていました。
白蛇と白狐は、同じ種類の眷属だそうです。
修験や拝み屋さんなど、呪術系の匂いがします。

>愛知県では白竜は家の守り神
たしかに、白蛇は、よく家を守る神様といわれていますね。
●浅井比売命(都久夫須麻神社 本殿)
滋賀県長浜市早崎町1665

竹生島行はマイミクのOさんのお誘いによるものだったが、
バイクで直接行けないこともあって、これまで一度も行ってなかった。
am 9:50 待ち合わせした長浜市の琵琶湖観光船のりばには
マイミクを含め、Oさんの友人たち総勢9名が現れた。
船は間もなく出発したが、船上から眺める琵琶湖は山が迫っているせいか、
日本一広い湖という感じはない。
長浜市の湖岸から竹生島までは6km。
やがて船が竹生島に近づくと、
山の森に埋もれた竹生島宝厳寺(ほうごんじ)が見えたのだが、
後にしてみれば、その右端にあるのが都久夫須麻神社だった(写真左)。
船は宝厳寺下の入江に到着した。

竹生島桟橋から宝厳寺の石段下まで、 両側に続く土産物屋の立ち並ぶ参道を抜け、
165段という急な石段を上がった。
宝厳寺本堂から、
この日、60年に一度の千手千眼観世音菩薩開帳の行われている観音堂を経由し、
舟廊下を渡って、都久夫須麻神社本殿の脇から本殿前に入った。

山の中腹にある都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)本殿は南向きで、
本殿正面の石段下の正面に竹生島八大龍王拝所があるのだが、
八大龍王拝所から本殿を振り返ると
石段下の右側に石鳥居を持った江島社・厳島社、
左側に天忍穂耳命を祀った祠が祀られている(写真中)。

 筑波(ツクバ) 筑波国造  筑波降ろしを利用した製鉄
都久夫(ツクブ) 淡海国造  伊吹降ろしを利用した製鉄/金糞岳/豊国廟移築
 竹生(チクブ)
 秩父(チチブ) 知々夫国造 石灰産出地(製鉄の副原料)
              /八意思兼命(オモイカネ=重金=鉄)
              /天之御中主(妙見信仰=製鉄)/狐塚(伊奈利=製鉄)

「都久夫」は「竹生」の古名だが、
「都久夫」と転訛関係の可能性のある地名の地域に
崇神・成務朝が国造を配置したのは、
これらの土地が産鉄地であったことが大きな要因になったものと思われる。
琵琶湖を取り巻く地名の多くが製鉄の臭う地名になっている。

伊香郡 高島郡 犬神郡 神崎郡 栗太郡 近江八幡郡市 草津市 

都久夫須麻の「須麻(スマ)」に関しては
須磨、須万、須摩、須末、州磨、須麻、周麻、周間、珠馬、為間のような
当て字のバリエーションが存在し、
さらに須賀、菅などと転訛関係があるのだが、
たとえば神戸市須磨区は鉄鋼工業区として知られ、
やはり製鉄と関わりが深い場所になっている。
『日本書紀』における「スマ」の初出は真床追衾(まとこおうふスマ)のようで、
本文に「高皇産霊神が真床追衾をもって皇孫邇邇藝命を覆うて天降らしめた。そこで皇孫は日向ノ襲ノ高千穂ノ峯に天降った。」とあり、
高皇産霊神(タカミムスビ)」関連の地とみることができる。

都久夫須麻神社の主祭神はWikipediaのように

・市杵島比売命
・宇賀福神
・浅井比売命
・竹生島龍神

とされている場合もあるが、
社殿によれば、都久夫須麻神社は
雄略天皇3年(420年)に浅井姫命(アザイヒメ)を祀る小祠が作られたのに始まると
伝えられ、筆頭主祭神が浅井姫命となっている場合があるが、
あきらかに市杵島比売命は後の時代に竹生島に持ち込まれたものと思われる。

いっぱんに浅井比売命は水神とみられているようだが、
『近江国風土記』では、夷服岳(いぶきのたけ/伊吹山)の多多美比古命が
姪にあたる浅井岳(金糞岳:かなくそだけ)の浅井姫命と高さ比べをし、
負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を斬ったところ、
湖に落ちた首が竹生島になったという記述がある。
『近江国風土記』の印象では、金糞が製鉄くずを意味することから、
製鉄神のイメージだが、製鉄と龍神は関係があるので、
水神と見られても不思議ではない。

拝所で参拝すると、柔らかな赤色の光を感じた。
同行したマイミクOさんは「優しい感じ」と評した。
本殿に掛った幕には菊と葵の紋が入っていたが、
その内側の金茶の神前幕には玉龍神紋が抜かれていた(写真右)。
宝珠を昇り、下りの龍の子が取り巻いた図案だ。
●浅井比売命(都久夫須麻神社 本殿)水脈環境
滋賀県長浜市早崎町1665

長浜市の琵琶湖観光船のりばから観光船で宝厳寺のある竹生島に向かった。
船上から眺める琵琶湖は山が迫っているせいか、
日本一広い湖という感じはない。

琵琶湖にどんな川が流れ込んでいるのか調べてみたところ、
一級河川だけで、121本の河川が流れ込んでいることがわかった。
小さな河川を含めると約460本だという。
一方,逆に自然の排出河川は淀川しかないことがわかった。
大津市にある琵琶湖最南端から瀬田川として流れ出し、途中、宇治川と名を変え、
大阪府の大山崎町で淀川となっている。

都久夫須麻神社のもっとも高い場所は本殿だが、もっとも低い場所には
魚を放してやる儀式、放生会(ほうじょうえ)の行われる斎庭(ゆにわ)がある。
斎庭は「清められた場」を意味する。
常行殿から山道を下ってゆくと、
湖面の手前に朱の明神鳥居と石造の両部鳥居が見えた(写真左)。
鳥居の先には狭い岩場があって、そこから稚魚を放流するらしい。
この日は湿度が高く、いっしょに竹生島へ渡った同行メンバーは誰言うともなく、
しばし、岩場の木陰で安息の時間をとった(写真中)。
眼下の海底には大きさのそろった石が並べて棚が造ってあるように見え(写真右)、
その棚に足場になるような大岩が
平らな面を上にして置かれているように見えるので、
あるいはここは禊ぎ場になっていたのかもしれないと、想像した。
●多吉神社
京都府亀岡市西別院柚原北谷1

トピの目次に無いので、ここに記載します。
祭神は、高御産霊神、神御産霊神。
高御産霊神を主祭神とする神社は、全国の式内社に五社しかないそうで、その内の一社です。
ここは多吉(たき)神社の名の通り、滝大明神を祀っています。
和銅二年(709年)創建。
当初は向山(鴻応山)の瀑布の岩頭に鎮座していたそうですが、
「日の当たる向きの高き地に移せ」という霊夢があって、天正十二年(1584年)に現在地に遷座したそうです。
卜部氏の書いた御霊大明神の額が残っていて、御霊とも見られていたようです。
明治六年、滝に因んで多吉神社と改称されています。

境内には「多吉の井戸」と呼ばれる井戸があって、名水だそうです。
飲んでみれば良かった・・・。
他にも境内には、五輪塔、一石一字法華経塔、庚申塔などがあります。
神社の隣にはお寺があって、鐘楼もありました。
神仏分離以前を伺えます。

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